嵐山渡月橋一帯
嵐山紅葉祭・・・11月第2日曜日
桂川に今様舟、平安管弦舟など様々な舟が桂川に浮かべられ、それぞれの舟上で催しが行われます。
平安管弦舟
嵯峨狂言・頼光と土蜘蛛
今様船桂川のほとりでは夕霧太夫のお練りが行われました。
今日はこの夕霧太夫についてお話ししたいと思います。

よくこんな高い下駄はいて歩けますね!
●夕霧大夫道中江戸の吉原遊郭では最高位の遊女のことを花魁といったそうですが、京や大阪では太夫といいました。
二人の少女の後ろを歩く女性が夕霧太夫、二人の少女は禿(かむろ)です。
禿とは遊郭に住んで太夫の身の回りの世話などをしていた遊女見習いの童女のことを言います。
役肌寒い季節なのに太夫さんは素足で、高さ20cmはありそうな三枚歯の高下駄をはき、八文字を踏みながらゆっくりと練り歩いていきました。
「八文字を踏む」というのがどんな歩き方かというのは、下の動画の0:18あたりからがわかりやすいです。
動画おかりしました。 動画主さん、ありがとうございます。
江戸時代、太夫は新造・禿を従えて引手茶屋まで客を迎えに行く習慣があり、道中と言いました。
この行事はこれを再現したものです。
●花街と夕霧大夫夕霧は京都島原にあった扇屋の太夫でした。
島原にはかつては置屋が約50軒、揚屋が約20軒あったそうですが、今は揚屋の『角屋』が一軒残っているだけだそうです。
『角屋』、見にいきたいと思いながらずるずるとそのままになっています。
近いうちに見に行こう。
置屋とは遊女を雇いいれる店のことで、遊女は置屋で生活しました。
揚屋とは客が遊女と遊ぶ場所のことです。
のちに扇屋が大阪の新町に移転したので、夕霧も新町の太夫になりました。
夕霧大夫はたいへんな美人で芸事にも秀でていましたが、20代でその短い生涯を終えました。
夕霧の墓は各地にありますが、渡月橋から歩いて15分ほどのところにある清凉寺にも墓があります。
●夕霧七年忌夕霧の死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎がたくさん作られました。
その中のひとつに夕霧七年忌(近松門左衛門)があります。
夕霧が亡くなってから七年目のこと。
藤屋伊左衛門は夕霧との間にできたおせきと言う娘を大坂・新町の廓に身売りさせました。
伊左衛門は夕霧に瓜二つの島原の難波太夫を身受けしたいと思っており、その揚げ代の残金15両を支払うためでした。
あるとき伊左衛門はおせきを尋ねて新町に行き、そこで偶然、難波太夫に出会いました。
難波は伊左衛門の揚げ代の残金を支払うために新町に住み替えていたのでした。
親切な親方の計らいで、伊左衛門はおせきと難波は廓から連れて帰ることができました。 遊女を身受けするために娘を遊郭に売るなんてなんちゅうひどい父親や!!
でも、この物語のテーマはそういうことではなく、別のところにあると私は考えています。
●真言立川流真言立川流という仏教の宗派がかつてありました。
江戸時代に邪教であるとして迫害され、消滅したとされていますが。
立川流では人間の髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作りました。
そしてその髑髏本尊を袋の中に入れて7年間抱いて寝ることで、
8年目に髑髏は命を持つようになると考えられていたようです。
●8は復活を意味する数字梅原猛さんは「
8は復活を意味する数字」だと言っておられます。
八角墳や八角堂は死者の復活を祈ってつくられたものではないかというのですね。
●計算があわない「七転び八起き」『七転び八起き』という言葉がありますが、七回転んだら起きるのも八回で計算があいません。
●七で転じて8で復活する?転ぶという言葉には「物事の成り行きが別の方向に向かう」という意味もあります。
『七転び八起き』とは「七で転じて、八で復活する」という意味ではないでしょうか。
『夕霧七年忌』の物語は、夕霧の死後7年目の話です。
現在では生まれたばかりの赤ん坊は0歳ですが、かつては1歳としていました。
これは生後1年目に突入したという意味で1歳としていたのだと思います。
同様に考えれば、七回忌は死後8年目に突入する日だと考えられます。
『夕霧七年忌』の物語のテーマは、『夕霧が死後8年目に難波太夫として復活した』ということなのではないでしょうか。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
いつも応援ありがとうございます♪
にほんブログ村
にほんブログ村