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護王神社 亥子祭 『天子さまは二人いた。』 

京都市上京区 護王神社
亥の子祭・・・11月1日


 
護王神社 亥子祭2

●亥子祭


平安時代、亥の日・亥の刻(10月の亥の日、午後10時ごろ)に亥子餅を食べると病気にならないという信仰があり、宮中において玄猪(げんちょ)の儀式が行われていました。
亥子祭はこの平安時代の宮中行事を再現したものです。
  
護王神社 亥子祭 
護王神社の舞殿に十二単姿の女房が四人、束帯姿の殿上男が四人登場し、聖上を取り囲むようにして席につきます。、
聖上が「神奈月時雨のあめのあしごとに我がおもふことかなへつくつく」と唱えながら小さな臼と柳の杵で餅をつきます。
殿上男たちは「いのちつくつかさ」女房たちは「いのちつくさいわい」 と唱えます。

護王神社 亥子祭 行列


護王神社 亥子祭 行列3 
その後、人々は餅を献上するため、行列をつくって御所へ向かいました。

●正史と喰い違いをみせる「護王神社絵巻」

護王神社の外壁には絵巻物風のパネルが沢山展示されていました。
タイトルは『護王神社絵巻』となっていて、769年の宇佐八幡宮神託事件について記されていました。
護王神社の御祭神は和気清麻呂と清麻呂の姉の広虫なのですが、彼らはこの宇佐八幡宮神託事件に大きく関わった人物なのです。

※ピンク色の文字は、護王神社絵巻に記された文章を転記したものです。

そのころ弓削道鏡という僧侶がいて政治に口出しをして勝手なことをしていました。
役人たちは恐れてご機嫌を取るだけでした。

ある時、宇佐八幡宮のお告げとして「道鏡を天子さまにするように」と伝えた者がありました。
そこで天子さまは清麻呂公をお呼びになって
「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」
と言いつけられました。 

護王神社絵巻 
絵巻向かって左にはピンク色の僧衣を着た人物が描かれています。これが道鏡でしょう。。
道鏡の後ろには御簾があって、その中から女物の着物の裾が見えています。
これが天子さま、称徳天皇だと思われます。
天子さまは女性だったのです。

道鏡は清麻呂に『わしの望みがかなったなら、おまえを重い役にしてやるからよろしく頼む。』と言いました。

ウィキペディアの説明は正史の記録をもとに記述したものだと思いますが、このような記述はありません。

宇佐に着いた清麻呂公は八幡宮に一心にお祈りしました。
すると
「我が国は神代から君と家来の区別がはっきりと決まっている。
どんなことがあっても家来を天子さまにすることはできない。道にそむく者は早く追払ってしまえ。」
という神様のお告げがありました。
清麻呂公は都に帰り、神様のお告げを天子さまにお答えしました。


道鏡は怒って清麻呂公を大隈国へ、広虫姫を備後国へ流しました。

※ウィキペディアの説明では、清麻呂の奏上に怒って流罪としたのは道鏡ではなく、称徳天皇となっています。

道鏡は清麻呂公を途中で殺そうと思い、家来に追いかけさせました。
その時、急に大嵐になったのでみんな逃げてしまいました。


※このような記述もウィキペディアにはありません。

清麻呂公は大隈国で少しの間も天子さまのことを忘れません。
藤原百川はお米を送って慰めました。
広虫姫が備後国で暮らしていた時、都から干し柿が届きました。
姫が育てた子供たちが送ってくれたのでした。


※藤原百川がお米を送ったというのは、『百川伝』にも記されているので史実とみていいと思います。

1年あまりたちました。
天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻されることになりました。

護王神社絵巻2 
頭を下げているのが和気清麻呂でしょう。 
その前に座っているのは天子さまの使者でしょうか?

護王神社絵巻が正史の記述と違うからといって、護王神社絵巻の内容が嘘だとはいえません。
ですが、正史と内容が違うということはきちんと認識しておいたほうがいいでしょう。

●護王神社絵巻に書いていないこと。

あることがらについて、故意に話さないということは、世の中で頻繁に行われます。
護王神社絵巻は単に護王神社に伝わる伝説をそのまま描いただけで、故意ではないと思いますが
ものすごく重要なことが抜けています。

天子さまからお使いがあって、清麻呂公と広虫姫は、都へ呼び戻されることになりました。
とありますね。
ここにある「天子さま」とは誰のことでしょうか?

「その宇佐八幡宮のお告げが本当かどうか正してまいれ。」
と和気清麻呂にいいつけた天子さま、つまり称徳天皇のことだと思いませんか。

ところが称徳天皇のことではないのです。


宇佐八幡宮信託事件があった翌年の770年、称徳天皇は急病を患って崩御されました。
看病のため称徳天皇に近づけたのは女官の吉備由利だけで、病回復のための祈祷も行われていません。
こうしたことから称徳天皇は暗殺されたのではないかとする説があります。
さらに称徳天皇の遺勅には「白壁王を天皇とすべし」と記されてありました。
この遺勅は藤原永手や藤原百川らがとりかえたものと考えられています。
その結果、藤原永手・藤原百川らが推挙した白壁王が即位して光仁天皇となり、道鏡は下野国へ流罪となり数年後に亡くなりました。
和気清麻呂の罪が許されたのは称徳天皇が崩御されたあとのことで、光仁天皇の意思によるものだったのです。

絵巻の文章は称徳天皇も光仁天皇もどちらも「天子さま」としており、称徳天皇が崩御されたことについては一言も触れられていません。
なので宇佐八幡宮神託事件についてご存じない方がこの『護王神社絵巻』をよむと、天子さまはひとりだと勘違いしかねないんじゃないかなあ~?

護王神社絵巻3

上の絵の女性は称徳天皇ではありえません。(このときすでに崩御されているので。)

●道鏡は皇族だった?

道鏡の父親は志貴皇子だとしている史料もあり、そうであれば道鏡は皇族であって正当な皇位継承権があったということになります。
とすれば称徳天皇が和気清麻呂の奏上にかんかんになって怒った理由もわかります。
詳しくはこちらの記事を参考にしてください。→奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

道鏡は平将門・足利尊氏らとともに日本三大悪人のひとりに数えられたりしますが、本当にそうなのでしょうか?
道鏡の地元・大阪府八尾市には「道鏡を知る会」があり、道鏡の名誉回復に努力されているそうです。

護王神社 亥子祭 行列2 


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/11/01 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)