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南禅寺山門 天授庵 紅葉 『石川五右衛門は南禅寺山門の屋上から何を見下ろしていたのか?』 



京都市左京区 南禅寺
2916年11月下旬 撮影


gooの「話題のトピックス」に「浅田真央に苦情」というのがありました。
「えっ」と思って読んでみたら、「浅田真央に苦情」じゃなくて「浅田真央のインタビューを放送したテレビ局に苦情が入った」ということでした。
gooさん、正しい日本語を使ってくださいよー。
「浅田真央に苦情」だと真央ちゃんに苦情が殺到してるみたいじゃない?

南禅寺山門 紅葉 
南禅寺山門


●南禅寺山門の場

「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」

歌舞伎『楼門五三桐』「南禅寺山門の場」で有名な南禅寺の山門です。
この門の屋上で大盗賊・石川尾衛門がキセルをふかし、冒頭のセリフを言うんですね。「南禅寺山門の場」、見たことないんですが~。

春の桜景色の南禅寺の写真のほうがよかったですね~。
南禅寺の桜の写真はあまりいいのがないのですいませんーーー。

えっと、「南禅寺山門の場」の続きです。

南禅寺の屋上にいる石川五右衛門のもとに鷹が手紙をくわえてやってきます。
手紙の送り主はかれたのは明国の宋蘇卿でした。
手紙を読んだ石川五右衛門は、自分が宋蘇卿の子であること、
また養父・武智光秀の仇・真柴久吉が実父の仇でもあることを知ります。
そこへ巡礼姿に変装した久吉が現れ、五右衛門の句「石川や 浜の真砂は尽きるとも世に盗人の 種は尽きまじ」を読み上げます。
五右衛門が手裏剣を討つと、久吉が柄杓で手裏剣を受け止めにらみあうという筋なのだそうです。

南禅寺 紅葉

●石川五右衛門は実在していた。


「南禅寺山門の場」の主人公・石川五右衛門は日本の戦国時代に実在した大泥棒です。

宋蘇卿は宋 素卿、真柴久吉は羽柴(豊臣)秀吉、武智光秀は明智光秀をモデルとしているとされます。
ですが、石川五右衛門は宋蘇卿の子ではないですし、明智光秀の養子でもありません。
豊臣秀吉が石川五右衛門の親の仇というのも事実ではありません。
これらは、あくまでも、「南禅寺山門の場」における創作です。

現実の石川五右衛門は1594年に豊臣秀吉に捕えられて三条河原で処刑されています。
そういうわけで、「南禅寺山門の場」では石川五右衛門と真柴久吉(秀吉をモデルとする)が対立するという設定になっているのでしょう。

石川五右衛門が釜茹でにされたというのは、 ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンやペドロ・モレホンも書き残しています。
その中で石川五右衛門はIxicava goyemonと記されているそうです。

南禅寺 紅葉2 
●石川五右衛門の時代、南禅寺山門はなかった。


さて、この、「南禅寺山門の場」について、よく言われることがあります。

石川五右衛門が釜茹でにされて亡くなったのは1594年。
一方、南禅寺山門が建てられたのは1628年なので、南禅寺山門の屋上で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」等と言えるはずがないというのですね。

それでは石川五右衛門はなぜ南禅寺で「絶景かな、絶景かな」と言ったという物語が作られたのでしょうか。

●石川五右衛門は山門の屋上から天授庵の幽斎の墓を見下ろしていた?

南禅寺山門の横(南)に天授庵という塔頭があります。



天授庵は1292年に亡くなった南禅寺開山・無関普の塔所として虎堰師錬が1339年に創建しました。
その後荒廃していたのを、1602年に武将の細川幽斎が再興しました。

幽斎というのは雅号(文人・画家・書家などが本名以外につける風雅な名のこと。)です。
彼は武将でありましたが、歌人としてもすぐれた才能を持っていたとされます。

古今和歌集の奥義を、師から弟子に伝えた古今伝授というものがありますが、幽斎はこの古今伝授を二条流歌道伝承者・三条西実枝から受けています。

1600年の田辺城の戦いで、幽斎は田辺城に籠城しましたが、後陽成天皇は古今伝授が途絶えてしまうことを惜しんで勅使をおくり、幽斎を救い出したことは有名な話ですね。

南禅寺 天授庵 紅葉2 
天授庵

幽斎の本名は細川藤孝といいます。
そして、石川五右衛門の父親はこの細川藤孝に謀殺されたという話があります。
これが真実なのか伝説なのかよくわかりませんが。

それによれば石川五右衛門は丹後国・伊久知城を本拠とする石川氏で
石川氏は丹後の守護大名・一色氏の家老職を努めていました。
1582年、一色義定のころ、細川藤孝は豊臣秀吉の命を受けて石川左衛門慰秀門を謀殺し、伊久知城も落城。
このとき秀門の次男の五良右衛門が落ちのびた。これが石川五右衛門であるとする説があります。
そのため、石川五右衛門は豊臣秀吉を憎んでいたというのです。

この話が本当だとすると細川幽斎(藤孝)が石川五右衛門の父親の仇ということになります。

「南禅寺山門の場」で石川五右衛門はなぜ南禅寺山門の屋上に登っていたのでしょうか。

南禅寺山門の隣の天授庵には幽斎の墓があります。
五右衛門の幽霊は南禅寺山門の屋上から天授庵にある、父の仇・幽斎の墓を見下ろしているという設定なのではないでしょうか。

南禅寺 天授庵 紅葉 


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/12/06 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)