京都市上京区 北野天満宮
2016年11月中旬 撮影
御土居より北野天満宮を望む●ヨーロッパの城郭都市ヨーロッパの城の中には城だけでなく町を囲むように城壁をもうけたものがあるそうですね。

上の写真はスペイン・アビラの町です。
ウィキペディアよりお借りしました。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Murallas_de_%C3%81vila.jpg?uselang=jaありがとうございます。
町が城壁に囲まれているのがよくわかる、とてもいい写真ですね。
このように城壁に囲まれた都市を城郭都市といいます。
●日本では戦争に負けても人民は奴隷にされなかった。だから町を囲む城壁は作られなかった?ときどきこういうことをおっしゃる方がおられます。
「ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷にされた。だから町を囲む城壁が作られた。
日本では戦争に負けても人民が奴隷にされることはなかった。だから日本には奴隷はいなかったし、町を囲む城壁は作られなかった。」
うう~ん、申し訳ないですが、これは間違いだと思います。
日本にも奴隷はいました。
しかしこれについてはまた改めてお話しすることにします。
「ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった」という点についても疑問があります。
こういうことを話す場合には実例を提示するべきだと思います。
でも実例を提示されておられないのです。
ヨーロッパ史を勉強しないとなんともいえないんですが
戦争に勝って、領土を増やしたとして、その土地の人民を奴隷にしてしまったら税収が見込めなくなりますよね?
民族大移動などの場合にはもともとそこに住んでいた住人を殺したり、奴隷にするということはありえるでしょうが。
まあ、これについてももう少しヨーロッパ史を勉強してからということにしたいと思います。
●日本にも城郭都市はあった。確かに、日本には町全体を囲む城壁はないかもしれません。
ですが、土塁や堀で囲まれた環濠集落や城郭都市は存在していました。
(城壁で囲まれた都市だけでなく、土塁や堀で囲まれた都市も城郭都市といいます。)
御土居の外を流れる紙屋川 (堀のかわり)●御土居たとえば、天下人となった豊臣秀吉は京都の町を囲む土塁を作りました。
御土居と呼ばれています。
また土塁の外側には堀があったそうで御土居堀とも呼ばれます。
このお土居の多くの部分は現存していませんが、加茂川中学校敷地・御土居史跡公園・蘆山寺などに一部残っています。
北野天満宮の境内にも残されており、紅葉の名所となっています。
北野天満宮 御土居
●環濠城塞都市・今井町
↑ 奈良県橿原市の今井町です。
1570年から1580年にかけての石山合戦の際、環濠城塞都市として整備されました。
写真向かって左に写っているのは今西家住宅で、その手前にあるのが環濠です。
町の周囲に壁を設けるかわりに環濠をつくって町を防衛したわけです。
環濠の幅は三間(約5.45m)で、環濠を掘った際に出た土で土塁を作り、外部から見えないようにしていたようです。
現在の今井町に土塁は残っていなかったと思いますが、かつては土塁があったそうです。
●江戸城の堀

こちらは江戸城(現・皇居)の堀です。
下の図のように、かつてこのような堀が江戸の町に広くめぐらされていたのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_hori.pngよりお借りしました。
江戸中心部の堀、門等配置略図。著作権切れ(パブリックドメイン)の絵図の画像を
Safkanさんが加工されたものです。
このように日本にも城郭都市があったのです。
もしかしたら、防御能力は日本の土塁・堀よりもヨーロッパの城壁のほうが優れているかもしれませんが、
土塁や堀はヨーロッパの城壁と同じように日本の町を囲んでいたのです。
もちろん、それは町全体を敵から守るという目的で作られたものだと思います。
すると
「ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった。だから町を囲む城壁が作られた。
日本では戦争に負けても人民は奴隷にされなかった。だから町を囲む城壁は作られなかった。」
という理論は通らないように思えます。
上下とも北野天満宮 お土居の上毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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