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岩清水八幡宮 鬼やらい神事 & 横須賀市 道切り 『ヤチマタの神とサイコロの関係』 

京都府八幡市 石清水八幡宮
鬼やらい神事・・・毎年変わります


①鬼やらい神事

そろそろ節分ですね!
1月29日、石清水八幡宮では一足早く鬼やらい神事が行われたようです。(日程は毎年変わります。写真は過去のものです。)

石清水八幡宮 鬼やらい神事2 

鬼が出たよ!

石清水八幡宮 鬼やらい神事  

鬼は子供たちを脅してさんざん泣かせたあと、石清水八幡宮の拝殿へ向かいます。

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき

私は鬼とか妖怪とか怨霊が大好き!
なので「鬼、がんばれ!」と心の中で声援をおくります。(笑)
しかし豆を蒔かれて鬼はやっつけられてしまいます。

②ヤチマタ基金

鬼やらい神事のあと、心を入れ替えた鬼たちはボランティアでヤチマタ基金の募金を呼び掛けていました。

石清水八幡宮 鬼やらい神事 鬼の募金活動 
  ヤチマタ基金とは京都府神社庁が行っている、交通災害遺児への奨学助成を目的とした基金のことです。
 http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/yachimata.html

ヤチマタ基金のヤチマタはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメという神様の名前からつけたものだそうです。

石清水八幡宮 鬼やらい神事 鬼の募金活動2

③ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメはもののけの侵入を防ぐ神

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメについては ↓ こちらの記事にも書きました。

石清水八幡宮 雪 『青山祭は疫神スサノオを風葬にするお祭りだった?』 


石清水八幡宮で1月18日に行われている青山祭は、明治以前は道饗祭(みちあえのまつり)とか、疫神祭とも呼ばれていましたが
この道饗祭とはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミを祀って、都や宮城にもののけなどが入らないように祈る神事でしたね。

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメはもののけの侵入を防ぐ神なのです。
ヤチマタは「八衢」と書きたくさんの道が分かれている所のことをいいます。

石清水八幡宮 青山祭 
石清水八幡宮 青山祭

④「道切り」はヤチマタヒコ・ヤチマタヒメの信仰から生じた風習?

上の記事を書いたところ、aunt carrotさん がメールを下さり、横須賀市長井町荒井の道切りについて教えてくださいました。
ありがとうございました!
こんな神事があるよ~、とか教えていただけるとすごく嬉しいです。



動画、お借りしました! ありがとうございます。

道切りは、疫病や魔性のものなどの災厄が村や里に入ることを防ぎ、禁圧するための呪術習俗です。現在、道切りの行事の多くは廃れ、三浦半島では長井の荒井のみで伝承されています。
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0120/movie_channel/rekisi/16.html より引用

道饗祭は宮中にもののけなどが侵入しないようにと行われていた行事ですが、「道切り」もこの道饗祭と同様の意味を持つものなんですね。

ということは、「道切り」はヤチマタヒコ・ヤチマタヒメの信仰から生じた風習ではないかと思えます。

↓ こちらの写真はaunt carrotさんのブログ、Aunt Carrot’sBlog より許可を得てお借りしたものです。(ありがとうございます!)

20150523ko013.jpg

とてもいい写真ですね~♪

向かって左から、藁で作った刀、片方だけのワラジ、さいころ、藁で作った蛇が注連縄につるされています。

⑤サイコロは塞の神をあらわす?

「道きり」につるすものの中で、一番興味深く思ったのはサイコロです。
サイコロは塞の神(さいのかみ)の語呂合わせではないでしょうか。

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミは同一の神とされ、塞の神と呼ばれているのです。

クナドノカミは「岐の神」と書き、悪霊が村や集落に入ってくるのを防ぐ神です。

⑧語呂合わせで神格を変える神

つまり、塞の神は語呂合わせでサイコロの神になったのではないかと思うのです。

このように語呂合わせで神格を広げた神は他にもあります。

例えば、和歌の神・柿本人麻呂は人丸と呼ばれることもあり
「ひとまる→火止まる」で防火の神に、「ひとまる→人産まれる」で安産の神へと神格を広げています。



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[2017/01/31 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

西遊寺 久修園院 雪 『行基四十九院と家型の四十九院』 

京都府八幡市 西遊寺
大阪府枚方市 久修園院


①橋本寺と西遊寺


京阪橋本駅を下車すると駅の東にの南に西遊寺があります。

西遊寺 雪 
西遊寺

昔、このあたりに行基ゆかりの寺・橋本寺があったみたいですね。

1570年、増上寺第10世法主の感譽上人(田原城主北条氏康の次男)が、奥橋本山から現在の地に橋本寺を移され、西遊寺と寺号を改めたそうです。

奥橋本山がどこなのか、調べてみましたがわかりませんでした~。

増上寺は東京都港区にある浄土宗の寺院で、徳川家の菩提寺でした。

増上寺と東京タワー

増上寺

②渡しと山崎橋と橋本の地名の由来

増上寺は去年の秋に参拝してきたので記憶に新しいです。
東京タワーがまるで仏塔のように、大殿の背後にそびえたっていました。

橋本渡舟場 道標 

対する西遊山の前には火の見櫓がたっており、その下には石の道標があって「橋本渡舟場三丁」と記されていました。

橋本駅の西には淀川があります。
その淀川を渡る渡しが、この石碑から3丁(1丁/1町は109.09091 mなので約327m)ほど行ったところにあったということでしょう。

渡しが運行する以前、淀川には山崎橋という橋がかかっていたそうです。
橋本という地名の由来はこの山崎橋に由来するのですね。

③日本三古橋

山崎橋は日本三古橋のひとつで山崎太郎と呼ばれています。
他の二つは瀬田の唐橋(勢多次郎)と宇治橋(宇治三郎)で、こちらは現在もあります。

建部大社 船幸祭 花火2 
瀬田次郎

今は山崎橋も渡しもありません。
淀川の向う側に渡ろうと思うと、京阪電車に乗って八幡市駅まで行かないと橋がありません。
橋本駅から淀川対岸の水無瀬神宮や離宮八幡宮まではすぐなのに、淀川を渡れないのですーーーー。
山崎橋、復興させてーー!

④行基四十九院

山崎橋は725年に行基がかけたと言われています。
行基は山崎橋をかけた際、橋の近くに久修園院(くしゅうおんいん)を創建しました。
久修園院は行基四十九院のひとつとされています。

久修園院の住所は大阪府枚方市ですが、さきほどの西遊寺から歩いてすぐです。

行基は畿内に多くの寺を建てており、それらの寺を総称して行基四十九院と言います。

久修園院 雪4 
久修園院

⑤行基は本当に49の寺、5つの港、ため池、橋を作ったのか?

行基は山崎橋のほかにもいくつかの橋をかけたと言われています。
行基が作ったとされるため池や、行基が開いたという温泉もあります。
また、摂播五泊といって、摂津から播磨にかけて5つの港を整備したともいいます。

これが事実なら、行基はとてつもなくパワフルな人物だったといえるでしょうが
いくらなんでも数が多すぎるような気がします・・・・。

久修園院 雪3 
久修園院

⑥四十九院

行基四十九院の49という数字は「四十九院(しじゅうくいん)」からとった縁起担ぎではないかと思います。

四十九院にはいくつかの意味があります。

①兜率天(弥勒菩薩が住んでいるところ)の内院にある摩尼宝殿と、その周囲にめぐらされた48の宮殿。

②平安時代以降、兜率天の49の宮殿になぞらえて、寺院の境内に建てた49のお堂。

③鎌倉時代以降、墓の前面に6基、後面に15基、左右にそれぞれ14基、合計49の塔婆をたてた埋葬の形式。


行基は奈良時代の人物なので、おそらく①の四十九院にちなんで、行基が49もの寺を建てたという伝説が作られたのではないでしょうか。

あるいは本当に行基は49の寺を創建したのかもしれませんが、もしそうだとすれば、行基は兜率天の四十九院になぞらえて、49の寺を創建したのだと思います。

久修園院 雪2 
久修園院

⑦家型の埋葬施設と輿

ですが、③の埋葬施設と行基にも関係がありそうに思います。

http://seikouminzoku.sakura.ne.jp/sub7-12.html

上記サイトによると、四十九院と呼ばれる埋葬施設には、家形をしたものもあるとしています。
そしてこの四十九院のことを、東京都多摩郡檜原村笛吹では輿(こし)というと記しています。

行基が生まれたのは現在大阪府堺市西区で、ここにある家原寺(えばらじ)は行基が生家を寺に改めたものだと言われています。

また行基の父親は高志才智(こしの さいち)という名前だったようです。

家原と聞いて、家型の埋葬施設・四十九院が並べられた野原を想像してしまったり
行基の父親・高志才智(こしの さいち)は四十九院が輿(こし)と呼ばれることと関係があるのでは
なーんんて考えてしまう私は頭がいかれているのか?

久修園院 光明殿 雪 
久修園院 光明殿


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[2017/01/30 00:00] 大阪・京都・奈良 | トラックバック(-) | コメント(-)

石清水八幡宮 雪 『青山祭は疫神スサノオを風葬にするお祭りだった?』 

京都市八幡市 石清水八幡宮

①石清水八幡宮 青山祭

男山の麓にある頓宮殿に見慣れないものが。

石清水八幡宮 青山祭

これは1月18日に行われる青山祭の祭場です。
訪れたのは1月15日でしたが、すでに青山祭の祭場が準備されていたのです。

石清水八幡宮 本殿 
石清水八幡宮 本殿

②道饗祭・疫神祭


明治以前、青山祭は道饗祭(みちあえのまつり)とか、疫神祭とも呼ばれていたそうです。

道饗祭とはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミを祀って、都や宮城にもののけなどが入らないように祈る神事です。

ヤチマタは「八衢」と書きたくさんの道が分かれている所のことをいいます。
クナドノカミは「岐の神」と書き、悪霊が村や集落に入ってくるのを防ぐ神です。

ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ・クナドノカミは同一の神とされ、塞の神と呼ばれています。
なんだかキリスト教の三位一体みたいですね。

疫神とは疫病をもたらす神のことです。

石清水八幡宮  鬼門封じ 

石清水八幡宮 本殿 鬼門封じ


石清水八幡宮 鬼門封じ 

③青山祭は風葬を表している?

☆ ←こちらのサイトに次のように記されています。

大国主神が国譲りして、「八十クマデに隠りましき」とありま すが、「クマデ」というのは、のち「青柴垣」と書かれるように、柴を沢山立て た中に死体が入っていたということです。

http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/98-1.html より引用

以前、ネットで「石清水八幡宮の青山祭は風葬を表している」と書いてあるのを読んだ記憶があるのですが、今ググってみてもみつかりません。

ですが、青山祭の祭場は柴をたくさん立ててあり、その中に遺体が置けるほどのスペースが設けられています。

青山祭は風葬のようすを表しているのではないでしょうか?

石清水八幡宮 東総門 雪

④石清水八幡宮は紀氏の神を祀る神社だった?

石清水八幡宮は清和天皇の勅命によって創建されたとされますが、神官は代々紀氏がつとめていました。
また、かつてその地にあった石清水寺は紀氏の氏寺ではないかとも言われています。

石清水八幡宮の御祭神は八幡大神です。
八幡大神とは誉田別命(応神天皇)・比咩大神(宗像三女神)・息長帯姫命(神功皇后)の総称です。

しかし石清水八幡宮は紀氏の神を祀っている可能性が高いです。
もしくは八幡大神とは紀氏の神であるか、または紀氏の神と習合されているのかもしれません。

古事記・日本書紀には奈良の大神神社も御祭神・大物主神の子孫のオオタタネコが祀ったと書いてあります。
また、その後はオオタタネコの後裔を称する三輪氏がつとめています。

先祖の霊は子孫が祭祀または供養するべきという考え方は昔から(少なくとも記紀が編纂された奈良時代には)あったとかんがえられます。

石清水八幡宮 石清水社 
石清水八幡宮 石清水社

⑤青山祭は誰を風葬にする神事なのか?

ホツマツタエという書物に次のように記されています。
「ソサノオは紀州の生まれで、昔、紀州の南部をソサといったのでソサノオと名付けられた」

伏見区の藤森神社も紀氏が祭祀する神社とされますが、スサノオを祀っています。
ソサノオとスサノオは同一神と考えられます。

そして東山区の八坂神社ではスサノオを疫神として祀っています。

青山祭は、紀氏の氏神であり疫神でもあるスサノオを風葬にする神事なのではないでしょうか。

石清水八幡宮 三女神社 雪 
石清水八幡宮 三女神社


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[2017/01/29 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

鞍馬七福神 雪 『変形された北斗七星』 

京都市左京区 鞍馬寺

 
 鞍馬山 多宝塔 雪 

①鞍馬七福神


鞍馬寺には双福苑(恵比寿天・大黒天)・福寿星神 社(福禄寿・寿老人)・巽の弁才天社(弁才天)・弥勒堂(布袋尊/布袋尊は弥勒菩薩の化身とされています。)開運毘沙門天社(毘沙門天)があり、鞍馬七福神と呼ばれています。

鞍馬寺 双福苑
 
鞍馬七福神 双福苑〈蛭子神・大黒天)

②鞍馬七福神は北斗七星の神?

鞍馬寺 八重桜 『鞍馬七福神は北斗七星の神?』 
↑ こちらの記事に、鞍馬七福神は北斗七星の神ではないかと書きました。

その理由は下記a~cに述べるように、鞍馬寺は星の神を祀る寺だと考えられるからです。

a.鞍馬寺の御本尊の一、護法魔王尊は650万年前に金星からやってきた神とされており、鞍馬寺は星の神を祀る寺だと考えられる。

b.日本書紀に次のような記述があり、鞍馬天狗は流星を神格化した神だと考えられる。
大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がしました。
僧旻は 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言いました。

天狗は翼があって空を駆け回るとされるのは、流星だからではないか。

c.鞍馬の火祭で行われるチョッペンの儀は二人の青年が逆さになって脚を開脚するというもので、カシオペア座の形を作っているように思える。



動画はお借りしたものです。動画主さんありがとうございます。

カシオペア座

③北斗七星の形に配置された津軽の神社

坂上田村麻呂が津軽に創建した七つの神社、大星神社・浪岡八幡宮・猿賀神社・熊野奥照神社・岩木山神社・鹿島神社・乳井神社が北斗七星の形に配置されているといわれます。
http://madamada888.blog.fc2.com/blog-entry-193.html
↑ こちらの方が、地図を掲載してくださっています。

まあ、よく見ると北斗七星とは少し形は違います。
しかし、現在のような正確な地図を作ったのは江戸時代の伊能忠敬で、それまでは行基図と呼ばれるかなりいい加減な地図を用いていました。
坂上田村麻呂は江戸時代よりも以前の平安時代の人物です。
そういう点を考慮すると、北斗七星の形になっているといえるかもしれません。

鞍馬七福神 福寿星神祠  

鞍馬七福神 福寿星神祠 (福禄寿 寿老人)

④鞍馬北斗七星の配置は北斗七星の形になっていない。

一方、鞍馬七福神の配置は北斗七星の形にはなっていません。
ぐるっと輪を描くような形に配置されていると思います。
(図を書こうと思ったけど、うまく書けませんでした。すいません。)

⑤星田妙見宮の北斗七星の神の像も北斗七星の形に配置されていない。

大阪府交野市の星田妙見宮にはみほとけのお姿をした 貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の像が境内の七か所に置かれていました。

星田妙見宮 禄在星 

星田妙見宮 禄在星の像


この貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の七つの星は北斗七星を形成する星々です。
こちらも北斗七星の形にはなっていません。

星田妙見宮 境内図 

星田妙見宮 境内図 (案内板より)


⑥形を変えられた北斗七星?

星田妙見宮 旗のデザイン 

星田妙見宮 旗のデザイン

 上の写真は星田妙見宮にあった旗に描かれていたイラストを撮影したものです。
亀に蛇が巻き付いていますね。
これは北方守護の聖獣・玄武ですね。(南は朱雀・東は青龍・西は白虎)

新熊野神社 玄武

新日吉神社 神幸祭の際、撮影した玄武。矛の飾り布についていたものです。


で、その玄武の上に渦を巻く七つの星が描かれています。

妙見信仰にはしばしば北極星だけでなく、北斗七星に対する信仰も含まれます。
それは星田妙見宮に北斗七星の神・貪狼星・ 巨門星・ 禄存星・ 文曲・ 廉貞星・ 武曲星・ 破軍星の像が置かれていることからも明らかです。

すると上の写真に描かれた渦を巻く七つの星は、形は違いますが北斗七星だと考えられるんじゃないかと思いますが、どう思われますか?

玄武(亀+蛇)の亀の部分は北極星を、玄武(亀+蛇)の蛇の部分は、北斗七星を表しているのではないでしょうか?

とすれば北斗七星は変形させた形で描かれたということになります。
これはなぜでしょうか?

北斗七星は北極星の周囲をまわります。そのため、亀になぞらえた北極星の周囲を蛇がとりまくという形に変形されたのではないかと思ったりします。


鞍馬七福神 巽の弁才天社 雪 
鞍馬寺 巽の弁才天社

鞍馬七福神 弥勒堂 
鞍馬七福神 弥勒堂

鞍馬七福神 開運毘沙門天祠 
鞍馬七福神 開運毘沙門天祠




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[2017/01/27 17:01] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

鞍馬寺 雪 『思いやりを繋ぐワラの綱』 

京都市左京区 鞍馬寺 由岐神社

①鞍馬寺で観音様の化身に出会った。


山電車・鞍馬駅を降りるとすぐ鞍馬寺の仁王門が見えてきます。

鞍馬寺 仁王門 雪 
鞍馬寺 仁王門 

この仁王門から鞍馬山中腹にある本堂へ向かうには二つの方法があります。
ひとつはケーブルを利用する方法、もうひとつは九十九折の道と呼ばれる坂道を登っていく方法です。
ケーブルを利用するとあっという間につきますし、体力的にも楽です。
でも由岐神社は九十九折の道沿いにあるので、ここをお詣りするには九十九折の道を行かねばなりません。

由岐神社 割拝殿 雪 
由岐神社 割拝殿

鞍馬寺の受付で係の方と少し雑談をした際に、「ケーブルを使われますか」と聞かれたので
私は「ケーブルで登り、帰りは九十九折の道を降りて途中で由岐神社をお詣りするつもりです。」と答えました。
すると係の方は「逆にした方がいい。徒歩で上って、ケーブルで降りるべき」と教えてくださいました。

この日、鞍馬寺には結構雪が積もっていたのです。
確かに、雪の坂道はすべるので降りるほうが大変かもしれません。

係の方は「よかったら、アレをつかってください」と箱を指さしました。
箱の中にはわらで作った綱がたくさん入っていました。
そしてその方はひざまづいて、私の靴に綱を結んでくださったのです。
なんて親切なんだ!と大感激~。

この方、もしかして観音様の化身?

鞍馬寺 すべり止めの藁の綱

ワラは滑り止めに最適!

靴に結んでいただいたワラの綱、もしかしたら注連縄を再利用したものなのかも?
そうだとすると、とても神聖なものを踏ませていただいてるわけで、ありがたーい気持ちになりますね。

それに、雪の中をどれだけあるいても全然滑りませんでした。
ワラの滑り止め効果ってすごいですね。

今も藁草履は沢登り用に販売されているそうです。
http://www.yoshiki-p2.com/outdoor/id=87

雪国の人が藁沓をはいていたのも、古の人々の知恵だったんですね。

鞍馬寺 金剛寿命院 雪 
鞍馬寺 金剛寿命院

普通の人が素晴らしい。

あちこち旅する中で、それはもう大勢の方に親切にしていただいています。
カメラマンさんはいい撮影スポットなど教えて下さいますし
道を尋ねると皆さん親切におしえてくださいます。
どんくさくて上った土手からおりれないでいるところに手を貸してもらったり
なんか食べ物いただくことが多いんですが、もしかして私ってひもじそうな顔してるのかな?

で、観音様の化身のようなそういう方々が、普通のおじさん、おばさん、普通のお兄さん、お姉さんだったりするんですよね。

鞍馬寺 本堂 雪 
鞍馬寺 本殿 金堂

②思いやりの心は伝染る。

で、人から親切にされると、不信心者の私でも、自分も他人に親切にすることで、お返しをしたいと自然に思うんですね。
思いやりの心というのは、伝染るんですね~。


鞍馬寺 多宝塔 雪 

鞍馬寺 多宝塔




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[2017/01/25 17:20] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

伏見稲荷大社 雪 『天帝の乗り物から落ちた源頼朝』 

京都府伏見区 伏見稲荷大社
 
伏見稲荷大社 千本鳥居 雪

①白旗大明神


伏見稲荷大社の千本鳥居をくぐり歩いていきますと、「白旗大明神」と記された旗がありました。
白旗大明神とは源頼朝のことだと思います。
源頼朝のほかの源氏の武将や、源氏の氏神・八幡神のことを白旗大明神ということもあるそうですが。
(伏見稲荷大社の白旗大明神が源頼朝であるというのが間違っているなら教えてくださいね。)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%97%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
上記、ウィキペディアには、上旗神社は関東・東北・中部に分布する神社であると記されています。

確かに近畿地方ではほとんど見かけたことはありません。
ここ伏見稲荷大社のほか、波切不動院で「白旗弁才天」と記された石を見た記憶があるくらいです。
「白旗弁才天」が「白旗大明神」と関係あるのかどうかはよくわからないんですが~。

伏見稲荷大社 白旗大明神 

②源頼朝の死因は落馬?糖尿病?


『吾妻鏡』によると、1198年12月、源頼朝は稲毛重成が行った相模川の端供養に参列。
その帰路、頼朝は落馬し、翌年亡くなったとあります。

しかし猪隈関白記は「飲水の病」としていますし、承久記は「水神にとりつかれて死んだ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記しています。

『飲水の病』とは水を欲しがる病のことで、糖尿病のことだと考えられています。

③源頼朝と法華経

石橋山の戦いで敗れた頼朝は安房に逃れ、洞窟の中で法華経を唱えていた、そのため敵から逃れることができたと言われています。
源頼朝の死後、安房の生まれの日蓮が「南無妙法蓮華経(法華経に帰依しますという意味)」と唱える日蓮宗を開きます。
日蓮は安房に逃れた頼朝が法華経を唱えて敵から逃れることができたという話を知っていたでしょう。
そしてその話に感銘を受けて「南無妙法蓮華経」と唱える日蓮宗を開いたのではないかと思います。

伏見稲荷大社
 
④法華経と妙見信仰

日蓮宗では妙見菩薩を祀っていることが多いですが、妙見菩薩とは北極星の神です。
日蓮宗は妙見信仰の厚い宗派だといえるでしょう。

⑤日蓮宗と北斗七星

妙見信仰には北極星に対する信仰だけでなく、北斗七星に対する信仰も含まれます。
日蓮宗の寺・本願寺で祀られている七面大明神とは北斗七星を神格化した神ではないかと思います。

 伏見稲荷大社 玉山大明神jpg


⑥北斗七星は天帝の乗り物

北斗七星は天帝の乗り物であるなどと言われます。

伏見稲荷大社 狐 雪


⑨頼朝は天の乗り物である北斗七星から落ちた?

頼朝は落馬が原因で亡くなったとされるのは、頼朝が北斗七星の馬から落ちたという意味ではないでしょうか。

頼朝が北斗七星の馬から落ちるとは、天に見放されたということです。

④に書いたように、頼朝は法華経の熱心な信者であり、南無妙法蓮華経と唱える日蓮宗は妙見菩薩を祀るなど妙見信仰の厚い宗教だと考えられます。
ここから法華経そのものが厚い妙見信仰を持っているのではと思えます。

頼朝の死後、頼朝の嫡流は断絶してしまい、代わって北条義時の嫡流が鎌倉幕府の支配者となったのは、みなさん御存知の通りです。

そのことを人々は「(北斗七星の)馬から落ちたと表現したのではないでしょうか?


伏見稲荷大社 狐 雪2 




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[2017/01/23 16:55] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛行神社 関西空港 『飛行の神・ニギハヤヒは流星の神だった。』 


京都府八幡市 飛行神社
大阪府泉南郡 関西空港

飛行神社 

①飛行神社


京都府八幡市の男山のふもとをぶらぶらと歩いていると、不思議な神社を発見!
ジュラルミンの鳥居の前には飛行機のプロペラが。
1915年(大正4年)、二宮忠八という航空機研究者が創建した神社で、飛行神社といいます。

関西空港 夕景2 
関西空港

②飛行器開発に情熱を注いだ二宮忠八

1887年(明治20年)、二宮忠八はカラスが羽ばたいていないのを見て、翼で風を受け止めれば空を飛べるのではないかと考「烏(からす)型飛行器」の模型を作製しました。
飛行機ではなく、飛行器だそうです。

1891年(明治24年)には10mを飛行させることに成功。
1893年(明治26年)、忠八は「玉虫型飛行器」の開発に着手します。
そして有人の「玉虫型飛行器」の開発を軍隊の上司に上申しますが、却下。
そこで忠八は大日本製薬株式会社に入社し、飛行器開発資金を得ようと必死で働きました。

③二宮忠八、飛行器開発をやめ神主となる。

そしてようやく研究を再開しようとした矢先、1903年(明治36年)にライト兄弟が有人飛行に成功したことを知るのです。
このニュースをきいた忠八は飛行器の開発をやめてしまいました。
そして飛行機事故で亡くなった人々を弔うために飛行神社を創建し、神主となったのです。
科学とは180度異なる宗教の世界に身を置いた忠八の心境とはいかなるものだったのでしょうか。

関西空港 夕景 
関西空港

④飛行機の神・ニギハヤヒ


飛行神社では飛行機の神・ニギハヤヒ、航空殉難者の霊などを祀っています。
記紀によれば、ニギハヤヒは天の磐船を操ってに哮ガ峰(タケルガミネ)に天下ったと記されています。
忠八はこの天の磐船を飛行機だと考え、ニギハヤヒを飛行機の神として大阪府交野市の磐船神社より勧請したのです。

星のブランコ 紅葉3

↑磐船神社の近くにある吊り橋『星のブランコ』です。
ニギハヤヒが天の磐船から見た風景もこんな感じだったのかもしれません。

磐船神社 天の磐船 

↑磐船神社のご神体・天の磐船は船形をした巨大な石です。

ニギハヤヒが乗っていた天の磐船の正体とは?

雲陽誌という書物に次のような内容が記されています。

島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。


そして大阪府交野市あたりには次のような伝説が伝えられています。

空海が呪文を唱えると、天上より北斗七星が交野の地の三箇所(星田妙見宮・星の森・光林寺)に堕ちました。
そして星田妙見宮・光林寺ではそのとき堕ちた星として、石を祀っています。
(星の森にも石があるのでしょうか?ちょっとわかりません。)

星田妙見宮 織女石 

星田妙見宮

昔の人々は巨大な石は空から落ちてきた星だと考えたようです。
ということは、ニギハヤヒが乗っていた天の磐船とは流れ星なのではないでしょうか。




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[2017/01/22 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

御堂筋イルミネーション 三津寺 『安積親王を弔う寺?』 


大阪市中央区 三津寺
御堂筋イルミネーション 2017年度は1月9日で終了しました。


御堂筋イルミネーション 
イルミネーションがきらめく御堂筋をぶらぶらとウィンドウショッピングしました。

御堂筋 ハードロックカフェ2
ハードロックカフェ

御堂筋 ハードロックカフェ 




大丸
↑ 大丸

高島屋 

↑ 高島屋

三津寺 御堂筋イルミネーション

↑ 御堂筋には神社やお寺もあります。 写真は三津寺です。

①行基が創建した三津寺

三津寺は744年に聖武天皇の勅命を受けて行基が創建したお寺です。
ここからが本題です(汗~)

②長屋王の変

行基は自殺においこまれた長屋王を弔うために多くの寺を建てた人だと私は考えています。

729年、長屋王は謀反の疑いがあるとされ、厳しい取り調べを受けました。
そしてそれに耐え切れず自害してしまったのです。
長屋王が謀反を企てていたというのは事実ではなく、藤原四兄弟(藤原不比等の息子/武智麻呂、房前、宇合、麻呂)による陰謀であると考えられています。
長屋王の死後、藤原四兄弟は藤原四子政権を樹立し、妹の光明子を聖武天皇の皇后にすることに成功しています。
ところが735年から737年にかけて天然痘が流行り、藤原四兄弟は次々に天然痘をわずらって死亡しました。
藤原四兄弟の死は長屋王の祟りだと噂されました。

御堂筋 マクラーレン 
③行基は長屋王の霊を弔うためにたくさんの寺を建てた?

行基が創建した金剛輪寺の創建年は737年または741年と伝わっていますが。737年は天然痘が流行って藤原四兄弟が死亡した年です。
やはり行基が創建した東光院の創建年は735年ですが、この年、、舎人親王と新田部親王が死亡しています。
735年は天然痘が流行った年であり、舎人親王と新田部親王は長田王の取り調べを行った人物です。
舎人親王と新田部親王の死も藤原四兄弟と同じく長屋王の怨霊のしわざであると考えられたのではないでしょうか。
岩船寺も行基が創建していますが、岩船寺の創建は長屋王が自殺した729年です。
行基は長屋王を弔うためにこれらの寺を創建したのではないでしょうか。

④三津寺は安積親王を弔うための寺が亡くなった年に創建された。

三津寺が創建された744年は聖武天皇の第二皇子・安積親王が亡くなった年です。17歳という若さでした。
死因は脚気だとされています。

聖武天皇と光明皇后の間には第一皇子の基皇子がありましたが、基皇子は生まれてまもなく亡くなりました。
そのため安積親王は皇太子の有力候補でしたが、母親が県犬養広刀自で、当時権力を握っていた藤原氏ではありませんでした。
そこで藤原仲麻呂によって安積親王は毒殺されたという説もあります。

安積親王が亡くなったあと、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が女性として初めての皇太子となっています。
藤原仲麻呂は光明皇后の甥で、光明皇后の信頼も得ていましたので、光明皇后の娘の阿倍内親王が皇太子となり、即位することは都合のいいことだと考えたのではないでしょうか。
しかし、のちに藤原仲麻呂と孝謙天皇(阿倍内親王)は仲たがいするようになり、仲麻呂は孝謙天皇の軍によって斬首されてしまうのですが。

三津寺は安積親王を弔うための寺であり。秘仏の十一面観音は安積親王のおもかげを映したものなのかもしれませんね。

あるいは安積親王が早世したのは長屋王の怨霊の仕業だと考えられ、行基は長屋王を弔うために三津寺を創建したのかも?

御堂筋イルミネーションを映す自動車 

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[2017/01/21 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

熊野若王子神社 雪 『熊野信仰とドクロ』 

 
京都市左京区 熊野若王子神社

熊野若王子神社 雪 
①上皇・法皇に信仰された熊野権現

熊野若王子神社は後白河法皇が永観堂の鎮守社として熊野権現を勧請して創建された神社です。

歴代の上皇・法皇たちは厚く熊野の神を信仰していました。
白河法皇は9回、鳥羽法皇は21回、後白河法皇は34回もの熊野行幸を行っています。

これほどまでに上皇、法皇たちが信仰した熊野の神とはどのような神なのでしょうか。

②熊野の神はドクロの神?

前回、お話した三十三間堂の伝説は次のようなものでした。

後白河法皇は観音様より次のような夢のお告げを受けました。
『あなたの前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶であった。
その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでおり、髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏にあたるので上皇の頭が痛むのだ』と。
早速川を調べさせたところ、髑髏が見つかりました。
上皇はその髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って、京へ運び、三十三間堂の梁としました。
そうしたところ、上皇の頭痛は平癒しました。


そして平安時代初期に成立した『日本霊異記』にはのような話があります。

称徳天皇の御代、紀伊国牟婁郡熊野村に永興禅師という人がいました。
一人の僧が禅師のところにやってきて、毎日法華経を説くようになりました。
1年後、僧は禅師のもとを出ていきました。
2年後、熊野村で法華経を読誦する人の声が聞こえるようになり、その声はやむことがありませんでした。
その話を聞いた禅師が熊野村に行ってみると、2年前に別れた僧の死体がありました。
3年を過ぎても法華経の声はやまず、禅師が再び熊野村を訪ねると僧の頭蓋骨の中の舌は腐っておらず、法華経を読誦していたのはこの髑髏であったことがわかりました。


ふたつの物語にはドクロが登場します。
熊野にはドクロに対する信仰があったのではないでしょうか。
熊野の神はドクロの神だといえるかもしれません。

熊野若王子神社 蛭子神 

熊野若王子神社 末社 蛭子社御神体

③大国主、木国から根の根の堅州国へ行く

記紀にこんな話が記されています。

大国主神の兄弟である八十神たちはみな因幡のヤガミヒメと結婚したいと思っていましたが、ヤガミヒメは八十神たちをことごとく振って大国主神と結婚するといいました。
八十神たちは嫉妬して、大国主神を殺す計画を立てました。
大国主神は八十神たちによって二度殺されましたがなんとか生き返りました。
大国主神の母親は、ここにいたらまた八十神たちにころされてしまうので、大国主神を木国のオオヤビコのもとへ行かせました。
こうして大国主神は木国のオオヤビコのもとへやってきましたが、八十神が追いかけて来て引き渡すように求めました。
オオヤビコは大国主神を木の股を潜り抜けさせて逃がし、スサノオのいる根の堅州国に向かわせました。
根の堅州国へ赴いた大国主神はスサノオから様々な試練を与えられましたが、すべてクリアし、スサノオの刀と弓、スセリヒメの琴を持ち、スサノオの娘・スセリヒメを背負ってもとの世界へ戻りました.。


ここに出てくる木国というのは紀の国、紀伊国のことです。
熊野は令制国の紀伊国牟婁郡にあたります。
つまり熊野とは木国で、ここが根の堅州国の入り口であるらしいのです。

④根の堅州国は黄泉の国?

古事記には、根の堅州国の入口は黄泉平坂(よもつひらさか)と同じだとする記述があり、根の堅州国と黄泉の国は同じものだと一般的には考えられています。
根の堅州国や黄泉の国とは死後の世界のことです。
熊野に髑髏にまつわる話が残されているのは、熊野が死後の世界である根の堅州国の入り口に位置すると考えられたためではないでしょうか。
根の堅州国に住んでいるスサノオとは死者の霊だと考えられます。

⑤根の堅州国へ行けばよきものを授かる?

大国主神は根の堅州国=黄泉の国へ行き、スサノオから刀と弓、スセリヒメの琴、スサノオの娘・スセリヒメを手に入れてもとの世界へ戻っています。

根の堅州国にいけばよきものを授かると考えられていたのかもしれません。

しかし、生きている人間には死後の国である根の堅州国へ行くことはできません。
そこで根の堅州国の入り口である熊野に行けば、の入り口にあたる熊野に行けば、スサノオまたは死者の霊から何か『よきもの』を授かることができると考えられ、

そのため上皇・法皇たちは度重なる熊野行幸をおこなったのではないでしょうか。

熊野若王子神社 狛犬 雪 



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[2017/01/20 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

金閣寺 銀閣寺 雪 『銀沙灘の謎』 


京都市北区 金閣寺
京都市左京区 銀閣寺


金閣寺 雪

①金閣寺


金閣寺は鎌倉時代に藤原公経(西園寺公経)が建立した西園寺および山荘・北山第を、室町幕府3代将軍足利義満が改築したものです。
残念ながら唱和25年に放火によって焼失しましたが、昭和30年に創建当時の姿に復元されました。

雪がつもると建物に貼られた金箔に雪がはえてとても美しいですね。
再建前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったそうです。

銀閣寺 雪 
②銀閣寺

銀閣寺は室町幕府8代将軍足利義政が金閣寺を模して造営したものです。
金閣寺には金箔が貼られていますが、銀閣寺には銀箔は貼られていなかったようです。
そのかわり壁には黒漆が塗られています。

金閣寺のようなあでやかさはありませんが、シックな印象で銀閣寺もすてきです。

③金閣寺は太陽、銀閣寺は月?


私は金閣寺は太陽、銀閣寺は月のイメージでつくられていると思います。
現代の日本人は太陽は赤、月は黄で描く人が多いですが、キトラ古墳壁画では太陽は金、月は銀で描かれています。
陰陽道では太陽の定位置は東、月の定位置は西とされており、キトラ古墳でも太陽は東、月は西に描かれています。
金閣寺は西、銀閣寺は東にあって、なぜか位置関係は逆になっていますが。



※東山慈照寺が銀閣寺

④向月台、銀沙灘は何を表しているの?


もういちど、銀閣寺の写真を見てください。
建物の向かって左にある盛砂は向月台と呼ばれています。
そして手前にあるストライプを施した盛砂は銀沙灘と呼ばれています。
この不思議な形をした盛砂は何を表しているのでしょうか?

日本庭園は石を日本列島や北斗七星など、何かの形になぞらえて並べることが多いです。

おふさ観音 北斗七星の形に並べた石 

上の写真は奈良のおふさ観音の亀の池ですが、石を北斗七星の形に並べてありますね。

龍安寺 石庭 レイアウト 

龍安寺石庭はカシオペア座を左右逆転させた形になっています。



奈良・大乗院庭園の池は東北地方の形になっています。



銀閣寺の盛砂も何かを模したものなのではないでしょうか。

私は向月台は『月』を模したものだと思います。
すると、ストライプが印象的な銀沙灘は月虹なのではないでしょうか。

安永((1772年~1781年)に記された『都名所図会』に銀閣寺の絵が描かれています。
これを見ると向月台は現在のものより平べったく、銀沙灘のデザインも現在とはずいぶん違っています。
直線的な形ではありますが、月虹に見えなくもないと思うのですが~。

砂で造るものなので、見栄えや造りやすさを考慮してデザインが変わっていったのかも?


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