雨晴海岸より立山連峰を望む  


富山県高岡市 雨晴海岸
2017年2月下旬 撮影


富山駅でポスターを見て、どうしても行きたくなって行ってしまった雨晴海岸

 雨晴海岸より立山連峰を望む

向かって右が義経岩、その左に小さく見えているのが男岩、中央近くに見えているのが女岩
遠くに見えている雪をかぶった山は立山連峰


①義経岩

1187年、源義経は奥州平泉に向かう途中、この海岸を通りました。
そのとき雨が降り、弁慶が岩をもちあげ、その岩の下で雨宿りしたという伝説が残されています。

写真ではちょっとわかりにくいのですが、
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoshitsuneiwa.jpg
↑ 上記リンク先を見ると、義経岩は下部に穴があいているみたいですね。
その穴が雨宿りにちょうどよさそうだということで、このような伝説が作られたのでしょう。

そしてこの伝説が雨晴海岸という地名の由来とされます。

男岩 女岩 
 男岩 女岩

②男岩 女岩


雨晴海岸には男岩・女岩と呼ばれる岩もあります。




東に男岩の表記があります。
そして地図をクリックすると、左上の表記が消えてzの形をした島が見えますが、その南にあるのが女岩です。


雨晴海岸 男岩 
男岩

③男は晴、女は雨

さきほど、弁慶が岩をもちあげてその下で源義経が雨宿りしたという伝説が、雨晴海岸という地名の由来であると考えられていると書きました。

でも、私は男岩=晴、女岩=雨、ということで雨晴海岸という地名になったのではないかと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD#.E9.99.B0.E9.99.BD.E6.80.A7.E8.B3.AA.E8.A1.A8
↑ 上記ウィキペディアの陰陽性質表をみると、陰陽道では晴と男はともに陽、雨と女はともに陰となっています。
湿度湿潤乾燥
性別女性男性
天体太陽
天気
南北
東西西

④北西が女岩、南東が男岩

また、東西では西が陰・東が陽、南北では北が陰・南が陽となっています。

それで北西にある岩を女岩、南東にある岩を男岩としたのではないでしょうか。

富山の農村 
雨晴海岸から五箇山へ向かう途中、車の中から撮影した富山の農村 ↑↓

富山の農村2 



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[2017/02/28 06:00] 岐阜県 富山県 | トラックバック(-) | コメント(-)

貴船神社 雪 ライトアップ 『貴船神社は紀船神社だった?』 


京都市左京区  貴船神社
2015年2月初旬 撮影



貴船神社では以前、1月と2月の雪が積もった日にライトアップしていました。
残念ながら今は行っていないと聞きました。

①船形石

貴船神社から貴船川をさらに上流に向かって歩いていくと貴船神社の奥の院があり、境内には船形石という石があります。
(奥の院のライトアップはしていません。)

この船形石には次のような伝説があります。

反正天皇の時代、黄色い船にのり、黄色い服を着た神が難波の津に降りたち、次のように言いました。
『私は皇母玉依姫(神武天皇の母)である。私の船が止まるところに祠を作るように』 と。
船は蜑女崎(尼崎)、菟道川、鴨川を経て鞍馬川と貴船川の合流点に達し、貴船川を遡り、霊境吹井のある場所に鎮座しました。
これが黄船の宮となったと伝わり、奥の院にある船形石はその船が人目を忌んで石に包まれたものです。

貴船神社 天津磐境 雪

 ②上賀茂神社の第2摂社

京都の貴船神社は平安時代に上賀茂神社の第2摂社となっています。

上賀茂神社の御祭神・賀茂別雷大神の母神は玉依姫で、下鴨神社に祀られています。
そして貴船神社奥の院にある船形石が玉依姫の乗った船であるという伝説があるので、
貴船神社は上賀茂神社と関係がある神社だということで、上賀茂神社の摂社とされたのではないでしょうか。

貴船神社 雪4

③貴船神社は紀氏の神?


ところが兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

「紀氏が自身の守り神に祈願した」ということは貴船神社の神は紀氏の神だということでしょう。
また紀氏の本拠地・紀州は森林資源に恵まれており、紀氏はその森林資源を生かした造船技術に長けていたといわれます。

貴船神社はもともとは紀氏の氏神を祀る神社なのではないでしょうか?

貴船神社 雪2 
④玉依姫は紀氏の神?


ホツマツタエという書物では、紀氏の祖神はソサノオであるとしています。
紀伊半島の南部を昔ソサといい、ソサで生まれたのでソサノオと名付けられたというのです。

そして玉依姫は海神の娘とされていますが、海神とスサノオは同一神とみなされることが多いです。
というのはスサノオは父のイザナギに「大海原をおさめよ」と命じられているからです。
大海原をおさめる神は海神である、ということですね。

とすれば、海神=スサノオ(ソサノオ)の娘・玉依姫は紀氏の神だということになります。

 ⑤ホツマツタエ

ホツマツタエは後世の偽書、いわゆる古史古伝のひとつだとされ、信憑性にかけるとされています。
しかし古事記や日本書紀などの正史は為政者の都合のいいように書き換えられているという指摘もあります。

貴船神社 雪 


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[2017/02/27 11:18] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥 八釣 蝋梅 『明石に身を隠した兄弟』 

 
奈良県明日香村八釣
2015年2月中旬 撮影


八釣 ろうばい 

八釣 ろうばい

①明石に身を隠していた兄弟


昔、昔の話です。

雄略天皇が従兄弟の市辺押磐皇子を殺してしまったので、市辺押磐皇子の二人の息子、億計王と弘計王は播磨国明石に身をひそめ、牛馬の飼育をして生活していました。

雄略天皇が崩御したのち雄略天皇の子の清寧天皇が即位しましたが、清寧天皇には子供がありませんでした。
そのことで悩んでいたところ、億計王と弘計王が発見されたという報告がありました。
清寧天皇は兄弟を宮中に迎え入れ、億計王を皇太子に、弘計王を皇子としました。

清寧天皇が崩御すると億計王と弘計王は皇位継承を譲り合い、弘計王が顕宗天皇として即位し、兄の億計が皇太子となりました。
3年後に顕宗天皇は崩御し、億計が即位して仁賢天皇となりました。

明石海峡大橋 
明石海峡大橋

②顕宗天皇


この顕宗天皇の近飛鳥八釣宮があったのが、この明日香村八釣のあたりだといわれています。
(近飛鳥八釣宮は大阪府羽曳野市飛鳥という説もあります。)

もっとも顕宗天皇の実在性は疑問視されていますが~。
よくある貴種流離譚であり、あまりにドラマチックな話で実話とは思えないというのです。
確かにそのとおりかもしれません。

八釣 夕日 

2009年5月初旬撮影

③億計王と弘計王は二上山を擬人化したものだった?


八釣の里の高台に登ると二上山が見えます。
ふたつの頂のある二上山は兄弟のようで、億計王と弘計王を思い起させます。

八釣―二上山を結ぶ直線を延長するとちょっとずれますが、明石付近を通ります。
赤い印が二上山、神戸の西に明石の表記がありますね。
八釣は赤印の東南に橿原の文字が見えますが、その橿原の東南あたりです。



赤印(二上山)の東に堺の文字がありますね。
あんまりいい写真じゃないけど、↓ こちらは堺市庁舎展望ロビーより明石海峡大橋を撮影したものです。

堺市庁舎展望ロビーより明石海峡を望む 

二上山の頂上からも明石海峡が見えるそうです。

二上山は八釣から近いですが、雨の日などには見えなくなることもあります。

もしかして、億計王と弘計王の物語はこの二上山を兄弟に見立てて創作した物語だったりして?

明石海峡大橋 ライトアップ 
明石海峡大橋


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[2017/02/25 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 雪と幸在祭 『幸在祭は鎮花祭?』 


京都市帰宅 上賀茂神社
幸在(サンヤレ)祭・・・2月24日

上賀茂神社 幸在祭

①幸在祭

上賀茂地域では15歳になった男子を「あがり」といいます。
あがりになった男子は2月10日ごろより、毎晩鉦太鼓に合わせて町を練り歩く習慣があったそうです。
現在では2月24日の日中に町を練り歩き、山の神、太田神社、上賀茂神社に参拝しているようです。
  
「あがり」になった少年は大島紬の羽織を着て太鼓を打ち鳴らしながら練り歩きます。
写真向かって左の3人の少年が「あがり」です。
まだ「あがり」に達しない13歳未満の子供たちも鉦や太鼓を持って行列に加わります。

上賀茂神社 幸在祭2

②やすらい祭

私はこの行列を見て、玄武神社や今宮神社で4月8日に行われている「やすらい祭」を思い出しました。
  
玄武神社 やすらい祭

玄武神社 やすらい祭

衣装などはずいぶん異なりますが、幸在祭の行列と同じく鉦や太鼓を持っていますね。

昔の人々は疫病神は桜の花びらにのって散り広がると考えていました。
そこで奈良の大神神社で鎮花祭を行うようになりました。
やすらい祭りはこの鎮花祭と念仏踊りが結びついたものと考えられています。

念仏踊りとは鉦や太鼓を打ち鳴らしながら踊るもののことをいいます。

赤いかつらをかぶった人は鬼と呼ばれていますが、鬼たちは神社の境内や氏子さんの家の門前で念仏踊りをします。

上賀茂神社 幸在祭3

③艮=鬼=童子


艮(丑寅)は方角では東北で、鬼の出入りする方角とされています。
また八卦では艮の符は童子とされます。

艮=鬼=童子 

となり、やすらい祭の鬼と、幸在祭の「あがり」より年齢が下の子供は同様のものとみなすことができます。
こう考えると、やすらい祭と幸在祭はますます似ているように感じられます。

上賀茂神社 幸在祭4

④幸在(サンヤレ)祭とサンヤレ踊り


上賀茂神社の幸在祭は鎮花祭と関係があるのかもしれません。
というのは、滋賀県草津市では5月に各地でサンヤレ踊りが行われているのですが、サンヤレ踊とは疫病神を追い払うために鉦・太鼓・笛で囃して疫病神を追い祓う踊りとされているからです。



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!

2月にはまだ桜は咲きません。
梅の花が咲き始めるころなので、上賀茂神社の幸在祭は梅の花を鎮める行事と成人式が合わさった行事なのかも?

上賀茂神社 幸在祭5 

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[2017/02/24 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

上賀茂神社 燃灯祭 『小松と玉箒草は夫婦和合を意味している?』 


京都市北区 上賀茂神社
燃灯祭(乙子神事)・・・2月の2番目の子の日(2017年は2月18日)


① 燃灯祭

上賀茂神社 燃灯祭2
 
狩衣姿の斎員さんたちが行列を作って御阿礼野(みあれの)へと向かいます。
一般の参拝者も自由に参列できるということなので、私も行列の後ろについていきました。
このごろ伝統行事に関心を持つ人が増えたのか、結構たくさんの人が見学に訪れていましたよ。

御阿礼野は上賀茂神社の境内の裏手にあります。
途中ゴルフ場の中を横ぎるのには面食らいましたが~。
ゴルフプレー中の方々は御阿礼野へ向かう人々が行き過ぎるまで待ってくださいました。(ありがとうございます!)

上賀茂神社 燃灯祭 
御阿礼野に到着して一礼。

上賀茂神社 燃灯祭3 
斎員さんたちは、小松を引きます。

上賀茂神社 燃灯祭4 
小松を引いたのち、境内に戻り、土舎(つちのや)に向かいます。

上賀茂神社 燃灯祭5 

ちょっとわかりにくいですが、斎員さんたちは小松に玉箒草(燃灯草)を添えて紙に包んでいます。

②多紫草から田村草になった?

玉箒草(燃灯草)はアザミに似た紅紫色の花を8月から10月ごろに咲かせます。
玉箒草というのは古名で、現在は田村草と呼ばれています。

田村草の写真はこちら→ http://www.hana300.com/tamura.html

古名の玉箒は、花後に多数の実がつく様子が箒(ほうき)に似ているところからくるのではないか、そしてそれが転訛して田村草になったのではないかといわれています。
また、その花が美しい紫色なので、多くの紫色の花をつける草、多紫草から田村草になったのだという説もあります。

③恋する女は紫色に染まる

万葉集に次のような歌があります。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)


紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤としました。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味でしょうか。

こんな歌もあります。

紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも.
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)


大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に贈った有名な歌ですね。

この2首を鑑賞すると、恋する女が美しく瞳を輝かせるようすを『紫』といっているように思えるのです。

④松=待つ=弥勒菩薩?

京都・太秦にある広隆寺の弥勒菩薩像は赤松で作られていますが、赤松で造られた仏像は広隆寺の弥勒菩薩像だけです。

File:Maitreya Koryuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AMaitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 上野直昭 English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


弥勒菩薩は56億7000万年後に現れるとされる未来仏です。
弥勒菩薩は56億7000万年の間、復活を待っている仏だともいえるでしょう。
広隆寺の弥勒菩薩が赤松で作られているのは、『松』が『待つ』に通じるからではないでしょうか。

⑤聖徳太子は弥勒菩薩の化身?

広隆寺の弥勒菩薩は聖徳太子が秦河勝に与えたものだという伝説があります。
この伝説は、聖徳太子が弥勒菩薩の化身であると考えられていたことを示すものだと私は思います。

⑥聖徳太子は怨霊である


そして梅原武氏は『聖徳太子は怨霊である』とおっしゃっています。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、死後このような人は怨霊となって祟り、天災や疫病の流行を引き起こすと考えられていました。

聖徳太子自身は不幸な死を迎えたように思えませんが、彼の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって自害しています。

法隆寺 夕景 

法隆寺

聖徳太子等身大の像と伝わる法隆寺の救世観音像の頭には直接釘で光背が取り付けられています。
光背は足元に棒をたてて、その棒にとりつけるのが普通で、法隆寺像は極めて異常な像形なのです。
そこで梅原氏は『法隆寺の救世観音は聖徳太子の怨霊封じ込めの像』であると説かれました。

怨霊=聖徳太子=弥勒菩薩=待つ=松
となり、松は怨霊を表すものだと考えられるのではないでしょうか。

⑥御霊・和霊・荒霊と男神・女神

神はその表れ方によって御霊・和霊・荒霊に分けられるといいます。

御魂・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面


そして和霊は女神、荒霊は男神だとする説があります。
とすれば御霊は男女双体ということになると思います。

御魂・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


詳しくはこちらの記事をお読みください。→飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』

⑦男女和合は怨霊を守護神にする呪術?

大聖歓喜天という仏教の神は象頭の男女双体のおすがたをしています。



大聖歓喜天は祟りをもたらす鬼王ビナヤキャが、十一面観音の化身であるビナヤキャ女神を抱くことによって仏法守護の神となったものです。

そして、ウィキペディアの祟り神の項目には次のように記されています。
「祟り神は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。(上記サイトより引用)

祟り神は怨霊といってもいいでしょうが、この祟り神(怨霊・荒霊)を守護神にするための呪術が、男女和合なのではないかと思います。

⑧小松は男(荒霊)、玉箒草は女(和霊)をあらわしている?

燃灯祭では小松を男神=荒魂=祟り神、玉箒草を女神=和魂と見立て、男女和合(小松と玉箒草をセットにする)させることで、祟り神(小松)を守護神にするという意味合いを持っているのではないでしょうか。

とすると小松は男(荒霊)、玉箒草は女(和霊)を表しているのではないでしょうか。

多気山不動尊 道祖神

多気山不動尊 道祖神

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[2017/02/23 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

長命寺 雪 『武の暗号?』 

滋賀県近江八幡市 長命寺
2011年2月 2013年撮影


長命寺-雪2 

塔百景38


2011年雪景色を撮りたいと思ってやってきたのですが、雪は屋根の上にしか残っていない状態でした~。

2013年、リベンジしようと再び雪の長命寺を参拝しましたが、五重塔は修理中で箱の中~(涙)

長命寺-雪

向かって右より、三仏堂、護法権現社拝殿、鐘楼

300歳以上生きた武内宿禰

さて、長命寺には次のような創建説話が伝えられています。

景行天皇の御代、武内宿禰が柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫って長寿を祈願しました。
その後、飛鳥時代に聖徳太子がこれを発見しました。
そこへ白髪の翁が現れ、聖徳太子に「その木で仏像を彫りなさい」と告げました。
聖徳太子は十一面観音を彫り、寺をつくってこの観音様を安置しました。


創建説話に登場する武内宿禰は300歳以上という長寿で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたとされます。

長命寺 鐘楼 

鐘楼

②兄・武内宿禰と弟・甘美内宿禰 

武内宿禰にはこんな伝説もありますよ。

武内宿禰の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)は兄を失脚させるために「兄は謀反を企てている」と応神天皇に讒言しました。
盟神探湯(くがたち/熱湯に手をつけて火傷をしない者が正しく、火傷をした者が偽りとする古代の裁判)をしたところ、武内宿禰が勝ちました。


甘美内宿禰は物部氏の先祖?

武内宿禰は蘇我氏、紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、波多氏、淡海氏、許勢氏らの先祖とされています。
この中に物部氏の名前はありません。
そして甘美内宿禰(うましうちのすくね)という名前はは物部氏の祖神とされるでウマシマジノミコトに似ています。
ここから、私は甘美内宿禰とは物部氏の先祖ではないかと考えました。

長命寺 六所権現 

六処権現影向石

③初代神武天皇よりも早く天下っていた神

ウマシマジノミコトの父親はニギハヤヒ、母親はナガスネヒコ(河内地方の豪族だと考えられています)の妹のトミヤヒメです。

初代神武天皇はもともとは日向に住んでいたのですが、日向があまりに国の端であるということで東征して畿内入りをめざします。
ニギハヤヒはこの神武が畿内入りするよりも早く畿内に天下っていたとされます。
そしてナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていたのです。

長命寺-すたら岩 
すたら岩

④余談ですが天下りという言葉、変えたほうがよくないですか?

このようにもとも「天下り」とは、天にいる神が地上におりてくることを指す言葉でした。
ここから転じて、現在では公務員が民間企業に再就職することを指す言葉になりました。

でも「天下り」っておかしいですよね?
公務員は民に仕える職業なので、立場は民より下です。
「天下り」という言葉は、公務員は民より立場が上であると錯覚させます。
これはよくない。

最近、看護婦という言葉はよくないとして看護師といったり
保母さんを保育士と呼んだりしています。
でももっとも改めるべきは「天下り」という言葉ですよ。勘違いも甚だしい。
武田邦彦先生は「地上ぼり」と言うべきではないかとおっしゃっていました。

大阪府では公務員の天下りは条例で禁止されているそうです。

長命寺 太郎坊権現 
太郎坊大権現

⑤天皇家の先祖は物部王朝の入り婿になって政権をのっとった?

話を戻します~(汗)
このような記述が記紀にあるところから、畿内には初代神武以前に物部王朝があったのではないかとする説があり、私はこの説を支持しています。

邪馬台国とは大和朝廷のことで、大和朝廷とはもともとは物部王朝のことだったと考えています。
神武天皇は実在性が疑われていますが、天皇家の先祖は大和朝廷の入り婿になることによって政権をのっとったのではないでしょうか。
くわしくはこちらの記事をお読みください→ 崇神天皇陵 夕日 『邪馬台国を旅する?』

⑥『武』の暗号?

甘美内宿禰(うましうちのすくね)が物部氏だとすると、武内宿禰は神武天皇のことなのではないかと思えます。
名は体を表すといいますが、『武内宿禰』の『武』は『神武』の『武』を意味する暗号なのではないか、と思ったりするのです。

⑦名前の交換は政権交代を意味している?

武内宿禰はまだ幼かった応神天皇と伊奢沙和気大神の名前を交換しています。
また仁徳天皇と武内宿禰の子は同年の生まれで、仁徳天皇の産屋にはミミズクが、武内宿禰の子の産屋にはミソサザイが飛び込んだとあります。
武内宿禰は鳥の名前を交換して、仁徳天皇を大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)、自分の子には平群 木菟(ヘグリノツク)と名前をつけています。

仁徳天皇・・・産屋にミミズク(ツク)が飛び込んだ・・・大鷦鷯尊(オホサザキノミコト)
武内宿禰の子・・・産屋にミソサザイ(ササキ)が飛び込んだ・・・平群 木菟(ヘグリノツク


名前を交換するというのは、人格の交換をも意味しているように思えます。
この物語も、物部王朝から天皇家への政権交代を意味しているのではないでしょうか?

長命寺より琵琶湖を望む 
長命寺より琵琶湖を望む


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[2017/02/22 00:06] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

法起寺 水仙と夕景 『偶数が支配する塔』 

奈良県生駒郡斑鳩町 法起寺
2015年2月中旬撮影


法起寺 水仙

塔百景37


①方二間の塔


法起寺の三重塔はほかの三重塔にはない特徴があります。
ちょっと他の搭と見比べてみましょう。

法起寺 ↓

法起寺 夕陽 

室生寺 ↓
室生寺 石楠花3

浄瑠璃寺 ↓

浄瑠璃寺 紅葉 
西明寺↓

西明寺(湖東) 三重塔 紅葉

浅草寺 ↓
 
浅草寺 五重塔 皐月
   
三重塔は方三間(正面から、また側面からみて、柱が4本あるため、柱間が数が3つになる。)が一般的な形です。
浄瑠璃寺や西明寺は方三間になっていますね。
しかし法起寺は初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間になっているのです。

②方二間の斑鳩の塔群

斑鳩の里には法起寺のほか、法輪寺や法隆寺がありますが、法輪寺の三重塔も初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間になっています。

↓ 法輪寺

法輪寺 コスモス  

↓ 法隆寺の五重塔も、最上部の五層の柱間が2間になっています。

法隆寺 中門と五重塔 

法起寺・法輪寺・法隆寺はいずれも聖徳太子に関係する寺院です。

③怨霊封じ込めの門

上野法隆寺の写真をよく見てください。
法隆寺の五重塔の手前にあるのは中門ですが、これもとても珍しい形になっています。
一般的な門は奇数間で造られていますが、法隆寺の中門は偶数間で作られているので門の中央に柱があります。
梅原猛さんは「門に柱を建てれば閂であり、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺である。」と説かれました。
法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議①』

聖徳太子は憲法十七条を制定するなど、すばらしい功績を残しましたが、彼の子孫は繁栄しませんでした。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて、全員、斑鳩寺で首を括って自害したとされます。
そのため聖徳太子は怨霊として恐れられたとする説があります。

陰陽道では奇数を陽、偶数を陰としています。
そして鬼(オニ)という言葉は陰陽の陰(オン)が訛ったものだともいわれています。

斑鳩にある法隆寺・法輪寺・法起寺は聖徳太子の怨霊(鬼)が宿る陰の寺であるのかもしれませんね。

法起寺 夕景

④歴史の教科書から聖徳太子の表記が消える

先日、「歴史の教科書から聖徳太子の表記を、厩戸王という表記に改める」という報道がありましたね。

聖徳太子の実績とされる十七条憲法は聖徳太子よりも後の時代に成立したという説が有力ですし
官位十二階は中国や朝鮮半島の制度を取り入れたものと考えられています。

また聖徳太子という表記が用いられるようになったのは、厩戸王没後しばらくたってからだとされます。

そういう理由で聖徳太子から厩戸王という表記に変えるようですね。

厩戸王は怨霊になったと信じられ、怨霊を鎮めるために聖人化されて聖徳太子と呼ばれるようになったのだと思います。

法起寺 月 


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[2017/02/21 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

河津町 河津桜 『旅芸人と乞食(こつじき)』 


静岡県河津町 下田町
2月中旬 撮影

河津 河津桜2 
河津

①伊豆の踊子の舞台・河津

河津町って川端康成の『伊豆の踊り子』の舞台なんですね。

学生は、静岡県伊豆市の修善寺温泉・湯ヶ島温泉から天城峠(静岡県伊豆市と賀茂郡河津町の境にある峠)にある天城トンネルを越えたところで、旅芸人一行と道連れとなり、湯ヶ野温泉(静岡県賀茂郡河津町)・下田(静岡県賀茂郡河津町)へ向かいます。

旅芸人一行の中には14歳の少女・薫がおり、学生は薫に恋心を抱きます。

学生は天城峠の茶屋の老婆から、「旅芸人は誘われればどこにでも泊まる」と聞いた話を思い出し
湯ヶ野温泉の宿で、薫が男客に汚されると眠れない夜を過ごします。

しかし、翌朝、朝湯につかっていると、川向うの湯殿から裸で手を振る薫を見つけて、学生は「薫はまだ子供なんだ」と嬉しくなってしまう・・・みたいな筋ですね。

大正ぐらいの日本を舞台としているようですが、そのころの日本には旅芸人がいたのですね。

下田 河津桜 
下田 京都白峯神宮で小町踊を踊っていたお嬢さんを合成

②乞食・旅芸人 立ち入るべからず

鰐淵晴子さんが薫を演じた映画「伊豆の踊子」を見たことがありますが
旅の途中で「乞食・旅芸人 立ち入るべからず」と記された立て看板に遭遇するというシーンがありました。

踊子号

踊子号


③乞食とみほとけ


乞食とは、物乞いをして生活をする人のことです。

私が子供のころ、乞食は普通にいました。
歩道橋の上や駅の横などに座り込み、ご自身の前に箱を置いていました。
中には手足がない人もいて、憐れんだ人が箱の中にお金をいれるのです。

お寺で、みほとけの前に賽銭箱が置かれているのに似ていると言うと怒られちゃうかな?

ですが、かつてハンセン病患者は文殊菩薩の化身とされており
非人宿に捨てられたハンセン病患者は一般の非人よりも多くの喜捨を得たといわれています。
つまり、古の人々はハンセン病患者を文殊菩薩の化身=みほとけとみなし、ハンセン病患者に喜捨をすると、自分自身によいことが返ってくると信じていたということだと思います。

かつて歩道橋の上で乞食をしていた人に金銭などをめぐむ人々の心理も、ハンセン病患者に喜捨する人々の心理と同じだと思います。

大坂城 托鉢 

大坂城 托鉢の僧

④乞食という言葉は仏教用語だった。


もともと乞食という言葉は仏教用語なんです。
僧侶がお金もうけのために仕事をすることはよいことであるとは考えられていなかったようで
乞食(こつじき)を行って食べ物などを得ていたのです。

現在でも僧侶が寺の門前や橋の上など鉢を持って立っていることがありますね。
これを托鉢(たくはつ)といいますが、托鉢は乞食(こつじき)と同様のものです。

きんめだい博物館 車両2 

伊豆急行 キンメダイ博物館 車両


芸能は乞食の所業だった。

日本を代表する芸能のひとつに『能』がありますね。
能は世阿弥(1363?〜1443?)によって大成されたといわれますが、この世阿弥にはこんなエピソードが残されています。

大変な美少年だった世阿弥は将軍・足利義満の寵愛を受けていました。(BLだよね♡)
義光は 祇園祭の桟敷(さじき)に世阿弥(藤若)を同席させており、これに対して三条公忠(さんじょうきんただ)が日記の中で批判しています。

「散楽者」で「乞食の所行」する世阿弥を、将軍義光が同席を許すとはとんでもないことだ!

三条公忠は芸能を行って金銭を得るものは乞食である、と言っているのです。

『伊豆の踊子』に登場する旅芸人一行は、宴会の席などに呼ばれて三味線を弾き、太鼓を打ち、踊り歌うことによって収入を得ていた人々でした。

現在、エアロスミスやエックスジャパンがワールドツアーを行って金銭を得ても、彼らを乞食だと言う人はいませんが
かつて芸能を行って金銭を得ることは乞食の所業だと考えられていたのですね。

それで「乞食、旅芸人 立ち入るべからず」と立て看板が立てられていたのでしょう。

きんめだい博物館 車両 

伊豆急行 キンメダイ博物館 車両


⑤なぜ芸能をする人は差別されたのか

「散楽者」で「乞食の所行」する世阿弥を、将軍義光が同席を許すとはとんでもないことだ!

この三条公忠の言葉から、当時、芸能人に対する差別意識があったことがわかります。
なぜ芸能人は差別されたのでしょうか。

芸能は現在では単なる娯楽ですが、古には神事であったと考えられます。

古には神と怨霊は同義語であったといわれます。
また、怨霊が祟らないように祀ったものが神であるともいわれます。

神事とは、怨霊を鎮めるための行事だといえるのではないでしょうか。
芸能とは神事であったと考えられるので、芸能とは怨霊を鎮めるためのものだったと考えられます。

そして、「先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべき」とする考え方がありました。
ということは、芸人は怨霊の子孫だということになります。

そういうわけで芸人は差別されたのではないでしょうか。

河津 河津桜

河津

 
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[2017/02/20 00:00] 静岡県 | トラックバック(-) | コメント(-)

永観堂(禅林寺) 雪 『惟喬親王のおもかげを映す阿弥陀如来』 


京都市左京区 永観堂
2010年12月 撮影


永観堂 雪 

永観堂

雪の永観堂には訪れる人もまばらで、静かな冬の京都の旅となりました。

①清和天皇の勅命で創建された寺

永観堂は正式な寺名は禅林寺(ぜんりんじ)といいます。

853年、空海の高弟・真紹が故・藤原関雄の邸宅跡を買い取って寺院としたことに始まります。
当時は私寺を建立することは禁じられていたので、863年に清和天皇より定額寺(奈良時代、平安時代に官大寺・国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜りました。
このとき清和天皇はわずか13歳でした。

京都・八幡にある石清水八幡宮も清和天皇の勅命によって創建された神社です。
石清水八幡宮の創建は860年で、清和天皇は10歳でした。

石清水八幡宮 本殿 
石清水八幡宮

②清和天皇との惟喬親王の世継ぎ争い

清和天皇は文徳天皇の第二皇子として850年に生まれ、生まれたばかりで皇太子となりました。
そして858年、わずか8歳で即位しました。
もちろん8歳の子供に政治がとれるはずはなく、実際の政治は清和天皇の外祖父の藤原良房がとっていました。
永観堂や石清水八幡宮の創建は藤原良房の意思によるものだと考えられるでしょう。

文徳天皇には清和天皇のほかに第一皇子の惟喬(これたか)親王がありました。
清和天皇の母親は藤原良房の娘の藤原明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘の紀静子でした。
文徳天皇は惟喬親王のほうを皇太子につけたいと考えていました。
そしてこれを源信に相談しましたが、源信は藤原良房をはばかって文徳天皇をいさめたそうです。
永観堂 雪2 
 
永観堂

③御霊として祀られた惟喬親王


政治的に不幸だった惟喬親王は御霊として大皇器地祖神社 (おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社や惟喬神社などに祀られています。

大皇器地祖神社

大皇器地祖神社

御霊とは、怨霊が祟らないように慰霊されたもののことをいいます。
つまり、惟喬親王は怨霊であったということです。
 
④「永観遅し」と声をかけた阿弥陀如来


その後、1072年に永観という僧侶が禅林寺に入ると、禅林寺は阿弥陀信仰の寺となっていきました。
禅林寺が永観堂と呼ばれるのは、この永観に由来しています。

禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は後ろを振り返った珍しいおすがたをしておられます。
http://www.eikando.or.jp/jiho_phot/mikaeriamida.jpg

そして次のような伝説があります。

永観が念仏を唱えながらこの阿弥陀如来の周囲を歩いていたところ、阿弥陀様が永観と一緒に歩きだしました。
永観が驚いて歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って「永観遅し」と言いました。
それ以来、阿弥陀如来は振り返った姿となりました。

永観堂 多宝塔 雪 

永観堂


⑤石清水八幡宮の神主を紀氏が世襲したのはなぜ?

①で、清和天皇が創建した神社として石清水八幡宮をご紹介しました。
この石清水八幡宮の神主は代々紀氏が世襲していました。

さきほどお話した惟喬親王の外祖父は紀名虎であり、紀名虎は藤原良房とは政治上のライバルでした。
平家物語にはいずれの孫を立太子させるかで紀名虎と藤原良房がもめ、バトルを繰り返したと記されています。
清和天皇が誕生したときすでに紀名虎は亡くなっているので実話ではないとされていますが、
紀氏と藤原氏の間に確執があったことは事実でしょう。

そうであるのに藤原良房はなぜ石清水八幡宮の神主を紀氏としたのでしょうか。

永観堂 雪3
  
永観堂

⑥先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべき

日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていました。

古事記にも「大物主神が祟り、その子のオオタタネコが大物主神を祀るお大神神社の神主になったところ、大物主神の祟りがおさまった」と記されています。

どうやら先祖の霊は子孫が祭祀したり供養したりしないと祟ると考えられていたようですね。

石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないでしょうか。

永観堂 雪4  
永観堂

⑦永観は紀氏だった。

永観は文章生・源国経の子で、のち石清水八幡宮別当・元命の養子となっています。
元命は紀氏を称して石清水八幡宮の別当となっているので、その養子となった永観もまた血のつながりはなくとも紀氏の人間だといえるでしょう。

永観は惟喬親王の菩提を弔うために禅林寺に入り、惟喬親王の霊が成仏するように「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたのではないでしょうか。
そして、禅林寺のみかえり阿弥陀如来は惟喬親王をイメージしたものなのではないかなあ、と思ったりします。

永観堂 雪-日暮れ 
永観堂

雪がふりしきる中、静かに日が暮れていきました。



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[2017/02/18 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

智積院 梅 『長谷川等伯 松林図屏風は不老不死を表している?』 


京都市東山区 智積院
撮影 2017年 2月中旬

智積院 金堂 梅 

智積院 金堂

①鶴松にささげられた桜楓図


智積院がある場所には、豊臣家ゆかりの禅寺・があり、1601年に家康がこの祥雲寺を与えました。
そこで玄宥はその祥雲寺の土地に、もと紀州・根来にあった智積院を復興させました。

現在の智積院収蔵庫には祥雲寺の客殿にあった長谷川等伯一派の障壁画が残されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%BA%E7%A9%8D%E9%99%A2#.E6.96.87.E5.8C.96.E8.B2.A1
↑ ウィキペディアに障壁画の写真が掲載されています。

智積院障壁画 桜図 

智積院障壁画 楓図 模写

上2枚は大書院に飾られている複製障壁画・桜楓図で上が楓図(長谷川等伯筆)、下が桜図長谷川久蔵筆)です。

祥雲寺は1591年にわずか3歳でなくなった秀吉の子・鶴松の菩提を弔うために建てられたお寺です。
桜楓図は幼くして亡くなった鶴松にささげられたものだといえるでしょう。

②息子・久蔵、26歳で亡くなる。

智積院の桜図を描いた長谷川久蔵は、長谷川等伯の息子です。
この久蔵も1593年に26歳の若さで亡くなってしまいました。

また1598年には等伯のパトロン・豊臣秀吉も亡くなりました。

③松林図屏風

鎮長谷川等伯といえば、『松林図屏風』 ですよね!

File:Pine Trees.jpg

松林図・右隻
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3APine_Trees.jpg よりお借りしました。
長谷川等伯 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

File:Hasegawa Tohaku, Pine Trees.jpg

松林図左隻
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AHasegawa_Tohaku%2C_Pine_Trees.jpg よりお借りしました。
長谷川等伯 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

無駄なものを限りなく削り、余白を多く残していています。
強烈なインパクトの静けさを感じるというか、とても不思議な絵です。

年記がないので制作年代は未詳ですが、作風から1593年~1595年ごろに描かれたものではないかと考えられています。
等伯の息子・久蔵が亡くなったころで、悲しみにくれる等伯が自分自身のために描いたとも言われます。

また故郷の能登の海岸の松林を描いたのではないかとも言われていますよ。

智積院 鐘楼  
智積院 鐘楼

⑤松林図は草稿?

松林図にはいくつかの謎があります。

1.紙継ぎのずれがある。
2.左右で紙幅の寸法が異なっている。
3.通常の屏風絵に使われる頑丈な雁皮紙ではなく、きめの荒い薄手の料紙を用いている。
4.画面両端の「長谷川」「等伯」印が基準印と異なる
5.松林図によく似た「月夜松林図」が存在する。
※月夜松林図は この方のブログで見ることができます。
http://cardiac.exblog.jp/12919526/
松林図には山が描かれていますが、月夜松林図には満月が描かれています。また紙の裏に墨を塗ってあります。

そのため、屏風絵ではなく襖絵だったのではないかとか、草稿ではないかともいわれています。

⑥松林図と月夜松林図は月山を表している?

ですが、わたしは「松林図は月夜松林図の草稿ではなく、2枚はワンセットになっている」と考えます。
月夜松林図に描かれた月と、松林図に描かれた山は謎々になっているのではないでしょうか。
つまり、月と山で月山を意味しているのではないかと思うのです。

月山とは山形県中央部にある山で、月山神社があります。参拝したことはないんですが~。


智積院-明王殿 梅 
智積院 明王殿

⑦山形県は即身仏のメッカ

そして山形県は即身仏のメッカとして知られています。

http://www.asahi-kankou.jp/kankou/spot_syuinroku.html
http://yamagatakanko.com/log/?l=348168

ウィキペディアは日本の即身仏として18例をあげています。
県別に見ると、山形県8例、新潟県4例、神奈川県・京都府・福島県・茨城県・長野県・岐阜県がそれぞれ1例で、山形県がダントツで多いのです。

※岩手県の奥州藤原氏の3例は自然ミイラではなく人工ミイラとする説もあるので、カウントしていません。)
http://www.saisyouji.jp/saisyo-ji/contents-sokusinbutu-navi.html#zenkoku
←こちらのサイトでは日本には24例の即身仏があるとしています。

即身仏とは五穀を絶って木食(木の実や木の皮を食べる)修行を行ったのち、生きたまま地下の穴倉に入った僧侶の亡骸のことで、
江戸時代に盛んにおこなわれたとされます。

しかし、夏高温多湿になる日本では亡骸を腐らせないようにするのは至難の業で、腐敗してしまった即身仏もたくさんあったと考えられています。

山形県に多くの即身仏が残されているのは、寒冷な気候ということもありますが
水銀土壌が関係しているともいわれます。

さきほど、即身仏になるためには五穀を絶って木食(木の実や木の皮を食べる)修行を行うと書きましたが
水銀土壌で育った木の実や木の皮には水銀が多く含まれています。
その水銀の防腐作用によって死体が腐ることなく保存されたのではないかというのです。

⑧なぜ人は即身仏になろうとしたのか

なぜ人は即身仏になろうとしたのでしょうか。
それは56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれるとき、その聖業に参加するためであると聞いたことがあります。
弥勒菩薩の聖業に参加するためには生き返らなければならない。
そして生き返るためには、魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないかと思います。

水木しげるさんの「今昔物語集」(平安時代に成立したと考えられている古典をもとに水木しげるさんが漫画にしたもの)に、こんな話がありました。


死神が閻魔大王から指令を受けてaを殺しにいったところ、まちがって同姓同名のbを殺してしまいます。
そこで、本来殺すべきだったaを殺し、すでに殺されていたbは、生き返ってもいいということになりました。
ところが、すでにbの死体が火葬されてしまっていたため、やむなくbはaの肉体をかりて生き返りました。


この話は古の人々が、生き返るためには肉体が必要であると考えていたのだろうと推測させます。

⑨桜や楓ははかなさを、松は不老不死を表す?

桜楓図と松林図は対照的ですね。
現代人の多くは、桜楓図には生命力を、松林図には死のイメージを感じるのではないでしょうか。

しかし、古の人々はこれとは逆のイメージを感じたのではないかと思うんですね。

桜や楓は華やかですが、あっという間に散ってしまいます。
一方、松は1年中青々としていて散りません。
そういったところから桜や楓にははかなさを、松には不老不死のイメージを持っていたのではないでしょうか。

⑩松林図・月夜松林図には久蔵生き返りの願いが込められていた?

長谷川等伯はわが子・久蔵が生き返るようにとの願いをこめて松林図・月夜松林図を描いたのではないでしょうか。

月と山=月山=即身仏=不老不死
松=1年中青い葉を茂らせる=不老不死

そういえば智積院にはこんな絵も展示されていましたよ。

智積院 布袋唐子嬉戯の図 


布袋唐子喜戯の図 月樵(げっしょう)道人

布袋は弥勒菩薩の化身だと言われています。

参照/
智積院 さつき 『布袋はなぜ大勢の子供たちと戯れているの?』 




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[2017/02/17 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)