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東福寺 晩秋 『東福寺建立を発願して運命が急降下した男』 


東福寺 通天橋 紅葉 

京都府東山区 東福寺
撮影 2016年12月中旬 1枚目のみ2009年11月中旬


※上の写真は2009年に臥雲橋から通天橋を撮影したものですが、現在は11月12日~30日の間、臥雲橋での撮影は禁止になっているそうです。

東福寺 通天橋  
数日前に東福寺を訪れると、すっかり落葉していました。
7年の間に木もずいぶん枝を伸ばした感じですね。

●東福寺

東福寺は1236年に九条道家が発願して創建された大寺院です。1255年に完成しました。
東福寺という寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取ったとされます。

道家は仲恭天皇や四条天皇の摂政として政治の実権を握っていた人物です。
また三男の頼経が鎌倉幕府の征夷大将軍となると道家は関白になっています。

東福寺 東司 
東司(トイレ)

東福寺 東司 内部 
東司内部

東福寺 東司の図  
こんな風に並んで用を足していたそうです。(説明板より)

●東福寺建立発願後、運命が急降下した九条道家

しかしなぜか東福寺建立を発願してから、皮肉にも道家の運命は急降下していくのです。

1231年、後堀河天皇の第一皇子の秀仁(みつひと)親王が誕生しました。
母親は九条道家の娘の竴子(しゅんし)でした。
1232年、秀仁親王は2歳で即位して四条天皇となりました。
九条道家は天皇の外祖父として政治の実権を握りました。

1236年、九条道家は東福寺建立を発願しました。

1241年、道家は孫娘(長男・教実の娘)の彦子を四条天皇(道家の外孫)に入内させました。
ところが1242年、四条天皇は12歳で崩御してしまいました。
そして後嵯峨天皇が即位しました。

後嵯峨天皇と道家には血のつながりがありません。
道家に変わって後嵯峨天皇と関係の深い公経と土御門定通(天皇の大叔父)が政治の実権を握るようになります。

その後、道家は勝手に関東申次の職についたり、幕府に対して干渉をするようになります。

東福寺 経堂 
経堂

1246年、道家の三男で将軍となっていた頼経が将軍職を廃されてしまいます。
また名越光時が前将軍藤原頼経と共謀して新執権北条時頼を廃しようとしていたことが発覚し
道家はこれに連座していたのではないかと疑われました。
さらに後鳥羽天皇の皇子・雅成親王を皇位につけようとしていたのではないかとも疑われます。
その結果、道家は関東申次の職を罷免されてしまいました。

4代将軍藤原頼経は藤原親能の娘・大宮殿との間に頼嗣をもうけており、頼経が将軍職を廃されたのちこの頼嗣が5代将軍となっていました。
しかし1251年にはこの頼嗣と足利氏による幕府転覆計画が発覚し、それに道家が関係しているという疑いがかかります。
頼嗣は14歳で将軍職を解任され京へ追放されました。
道家は翌年病死しました。(60歳)
頼嗣失脚の報を聞いてそのまま卒倒して死去したとか、幕府によって暗殺されたとする説もあります。

道家の死後の1255年、東福寺は完成しました。
翌1256年、頼経(39歳)と頼嗣(18歳)は相次いで死亡しました。

東福寺 霊源院 
霊源院

九条家3代が短期間で死亡するというのはなんだか暗殺のニオイがしますね。

●道家・頼経・頼嗣の面影を重ねた3体の仏像?

東福寺は1319年、1334年、1336年の火災によって多くの堂塔を消失しましたが、1346年、前関白一条経道により堂塔が再建されました。
仏殿には高さ15mの釈迦仏像、左右には7.5mの観音菩薩・弥勒菩薩が安置されました。
人々はこの釈迦如来像に、九条道家・頼経・頼嗣の面影を重ねたのではないでしょうか。
この巨大な釈迦如来像は明治期の火災で焼失し、現在はその手だけが残されているそうです。

東福寺 紅葉 舞妓さん   

少しだけ紅葉が残っていました。

※弓を背負う人は堺祭の時代行列に参加されていた方、舞妓さんは祇園白河の撮影会に登場された方です。(合成)




毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/12/22 00:34] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)