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旧大塚家住宅(浦安) 『漁業を捨てた町』 

 千葉県浦安市 旧大塚家住宅

①漁師が住んでいた家

旧大塚家住宅

前回、旧宇田川家住宅について書きましたが、そのすぐ近くに旧大塚家住宅があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB%E5%AE%9F_(%E6%B5%A6%E5%AE%89%E5%B8%82)#/media/File:100_views_edo_096.jpg
↑ リンク先は歌川広重の名所江戸百景「堀江ねこざね」です。

浦安という地名は明治22年に3つの村が合併してつけられたもので、江戸時代には当代島村・猫実(ねこざね)村・堀江村といっていました。
広重はこのうちの猫実村・堀江村を描いたのですね。
大塚家住宅は浦安市堀江にあり、かつての堀江村にあった民家だと考えられます。
広重の絵を見ると旧大塚家住宅のような茅葺屋根の民家がたくさん描かれています。

浦安 旧大塚家住宅-土間 
大塚家は農業と漁業を営んでいました。
屋根裏2階があって土間と玄関の天井から上に登れる構造になっているそうです。
洪水がおこると家財道具をそこに持ち込んだり、避難したりしていたのだとか。

浦安 旧大塚家住宅  
土間をあがったところには ↑ こんな人形が置かれていました。
お父さんは網をつくろっているのだと思います。
お嬢さんは海苔簾(のりす)を作っているのかな?

浦安 旧大塚家住宅-神棚と仏壇 

上が神棚、下が仏壇になっています。その大きさから、大塚家の人々が信仰心の厚い人々であったことがしのばれます。

浦安 旧大塚家住宅 トイレ

家の中にトイレがあるのは珍しいと説明を受けました。
そういえば、じいちゃんちのトイレは離れにあって、雨の日は傘をさしてトイレに行ったなあ~。

宇田川家住宅も大塚家住宅もお風呂が見当たらなかったですが、お風呂はどうしていたんでしょう?
銭湯があったのかな?

浦安 稲荷神社 大鯨の御社 

稲荷神社 大鯨の御社

②漁業を捨てた町

このあたりではかつて海苔の養殖、アサリや蛤の養殖、漁業が盛んに行われていました。
近隣の村との漁業権の争いがあったり、度重なる風水害があったりで大変だったようですが。
昭和30年に旧の堤防が完成したことで、風水害はようやく減少したとのことです。

また漁師たちはゴミ問題や海の汚染とも戦いました。
人糞で肥料を作る工場が計画されるということが2度にわたってあったそうですが、漁師たちは工場予定地を買い取ることで阻止しています。
 東京都がゴミを埋め立てて島を造ろうとしたこともありましたが、住民たちの反対運動によって実現しませんでした。

浦安 昭和39年ごろの境川の写真 
昭和39年ごろの境川。(説明板より)

昭和33年には製紙工場の排水が海の魚を死滅させるという事件がおきています。
製紙工場はいったんは工場排水を流さないと約束したにもかかわらず再び排水を流し始めたので、
怒った住民が工場に乱入し、機動隊員との乱闘に発展するという事件がおきています。
この年、環境保護法が成立した背景には、浦安の漁師たちの強い働きかけがあったといえるでしょう。

しかし海の汚染には勝てず、昭和48年、漁師たちは漁業権を全面放棄し、ディズニーランド誘致に合意しました。

大塚家住宅のほか、稲荷神社境内の大鯨の御社や、大海津見神(海の神)を祀る清滝神社が、かつて浦安が漁村だったことを物語っています。

浦安 清滝神社

清滝神社 ↑ ↓

浦安 清滝神社 

東京ディズニーランド 
東京ディズニーランド(夕焼け空と海は合成です・・・汗)


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[2016/12/20 01:20] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

旧宇田川家住宅  『昔の人の知恵にびっくり!』 

千葉県浦安市 旧宇田川家住宅

宇田川家住宅 外観

大正時代にタイムスリップ!
宇田川商店さん(こんな屋号だったかどうかわかりませんが~)に行って着物の反物を見せてもらいましょう~♪

宇田川商店さんは明治2年に建てられた立派な建物で、表が店舗、裏が住宅になっています。

宇田川家住宅 店舗

お店に入るとすぐに2階から店主が出てこられましたよ。
どうして2階にいた店主は客が来たのがわかったんでしょうか?

宇田川家住宅 のぞき穴2 

「あれっ? 大将、天井に穴あいてますよ!」

「ばれちゃいましたか~。あれ覗き穴なんですよ~。」

宇田川家住宅 のぞき穴

「2階はこんな感じになってるんですよ。この錘をどけると床に穴があいてて店の様子を見る事ができるんですよ~。」

「なるほど~!」

宇田川家住宅 階段 踊り場 
 

階段を下りて1階へ行きますと、壁に小さな窓のようなものがついています。

宇田川家住宅 雨戸 

「大将、この小さな窓はなんですか?」

「ここに手をいれて、雨戸を押し出すんですよ~」

「なるほど~!これは雨戸を出しやすいですね!」

宇田川家住宅 屏風 

「うちは呉服の他、米も商っているんですよ。あれは足踏み脱穀機です。大正元年に発明されたものです。」

宇田川家住宅 足踏み式 脱穀機 

「自転車のスポークにあたったもみが飛び散るのを見て発明されたそうです。
踏み板を足で踏んで上下に動かすと、ドラムが回ります。
そこへ稲束を乗せて手で押さえると、やまがたの針金にひっかかってもみが落ちるというわけです。」

「なるほど~!昔の人の素晴らしい知恵ですね!」

※安井金毘羅宮の櫛祭に登場された方、東山花灯路で舞を披露された舞妓さんを合成しました。




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[2016/12/19 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

鵜原理想郷 (明神岬) 大杉神社 海岸 波 『エビスは鯨の神様だった?』 

千葉県勝浦市 鵜原理想郷 (明神岬)

鵜原理想郷付近 海岸 
①鵜原理想郷

美しいリアス式海岸が続く明神岬。
大正時代、ここを別荘地とする計画がもちあがったことから鵜原理想郷と呼ばれているようです。
でも別荘らしきものは見当たらなかったので、計画は頓挫したんでしょうね。
目の前に広がるのは青い空と青い海、白い波しぶきばかりです。

鵜原理想郷 手弱女平 鐘つきベンチ 
美しいお嬢さんたちは堺祭の時代行列に参加されていた方です。(合成)


②クジラの頭蓋骨を祀る大杉神社

海岸の高台に大杉神社がありました。
神社といっても、とても小さな祠があるだけです。
扉には閂がかかっていて、参拝する人がおのおの閂を抜いて扉を開き、参拝するというシステムになっていました。

祠の中には安政時代(1854年~1860年)のものと伝わるクジラの頭蓋骨がお祭りされていました。
これが御神体なのでしょう。
海上安全・大漁祈願・水難除けに霊験あらたかと信仰されているそうです。

鵜原理想郷 大杉神社 

③天富命は水死体の神だった?

勝浦(千葉) 夕景など 『天富命は土左衛門だった?』 
↑ こちらの記事で、天富命についてお話ししました。

天富命は神武天皇に仕えていた神で、阿波を開拓し、その後黒潮にのって安房にやってきてこの地を開拓をしたと伝わります。

上記の記事はいろんな神様の名前がうじゃうじゃ出てきて、なじみのない方はややこしく感じられたのではないかと反省しております。(すいません~)

すごく簡単にかいつまんでいうと、天富命の「富」は次のように変化し、天富命は水死体の神ではないかと考えたわけです。

富=十三=とさ=土左(土左衛門)

※大阪に十三「じゅうそう」という地名があり、青森県には十三港「とさみなと」がありました。

土左衛門とは水死体のことです。

 鵜原理想郷 波

④蛭子神は水死体の神だった?

私は天富命とは水死体の神だと考えていますが、他にも水死体の神と考えられる神がいます。エビスです。

エビスはイザナギ・イザナミの長子として生まれたのですが、は身体障害児で3歳になっても歩けなかったため
イザナギ・イザナミはエビスを葦船に乗せて流してしまいました。

エビスは竜宮にたどりつき、海神に育てられたというのですが、海の中にあるという竜宮とは死の国のことでしょうね。
エビスは海で死んで水死体になったということでしょう。

エビスが水死体の神であることは、水死体のことを「エビス」という地方があることからも裏付けられます。

鵜原理想郷 波2


⑤天富命はエビスだった?

天富命が土左衛門(水死体)の神であるとすれば、同様に水死体の神であるエビスと同一神または習合されているのではないでしょうか。

⑥クジラはエビスまたは天富命がよみがえったもの?

④で水死体のことを「エビス」という地域があるといいましたが、
クジラのことを「エビス」という地域もあります。

クジラは海で死んだかわいそうなエビスの霊が蘇ったものに違いない。
古の人々はそんなふうに考えたのではないでしょうか。

そして⑤で述べたように、天富命は水死体の神であり、エビスと同一神または習合されていると考えられるので
クジラは天富命が蘇った姿でもあると考えられたのではないかと思います。

浦安 稲荷神社 大鯨の御社 

↑ こちらは千葉県浦安市稲荷神社に祀られている大鯨の御社です。
クジラは安房の国を作った天富命の化身として、広く信仰されているようです。

 


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[2016/12/18 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝浦(千葉) 夕景など 『天富命は土左衛門だった?』 


千葉県勝浦市
2016年11月中旬 撮影


 
勝浦(千葉) 港

①3か所にある勝浦という地名

千葉県に勝浦という地名がありますが、和歌山県には那智勝浦という地名があります。
四国の徳島県にも勝浦という地名があります。
しかも、徳島県の旧名は阿波、千葉県は安房で漢字は違いますが発音はどちらも「あわ」で同じです。

②阿波も安房も天富命が開拓した


それもそのはず、伝説によれば神武天皇に仕えていた天富命が阿波を開拓し、その後黒潮にのって安房にやってきて開拓をしたというのです。

遠見岬神社 

天富命を祀る遠見岬神社

③安房勝浦と那智勝浦にも関係があった?

今回の旅では訪問しなかったのですが、安房勝浦の熊野貴船神社には「昔、阿波の人が安房に来て農業を伝え、紀伊の人が漁業を伝えた」と伝わっているようです。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/origin.htm

紀伊というのは和歌山県ですから、和歌山県の那智勝浦も安房や阿波の勝浦と関係がありそうに思えます。

勝浦(千葉) 松の家  

④天富命とはトミヒコのことでは?

天富命とはトミヒコのことではないかと思ったりします。
トミヒコとはナガスネヒコのことです。

⑤ナガスネヒコは神武天皇のライバルだった。

ナガスネヒコは初代神武天皇が東征してやってくる前から畿内に住んでいたとされる人物です。
神武天皇は日向から畿内の土地をわがものにしようとやってきました。
つまり神武天皇は侵略戦争をしかけたわけです。
なので当然、ナガスネヒコは国を守るために応戦しました。

ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神です。
このため、神武東征以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

ところがニギハヤヒは神武に服してしまい、自分を神として崇めているナガスネヒコを殺したと記紀は記しています。

ただし、記紀は天皇家の正当性を説くために記されたものだといえるので
天皇家にとって都合のいいように記されているはずです。
なので、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺したというのが事実を反映したものかどうかは疑問です。

しかし、天皇家の先祖が日向から東征して畿内にやってきたというのは事実だと思います。
もともと天皇家が畿内にいたのであれば、そのほうが天皇家にとっては畿内に住む人民を支配するのに都合がいいはずです。
それを、わざわざ日向からやってきたと書いているのは、それが事実を反映したものだからでしょう。

勝浦(千葉) 本行寺 
本行寺釈迦堂 このあたりは日蓮宗が多かったです。日蓮が安房の生まれだからでしょうね。

⑥アメノホアカリ=ニギハヤヒは天孫でニニギの兄

神武天皇はニニギの曾孫にあたります。
ニニギは天照大神の孫で、天照大神に命じられて葦原中国に天下ったとされます。
そしてニニギにはアメノホアカリという兄がいたとされます。

京都府宮津市の籠神社が伝えるところによると、籠神社の御祭神ヒコホアカリは別名をアメノホアカリ、ニギハヤヒともいうと伝えています。

これが事実とすれば、ニギハヤヒはニニギの兄ということになります。
また神武が東征する以前にあった物部王朝は、神武の曾祖父(ニニギ)の兄(アメノホアカリ)が建国した国ということになりますね。

 
覚翁寺。このお寺は浄土宗のお寺でした。

⑦ニギハヤヒとナガスネヒコは同一神?

ニギハヤヒ(アメノホアカリ)は神武天皇の曾祖父・ニニギの兄なので
神武が東征して機内入りしたときニギハヤヒが生きていたとすると、相当な長寿だったということになります。
仮にニギハヤヒが20歳のときに弟のニニギに子のホオリが生まれたとしましょう。
ホオリ20歳のときにウガヤフキアエズ(ニニギの孫)が生まれたとすれば、このときニギハヤヒは40歳。
ウガヤフキアエズが20歳のときに神武天皇(ニニギの曾孫)が生まれたとすれば、このときニギハヤヒは60歳です。
で、神武天皇がナガスネヒコを倒して橿原宮で即位したのは52歳なので、このときニギハヤヒは112歳ということになってしまいます。
現代においても112歳という長寿の人はほんのわずかしかいないので、これは不自然です。
このときニギハヤヒはすでに死んでいて、ナガスネヒコが物部王朝の王だったのではないかと思えます。
ニギハヤヒはナガスネヒコの祖霊なのではないでしょうか。

勝浦(千葉) 松の湯  

千葉県で一番古い銭湯だそうです。中もすごくレトロなのだとか。
ホテルのお風呂もよかったけど、松の湯にも行けばよかったなあ~。


⑧エビスとナガスネヒコ(トミヒコ)は同一神?

関西はえべっさん(エビス神)に対する信仰が厚い地域で、1月10日は十日戎といって多くの人が各地の恵比寿神社を参拝します。

エビスはイザナギ・イザナミの長子として生まれますが、3歳になっても立つことができない身体障害児だったので、葦船に乗せて海に流されたとされる神です。

エビスがイザナギ・イザナミの長子として生まれたという点に注意して下さい。
この神話は「長子はダメ」ということを言いたいがために、エビスを身体障害児として創作し、海に流されたという話を作り上げたのではないでしょうか。

神武の先祖のニニギはニギハヤヒ(アメノホアカリ)の弟でしたね。
それで兄のニギハヤヒ(アメノホアカリ)はダメで、弟のニニギは出来がいい、というために、のような話を創作したのではないかということです。

エビスとはニギハヤヒのイメージを重ねた神ではないかと思います。
そして⑦で述べたように、ニギハヤヒとナガスネヒコは同一神だとすると、エビスとナガスネヒコ(トミヒコ)は同一神ということになります。

勝浦 夕景

⑨エビスは水死体だった。


海に流されたエビスは海の中にある竜宮にたどりついたという伝承がありますが、竜宮とは死の国のことでしょう。
つまり、エビスは海に流されて死んだ水死体なわけです。

⑩土左衛門の語源はトミヒコだった?

水死体のことを土左衛門といいますね。

これは江戸時代の力士・成瀬川土佐衛門が色白で大変な肥満体で水死体を思わせる容姿だったかことに由来すると言われますが
これが正しいかどうかについてはわかっていません。

私は、水死体のことを土左衛門というのは、トミヒコからくるのではないかと考えています。

というのは大阪に十三(じゅうそう)という地名があって、その地名の由来には様々な説があるのですが
その中のひとつに「中津(十三の近くにある)の富島という地名からくる」という説があるのです。

またかつて青森県の十三湖にあった十三湊は十三と書いて「とさ」と読みます。

とみ→十三→十三(とさ)衛門→土左衛門 と転じたのではないでしょうか?

で、⑧で述べたように、トミヒコ(ナガスネヒコ)とエビスは同一神と考えられますし
⑨で述べたように水死体をエビスという地域があります。

トミヒコ=エビス
エビス=水死体
∴トミヒコ=水死体

となります。

⑪土左衛門の神

さらに、天富命=トミヒコとすれば、天富命は水死体ということになります。
勝浦の遠見岬神社ではこの天富命を祀っていますが、勝浦は海に面した漁村です。
海で命を落とす人々も大勢いたことでしょう。
土左衛門の神は漁村の神としてふさわしいように思えます。

ちょっとややこしいですね。すいません~。

重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 
輪島ふらっと訪夢 御陣乗太鼓 『男幽霊(土左衛門)は重蔵だった?』  

こちらは関連記事です。

 勝浦 夕景


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[2016/12/17 00:37] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

アンティークホテル ら・みらどーる 『市は付喪神を祓い浄める神事だった?』 


アンティークホテル 

千葉県鴨川市太見 「アンティークホテル ら・みらどーる」さん 
http://www.ptihotel.com/rooms.html

「アンティークホテル ら・みらどーる」さんに宿泊しました。
美しいアンティークの家具や雑貨がいっぱい!
あまりに素敵なので許可を得て写真を撮らせていただきました。
快くブログ掲載許可も下さり、本当にありがとうございました。

今日は素敵な「ら・みらどーる」さんのインテリアをご紹介しつつ、付喪神についてのお話しをしたいと思います。

アンティークホテル8 

●アンティークの定義


一般的に古いもののことをアンティークと言ったりしますが
厳密には製造後100年を経たもののことをアンティークと言うのですね。

アンティークホテル9  

これはストーブかな?

●付喪神と煤払い

古の日本では、100年を経た道具には精霊がつき、付喪神(九十九神/つくもがみ)になると考えられていました。
そこで付喪神に祟られないよう、古い道具は年末の煤払いで路地に捨てる習慣があったといいます。

もったいない~。
私なんかは新しいものは捨てたりすることもありますが、じいちゃん・ばあちゃんが使ってた道具なんか絶対捨てないです。
高価なものなどはありませんが、古い道具には現代の道具にはない暖かさがあります。

アンティークホテル7 

●終い弘法・終い天神


12月21日は京都・東寺の終い弘法、12月25日は北野天満宮の終い天神で、境内で骨董市が行われます。
もうずいぶん前に終い弘法に行ったことがありますが、ものすごい数の露店が駅から東寺までずらっと並んでいたのを思い出します。
「ら・みらどーる」さんに置かれているような西洋アンティークを売る露店もたくさんありました。

終い弘法や終い天神は、年末の煤払いで付喪神がついていそうな古い道具を人々が捨てていたのを、市を開いて売るようになったのが始まりであると聞いたことがあります。

アンティークホテル6 

●付喪神の憑いた道具はなぜ売れたのか?


人々が煤払いで古い道具を路地に捨てていたのは、その道具に憑いた付喪神に祟られないようにするためですよね。
それらを市で売ったということは、付喪神がついた道具を買う人がいたということ?
小道具を買う人は付喪神が恐ろしいとは思わなかったんでしょうか?

アンティークホテル4 

とても小さいけどオルガン?

●市は斎(いつき)だった?


平安時代だったか、虹はまがまがしいものとされていたそうで
虹がでると虹がでたところに市をたてるときいたことがあります。

市は斎(いつき)であると聞いた記憶もあります。斎とは潔斎して神につかえることを言います。

「市は斎」ではなく「一は斎」だったかもしれません。(記憶があいまいですいません~。)
ですが市と一は音が同じですし、日本ではどちらかというと漢字の意味よりも音を重視していたふしがあります。
たとえば、奈良東大寺に転害門がありますが、手貝門・手掻門・手蓋門などとも書 かれます。

なので、「市=一=斎」と考えてもいいのかなと。

アンティークホテル5  

●市は神事だった?

現代人は市とは単に物品を売買することだと考えていますが
古には市とは斎で、神事であったのではないでしょうか。

つまり市を開いて物品を交換したり金銭を支払うということは、道具に憑いた付喪神を祓い浄める効果があると信じられていたのではないかと思うわけです。

そう考えると、まがまがしいものだと考えられていた虹が出ると市を開いたということの意味や
煤払いで捨てたものを売買する市が開かれたことの意味がわかります。

アンティークホテル2 

だけど、もしも付喪神というものが本当にいるのなら、それはとても美しい精霊なのではないかなあ~。
そうでなきゃ、古い道具がこんなに美しいはずがありません。

アンティークホテル3 


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[2016/12/15 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

仁右衛門島 走る波 夕景 『仁右衛門島の頼朝・日蓮伝説の真相?』 


千葉県鴨川市 仁右衛門島
2016年11月13日 撮影


グランプリファイナルのネイサン・チェン、すごすぎ!
四回転ルッツ+トリプルトウループ、四回転フリップ、四回転トウループ+ダブルトウループ、四回転トウループ
と四回転ジャンプ4回入れた鬼構成で、ノーミス!
ジャンプだけでなく、表現力もあるし氷上のプリンシパルという感じ。しびれる~♡♡
https://www.youtube.com/watch?v=E7WYruLQXas


仁右衛門島  
●仁右衛門島に残る日蓮と源頼朝の伝説

千葉県鴨川市は房総半島の南東に位置し、海岸に立つと太平洋が広がっています。
その太平洋上に仁右衛門島があります。
といっても、海岸からの距離はせいぜい30メートルほどなんですが。
泳いで渡れそうですよ。泳げないけど。(なんじゃ、そりゃ)



時間がなかったので島には渡らなかったのですが
この島は個人所有で、平野仁右衛門家が一軒あるのみだそうです。
島主は代々平野仁右衛門を襲名しているそうで、現在の島主は推定38代目なのだとか。

仁右衛門島にはふたつの伝説があります。

①1180年に石橋山の戦いに敗れた源頼朝(生没年/1147-1199)は船で安房の仁右衛門島にやってきて、島主に助けられ平家から身を隠した。
②仁右衛門島東部の神楽石で日蓮(生没年/1222-1282)が朝日を拝んだ。

関西には平家や源義経の伝説は残されていても、源頼朝の伝説は聞いたことがありません。(私が聞いたことがないだけかもですが。)
なんだか、ワクワクしますね~。

鴨川 波


●平野家は江戸時代に和泉国からやってきた?

平野家は江戸時代に和泉国からこの地へ移転してきたとする記録が残されています。
ところが源頼朝や日蓮は江戸時代より前の鎌倉時代の人物です。

石橋島の戦いで敗れた源頼朝が船で安房に逃れてきたのは正史に記録がありますし、日蓮は安房の生まれです。
なので、源頼朝や日蓮がこの仁右衛門島にやってきた可能性はあります。
ですが、平野仁右衛門が源頼朝を助けたというのはちょっと信じられません。
記録のほうが間違っていて、平野家は鎌倉時代すでに仁右衛門島に住んでいたという可能性もなくはないんですが。

仁右衛門島2

●平野家は天台宗から日蓮宗に改宗した。

平野家はもともと天台宗であったのが、のちに日蓮宗に改宗したと言われています。

そして日蓮宗の開祖は日蓮で、1253年に清澄山(鴨川市)の旭森山頂に立日の出に向かって「何妙法蓮華経」と題目を唱えたといいます。

平野家は日蓮宗の熱心な信者だったのでしょう。
そこで清澄山の旭森山頂に立って日の出を拝んだという日蓮の話をベースに、舞台を仁右衛門島に置き換えて伝説が作られたのではないでしょうか。

平野家が自らそういう伝説を作ったのかもしれませんし、近所の人がそんな風に噂したのかもしれません。

鴨川 海岸 日没

●頼朝は法華経を厚く信仰していた?

次に頼朝の伝説について考えてみましょう~。

石橋山の戦いで敗れた頼朝は洞窟の中で法華経を唱えていた、そのため敵から逃れることができたと言われています。
(仁右衛門島には頼朝が隠れたという洞窟がありますが、法華経を唱えた洞窟が仁右衛門島なのかどうかはわかりません。)

日蓮宗では「南無妙法蓮華経」と唱えますね。
「南無」とはサンスクリット語の漢語訳で、「帰依します」という意味です。
そして「妙法蓮華経」は法華経のことです。
したがって「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依します。」という意味になります。

日蓮が生まれたのは源頼朝の死後20年ほどたってからなので、頼朝の時代に日蓮宗はありませんでした。(法華経への信仰はありました。)
しかし先ほどお話ししたように、日蓮宗は南無妙法蓮華経(法華経に帰依する)と唱える宗派なので
後の時代の日蓮宗を信仰する人は、洞窟の中で法華経を唱え続けた頼朝の話に感銘を受けたことでしょうね。
特に安房は日蓮が生まれた場所ですし、頼朝が船で安房に逃れてきた場所でもあるのでなおさらでしょう。

この頼朝が洞窟の中で法華経を唱え続けたという話をベースとし
熱心な日蓮宗の信者である平野家が所有する仁右衛門島を舞台に置き換えて
頼朝の伝説は創作されたのではないでしょうか?

 鴨川 海岸 夕景

●日蓮は源頼朝を信仰していたのでは?

日蓮が「南無妙法蓮華経」と唱えたのも、案外、源頼朝が洞窟で法華経を唱え続けたということにちなむものだったのかも。

なぜこう思うかというと、安房で生まれた日蓮は、かつてこの地に逃れてきた頼朝が洞窟の中で法華経を唱え続けたという話をよく知っていたはずだと思うからです。

また日蓮曼荼羅に八幡神と天照大神が描かれているそうなんですが、八幡神というのは源氏の氏神なんです。
そして神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内には白旗神社があるそうです。行ったことないんですがー。
白旗神社という社名は源氏が白旗を用いていたことに由来します。
そして白旗大明神は源頼朝の神号です。

日蓮は八幡神と、法華経を信仰していた源頼朝のイメージを重ねていたのではないか。
そのため八幡神が描かれた日蓮曼荼羅が作られたのではないか、と思ったりするわけです。

鴨川 海岸 夕景 



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[2016/12/14 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園 事始め 大福梅授与 『梅は年の変わり目を表す植物?』 



祇園 事始め 

●12月13日は正月準備を始める日


早いものでもう2016年も残りわずか。
12月13日は正月準備を始める「正月事始め」の日とされていますね。

みなさん、そろそろ大掃除は始めていますか?
私はまだぜんぜんやっておりません~。
いつも年内に大掃除が終わらないので、今年の大掃除はパスして来年になってからやろうかなんて考えてます。(汗)

●事始めの挨拶回り


この日、祇園では「事始め」の挨拶回りをする習慣があります。
舞妓さんや芸妓さんはお師匠さんに一足早く『おめでとうさんどす』と新年の挨拶し、お師匠さんは『おきばりやす』と言葉をかけて新しい扇を下さるのだそうです。 

●六波羅蜜寺の隠れ念仏始まる

六波羅蜜寺では隠れ念仏の行事が12月13日から大晦日まで行われます。
(六波羅蜜寺の隠れ念仏の見学はできますが、撮影禁止です。)

六波羅蜜寺 夕景

六波羅蜜寺 隠れ念仏は日没後に始まります。(時間はきちんと決まっていません。)

六波羅蜜寺は平将門を慰霊するための寺で、空也が刻んだと伝わる十一面観音は平将門の霊封じ込めの像ではないかと私は考えているのですが
(詳しくはこちらの記事をお読みください↓
六波羅蜜寺 追儺式 『六波羅蜜寺に表れた土蜘蛛の正体は平将門だった?』※書き直しました。 

平将門の霊に2週間も念仏をあげつづけて慰霊しなければ、正月が迎えられないということなんでしょうね。

隠れ念仏で十一面観音に献じられたお茶に梅干しと結び昆布を入れたものを新年に皇服茶として参拝者に授与されます。

六波羅蜜寺 皇服茶 

六波羅蜜寺 皇服茶

●北野天満宮の大福梅の授与も始まる

六波羅蜜寺だけでなく、京都では正月に大福茶(梅干しをいれたお茶。皇服茶とも。)を飲む習慣があり
北野天満宮でも12月13日より大福茶に用いる大福梅の授与が始まります。

北野天満宮 大福梅 

北野天満宮で求めた大福梅。

●お屠蘇は『蘇という鬼を屠る』という意味

北野天満宮では大福梅のほかにお屠蘇なども授与していました。
お屠蘇というのはみなさんご存知のように正月に飲むものですが、お屠蘇とは『蘇という鬼を屠る』という意味なのだそうです。

カープファンの友人がカープvsヤクルトの試合を見に行ったら
「飲め、飲め」といってヤクルトが配られていたと言っていました。

『飲む』という言葉には『水などの飲料を体内に摂取する』という意味のほか、『相手を圧倒する』という意味もあります。
カープファンの人たちがヤクルトを飲んで応援するのは、『ヤクルトを圧倒する』というおまじないなのでしょう。

そして『お屠蘇』の『蘇』は『鬼』だというのですが、東北は鬼が出入りする方角『鬼門』として忌まれてきました。
東北は干支では丑寅です。
干支で12か月をあらわすと、12月が丑、1月が寅なので、丑寅は1年の変わり目ということになります。
つまり、蘇=鬼=1年の移り変わりということで、お屠蘇を飲んで新年を迎えるというおまじないだと考えられると思います。

●梅は1年の変わり目を表している?


すると京都の人々が正月に大福茶(皇服茶)を飲むのも、お屠蘇を飲むのと同じく、新年を迎えるおまじないなのではないでしょうか?

http://www.hana300.com/ume000.html
↑ こちらのサイトに「1月1日と2月3日の 誕生花(梅)。」と書いてあります。

1月1日は元旦、2月3日は節分です。

江戸時代までの日本では旧暦と二十四節気のふたつの暦を用いていました。
二十四節気とは1太陽年を二十四等分したものです。
二十四節気では立春(2月4日ごろ)を新年としていました。
江戸時代までの日本には正月が2回あったわけですね。
節分はこの立春の前日のことで、二十四節気の大晦日ということになります。

そしておおざっぱにいって、旧暦は新暦の約1か月遅れなので
旧暦の1月1日は新暦換算すると2月ごろとなり、節分とだいたい同時期でした。

梅の花はだいたい2月ごろより咲き始めるので、1年の変わり目をあらわす植物だと考えられたのではないでしょうか。

●王福茶は怨霊を飲むおまじない?


また梅は北野天満宮の御祭神・菅原道真のシンボルでもあり、紋も星梅鉢門です。
道真を祀る天満宮には決まって梅が植えられていますね。

北野天満宮 梅2

北野天満宮 梅

道真は藤原時平の讒言で大宰府に左遷となった人で、死後怨霊になったと畏れられた人です。
怨霊は祀り上げると神になるという信仰があり、現在では菅原道真は学問の神として信仰されていますが、もともとは怨霊だったのです。

怨霊=鬼=丑寅=1年の変わり目
怨霊=菅原道真=梅

ということで、京都では梅干しをいれたお茶を飲んで、正月を迎えるのでは?

六波羅蜜寺のところでお話しした平将門は、東国に独立国をつくったため謀反人として殺された人物でやはり怨霊です。
 
祇園 事始め2 
 



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[2016/12/13 07:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 


龍田川 紅葉3 
龍田川


●現代語訳が難しい業平の龍田川の歌


ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

この歌は現代語訳が難しい歌です。
千早という花魁が龍田川という相撲取りを振った、という意味じゃありませんよ~(笑)
(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A9%E6%8C%AF%E3%82%8B

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞です。
「神代も聞かず」は「神代にも聞いたことがない」
「竜田川」は奈良県生駒郡斑鳩町竜田あたりを流れる川です。
「からくれなゐ」の「から」は「韓の国」や「唐土(もろこし)」を意味します。
当時、韓や唐土の物産は大変高価で価値があるものだったとされます。
今でいうシャネルとかエルメスみたいなブランド品だったということですね。
「くれなゐ」は「紅色」の意味です。
なので「からくれなゐ」は「韓や唐土から日本に持ち込まれたブランド品の衣の紅色」みたいな意味だと思います。

ここまではそんなに難しいところはありませんね。

龍田川 紅葉2

●「水くくる」に二つの解釈


問題は「水くくる」です。
もちろん、千早という花魁が入水したという意味ではありませんよ~。

この「水くくる」には2つの解釈があります。

①水を「括り染め」にした。
「括り染め」とは布にところどころ糸を巻き付けて括ったのち、染色するものです。
糸でくくった部分は染まらないので、それで模様をつくるわけです。

②水を潜った。川を埋め尽くすように散った紅葉の下を水が流れる。

現代語訳は
①の場合、「神代にも聞いたことがない。竜田川が韓や唐土の衣の鮮やかな紅のように水を括り染めにするとは。」
②の場合は「神代にも聞いたことがない。韓や唐土の衣の鮮やかな紅に染まった紅葉の下を竜田川の水が流れていくとは。」
となります。

●藤原高子が春宮の御息所と呼ばれていたときに詠んだ歌

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

古今和歌集はこの歌に次のような詞書をつけています。
二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる


この詞書はものすごく重要なことを書いてあると思います。
まるで業平の歌は謎々で、この詞書はその謎々をとくヒントのようです。

一語づつみていきましょう。

「二条の后」とは清和天皇に入内した藤原高子のことです。
「春宮」は「とうぐう」と読み、皇太子を意味します。
「みやす所」はもともとは天皇の休憩所という意味で、ここから天皇に侍る官女や、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す言葉となりました。

藤原高子は清和天皇に入内して女御の位となり、清和天皇にとの間に貞明親王(のちの陽成天皇)をもうけています。
この貞明親王が春宮(皇太子)となったので、高子は「春宮のみやす所」と呼ばれたのでしょう。

その藤原高子が在原業平を召したとき、業平は竜田川に紅葉が流れる屏風絵を見てこの歌を詠んだ、というのです。

龍田川 紅葉

●在原業平と藤原高子の駆け落ち

「伊勢物語 芥川」に、高子が清和天皇に入内する以前、業平と高子は駆け落ちをしたと記されています。
(現代語訳はこちらで読めますよ。→http://www.raku-kobun.com/ise6.html

駆け落ちの途中、雷が鳴りだしたので業平は高子を蔵の中にいれます。
ところが蔵には鬼がいて高子は鬼にくわれてしまったと記されていますね。

本当に高子が鬼にくわれてしまったのではなく、高子は兄・藤原基経に連れ戻されたのです。
こうして駆け落ちは失敗に終わりました。

このかつて駆け落ちをした二人が並んで屏風絵を見ているわけです。なんか意味深な感じがしますね。

●業平がその気もないのに高子のもとへ通っていた理由

どうも業平は高子を本気で愛していたので駆け落ちしたというわけではないようです。
というのは、古今和歌集詞書に次のような記述があるのです。

五条の后)の宮の西の対にすみける人に、本意)にはあらで物言ひわたりけるを、

「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になります。

業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのでしょうか?

百人一首かるた

これはうちにある古い百人一首かるた。私の年より古いです。
子供のころ、お正月によく百人一首かるたをしたり、坊主めくりをしたりして遊びました。


●陽成天皇の父親は在原業平だった?

業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説があります。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともあります。

業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのでは?
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずです。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高いです。

●在原業平の祖父は平城上皇だった。

在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王でした。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れてしまいました。(薬子の変)

●阿保親王、子供(行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許される。

このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となります。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないでしょうか。

●平城上皇の竜田川の歌

龍田川の紅葉について、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいます。

龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)
(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)

祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、偶然なのでしょうか。
そうではないと私は思います。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのだと思います。

平城上皇は竜田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないでしょうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思います。

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)

業平のこの歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと思います。

「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。

●陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?


皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となります。
そして高子の兄の藤原基経が摂政となりました。

ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたみたいですね。
私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからです。

基経は陽成天皇の叔父です。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すんじゃないでしょうか。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされます。

これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思えます。

そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはありませんでした。
業平の計画は失敗に終わったというわけです。
 
八坂神社 かるた始め 

八坂神社 かるた始め


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[2016/12/12 17:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

山の辺の道 紅葉 案山子 『案山子はイエス・キリストだった?』 

奈良県天理市 石上神宮 長岳寺
奈良県桜井市 大兵主神社


石上神社 紅葉 
石上神宮(2016年12月上旬 撮影)

●ひらがながなかった時代、案山子はどんな顔をしていたのかな?

雅な京都の紅葉は美しいけれど、山の辺の道の素朴な紅葉風景も京都とは違った魅力にあふれています。

案山子さんに会いました。
ちょっとヘタウマな感じの表情とか、この案山子さんはすごく可愛い。
作られた方はとてもセンスがいいと思います♡

山の辺の道 案山子

石上神社付近の案山子 (2016年12月上旬 撮影)

昔、案山子の顔は「へのへのもへじ」でした。
「へのへのもへじ」の案山子ができたのは平安時代にひらがなが作られて以降だと考えられます。

まだひらがながなかった奈良時代に編纂された古事記・日本書紀に案山子が登場します。
奈良時代の案山子の顔は「へのへのもへじ」ではなかったはずで、どんな顔をしていたのかな、と想像してみるとなんか楽しいです。
案外、この山の辺の道の案山子さんのような顔をしていたのかもしれません。

石上神社付近 紅葉  
石上神宮付近(2016年12月上旬撮影)

●案山子は「嗅がし」?


案山子の語源は「嗅がし」ではないかとする説があります。
かつて鳥獣よけになるとして、獣の肉を焼いたものを串刺しにして立てておくとことがあったそうで、そういうものも「カカシ」と呼ばれているそうです。

本当に焼いた獣の肉の匂いを、鳥獣は嫌って寄りつかないんでしょうか?
かえって猫とか熊とかが寄ってくるんじゃないかと思ったりもするんですが。
焼いた肉を食べるのは人間だけです。動物は焼いた肉を食べる習慣がないので、そういうものの匂いを嫌ったのでしょうか。
御存じの方、おられましたらぜひ教えてください!

長岳寺 紅葉

長岳寺 (2014年11月下旬撮影)

●広島・住吉神社の「焼嗅がし神事」

広島の住吉神社では節分の日に「焼嗅がし神事」を行っているそうです。

千匹の鰯を焼き、その匂いを大うちわであおぐそうです。
http://www.sumiyoshijinja.net/setsubun.html
オモシロそうですね!ぜひ一度行ってみたいです。

節分には玄関に柊鰯を飾る習慣がありますが、鬼は生臭いのが苦手で柊鰯は鬼を退散させる力があるなどと言われます。
鬼も田畑を荒らす鳥獣も同じようなものだということなのでしょう。

●案山子がイエス・キリストに見えちゃう~。


私は案山子を見てると十字架に磔になったイエス・キリストを思い出します。

File:Mantegna, Andrea - crucifixion - Louvre from Predella San Zeno Altarpiece Verona.jpg

磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年)
ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%A3%94%E5%88%91#/media/File:Mantegna,_Andrea_-_crucifixion_-_Louvre_from_Predella_San_Zeno_Altarpiece_Verona.jpg)よりお借りしました。

イメージはかなり違いますが、案山子もこんな風に十字架に磔になっているように見えませんか?

●天児人形

市比売神社 天児人形  

上の写真は京都・市比売神社に展示されていた天児(あまがつ)人形です。
平安時代に幼児の傍らにおいていた身代わり人形だそうです。

天児人形の着物を脱がせますと、下の写真のように十字架に似ているというか、十字架そのもののような形になっています。

市比売神社 天児人形2
 
●案山子は田の神

ユーモラスな顔をしていますが、案山子って田の神様なんですよね。
古事記や日本書紀には案山子は「久延毘古(クエビコ)」という名前で登場し「歩くことはできないが、天下のことはなんでも知っている」と記されています。

「クエビコ」という神名は「崩え彦」「体が崩れた男」という意味とされます。

クエヒコは十字架に磔にされて死んでしまい、体が腐って崩れてしまったイエス・キリストの姿だったりして?

鬼たちが焼いた鰯の匂いを嗅いで逃げていくのは、それがイエス・キリストの死体だから?

山の辺の道 紅葉  
長岳寺付近 紅葉 (2014年11月下旬撮影)

●キリスト教は5世紀の日本に伝わっていた?


キリスト教が日本に伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによってとされていますが
5世紀ごろ、秦氏によってネストリウス派キリスト教が伝えられていた、とする説があります。
秦氏の氏寺・広隆寺は太秦寺といいますが、中国ではネストリウス派キリスト教寺院のことを大秦寺といいました。
太秦寺と大秦寺は点があるかないかの違いしかありません。

日本神道は秦氏によって伝えられたキリスト教をベースに成立したものだったりして?

大兵主神社 紅葉 
大兵主神社(2014年11月下旬撮影)




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[2016/12/11 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議 雀が糞をしない』 

奈良県斑鳩町 法隆寺
 
法隆寺 西院伽藍 夕日

法隆寺西院伽藍 

上宮王家断絶

601年、聖徳太子は斑鳩宮を建て、その宮の近くに法隆寺を創建したと伝えられています。
622年に聖徳太子が死亡したのち、蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の実権を握るようになります。
643年、蘇我入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連、大伴長徳らに命じて聖徳太子の長子・斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させました。
山背大兄王は一族と家臣をひきつれて生駒山に逃亡します。
山背大兄王の寵臣・三輪文屋君は、『東国に逃れて再起を期し、入鹿を討ちましょう。』と進言しました。
しかし、山背大兄王は次のように発言して斑鳩寺に戻り、一族もろとも首をくくって自害したのです。
『兵を起こせば入鹿に勝てるだろう。しかし、私ひとりのために多くの百姓を犠牲にしたくはない。私の命など入鹿にくれてやろう。』
こうして上宮王家は断絶しました。

●法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』

梅原猛さんは聖徳太子は怨霊で、法隆寺は『聖徳太子の怨霊封じ込めの寺』ではないか、と説かれました。
なぜ聖徳太子が怨霊になったのかというと、彼の子孫が断絶したためだというのです。

●聖徳太子は祀るべき子孫が断絶して怨霊になった?

井沢元彦さんは次のような内容のことをおっしゃっていました。
先祖の霊は子孫が祀るべきとされているのに聖徳太子の子孫は断絶してしまい祀る人がいなくなってしまった。
それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと。

『聖徳太子は怨霊になった』と書きましたが、もちろん本当に聖徳太子が怨霊になったというわけではありません。
昔の人々が『聖徳太子は怨霊になった』と考えたということです。

法隆寺 中門と五重塔   
●閂がかけられた法隆寺中門

上の写真は法隆寺の中門と五重塔です。
法隆寺の中門は、中央に柱があるという珍しい造りになっています。
(一般的な門は中央に柱があるという造りにはなっていません。)

梅原さんは『門に棒を建てると閂になる』として聖徳太子の怨霊が外に出ないようにする呪術的な装置ではないかと説かれました。

 法隆寺 夢殿
夢殿

フランケンシュタインのようだった救世観音

法隆寺の・殿の扉をあけると大地震がおこると言い伝えられ、夢殿のとびらは長年鍵がかけられたままの状態になっていました。
明治時代、アメリカの東洋美術史家であるフェノロサによって夢殿は開扉されました。
夢殿の中にはフランケンシュタインのように包帯状の布でぐるぐる巻きにされた仏像が安置されていました。
『聖徳太子等身大の像』と伝わる救世観音です。
救世観音の光背は頭に直接釘で打ち付けられていました。

光背は仏の足元に棒を立ててその棒にとりつけるのが一般的で、救世観音のような様式は珍しいのです。
これについても梅原氏は怨霊封じ込めの呪術であろう、と説かれました。
法隆寺金堂の四天王像も光背が頭に直接釘でとりつけられています。

●法隆寺七不思議

法隆寺には七つの不思議があるとされ「法隆寺七不思議」といわれています。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。


●雀は蘇我馬子をあらわしている?

⑥に『雀が糞をしない』とありますが、雀といえば蘇我入鹿の祖父の蘇我馬子を思い出します。

敏達天皇の殯宮で馬子が長い刀を帯びて誄言を奉っていたところ、物部守屋が 『大きな矢で射られた雀のようだ』と嘲り笑ったという話があるのです。
馬子は小柄だったのかもしれませんね。

『雀』とは蘇我氏一族の霊を象徴するものであると考えられたのではないでしょうか。
すると、『雀が糞をしない』というのは、雀は蘇我氏一族の霊で、聖徳太子およびその一族に対して負い目があるため糞をしない、という意味なのかも?

  法隆寺 夕景 

塔百景35



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[2016/12/10 01:51] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)