金戒光明寺 光明寺 紅葉 『たくさんのお寺を創建した熊谷直実』 

京都市左京区 金戒光明寺
2016年11月中旬 撮影

京都府長岡京市 光明寺
2010年11月下旬 撮影

 
ジェイソン・ブラウン選手、NHK杯ではよい成績を残せませんでしたが、キス&クライでも終始ニッコニコ~。
たかがグランプリシリーズ、大事なのは全米選手権だと考えているのかな?
案外成績がふるわなかったことよりも、日本にこれたことが嬉しくてニコニコしていたのかなあ、と思ったりします。
ジェイソンは日本が大好きなのだそうです。
日本語もうまかったけど、「ジェイソン、あなたはお笑い芸人か?」と思っちゃった(笑)
http://www1.nhk.or.jp/figure/movies/index.html
(インタビューコーナー「明子の部屋」ネイサン・チェン ジェイソン・ブラウン/02:31くらいから)
私はそんなジェイソンが大好きです♡
180度以上開脚するバレエジャンプやスパイラル!美しい~!
https://www.youtube.com/watch?v=QuE3PvitiIU
四回転ジャンパーのネイサン・チェン、なんか顔が好きだなあ♡
と思ってたんですが、吉田秋生先生の漫画「夜叉」の静に似てない?

金戒光明寺 三重塔 紅葉

金戒光明寺

法然が草庵を結んだ場所

1175年、法然(1133年 - 1212年)は比叡山の黒谷をおり、岡崎の地に草庵を結びました。
これが金戒光明寺の初めとされます。

金戒光明寺 紅葉 
金戒光明寺

●浄土宗の教えは時代にマッチしていた?

法然は「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽浄土へ行けるとする浄土教の教えを説きました。
法然の教えはこの時代のニーズに大変マッチしたものであったのといえるのではないでしょうか。

1156年には保元の乱、1159年には平治の乱が起っています。
1167年には武士の平清盛が太政大臣となっています。
1180年には源頼朝が挙兵し源平合戦が始まります。
そして1185年、壇ノ浦の戦いで平家は敗れ、滅亡しています。

つまり、この時代は武士が世の中に台頭してきた時代だったといえると思うのですが
武士とは戦で人を殺すことを職業とする人々です。

仏教では殺生は慎むべきことであるとされており、武士たちは「自分たちは殺生を行っているので死後極楽浄土へ行けない」と考えたのだと思うのです。

法然はそうした武士の心を敏感にくみ取り、武士の心に寄り添った教えを説いた。
それが「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば、誰でも極楽浄土へ行ける」という浄土宗の教えだったということなのかな、と思います。

金戒光明寺 三重塔 紅葉2


●敦盛殺害を悔いた熊谷直実

金戒光明寺の塔頭に熊谷堂があります。
熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時(これとき)の六代の孫と称しており、熊谷直実はもともとは平家方の武士でした。
しかし後に源氏方の武士となり、平敦盛の首を討ちとります。
直実はこれをひどく悔い、出家して法然に弟子入りします。

直実の先祖・平貞盛は空也が愛していた鹿を殺したことを悔い、空也堂を建立しています。
平貞盛は藤原秀郷とともに平将門を討った人物であり、空也は平将門の怨霊鎮めを行った僧なので、平貞盛が殺した鹿とは平将門のことだと思います。

そしてその子孫である熊谷直実もまた平敦盛を殺したことをひどく悔いたのです。歴史は繰り返されるのか?

私は空也と平将門は同一人物であり、平野将門・平敦盛はともに実は皇統であったのではないか、と考えています。
詳しくはこちらの記事を参照ください。↓
光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』 水火天満宮 しだれ桜 『平敦盛は皇統だった?』 

そのため「神聖な天照大神の子孫である天皇の皇子を殺してしまった!死後私は極楽浄土へ行くことはできない!」と考えて絶望したのではないかと思います。

●熊谷直実、法然に弟子入りする。

「極楽浄土へ行くことはできない」と絶望した熊谷直実に法然はこう言いました。
「罪が軽いとか重いとかは関係ないよーん。誰でも念仏を唱えれば極楽浄土へ行けるんだよーん。」
「私のような罪人でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行けるんですか!」
と熊谷直実が言ったかどうかはわかりませんが、直実はこらえきれずに涙を流したそうです。
可哀想に、よほど罪の意識にさいなまれていたのでしょうね。
茶化して書いてしまいましたが、法然という人は人の心に寄り添うことができる、包容力のある人物だったのかもしれませんね。
直実は出家して法然に弟子入りしました。

金戒光明寺にある熊谷堂は出家した直実の草庵であったということです。

金戒光明寺 熊谷堂


熊谷堂


●熊谷直実、誕生寺を創建する。

法然が生まれた岡山県久米郡には誕生寺というお寺があります。
誕生寺は1193年の熊谷直実が法然が生まれた場所に創建したお寺だということです。

光明寺 紅葉3 
光明寺

●熊谷直実、光明寺(長岡京市)を創建する。

熊谷直実は法然が初めて念仏の教えを説いたとされる場所にもお寺を創建しています。
これが長岡京市の光明寺です。

そのほかにも熊谷直実は蓮生寺(静岡県藤枝市)・法然寺(京都市右京区)・熊谷寺(埼玉県熊谷市)などたくさんのお寺を創建しています。

こういうことはお金がないとできないことです。

光明寺 紅葉2 
光明寺

直実がこれらの寺を建てたのは、浄土宗の教えにすがろうとした直実の心のあらわれなのか?
それとも直実は金銭によって阿弥陀仏の御加護を得ようとしたのか?

法然は「誰でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行ける」と説きましたが
直実は「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでは不十分、阿弥陀様をお祀りするお堂を建てて阿弥陀様にひきたててもらおうと考えたんだったりして?

光明寺 紅葉 

光明寺



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[2016/11/30 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

大威徳寺 紅葉 『牛の盆』 

大阪府岸和田市 大威徳寺
2013年11月下旬撮影

 
大威徳寺 多宝塔 紅葉
塔百景34


●牛の神

牛滝の大威徳寺では牛に乗る姿の大威徳明王が祀られています。
そのため牛の神として信仰を集め、農耕に牛を用いていたころは3月25日・8月25日の祭日には農家は角巻・首たすき・ユタンなどで牛を着飾って大威徳寺にお参りしたそうです。

大威徳寺 牛のレリーフ 

牛の寺らしく、牛をモチーフにしたレリーフがありました。

●旧暦7月7日は牛の節句


大威徳寺は牛滝山山中にありますが、昔は牛滝山の二の滝付近に牛神の祭場もあったようです。

旧暦7月7日は牛の盆、牛の節句ともいわれ、牛神様を祀る習慣がありました。
泥や野菜で牛の人形をつくって祭場に飾り、川で牛を洗い浄めて祭場に連れていき、お参りをしたそうです。

旧安西家住宅 薬研と七夕馬

上の写真は千葉県木更津市の旧安西家住宅に置かれてあった七夕馬です。
大威徳寺の近所では泥や野菜で牛の人形を作ったということですが、このように馬の人形を作る地域もありました。
詳しくはこちらの記事を参照してください。→ 旧安西家住宅 『七夕馬と天然痘』 

●七夕はお盆の入りの行事だった。

現在ではお盆は8月15日を中心に行われていますが、旧暦のお盆は7月15日を中心とした行事でした。
7月7日は七夕ですが、旧暦では七夕はお盆の入りの行事だったのです。
これで『牛の盆』の『盆』の部分はわかりました。

大威徳寺 紅葉2 

●なぜ牛の人形を作ったり、牛を祭場につれていったのか?


七夕は牽牛と織姫が年に1度の逢瀬を楽しむ日とされていますね。
『牛の盆』の『牛』はこの牽牛からくるのではないでしょうか。

牽牛の「牽」は「牽く」と書いて「ひく」と読みます。
「引く」「曳く」などと同じ意味です。

つまり牽牛とは「牛を牽く」という意味で、牛を祭場へつれていくことは、まさしく「牽牛」なのですね。

大威徳寺 本堂 紅葉 

●御霊・荒魂
和魂

さきほど七夕はお盆の入りの行事であると書きましたが、お盆と逢瀬はどう関係があるのでしょうか。

前回も書いたのですが、神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)に分けられるといわれます。
そして男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
すると御霊とは男女双体となると思います。

御霊(神の本質)・・・・・・・・・男女双体
荒魂(神の荒々しい側面)・・・男神
和魂(神の和やかな側面)・・・女神


大威徳寺 錦秋の滝 紅葉 

錦秋の滝 (二の滝ではありません。すいません。)

●サルタヒコと
アメノウズメの物語

男女双体の神といえば道祖神があります。
道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体と神といわれています。
そのサルタヒコとアメノウズメには次のような物語があります。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国の日向の宮へと天下りました。
その後、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコを彼の故郷の伊勢へと送り届け、サルタヒコの名前を伝えて仕え祭れ』と命じました。
ここからアメノウズメは猿女君と呼ばれるようになりました。
のちに猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にました。(古事記)


●アメノウズメはセックスの女神だった。

ニニギはサルタヒコに道案内されて葦原中国へ天下ったのち、アメノウズメに『サルタヒコをもともと彼が住んでいた伊勢へと送り、彼の名前を伝えて仕え祭れ』と命じています。
『彼(サルタヒコ)の名前を伝えて』というのは、ニニギはアメノウズメに『サルタヒコと結婚せよ』と命じたということだと思います。
『(サルタヒコに)仕え祭れ』というのは『性的に奉仕せよ』ということでしょう。
アメノウズメは天照大神が天岩戸に隠れたときにはストリップをして神々を笑わせていますし、サルタヒコに出会ったときにも胸を開き、帯をずらして誘惑しています。
アメノウズメはセックスの女神なのです。

●貝は女陰の比喩?

サルタヒコは伊勢の阿邪訶(あざか。現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んでいますが、貝は女陰を比喩したものだと思われます。
つまり、サルタヒコはアメノウズメの女陰に手を挟まれて抜けなくなり、愛欲に溺れて死んだということでしょう。

道祖神はサルタヒコとアメノウズメが手を繋ぎ合った姿をしていますが、手を繋ぎあっているのではなく、アメノウズメによってサルタヒコの手がおさえつけられ、身動きできなくなった状態を表していたのですね。

●七夕は牽牛が死ぬ日

サルタヒコと牽牛、アメノウズメと織女は習合されているのかもしれません。

お盆には悪い霊も戻ってくると考えられ、そういった悪い霊が祟らないように女神と和合させる必要があると考えられたところから、お盆の入りの行事として七夕があるのだと思います。

そしてサルタヒコはアメノウズメと和合することによって死んでいます。
牽牛も織女と和合することによって死んだのでしょう。
七夕は牽牛が死ぬ日なのです。
それで7月7日は牛の盆とされているのではないでしょうか。

御霊(神の本質)・・・男女双体・・・道祖神
荒魂(神の荒々しい側面)・・・・男神・・・・サルタヒコ・・・・・牽牛
 和魂(神の和やかな側面)・・・女神・・・・アメノウズメ・・・織女

大威徳寺 多宝塔 紅葉2  


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[2016/11/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

真如堂 紅葉 『伊勢貞国に家督をつがせた阿弥陀如来』 

千葉県勝浦市覚翁寺
 京都市左京区 真如堂


覚翁寺
 
覚翁寺(千葉県勝浦市)

●浄土宗と真如堂とお十夜


先日、千葉県勝浦を旅したのですが勝浦に覚翁寺という浄土宗のお寺があり、「お十夜」と記された提灯が下げられていました。
「お十夜」とは阿弥陀様のお祭りだと、お寺の方に教えていただきました。

覚翁寺 2 
帰路は夜行バスで。
夜行バスはちょっと疲れるけど、早朝に京都につくのがいいんです。
そのまま家に戻らずに早朝の京都をぶらぶら。真如堂など紅葉がきれいでした。

真如堂 門 
真如堂 赤門


帰宅後「お十夜」について調べてみました。

『無量寿経』の巻下に 「この世で十日十夜の間善行を行うことは、仏の国で千年間善行をすることよりも尊い」と説かれているそうで、「お十夜」はそれを実践するものだということです。

真如堂 紅葉4

真如堂

室町時代の永享年間(1429年から1441年)に伊勢貞国が真如堂において初めて「お十夜」の法要を行ったそうです。
1495年に後土御門天皇が真如堂の僧と、浄土宗総本山・鎌倉光明寺の観誉祐崇上人を宮中に招いて引声念仏を行わせました。
その後、鎌倉光明寺は天皇より許しを得て「お十夜」の法要を行うようになったということです。

真如堂 紅葉3jpg

真如堂

真如堂は天台宗のお寺で御本尊は阿弥陀如来です。
そして浄土宗ではやはり阿弥陀如来を御本尊としています。
それで後帝天皇は真如堂と鎌倉光明寺より僧を招いて「お十夜」の法要を行ったのでしょう。

 真如堂 紅葉2

真如堂

●阿弥陀如来、貞国の出家を思いとどまらせる。


なぜ伊勢貞国は真如堂で初めてのお十夜の法要を行ったのでしょうか。

伊勢貞国は足利義教の執権職・伊勢守貞経の弟でした。
「伊瀬家の家督は兄がついだ。自分は次男なので家督をつげなかった。ああ~、なんという無常。もう出家してしまおう。」
貞国はそんな風に考えたかどうかわかりませんが、とにかく彼は出家を決意して真如堂に籠り、3日3晩念仏の行を行いました。
3日目の明け方、貞国の夢枕にお坊さまがあらわれ、「阿弥陀様を信じる気持ちがあれば出家するしないは関係ないよーん。」とお告げをされました。
それで貞国は出家するのをやめ、家に戻ったのですが
兄・貞経は上意に背いて謹慎処分とされ、吉野に向かわされることとなったのです。
吉野で謹慎処分というのは、吉野で出家するよう命じられたということかもしれません。
そして、貞経に代わって貞国が家督をつぐようにと命じられたのです。

貞国は「自分があのまま出家していたら家は断絶してしまうところだった。夢に現れたお坊さまは阿弥陀様の化身だったにちがいない。阿弥陀様が出家してはいけない、と教えてくれたのだ!」と考え
あと7日7夜、合計10日10夜の念仏を行ったということです。

真如堂 紅葉 
真如堂

●藤原詮子に皇太后の地位を授けた阿弥陀如来

以前の記事、真如堂 紫陽花 菩提樹  沙羅双樹 『詮子、遵子を呪う?』 で次のようなことを書きました。

①真如堂の阿弥陀如来は円仁が「特に女人を救済してください」というとうなずかれた。そのため「うなずきの阿弥陀」と呼ばれている。
②真如堂の阿弥陀如来はもともとは比叡山にあったが、藤原詮子(ふじわらせんし)の離宮に移された。
ここから真如堂は藤原詮子と関係の深い寺だと考えられる。
③藤原詮子は円融天皇の第一皇子・懐仁親王(のちの一条天皇)を生んだが、藤原頼忠の娘・遵子(じゅんし)が后となった。
④詮子は遵子の兄・藤原公任に「こちらの女御はいつ后になられるんですか」と皮肉を言われ、父親の藤原兼家とともに東三条邸にひきこもってしまった。
⑤しかし遵子は円融天皇の皇子を産まず、詮子が生んだ一条天皇が即位し、詮子は皇太后となった。
皇太后となった詮子は、遵子の兄・藤原公任に「姉君の素腹の后はどちらにおいでですか?」とやり返した。
⑥真如堂の阿弥陀如来は特に女人を救済するみほとけとされる。
詮子が皇太后となったのは阿弥陀如来の御加護を受けたためだと考えられたのではないか。
⑦あるお寺でこんなことを聞いたことがある。
「愛染明王の何も持っていない手には秘密の呪符を握らせた。そして、その呪符には『○○、死ね』などのように書いて呪詛した。」
昔の仏教は呪術的意味合いの濃いものであったのではないか。
⑧詮子は真如堂の「うなづきの阿弥陀」に「憎き遵子が円融天皇の皇子を産みませんように。私(詮子)が生んだ懐仁親王(のちの一条天皇)が即位しますように。私が皇太后になれますように」と祈願したのではないか。

案外、貞国も真如堂に籠って兄・貞経の失脚を祈願していたのかも?

真如堂 五重塔  

真如堂 三重塔


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[2016/11/28 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

北野天満宮 御土居 紅葉 『日本の城郭都市』 

京都市上京区 北野天満宮
2016年11月中旬 撮影
 
御土居より北野天満宮を望む  
御土居より北野天満宮を望む

●ヨーロッパの城郭都市

ヨーロッパの城の中には城だけでなく町を囲むように城壁をもうけたものがあるそうですね。



上の写真はスペイン・アビラの町です。

ウィキペディアよりお借りしました。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Murallas_de_%C3%81vila.jpg?uselang=ja
ありがとうございます。

町が城壁に囲まれているのがよくわかる、とてもいい写真ですね。

このように城壁に囲まれた都市を城郭都市といいます。

●日本では戦争に負けても人民は奴隷にされなかった。だから町を囲む城壁は作られなかった?


ときどきこういうことをおっしゃる方がおられます。

「ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷にされた。だから町を囲む城壁が作られた。
日本では戦争に負けても人民が奴隷にされることはなかった。だから日本には奴隷はいなかったし、町を囲む城壁は作られなかった。」

うう~ん、申し訳ないですが、これは間違いだと思います。

日本にも奴隷はいました。
しかしこれについてはまた改めてお話しすることにします。

「ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった」という点についても疑問があります。
こういうことを話す場合には実例を提示するべきだと思います。
でも実例を提示されておられないのです。

ヨーロッパ史を勉強しないとなんともいえないんですが
戦争に勝って、領土を増やしたとして、その土地の人民を奴隷にしてしまったら税収が見込めなくなりますよね?
民族大移動などの場合にはもともとそこに住んでいた住人を殺したり、奴隷にするということはありえるでしょうが。

まあ、これについてももう少しヨーロッパ史を勉強してからということにしたいと思います。

●日本にも城郭都市はあった。


確かに、日本には町全体を囲む城壁はないかもしれません。
ですが、土塁や堀で囲まれた環濠集落や城郭都市は存在していました。
(城壁で囲まれた都市だけでなく、土塁や堀で囲まれた都市も城郭都市といいます。)

北野天満宮 御土居 

御土居の外を流れる紙屋川 (堀のかわり)


●御土居

たとえば、天下人となった豊臣秀吉は京都の町を囲む土塁を作りました。
御土居と呼ばれています。
また土塁の外側には堀があったそうで御土居堀とも呼ばれます。

このお土居の多くの部分は現存していませんが、加茂川中学校敷地・御土居史跡公園・蘆山寺などに一部残っています。
北野天満宮の境内にも残されており、紅葉の名所となっています。

北野天満宮 御土居2


北野天満宮 御土居

●環濠城塞都市・今井町

今井町 今西家住宅と環濠  
 
↑ 奈良県橿原市の今井町です。
1570年から1580年にかけての石山合戦の際、環濠城塞都市として整備されました。
写真向かって左に写っているのは今西家住宅で、その手前にあるのが環濠です。
町の周囲に壁を設けるかわりに環濠をつくって町を防衛したわけです。

環濠の幅は三間(約5.45m)で、環濠を掘った際に出た土で土塁を作り、外部から見えないようにしていたようです。
現在の今井町に土塁は残っていなかったと思いますが、かつては土塁があったそうです。

●江戸城の堀

皇居 堀

こちらは江戸城(現・皇居)の堀です。
下の図のように、かつてこのような堀が江戸の町に広くめぐらされていたのです。

ファイル:Edo hori.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_hori.png
よりお借りしました。
江戸中心部の堀、門等配置略図。著作権切れ(パブリックドメイン)の絵図の画像をSafkanさんが加工されたものです。


このように日本にも城郭都市があったのです。
もしかしたら、防御能力は日本の土塁・堀よりもヨーロッパの城壁のほうが優れているかもしれませんが、
土塁や堀はヨーロッパの城壁と同じように日本の町を囲んでいたのです。
もちろん、それは町全体を敵から守るという目的で作られたものだと思います。

すると
「ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった。だから町を囲む城壁が作られた。
日本では戦争に負けても人民は奴隷にされなかった。だから町を囲む城壁は作られなかった。」
という理論は通らないように思えます。

北野天満宮 御土居3 
北野天満宮 御土居4

上下とも北野天満宮 お土居の上



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[2016/11/27 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

袋田の滝 紅葉 『一富士・二鷹・三茄子は鉱山の隠語?四扇・五煙草・六座頭は?』 

茨城県久慈郡大子(だいご)町 袋田の滝

袋田の滝

●金山の町、大子

袋田の滝は茨城県久慈郡大子(だいご)町袋田にあります。
今回は見学できなかったんですが、大子町には栃原金山などの金山もあります。
奈良時代、大子町で砂金が発見されました。
安土桃山時代から江戸時代にかけては常陸佐竹氏によって金山開発が行われた土地でした。
もしかして、この袋田の滝の近くでも砂金が見つかるかも?

袋田の滝3

●一富士・二鷹・三茄子は鉱山の隠語?

このブログで何度か書いたんですが、初夢で見ると縁起がいいとされる「一富士・二鷹・三茄子」の富士・鷹・茄子とは鉱山の隠語ではないかと私は考えています。

その理由を箇条書きにしてみます。

①栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
②鷹は鷹の爪ではないか。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
③富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。

よかったらこちらの記事も参照いただけると嬉しいです。↓
玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』 
普門寺 藤 躑躅 「藤と『ジャックと豆の木』」 


●「一富士・二鷹・三茄子」には続きがある。

「一富士・二鷹・三茄子」には続きがあるそうで、「四扇・五煙草・六座頭」とも「四そうろう・五せっちん」「四葬式、五雪隠」「四葬礼・五糞」「四葬式、五火事」と言ったりするそうです。

「四そうろう・五せっちん」「四葬式、五雪隠」「四葬礼・五糞」「四葬式、五火事」についてはこれからゆっくり考えることにして
今日は「四扇・五煙草・六座頭」の意味について考えてみたいと思います。

四扇・五煙草・六座頭も鉱山の隠語だった?

「四扇・五煙草・六座頭」も「一富士・二鷹・三茄子」と同様、鉱山に関する隠語だと私は考えています。
ひとつづつ説明していきますね。

●扇は露天掘跡?

生野銀山 露天掘跡

上の写真は兵庫県生野銀山の露天掘の跡 (慶寿ひ)です。
鉱物が地表近くにある場合、坑道を作らずに地表から地下をめがけて掘っていくこともあり、これを露天堀といいました。
露天掘の跡は様々な形があったのだろうと思いますが、生野銀山の露天堀跡は扇状になっています。。
http://www.chichibu.co.jp/~wado/iseki/kengaku2.htm
上記サイトの和銅採掘露天掘跡もやや縦長ですが扇の形に見えます。

●煙草は口にくわえた松明?

残念ながら、今探してみても見つからないんですが(ちゃんとメモっとかなきゃダメですね)
日本の鉱山で働く人々が口に松明をくわえている絵をネット上で見た記憶があるんです。
江戸時代か、それ以前の絵のように思えました。

口に松明をくわえているのは、作業に両手が使えるようにするたえではないでしょうか。
日の光が届かない坑道の中は真っ暗だったことでしょう。
松明は灯りなのか、それとも空気の存在を確認するためなのかもしれません。

●煙草を吸う鉱山の神・ティオ


そういえば、ボリビア・ポトシ鉱山の坑道にはティオという神様の像が祀られていて、煙草をお供えする習慣があるそうです。
なぜ煙草なのかというと、鉱山で働く人々は口に松明をくわえるので、それを煙草に見立てたのではないでしょうか。

ティオの写真はこちら→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA#/media/File:El_Tio_Potosi_Bolivia.jpg

●大子町にあるタバッコ峠

また大子町にはタバッコ峠という地名があり、空海が峠を超えるときに煙草を吸ったところからタバッコ峠となったという伝説が残されています。

煙草が日本に伝えられたのは1601年なので空海が煙草をたしなんだということはないでしょう。
太子町は古くから鉱山があったので、鉱夫たちが口にくわえた松明をタバコ(煙草)と呼び、そこからタバッコ峠となったのではないかと想像します。

●六座頭は暗闇で働く坑夫を意味する?

座頭とは江戸時代の盲人の階級のひとつです。
時代劇・座頭市の主人公・市も盲人でしたね。
で、今観光施設となっている坑道などでは照明がついていますが、昔の坑道には照明などなく真っ暗だったことでしょう。
そのため口に松明をくわえて作業したのではないかと想像するのですが
暗いと物がよく見えませんね。
そういうわけで座頭は坑夫のことなのかなあと思ったりします。

●盲目はたたらの職業病

またたたら場で働く人々は片目をつぶって火の温度を見るため、片目を失明することが多かったそうです。
それを座頭と言っているのかもしれませんね。

袋田の滝2

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[2016/11/26 00:00] 茨木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長瀞渓谷 紅葉 秩父神社 『秩父三社の配置はたたら星の形になっている?』 


埼玉県秩父市長瀞町 長瀞渓谷(ながとろけいこく)
2016年11月中旬 撮影


長瀞渓谷-紅葉 
●長瀞渓谷

荒川をずーーっと遡っていった所に長瀞渓谷(ながとろけいこく)があります。
長瀞渓谷は三波川変成帯(さんばがわへんせいたい)に属するとのことです。
 
長瀞渓谷-紅葉2

岩石は熱や圧力、また水や空気と化学反応を起こして変化することがあり、これを変成岩と言います。
そしてこの変成岩が帯状に存在する場所のことを変成帯と言うのだそうです。

三波川変成帯は低温高圧型の変成岩が分布しているのだとか。よくわかりませんが~。(汗)

長瀞渓谷 紅葉-SL

秩父鉄道ではSLも走っていましたよ。

●秩父神社


付近には秩父三社と呼ばれる宝登神社・秩父神社・三峯神社があります。
全部は行けなかったんですが、秩父神社はお参りしました。

秩父神社2 
秩父神社(女性は堺祭の行列に参加されていた方です。合成)


秩父神社 
社殿は徳川家康の命で作られたものだとか。
日光東照宮に雰囲気が似ていますね。関西にはない意匠です。

中世には「秩父大宮妙見宮」として厚い信仰を集めたそうです。

●妙見星神とたたらぼし


何の気なしに妙見神についてぐぐっていたところ、次のサイトに行きつきました。
http://www.raifuku.net/special/wolf/details/myoken1.htm

ここに妙見星神の図像が掲載されています。

妙見星神(妙見菩薩)は北極星を神格化した神様です。
人間の姿をしているのが妙見星神で北極星を表しているのでしょう。

その上に星が描かれていますね。

へたくそですが、妙見星神の上に描かれている星を描いてみました。↓

妙見星神の上部に描かれた星



江戸時代の人は星占いが大好きだったようで、二十八宿(天球における天の赤道を28に分割したもの)の本がたくさん書かれたそうです。

二十八宿
File:Twenty-eight mansions.jpg

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Twenty-eight_mansions.jpg?uselang=ja )よりお借りしました。

妙見星神の真上に描かれているのは北斗七星かな?

さらにその上に記されている三ツ星は婁(たたらほし/おひつじ座β星)?

たたらというのは古代の製鉄にもちいる鞴(ふいご)のことですが。

File:Japanischer Tatara-Ofen mit Flügelgebläse (18 Jahrhundert).jpg

ウィキペディア(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanischer_Tatara-Ofen_mit_Fl%C3%BCgelgebl%C3%A4se_(18_Jahrhundert).jpg?uselang=ja)よりお借りしました。

そういえば、この近所の黒谷で708年に和銅が産出され、元号も和銅と変え、和同開珎が作られています。

宝登神社・秩父神社・三峯神社を線でつなぐと扁平な三角形になるんですが、これがなんとなくたたらほしの形に似ています。

秩父三社


銅を精錬するためにも鞴は用いられました。
このあたりでは銅が産出されたので、秩父三社はたたらほしの形に配置されたのでしょうか?

そして秩父三社の一、秩父神社に妙見信仰があったのは、妙見星神の上にたららぼしが描かれるから?
妙見星神ってたたらと関係がある神様なんでしょうか?

長瀞渓谷 紅葉 

長瀞渓谷 紅葉 


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[2016/11/25 00:00] 埼玉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

浦安散歩 紅葉 『火山はなぜ女神に喩えられたのか?』 

2016年11月16日 撮影


千葉県浦安市といえばディズニーランドですが、ディズニーランド以外の浦安を知りたくて町を歩いてみました。

●浦安は漁師町だった。

浦安 稲荷神社 紅葉 
稲荷神社

稲荷神社には「大鯨の御社」ありました。

浦安 稲荷神社 大鯨の御社 

稲荷神社 大鯨の御社

昔、このあたりは漁師町で、東京湾にはときどき鯨が迷い込んできたそうです。

浦安魚市場 
浦安魚市場

旧大塚家住宅 
旧大塚家住宅

茅葺屋根の旧大塚家住宅は裕福な漁師さんの家だったそうです。

浦安 旧大塚家住宅 人形 
旧大塚家住宅内部

浦安 清滝神社 
清瀧神社


浦安 大蓮寺 紅葉 
大蓮寺

浦安 花蔵院 イチョウ 
花蔵院


浦安 豊受神社 
豊受神社

浦安 豊受神社 富士塚 
豊受神社 富士塚

●富士塚

豊受神社・清瀧神社・稲荷神社には富士塚がありました。
鳥居には「浅間神社」と書いてありますね。
浅間神社って関西ではあまり見かけません。

浦安には江戸川沿いに富士見という地名があります。




この日は残念ながら見えませんでしたが、天気がいい日にはこのあたりから富士山が見えるのでしょう。

浅間神社というのは富士山の神・浅間大神(コノハナノサクヤヒメ)を祀る神社なのです。

●浅間は火山を意味する言葉?

浅間神社って長野県の浅間山の神様を祀る神社なのかと思っていました。(汗~)

浅間山は火山で2015年にも噴火していますが、かつて富士山も活発に火山活動をしていたようで781年、800年~802年、864年、1707年に噴火したという記録が残されています。

アイヌ語で「アサマ」は「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味であり、富士山の神を浅間大神というのは富士山が火山であるからだとする説があります。

浅間山とはそのものずばり火山という意味だというわけですね。

●火の中で出産したコノハナサクヤヒメ

浅間大神とはコノハナサクヤヒメのことだとされていますが、これはなぜなのでしょうか?

コノハナサクヤヒメとはオオヤマツミの娘です。

天孫ニニギが高天原から葦原中国に天下った際、オオヤマツミは二人の娘・イワナガヒメとコノハナサクヤヒメをニニギの妻として差し出しました。

面食いだったニニギは美しい妹のコノハナサクヤヒメは妻として娶りましたが、姉のイワナガヒメはブサイクだとして送り返してしまいました。
オオヤマツミは大変残念がってこう言いました。
「天孫の世が繁栄するようにとの願いをこめてコノハナサクヤヒメを、天孫が長寿を得られるようにとイワナガヒメを差し出したのに!」
そういうわけで天皇の寿命は短くなってしまったそうです。

ニニギの妻となったコノハナノサクヤビメは一夜で身篭りました。
するとニニギは「本当にオレの子か?国津神の子なんじゃないか?」と疑いました。
コノハナサクヤヒメは、「天津神ニニギの本当の子なら何があっても無事に産まれてくるはずですわ!」といい
産屋に火を放ちました。
そして燃え盛る産屋の中でホデリ・ホスセリ・ホオリの三柱御子を産みました。


ちなみに、ホオリの孫が初代天皇の神武天皇です。

火山の噴火口は女神の女陰というわけで、火山である富士山の神はコノハナサクヤヒメとされたのではないでしょうか。


浦安より富士山を望む 
別の日に浦安から撮影した富士山です。


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[2016/11/24 10:32] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

朝護孫子寺 湯島聖堂 紅葉 『亀甲紋と虎』 

東京都文京区 湯島聖堂(2016年11月17日 撮影)
奈良県奈良県生駒郡平群町 朝護孫子寺 (2008年11月23日 撮影)

湯島聖堂 紅葉2 

湯島聖堂

東京の地下鉄ってとても親切ですね!
今回、地図も持たずに東京の町をウロウロしたんですが
地下鉄の職員さんに行き方を訪ねたら、タブレットで調べて最寄り駅を教えてくれるんです!
おかげで地図なしでも東京観光楽しめました♪ ありがとうございました~。

そうこうして神田明神を目指し、御茶ノ水で下車してとことこ歩いていたんですが
途中、とても紅葉の美しい所があったので寄ってみることに。湯島聖堂です。

湯島聖堂 紅葉 

湯島聖堂

●孔子廟

湯島聖堂は生類憐みの令を出したことで有名な江戸幕府5代将軍徳川綱吉が建てた孔子廟だそうです。
徳川綱吉さんは儒学などの学問が大変好きな将軍様であったのだとか。
孔子廟とは孔子を祀る霊廟のことで、日本では儒学の学校に孔子廟が作られることが多かったそうです。

湯島聖堂 大成殿 
湯島聖堂 大成殿

●亀甲紋と虎

美しい紅葉とともに私の目を釘つけにしたのが大成殿の扉の亀甲紋と屋根に置かれた虎の像です。

湯島聖堂 亀甲紋 

湯島聖堂 大成殿 屋根の虎 
●朝護孫子寺の毘沙門亀甲と張り子の虎

奈良の朝護孫子寺の紋は毘沙門亀甲といいます。↓

File:Bisyamonkikkou3.svg

毘沙門亀甲紋 

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bisyamonkikkou3.svg?uselang=ja よりお借りしました。
作者はLife of Rileyさんです。(ありがとうございます)

で、朝護孫子寺には大きな張り子の虎もあるんです。(写真がなくてすいません~)

朝護孫子寺 紅葉 
朝護孫子寺

亀甲紋と虎がある湯島聖堂は毘沙門天の信仰と何か関係があるのかも?

●ムカデは毘沙門天の使い

朝護孫子寺にはこんなものもあります。↓

朝護孫子寺 額

 朝護孫子寺 ムカデのレリーフ
 
ムカデが描かれた額とレリーフです。

朝護孫子寺になぜこんなのがあるのかというと、ムカデは毘沙門天の使いとされているのです。

毘沙門天はもともとはインドの神クベーラで、夜叉を使役して貴金属や宝石を採掘させる神でした。
クベーラは鉱山の神だといってもいいのではないでしょうか。

そして坑道のことを俗語でムカデ穴といいます。
ムカデが毘沙門天の使いだというのはこのためでしょう。

●三上山に残る俵藤太の百足退治伝説

ムカデといえば、琵琶湖のほとりにある三上山の、「俵藤太のムカデ退治伝説」を思い出します。 

俵藤太 ムカデ退治の図 
瀬田の唐橋の説明板より

俵藤太が三上山の大ムカデを退治したというのです。

俵藤太というのは、彼が龍神から米のつきない俵をもらったところからつけられた愛称で、本名は藤原秀郷といいます。
藤原秀郷とは平貞盛とともに平将門を討伐した人物です。
もしかして三上山の大ムカデとは平将門?

●平将門の乱

平将門は「新皇」と称し東国に独立国をつくった人物です。
しかし940年、朝廷が派遣した平貞盛・藤原秀郷らの軍と戦っている最中、流れ矢に当たって死亡しました。
将門の首は京へ持ち帰られ、鴨川のほとりで晒されました。
将門の首が晒された場所には小さな祠があり「神田明神 天慶年間 平将門ノ首ヲを晒シタ所也」と記したプレートがとりつけられています。

神田明神 

神田明神(京都市下京区)


その後、将門の首は空へ舞い上がり故郷へ向かって飛び去ったという伝説があります。
そして故郷へ戻った将門の首が墜ちたところが、将門の首塚だと言われています。

今回の旅で念願だった将門の首塚も参拝することができました。

将門の首塚 
将門の首塚(東京都千代田区)

小さな塚ですが、次から次へと参拝者が訪れては線香をあげ、熱心に拝んでおられました。
平将門は今も東京の人々からあつーく信仰されているのですね!

●湯島聖堂の東北に神田明神が!

湯島聖堂には亀甲紋と虎はありましたが、百足を刻んだものなどは見当たりませんでした。

そのかわりというべきか、湯島聖堂のすぐ近くに神田明神があります。



神田明神はオオナムチノミコト、スクナヒコナノミコト、そして平将門を祀る神社です。

神田明神 本殿

神田明神

平将門の体は鉄でできていたという伝説があります。
そういったところから将門は鉱山の神、ムカデの神としても信仰されたのかもしれません。

そして亀甲紋と虎のある湯島聖堂は、神田明神と関係が深いのかもしれないなあ、と思ったりしました。

湯島聖堂 入徳門 紅葉 
湯島聖堂 入徳門

※安井金毘羅宮の櫛祭に登場された着物姿の女性を写真に合成させていただきました。


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[2016/11/23 00:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

赤山禅院 増上寺 紅葉  『神田明神は鬼門封じ、増上寺は裏鬼門封じって本当?』 

京都市左京区 赤山禅院
滋賀県大津市 延暦寺
東京都港区 増上寺
東京都千代田区 神田明神


●延暦寺・赤山禅院は平安京の鬼門封じの寺


東北は鬼が出入りする方向(鬼門)であるとして古より忌まれてきました。



上は京都近辺の地図です。
比叡山延暦寺・赤山禅院は平安京(京都)の鬼門封じの寺と言われます。
平安京の大内裏は現在の京都御所よりも西の千本通り沿いにありました。
上の地図で千本通りは京都御所から2筋西の南北に伸びる通り(北野白梅町駅のある通り)のことです。
この位置から赤山禅院・比叡山を見ると、これらは確かに東北の方角にあるといってよさそうです。

赤山禅院 紅葉2 
赤山禅院

赤山禅院 紅葉 
赤山禅院

延暦寺 追儺式 

延暦寺 追儺式(12月31日)平安京の鬼門封じの寺の追儺式って感慨深い~。

●神田明神は江戸の鬼門封じで増上寺は江戸の裏鬼門封じ?

神田明神は江戸の鬼門封じ、増上寺は江戸の裏鬼門封じだと言われます。
裏鬼門とは南西のことで、裏鬼門も縁起の悪い方向だとされていたのです。

実際に神田明神と江戸城(皇居)の位置関係を見てみましょう。(江戸の中心は江戸城でしょう。)



江戸城は現在の皇居で、千代田区の文字のある緑色部分です。

次に江戸城と増上寺の位置関係を見てみます。




うーーん、江戸城から見て神田明神は鬼門の東北というよりは北北東、増上寺は裏鬼門の南西というよりは南南西ではないでしょうか?

多少のずれはあるんじゃないかって?

そうではありますが、神田明神も増上寺も江戸時代にわざわざ移転させてまでこの位置にしてるんですよ。
神田明神が鬼門封じ、増上寺が裏鬼門封じの寺ならもっときっちりと東北または南西に近い位置に移転させるのではないでしょうか?

神田明神 本殿 
神田明神 (人物は京都・安井金毘羅宮の櫛祭に登場された方々です。/合成)

増上寺と東京タワー 
増上寺と東京タワー

●江戸は北極星になぞらえた町


前回、私は江戸の町が「の」の字に作られたのは、江戸の町が北極星になぞらえた町だからではないかとお話ししました。

江戸の町が作られるまでは鳴門の渦潮が北極星になぞらえられていたと私は考えます。
なぜ鳴門の渦潮が北極星なのかというと、
愛媛県の西に日振島という島があって、その日振島がカシオペア座の形をしているんです。



図①
北斗七星 カシオペア座

カシオペア座のWは向かって左側のVが広いのに対し、日振島のWは向かって右側のVが広くなっていますね。
だけど上図のカシオペア座は地球上から空を見上げたときの形です。
星が天球に貼りついているものとして、天にいる神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は日振島と同じように向かって右側のVが広い形に見えるはずです。

図②



で、図③に示すように日振島がカシオペア座だとすると、鳴門の渦潮は北極星になぞらえるのにちょうどいいんじゃないかと思ったわけです。

全ての星は北極星を中心にして回ります。
それはまるで北極星に夜空を回転させるパワーがあるかのようで、鳴門の渦潮は北極星にぴったりじゃないかと。

鳴門の渦潮はほとんど右回りだそうです。(まれに左回りもあるそうです。)
夜空の星は北極星を中心にして左回りに回りますが、日振島はカシオペア座と左右が逆転しています。
日振島は図②で示したように、天球に貼りついたカシオペア座を天球の上から眺めた形になっています。
天球の上から天球にはりついた星を眺めるとすれば、夜空の回転方向も左回りではなく右回りに見えるはずです。

また古の日本は九州から関東あたりまでで、ちょうど鳴門の渦潮あたりが日本の中心になります。

図③
日振島・渦潮・将門関連史跡 

将門関連史跡のある東京を北斗七星、日振島をカシオペア座だとすると、北極星↔北斗七星間の距離がありすぎますね。
もしかしたら、琵琶湖が北斗七星になぞらえらえていたのかもしれません。
琵琶湖には三上山にすむムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があるのですが、
藤原秀郷は平貞盛とともに平将門の乱平定に派遣された人物です。
琵琶湖のほとりの三上山にすむムカデとは平将門のことなのかもしれません。

そして徳川家康および天海が江戸の町を「の」の字を描くような町にしたのは、日本に江戸という新たな北極星をつくり、江戸を中心として日本をまわそうという呪術であったと私は考えました。

●神田明神は北斗七星、増上寺はカシオペア座?

私は江戸は北極星になぞらえられたのではないかといいましたが、江戸の中心の江戸城が北極星なのかもしれません。
もう一度、図①をはっておきます。

図①
北斗七星 カシオペア座


江戸城を北極星として見たとき、神田明神は北斗七星、増上寺に見立てられるようにも思えます。

●将門は北斗七星の神だった

もちろん空は北極星を中心にして回っていますから、カシオペア座が上に来て北斗七星が下にくるということもあります。
ですが、神田明神のほうが北斗七星だと私は思います。
というのは、加門七海さんが将門関連史跡の鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社をつなぐと北斗七星の形になっていると指摘されていますし
将門の子孫を称する相馬家は家紋に『繋ぎ馬』を使用していました。↓

File:CrestOfSoumaClan.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CrestOfSoumaClan.jpg?uselang=ja より引用
作者/正親町三条さん (ありがとうございます)

私は繋ぎ馬の紋は北斗七星を表しているのではないかと思います。
馬の頭から首にかけては北斗七星の枡の部分、胴の部分は持手部分ではないでしょうか。

増上寺 紅葉 
東京タワーより増上寺を望む




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[2016/11/22 00:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

皇居(江戸城跡) 紅葉 『江戸は北極星になぞらえた町だった?』※追記あり 

東京都千代田区 皇居(江戸城跡)
撮影 2016年11月18日


あんまりいい写真ではなく本来ならばボツにするところなんですが
江戸について書きたい記事があったのでご勘弁ください~。(大汗)
 
皇居 正門石橋

皇居 正門石橋


●「の」の字を描く江戸の町

現在の皇居は徳川家が居城としていた江戸城跡にあります。

1600年、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、1603年には江戸城に江戸幕府を開きました。

平城京や平安京は碁盤の目のように南北の大路と東西の大路が交差する条坊制の都市でした。
大宰府や多賀城も条坊制で作られています。

しかし家康は江戸を条坊制にはしませんでした。
江戸城を中心に「の」の字を描くように堀を作ったのです。

家康には天台僧の南光坊天海というブレーンがいました。
この天海が家康に江戸の町づくりについてあれこれ助言をしたと言われています。

ファイル:Edo hori.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_hori.png
よりお借りしました。
江戸中心部の堀、門等配置略図。著作権切れ(パブリックドメイン)の絵図の画像をSafkanさんが加工されたものです。

●「の」の字はうず巻きで日本の中心をあらわす?

家康や天海はなぜ条坊制で町づくりを行わず、「の」の字を描く町にしたのでしょうか。

結論から先に申し上げると
それは江戸を新たな日本の中心にするためだったのではないかと私は考えています。
つまり「の」の字は渦巻きを表しており、江戸の渦巻きを中心にして日本が回るという呪術的仕掛けなのではないかと思うのです。

詳しく説明しますね。

皇居2 
●日振島はカシオペア座に喩えられていた?

京都の鞍馬寺境内に由岐神社があります。
由岐神社はもともとは宮中にあったのですが、天慶3年9月9日(940年10月12日)に鞍馬へ遷宮されました。
10月22日に行われている鞍馬の火祭は、由岐神社が遷宮される際の行列を再現したものだと言われています。

鞍馬の火祭が江戸とどう関係あるのかって?
まあまあ、もう少し話を聞いてください。

このころ、東国では平将門の乱が、南海では藤原純友の乱がおこり、朝廷は乱の平定に頭を悩ませていました。
朝廷は平貞盛・藤原秀郷らを東国へ派遣します。
平将門は彼らと戦っている最中、流れ矢に当たって死亡しました。
こうして平将門の乱は平定されました。
天慶3年2月14日〈940年3月25日)のことでした。

その後、7か月ほどたった天慶3年9月9日(940年10月12日)に由岐神社が鞍馬に遷宮されたわけですが
このとき、まだ藤原純友の乱は平定されていませんでした。
そこで由岐明神が鞍馬へ遷宮されたのは、藤原純友の乱平定を祈願するためではないかと私は考えました。
そして鞍馬の火祭は藤原純友の霊が海賊たちによって鞍馬に運ばれている様子を表しているのではないか、と思ったのです。
藤原純友は海賊の首領だったのです。

鞍馬の火祭

向かって右の男性が腕につけているのが船頭篭手


鞍馬の火祭では氏子さんは腕に船頭篭手(せんどうごて)をつけていますが、鞍馬は山中なのに船頭って違和感があります。
氏子さんのいでたちは藤原純友率いる海賊のいでたちではないかと私は考えました。

で、鞍馬の火祭ではチョッペンといって、二人の青年があおむけになって脚をV字に開脚するという儀式があります。
二人でV字開脚するので、Wの形に見えますね。



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

藤原純友が本拠地としていた日振島はこんな ↓ 形をしています。



チョッペンは日振島を表していると思うのですが、どうでしょう?

そして日振島はカシオペア座にも似ています。

図①
カシオペア座

カシオペア座のWは向かって左側のVが広いのに対し、日振島のWは向かって右側のVが広くなっていますね。
だけど上図のカシオペア座は地球上から空を見上げたときの形です。
星が天球に貼りついているものとして、天にいる神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は日振島と同じように向かって右側のVが広い形に見えるはずです。

図②


●チョッペンは天辺の方言?

宮崎地方では天辺(てっぺん)のことをチョッペンと言うそうです。
空の天辺にあるカシオペア座という意味で、チョッペンの儀というのかも?

●錨星

古の日本では、カシオペア座は北極星より下にあってW字形のときは錨星、北極星より上にあってⅯ字形のときは山形星と呼ばれていました。

図③
カシオペア座 錨星 山形星  

錨とは綱や鎖をとりつけて海底や川底に沈めるもののことで、海賊の首領・藤原純友と関係が深そうに思えます。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E9%8C%A8 (錨の画像)

●鳴門の渦潮は北極星を表す

加門七海さんは、将門関連史跡の鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社をつなぐと、北斗七星の形になると指摘されています。

藤原純友がカシオペア座の神ならば平将門は北斗七星の神だといえるでしょう。

日振島(藤原純友の本拠地)・・・カシオペア座
鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社(将門関連史跡)・・・北斗七星

カシオペア座と北斗七星は北斗七星をはさんで図④のように対面しています。

図④

北斗七星 カシオペア座

ここまで考えて、思いついたことがありました。
日本のどこかにカシオペア座と北斗七星をつなぐ北極星があるのではないか?
そう思って地図をにらんでみると、日振島と将門関連史跡を結ぶ線上に鳴門の渦潮があるではありませんか~。

図⑤
日振島・渦潮・将門関連史跡   

詳しい説明は省きますが、鳴門の渦潮はほとんど右巻なのだそうです。(まれに左巻もあります。)



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

天空の星々は北極星を中心にして左回りに回ります。
ですが、 図②のように、星々が天球にはりついており、その天球の上から神様が地球を見下ろしたと考えると
神様には、星は右回りに回っているように見えるはずです。

日振島(藤原純友の本拠地)・・・カシオペア座
鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社(将門関連史跡)・・・北斗七星
鳴門の渦潮・・・北極星

古の人々は、日振島をカシオペア座、鳴門の渦潮を北極星に喩え、北斗七星の位置に将門関連史跡を定めたのかも?

そして日振島(藤原純友の本拠地/カシオペア座)と将門関連史跡(鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社/北斗七星)は鳴門の渦潮(北極星)に繋ぎ止め、その祟りを封じるという呪術が仕掛けられていたのではないかと思います。

そうだとすれば、これはなんとも壮大な呪術です。

●ちょっと言い訳~

図⑤の日振島↔鳴門の渦潮間の距離と、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離を比べてみると、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離の方がかなり長いですね。

カシオペア↔北極星間、北斗七星↔北極星間の距離はこんなには差がありません。

日本の正確な地図を作ったのは伊能忠敬で、地図が完成したのは伊能忠敬の死後の1821年のことです。
ですがそれ以前に用いられていた行基図にあてはめてみても、やはり日振島↔鳴門の渦潮間の距離よりも、将門関連史跡↔鳴門の渦潮間の距離のほうがかなり長いです。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyokizu.jpg(行基図)

北斗七星は将門関連史跡よりももう少し西の何かになぞらえられているかもしれません。

※追記

琵琶湖のほとりの三上山にすむムカデを藤原秀郷が退治したという伝説があります。
藤原秀郷は平貞盛とともに平将門討伐に派遣された人物です。
三上山にすむムカデとは平将門を比喩したものかもしれません。
すると琵琶湖が北斗七星に喩えられていたのかも?

●江戸は北極星になぞらえた町

ようやく江戸の「の」の字に戻ることができます。

昔の日本の最南端は九州、最北端は関東あたりまででした。
なので鳴門の渦潮あたりがちょうど日本の中心だったのです。

徳川家康と天海は、日本の中心を新たに江戸にしようと考えたのではないかと思います。
そのため、江戸を条坊制ではなく、「の」の字の町(渦巻きの町と言ってもいいでしょう。)としたのではないでしょうか。



上の地図を見ても東京(江戸)は北海道~九州のほぼ中心になっていますね。

江戸は北極星になぞらえた町として作られたのではないでしょうか?

皇居 

皇居3

皇居 堀

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