奈良県高市郡 壺阪寺
2009年11月10日 撮影今日から数日でかけます。
いただいたメールの返事は帰宅後必ずしますので、よろしくお願いします。
●壷阪寺は持統天皇を弔うための寺?
壺阪寺の創建は703年ですが、この前年、持統天皇が崩御されています。
なので壺阪寺は持統天皇を弔うための寺ではないかと私は考えています。
●持統天皇は数字の8にこだわりがあった?仁王門に立つと山の中腹に八角円堂が見えます。
そういえば、飛鳥にある天武・持統陵〈野口王墓〉も八角墳です。
どうやら持統天皇は数字の8にこだわりがあった人のようです。
↑ 天武・持統陵(野口王墓)少し崩れていますがなんとなく八角形なのがわかりますね。
●8は復活を意味する数字?梅原猛さんは数字の8は復活を意味する数字ではないかとおっしゃっています。
八角墳や八角円堂は死者の復活を祈って作られたものではないかというのですね。
確かにそう考えると辻褄のあう言葉がたくさんあります。
八咫鏡は天照大神を復活させた鏡。
八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多いです。
すなわち八咫烏とは復活した太陽神というわけです。
持統天皇は死後の復活を強く願った人だった人だったのかも。
●大津皇子の謀反は持統天皇の陰謀だった?鸕野讚良(うののさらら/のちの持統天皇)は天智天皇の皇女で、同母姉に大田皇女がいます。
鸕野讚良と大田皇女はともに叔父の天武天皇に嫁し、鸕野讚良は草壁皇子を、大田皇女は大津皇子をもうけました。
686年、大津皇子は謀反を企てたとして死を賜り、自害しました。
この事件は、草壁皇子を皇位につけるために持統天皇が仕組んだのではないか、という説が有力です。
●即位することなく、薨去した草壁皇子686年、天武天皇が崩御しましたが、草壁皇子がただちに即位することはありませんでした。
そして即位しないまま、689年に草壁皇子は薨去してしまったのです。
690年、鸕野讚良は草壁皇子の子の文武天皇を即位させるために、中継ぎの天皇としては自ら即位しました。(持統天皇)
そして697年に文武天皇に譲位しました。
「なにがなんでも自分の血をひく者に皇位を継承させるのだ!」という持統天皇の執念を感じます。
不老長寿とは、実は子孫繁栄のことなのだと聞いたことがあります。
子孫繁栄は自分自身の魂の復活であるともいえるのではないでしょうか。
それで持統天皇の墓は八角墳で、壺阪寺のお堂は八角形なのかも?
●火葬されたわが身を嘆く歌
持統天皇は皇族で初めて火葬された人物です。
春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)持統天皇が詠んだこの有名な歌は、持統天皇の霊が火葬されたわが身を嘆く歌だと思います。
なんでかって?
陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味、「夏」は「五行説の火」を表しているのだと思います。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことでしょう。
歌の意味はこういうことだと思います。↓
「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」
●持統天皇が詠むにふさわしい歌を持統天皇御作とした?もちろん、死んだ人が歌を詠むことはできません。
この歌は別の人が詠み、持統天皇が詠むにふさわしい歌ということで持統天皇御作とされているのでしょう。
昔は著作権という考え方はなかったので~。
天智天皇の「
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌も、万葉集にある詠み人知らずの歌
「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないのですが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。
●長くは続かなかった天皇の火葬持統天皇が火葬されたのち、文武、元明、元正と火葬が続きましたが、次代の聖武天皇以降土葬に戻っています。
持統・文武・元明・元正が火葬されたのは、彼らが仏教徒であり、釈迦が荼毘に付されたことをうけてのことでしょうが
聖武天皇は熱心な仏教徒であったにもかかわらず、土葬されています。
かつて即身仏になるべく入定した人が大勢いましたが、彼らの目的は56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるとき、その聖業に参加するためだったといわれます。
おそらく、人間が復活するためには魂の容れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。
それで聖武天皇は「朕は火葬は嫌じゃ―!」と言ったのかもしれません。
●途絶えてしまった天武系天皇の血筋ところが聖武天皇の皇子は夭逝してしまい、やむなく聖武天皇の皇女が譲位を受けて即位したのですが(孝謙天皇)
独身で即位した女性天皇の結婚は許されていなかったようで、孝謙天皇は生涯独身でした。
そのため跡継ぎができず、聖武天皇の血筋は絶えてしまいました。
これはすなわち、持統天皇の血筋が絶えたということですが
日本社会は男系の血筋を重んじるので、持統天皇の夫・天武天皇の血筋が絶えたといったほうがいいかもしれません。
●持統天皇を火葬にしたのは藤原氏の策略だった?持統・文武・元明・元正天皇らは火葬されたのは藤原氏の策略ではないか、と私は考えています。
藤原不比等は天智天皇の後胤であると記された文献が残されており、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたと思うんです。
それで、称徳天皇(孝謙天皇と同一人物。重祚して称徳天皇となりました。)が崩御して天武系天皇の血筋がたえてしまったあと、藤原百川・藤原永手らは天智天皇の孫にあたる光仁天皇をたてたのではないでしょうか。
平城京から平安京に遷都したのも、天武系天皇の都である平城京を捨てたかったのではないかと思います。
持統天皇が崩御されたころ、権力を持っていたのは、藤原氏の祖・藤原不比等です。
不比等は「お釈迦さまも火葬されたのですから、天皇も火葬にするべきですよ~」などと主張したのではないでしょうか。
でも不比等は復活するためには魂の容れ物である肉体が必要だと考えていたと思います。
つまり、不比等は天武系天皇の血筋を絶やすための呪術として、持統天皇を火葬させるように働きかけたのではないかと思うのです。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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