奈良県斑鳩町 法隆寺
法隆寺西院伽藍 ●
上宮王家断絶601年、聖徳太子は斑鳩宮を建て、その宮の近くに法隆寺を創建したと伝えられています。
622年に聖徳太子が死亡したのち、蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の実権を握るようになります。
643年、蘇我入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連、大伴長徳らに命じて聖徳太子の長子・斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させました。
山背大兄王は一族と家臣をひきつれて生駒山に逃亡します。
山背大兄王の寵臣・三輪文屋君は、『東国に逃れて再起を期し、入鹿を討ちましょう。』と進言しました。
しかし、山背大兄王は次のように発言して斑鳩寺に戻り、一族もろとも首をくくって自害したのです。
『兵を起こせば入鹿に勝てるだろう。しかし、私ひとりのために多くの百姓を犠牲にしたくはない。私の命など入鹿にくれてやろう。』
こうして上宮王家は断絶しました。
●法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』梅原猛さんは聖徳太子は怨霊で、法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』ではないか、と説かれました。
なぜ聖徳太子が怨霊になったのかというと、彼の子孫が断絶したためだというのです。
●聖徳太子は祀るべき子孫が断絶して怨霊になった?井沢元彦さんは次のような内容のことをおっしゃっていました。
先祖の霊は子孫が祀るべきとされているのに聖徳太子の子孫は断絶してしまい祀る人がいなくなってしまった。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと。
『聖徳太子は怨霊になった』と書きましたが、もちろん本当に聖徳太子が怨霊になったというわけではありません。
昔の人々が『聖徳太子は怨霊になった』と考えたということです。
●閂がかけられた法隆寺中門上の写真は法隆寺の中門と五重塔です。
法隆寺の中門は、中央に柱があるという珍しい造りになっています。
(一般的な門は中央に柱があるという造りにはなっていません。)
梅原さんは『門に棒を建てると閂になる』として聖徳太子の怨霊が外に出ないようにする呪術的な装置ではないかと説かれました。
夢殿●
フランケンシュタインのようだった救世観音法隆寺の・殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿のとびらは長年鍵がかけられたままの状態になっていました。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉されました。
夢殿の中にはフランケンシュタインのように包帯状の布でぐるぐる巻きにされた仏像が安置されていました。
『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音です。
救世観音の光背は頭に直接釘で打ち付けられていました。
光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は珍しいのです。
これについても梅原氏は怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれました。
法隆寺金堂の四天王像も光背が頭に直接釘でとりつけられています。
●法隆寺七不思議法隆寺には七つの不思議があるとされ「法隆寺七不思議」といわれています。
①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。 ●雀は蘇我馬子をあらわしている?⑥に『雀が糞をしない』とありますが、雀といえば蘇我入鹿の祖父の蘇我馬子を思い出します。
敏達天皇の殯宮で馬子が長い刀を帯びて誄言を奉っていたところ、物部守屋が 『大きな矢で射られた雀のようだ』と嘲り笑ったという話があるのです。
馬子は小柄だったのかもしれませんね。
『雀』とは蘇我氏一族の霊を象徴するものであると考えられたのではないでしょうか。
すると、『雀が糞をしない』というのは、雀は蘇我氏一族の霊で、聖徳太子およびその一族に対して負い目があるため糞をしない、という意味なのかも?
塔百景35毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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