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聖林寺 紅葉 『賽の河原伝説のルーツは鎌足の子・定慧だった?』 

奈良県桜井市 聖林寺・談山神社
撮影 聖林寺・・・2010年11月27日 談山神社・・・10年以上前(フィルム)
  
聖林寺 紅葉 
聖林寺

●聖林寺

前回、談山神社についてお話しましたが、談山神社から近鉄桜井駅方面に向かって山をおりていくと途中に聖林寺があります。

聖林寺は国宝に指定されている天平時代の十一面観音があることで有名です。
この十一面観音はもともとは大神神社の神宮寺・大御輪寺にあったのですが、幕末ごろ、神仏分離令によって聖林寺に移されたのです。
とても美しい観音さまです。

画像はこちら ↓
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eleven-faced_Kannon_Shorinji.JPG?uselang=ja 

●幽霊が建てた寺

今日はこの十一面観音の話ではなく、聖林寺のご本尊・地蔵菩薩像についてのお話です。

聖林寺の本堂に入ると、目の前に巨大な石の地蔵菩薩像の姿が飛び込んできます。
この地蔵菩薩像が聖林寺のご本尊です。

画像はこちら ↓
http://www.shorinji-temple.jp/about/about03.html

聖林寺は妙楽寺(現在の談山神社)の別院で、712年に中臣鎌足の長子・定慧が創建したと伝わっています。

前回、定慧の生没年は643年~666年であるとお話しました。
談山神社の十三重塔と同じく、聖林寺も定慧の幽霊によって創建された寺だということになります。

●他にもある定慧の幽霊が創建した寺

『六地蔵めぐり』で有名な京都の大善寺も定慧によって創建されたと伝わっています。
創建年は705年でやはり、定慧の幽霊が創建したお寺です。

大善寺  

大善寺

なぜ定慧は死後に多くの寺を創建したとされているのでしょうか。

●賽の河原伝説


こんな話を聞いたことがあります。

親より先になくなった子供が親の供養のために賽の河原で石を積んで塔を作っていると、鬼がやってきて石積みの塔を壊してしまいますが、お地蔵様が救ってくださいます。

鬼来迎 子供の亡者を救う地蔵菩薩
 
千葉県山武郡 広済寺 鬼来迎 地蔵菩薩が子供の亡者を鬼から救う場面


定慧の生没年は643年~666年、定慧の父親の鎌足の生没年は614年~669年でしたね。
定慧は父親の鎌足よりも先に亡くなった子供だったのです。

古の人々は「定慧は賽の河原で父・鎌足のために供養塔をつくった」と考えたのではないでしょうか。
供養塔は鬼に壊されかけたけれど、地蔵菩薩が救ってくれたおかげで無事完成した。
それが談山神社の十三重塔だと。

賽の河原で子供が作る塔は石の塔ですが、談山神社の十三重塔は木造です。
しかし十三重塔は石で作ったものが多いです。聖林寺にも石の十三重塔がありました。

談山神社 紅葉5


そして定慧が創建したと伝わる聖林寺や大善寺では地蔵菩薩を御本尊としています。

賽の河原伝説のルーツはもしかしたら定慧なのかもしれませんね。





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[2016/11/20 12:23] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

談山神社 紅葉 『幽霊が建てた塔』 


奈良県桜井市 談山神社
撮影日 2010年11月27日
 

 
談山神社 紅葉2

塔百景32

●定慧の幽霊が塔を建てた?

談山神社の十三重塔は678年に亡き父鎌足のために鎌足の二人の息子、長男・定慧(じょうえ)と次男・不比等が建立したものとされます。
(現存の十三重塔は1532年に再建されたもの)

ここで鎌足・定慧・不比等の生没年を見てみましょう。
鎌足・・・・614年~669年
定慧・・・・643年~666年
不比等・・・659年〜720年

「えっ?」と思われましたか。
そう、鎌足の長男の定慧は、鎌足より先に23歳の若さでなくなっているのです。
つまり談山神社の十三重塔は定慧の幽霊と不比等が建てたものだということになります。

653年、定慧はわずか10歳で出家して遣唐使として入唐しています。
ようやく日本に帰ってきたのは12年後の665年のことでした。
ところが、帰国後わずか3ヶ月で死亡してしまったのです。
暗殺されたという説もあります。

 もちろん幽霊には塔は建てられません。
実際に十三重塔を建てたのは不比等で、兄の定慧とともに建てたということにしたのでしょう。

談山神社 鎌足像 

中臣鎌足神像

●藤原不比等は天智天皇の後胤だった?

鎌足の次男、藤原不比等は天智天皇の後胤であるとする説があります。

正史は不比等の母を車持与志古娘(よしこのいらつめ)としていますが、『興福寺縁起』は不比等の母を鏡王女としています。
鏡王女は始め天智天皇の妻だったのですが、のちに天智から鎌足に正妻として譲られています。
このとき、すでに鏡王女が天智の子を身籠っていた、それが不比等ではないか、というのですね。

談山神社 紅葉4 
●定慧は孝徳天皇の後胤だった?


また定慧は孝徳天皇の後胤であるという説があります。
鎌足は孝徳天皇の后であった女性を妻として与えられています。
そのとき、その女性は孝徳天皇の子を身籠っていたのではないかというのです。

鎌足は自分の子ではない二人の息子を育てていたのでしょうか?

談山神社 紅葉3 

●先祖の霊は子孫が祭祀するべき


私は定慧は鎌足の本当の子供だと思います。
なぜそう思うのかというと、すでに死んでいたはずの定慧が鎌足のために十三重塔を建てたとされているからです。

大物主(大神神社の御祭神)の霊を大物主の子の大田多根子が祭祀したところ、大物主の祟りが収まったという記述が記紀にあるように

日本では先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべきと考えられていました。

不比等は自分は天智天皇の後胤なので鎌足を祭祀するのにふさわしくないと考え、
すでに死亡してこの世になかった定慧と協力して十三重塔を建てたということにしたのではないでしょうか。

談山神社 紅葉 



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[2016/11/19 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

勝尾寺 紅葉 『海上皇子と開成皇子』 

大阪府箕面市 勝尾寺
2006年11月18日(1枚目) 2011年12月4日(1枚目をのぞく) 撮影

勝尾寺 仁王門 紅葉 

●海上皇子と開成皇子

今、前田速男さんの「白山信仰の謎と被差別部落」という本を読んでいますが
ちょっと興味深いことが書いてありました。

静岡県磐田市の白山神社には次のような伝説が残されているそうです。


①桓武天皇の第四皇子の海上皇子(戒成皇子)は従者とともにこの地にやってきて、地元の人々の食べ物を乞うようになりました。
その原因は、飼っていた雀が戸から飛び出し南殿の白砂にとまったのを追って、裸足で大地を踏んだので鬼神の怒りにふれ、ハンセン病になったためです。


勝尾寺の創建説話に光仁天皇の皇子・開成皇子が登場します。
勝尾寺は727年に双子の兄弟、善仲と善算(藤原致房の子)がここに草庵を築いたのを始まりとし
765年に開成(光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄)が善仲、善算に弟子入りたというのです。

前田速男さんはこの開成皇子と海上皇子には関係があるのではないかと指摘されています。

勝尾寺 霧 紅葉 

●春日王と春日宮天皇(志貴皇子)は同一人物?

もしかして、海上皇子と開成皇子は同一人物ではなでしょうか?

奈良の奈良豆比古神社には志貴皇子の子の春日王がハンセン病を患ったという伝説がありました。
ところが地元ではハンセン病を患ったのは志貴皇子であるという語りが伝承されています。
また、春日王は田原皇子、志貴皇子は春日宮天皇または田原天皇とも呼ばれており、ふたりは同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇室において父子が同じ名前で呼ばれていたというケースはないと思います。
そこから私は春日王と志貴皇子は同一人物ではないかと考えました。

●海上皇子と開成皇子は同一人物?

海上皇子は桓武天皇の第四皇子、開成皇子は光仁天皇の皇子、ということですが
桓武天皇は光仁天皇の皇子なので、開成皇子と桓武天皇は兄弟、開成皇子と海上皇子は伯父・甥の関係ということになります。
志貴皇子と春日王の例もあるように、開成皇子と海上皇子は同一人物ではないでしょうか?

志貴皇子は施基皇子、志紀皇子とも書きます。
古には音が同じであれば、さまざまな字をあてて名前を表記していたのかもしれません。

勝尾寺 鐘楼 紅葉 

●志貴皇子の子に海上女王または海上王の名前が!

光仁天皇は志貴皇子の皇子です。
志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇と血筋がつながっています。
そして志貴皇子の子には光仁天皇・春日王のほか、海上女王または海上王の名前があります。
つまり、志貴皇子・光仁天皇・桓武天皇の3代にわたり、それぞれ海上または開成という名の子があったということになります。
しかも血のつながりのある志貴皇子・海上(開成)皇子がいずれもハンセン病をっ患ったという伝説が残されているのです。


●後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子

また愛知県新城市の白山神社には後醍醐天皇の第3皇子・開成皇子についての、次のような文書が残されているそうです。

②御殿において白雀を飼はせらる
まさに餌をやらんとすれば飛び放る
再び捕へんとして穢れし大地を踏まる
悪病にかかりて殿を出で
漂泊 旅して東原に至る

これは内容が①の伝説とまったく同じです。
名前は開成皇子となっていて、勝尾寺の創建にかかわった開成皇子と同名です。

②の文書は①の伝説をもとにしてつくられたもので、開成皇子を後醍醐天皇の子と変えたのかもしれませんね。

それともポーの一族のエドガーやメリーベルのように、開成皇子は時を超えて存在しているとか?

勝尾寺 多宝塔 二階堂 紅葉

●勝尾寺には白山信仰があった?

①の海上皇子、②の開成皇子はどちらも白山神社に伝わるもので、勝尾寺の創建は開成皇子とされています。
ということは、もしかして勝尾寺には白山信仰があったのかもしれませんね。

勝尾寺の三宝荒神社には、1677年、旗本菅沼隠越中守の娘がこの荒神さまに祈願したところ、白髪が黒髪になったという伝説があります。

参照/
勝尾寺 雨 紫陽花 『白い神と黒い神』 

白髪の娘は白山の神をイメージしたものなのかも?

また、白髪だったのは菅沼隠越中守の娘ということですが、越中とは富山県のことです。
富山県五箇村には菅沼集落があり、菅沼隠越中守はこの菅沼集落と関係の深い人物なのかな、と思ったりしますが
五箇村は古より白山信仰が根付いていた地域でした。

 五箇山 菅沼集落 
五箇村菅沼集落



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[2016/11/18 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

永源寺 紅葉 『世継観世音菩薩の謎』 


滋賀県東近江市 永源寺
2012年11月18日 撮影


永源寺 禅堂 紅葉 

●世継観世音菩薩

永源寺の御本尊・世継観世音菩薩は秘仏でおよそ四半世紀に一度のみ御開帳されます。

世継観世音菩薩には次のような伝説が伝えられています。

開山・寂室禅師が中国より留学を終えて日本へ帰国する際、海上で嵐にあいました。
禅師が祈ったところ白衣の観世音菩薩が顕れ、嵐はおさまり、無事日本へ帰国することができました。
帰国した寂室禅師が永源寺に住まわれていたとき、夜毎、寺の東の峰から光明がさすのが見えました。
禅師がそこを訪ねてみると石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
 「かつて海上で嵐を静めてくださった観音様に違いない」
そう考えた禅師は中国から仏師を招き、中国の土で観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に、石の上で見つけた小さな霊像を納めて御本尊としました。
 のちに近江守護職佐々木氏頼の子、満高が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。


 

永源寺 渡り廊下 紅葉 
●佐々木氏頼

「のちに近江守護職佐々木氏頼の子、満高が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。」
という部分に注目してください。

佐々木氏頼は1361年に寂室元光禅師に土地を寄進して永源寺を開いた人物です。

1349年、氏頼の子の義信満高の兄)が誕生しました。
ところが1368年、義信は17歳で急死してしまいました。
このとき満高はまだ生まれていませんでした。
そこで氏頼は母方の甥・京極高詮猶子としました。
1369年、氏頼の次男・満高が生まれました。(満高の生誕年は1365年説もあり)
1370年、氏頼は亡くなり、京極高が氏頼の跡を継ぎました。
しかし1377年、に京極高詮は追放され、満高が家督を継ぐことになっりました。
 
永源寺 鐘楼 紅葉 
●32歳で世継ぎを授かるのは遅かったのか?


満高公が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。」
とありますが、満高の子の満綱は1401年に生まれているので、満高は32歳で世継を授かったということになります。
満高が生まれたのが1365年だったとしたら、世継ぎを授かったのは36歳です。
32歳や36歳で世継ぎを授かるというのは当時としては遅かったのでしょうか?
まあ、当時の平均寿命は50歳くらいだったでしょうし、結婚も早かったでしょうから10代で父親になることも珍しくはなかったでしょう。
32歳では遅かったといえるかもしれません。

永源寺 禅堂 紅葉

●世継ぎを授かるのが遅かったのは満高ではなく氏頼では?

でも、満高の父の氏頼のほうが、満高より世継ぎに恵まれなかったといえるのではないでしょうか。

氏頼の生誕年は1326年です。
1349年に義信生まれたとき、氏頼は23歳です。

ところが義信1368年に17歳で急死してしまいました。 
氏頼42歳で世継ぎを亡くしてしまったのです。
そして次男の満高が生まれたのは1365年または1369年とされています。
氏頼は39歳または43歳です。

ですから、氏頼39歳か43歳で世継ぎに恵まれたということになります。
これは世継ぎを授かるのが遅かったといえるでしょう。

氏頼1361年に寂室元光禅師に土地を寄進して永源寺を開いています。
そういった関係から、1368年のの死後、氏頼永源寺の観音様に『再び自分に子供が生まれますように』と祈願したのかも?

つまり『満高が跡取りに恵まれず、永源寺の観音に祈願をして世継を授かった』のではなく『氏頼が跡取りに恵まれず、永源寺の観音に祈願をして世継を授かった』というのが本来の物語なのではないかなあ、と思ったりします。

永源寺 含空院 紅葉   



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[2016/11/17 00:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

西教寺 紅葉 『鬼の念仏 と 猿の念仏』 

滋賀県大津市 西教寺
2010年11月20日 撮影

西教寺 猿の像 紅葉2

●猿の念仏

西教寺には次のような伝説があります。

明応2年(1493)、このあたりで徳政一揆が起こりました。
僧兵はその首謀者が真盛上人だと疑い、西教寺を攻めました。
境内には人影がありませんでしたが、本堂から鉦の音が聞こえてきました。
僧兵が本堂に入ると、一匹の手白の猿が上人の身代わりとなって鉦をたたいていました。
僧兵は日吉山王の使者である猿が念仏を唱えている様子に、真盛上人の影響力の強さを感じてその場を立ち去りました。

西教寺の近くには日吉大社があります。猿はこの日吉大社の神使なんですね。



西教寺の塔頭の瓦には猿の像がいくつも置かれています。
また本堂の阿弥陀如来像の前には鉦をたたきながら念仏を唱える猿の像が置かれていました。
それらは上記の伝説にもとづくものなのでしょう。

西教寺 猿の像 紅葉

●鬼の寒念仏

えー、大津といえば大津絵が有名です。
大津絵とは民族絵画であり、護符としての効能もあるとされていました。
いろいろな種類があるのですが、中でも有名なのは「鬼の寒念仏」です。

三井寺 鬼の寒念仏 

↑ これは三井寺にあった「鬼の寒念仏」

 ●鬼=怨霊

鬼とは成仏しきれず祟りをなす怨霊のことだと考えてもいいでしょう。
『鬼の寒念仏』はそんな怨霊までが成仏しようと念仏を唱えている様を描いたものだと思います。
それほど念仏が流行ったということでしょう。

西教寺 紅葉

●怨霊=神=猿

猿は申とも書き、申に示偏をつければ神になります。

そして、かつて怨霊と神とは同義語だったといわれます。
怨霊が祟らないように祀ったのが神だというのですね。
怨霊は神として祀り上げると、ご利益を与えてくれる和魂になる、などともいいます。

猿は神でありかつ怨霊でもあると考えられていたということでしょう。

すると『鬼の念仏』と『猿の念仏』は同じものだといえるかも?

西教寺 紅葉2

西教寺 庭園 紅葉

西教寺 本堂 紅葉 


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[2016/11/16 00:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

浄瑠璃寺 紅葉 『郎党・女房をひきつれて出家した多田満仲』 


京都府木津川市 浄瑠璃寺
 2007年11月28日 撮影


浄瑠璃寺 紅葉 
塔百景30


●彼岸と此岸を隔てる池

浄瑠璃寺の境内には阿字池があり、池の東の三重塔では薬師如来を、池の西の本堂には阿弥陀如来を祀っています。
浄瑠璃寺のパンフレットに記された境内図には、池の東に『此岸』、池の西に『彼岸』と書かれてあります。
つまり池はこの世とあの世を隔てているわけです。
同パンフレットには『法隆寺金堂においても東に薬師如来、中央に釈迦三尊、西に阿弥陀如来が祀られている』と記されています。



池の向かって左(西)にある細長い建物が本堂です。

9体の阿弥陀如来を祀る寺

浄瑠璃寺は本堂に9体の阿弥陀如来を祀っているので、九体寺とも呼ばれています。
平安時代末期には『九品往生』の信仰が流行り、京都を中心に30あまりの九体阿弥陀堂が建立されました。
しかし現存する九体阿弥陀堂は浄瑠璃寺だけです。

●九品って何?

九品とは物や人の性質を3×3で分類したものです。
まず上品・中品・下品の3つに分け、さらに、上品・中品・下品をそれぞれ生(じょうしょう)、中生(ちゅうしょう)、下生(げしょう)に分類します。
すなわち、上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の9つに分類されるというわけです。

「あの人、上品!」とか「下品な行いはやめなさい」などと言いますが、この上品とか下品という言葉はこの九品からきてるんですね。
(詳しくはウィキペディアをお読みください。)

そして、この九品のちがいによって、極楽往生にも9つのパターンがあるとするのが九品往生の考え方です。

●武士の始まり ただのまんじゅう


浄瑠璃寺は天元年間(978-982)に多田満仲が行基作の薬師如来を祀ったのが始まりで、1047年、義明上人により本堂が建立されたといわれています。

多田満仲は清和源氏、六孫王経基の嫡男です。
六孫王経基についてはこちらの記事に書きましたので参考になさってください。→  六孫王神社 宝永祭 『源経基が臣籍降下に不満を持った理由』  

嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 
↑ 土蜘蛛を退治したことで有名な源頼光は多田満仲の子です。(嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛/青い着物が頼光)

多田満仲は都の武官貴族で、藤原摂関家に仕えて鎮守府将軍となった人物です。
多田盆地(兵庫県川西市多田)を開拓し、また武士団を形成しました。
江戸時代には「武士の始まり ただのまんじゅう(多田 満仲)」といろはカルタに詠まれています。

満願寺  
↑ 満仲が帰依し、多田源氏から厚く信仰された満願寺(兵庫県川西市)


●郎党・女房をひきつれて出家した多田満仲

987年、多田満仲は郎党16人、女房30余人と共に出家して満慶と称しました。
多田 満仲の出家について、藤原実資は『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記しています。
また『今昔物語集』には延暦寺の僧となっていた満仲の末子・源賢でが父の殺生を悲しみ、天台座主院源とともに仏法を満仲に説き出家させたという話が記されています。
多田満仲は武士としてたくさんの人を殺生したので、このままでは極楽浄土へ行けない、と心配になり出家したのかもしれませんね。

多田満仲は郎党16人、女房30余人をひきつれて出家しています。
47人以上もの人が一斉に出家したわけですね。
これだけの人数の人がいれば、いろんな人がいたことでしょう。
人の性質は上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の9つに分けられるといいますが、47人以上もいれば、このすべてに該当する人がいたと思われます。
そういうわけで浄瑠璃寺には九体の阿弥陀如来像が安置されたのかもしれませんね。
 


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[2016/11/15 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

空也堂 空也忌 『空也が愛した鹿とは平将門のことだった?』 


京都市中京区 空也堂
空也忌・・・11月第2日曜日

 
空也堂 歓喜踊躍念仏 
●空也踊躍念仏

11月第2日曜日、空也堂では空也忌が行われ、空也踊躍念仏が行われます。
踊躍念仏とは鉦や太鼓をたたきつつ踊りながら念仏を唱えるというもので、空也が創始したといわれています。

空也堂 空也踊躍念2  
●空也堂創建説話

空也堂には次のような創建説話が伝わっています。

空也は鹿の鳴声を愛していましたが、あるとき平定盛がその鹿を殺してしまました。
空也は大変悲しんで、鹿の毛皮で衣を作り,角を杖の頭につけて念仏を唱えました。
定盛は鹿を殺したことを悔い、空也の弟子となって空也堂を立て、空也を開基としました。


空也堂 空也踊躍念3 

●トガノの鹿

同じような話が日本書紀にあります。

仁徳天皇は鹿の鳴声を愛していましたが、あるときから鹿の声がぱったりと聞こえなくなりました。
ほどなくして、佐伯部が天皇に鹿を献上しましたが、それは天皇が鳴き声を聴くのを楽しみにしていた鹿でした。
天皇はこれに心を痛められ、佐伯部を安芸の渟田に左遷しました。


また日本書記はこの話のあとに、次のような話を続けています。

雄鹿が「全身に霜が降る夢を見た」というと、雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩を振られているのです。」と答えました。
翌朝、雌鹿の占いのとおり雄島は漁師に撃たれて死にました。(トガノの鹿)

空也堂 空也踊躍念仏

  ●雄鹿は謀反人の比喩

謀反の罪で殺された人は塩が振られることがあり、雄鹿とは謀反人の比喩だとする説があります。
鹿の夏毛には白い斑点がありますが、これが塩や霜に喩えられたのでしょう。

すると平定盛が殺した空也が愛していた鹿とは謀反人だということになります。

大仏殿 鹿 
●平定盛と平貞盛は同一人物

創建説話に登場する平定盛とは平貞盛のことです。
平定盛と平貞盛は別人だと思っている人もいるようですが、空也堂に平貞盛焼き捨ての兜なるものが残っているので間違いありません。

空也堂 平貞盛 焼捨の兜


●平将門の乱を平定した平貞盛


平貞盛は平将門のいとこで、将門が東国で乱を起こしたとき、藤原秀郷とともに討伐に向かった人物です。
平将門は平貞盛・藤原秀郷らの軍との戦いの中で流れ矢にあたって死亡し、その首は京に持ち帰られて鴨川のほとりに晒されました。

つまり平定盛(平貞盛)が殺した鹿とは平将門のことだと思います。

空也堂 千本六斎 六斎念仏2 

千本六斎会による六斎念仏の奉納もありました。
空也は六斎念仏の祖ともされています。

●平将門鎮魂に情熱を注いだ空也

そして空也は将門の祟りを鎮魂するために念仏道場をたてるなど、将門の鎮魂に熱心な僧侶でした。
(詳しくはこちらをお読みください→迎稱寺 萩 『平将門の怨霊』

このように見てみると、空也堂は平将門を鎮魂するための寺ではないかと思えるのです。

空也堂 千本六斎 六斎念仏


   

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[2016/11/14 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

嵐山 紅葉祭 夕霧太夫道中 『難波太夫として復活した夕霧太夫』 

嵐山渡月橋一帯
嵐山紅葉祭・・・11月第2日曜日


嵐山 もみじ祭 

桂川に今様舟、平安管弦舟など様々な舟が桂川に浮かべられ、それぞれの舟上で催しが行われます。

 嵐山 もみじ祭 平安管弦舟

平安管弦舟

嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 
嵯峨狂言・頼光と土蜘蛛

  嵐山 もみじ祭 今様船  
今様船

桂川のほとりでは夕霧太夫のお練りが行われました。
今日はこの夕霧太夫についてお話ししたいと思います。

嵐山 もみじ祭 夕霧大夫道中

よくこんな高い下駄はいて歩けますね!

●夕霧大夫道中

江戸の吉原遊郭では最高位の遊女のことを花魁といったそうですが、京や大阪では太夫といいました。
二人の少女の後ろを歩く女性が夕霧太夫、二人の少女は禿(かむろ)です。
禿とは遊郭に住んで太夫の身の回りの世話などをしていた遊女見習いの童女のことを言います。

役肌寒い季節なのに太夫さんは素足で、高さ20cmはありそうな三枚歯の高下駄をはき、八文字を踏みながらゆっくりと練り歩いていきました。

「八文字を踏む」というのがどんな歩き方かというのは、下の動画の0:18あたりからがわかりやすいです。



動画おかりしました。 動画主さん、ありがとうございます。

江戸時代、太夫は新造・禿を従えて引手茶屋まで客を迎えに行く習慣があり、道中と言いました。
この行事はこれを再現したものです。

●花街と夕霧大夫

夕霧は京都島原にあった扇屋の太夫でした。
島原にはかつては置屋が約50軒、揚屋が約20軒あったそうですが、今は揚屋の『角屋』が一軒残っているだけだそうです。

『角屋』、見にいきたいと思いながらずるずるとそのままになっています。
近いうちに見に行こう。

置屋とは遊女を雇いいれる店のことで、遊女は置屋で生活しました。
揚屋とは客が遊女と遊ぶ場所のことです。

のちに扇屋が大阪の新町に移転したので、夕霧も新町の太夫になりました。

夕霧大夫はたいへんな美人で芸事にも秀でていましたが、20代でその短い生涯を終えました。
夕霧の墓は各地にありますが、渡月橋から歩いて15分ほどのところにある清凉寺にも墓があります。

嵐山 もみじ祭 夕霧大夫道中2

●夕霧七年忌

夕霧の死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎がたくさん作られました。
その中のひとつに夕霧七年忌(近松門左衛門)があります。

夕霧が亡くなってから七年目のこと。
藤屋伊左衛門は夕霧との間にできたおせきと言う娘を大坂・新町の廓に身売りさせました。
伊左衛門は夕霧に瓜二つの島原の難波太夫を身受けしたいと思っており、その揚げ代の残金15両を支払うためでした。
あるとき伊左衛門はおせきを尋ねて新町に行き、そこで偶然、難波太夫に出会いました。
難波は伊左衛門の揚げ代の残金を支払うために新町に住み替えていたのでした。
親切な親方の計らいで、伊左衛門はおせきと難波は廓から連れて帰ることができました。


遊女を身受けするために娘を遊郭に売るなんてなんちゅうひどい父親や!!

でも、この物語のテーマはそういうことではなく、別のところにあると私は考えています。

●真言立川流

真言立川流という仏教の宗派がかつてありました。
江戸時代に邪教であるとして迫害され、消滅したとされていますが。

立川流では人間の髑髏に漆や和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作りました。
そしてその髑髏本尊を袋の中に入れて7年間抱いて寝ることで、8年目に髑髏は命を持つようになると考えられていたようです。

●8は復活を意味する数字

梅原猛さんは「は復活を意味する数字」だと言っておられます。
八角墳や八角堂は死者の復活を祈ってつくられたものではないかというのですね。

●計算があわない「七転び八起き」

『七転び八起き』という言葉がありますが、七回転んだら起きるのも八回で計算があいません。

●七で転じて8で復活する?


転ぶという言葉には「物事の成り行きが別の方向に向かう」という意味もあります。
『七転び八起き』とは「七で転じて、八で復活する」という意味ではないでしょうか。

『夕霧七年忌』の物語は、夕霧の死後7年目の話です。
現在では生まれたばかりの赤ん坊は0歳ですが、かつては1歳としていました。
これは生後1年目に突入したという意味で1歳としていたのだと思います。
同様に考えれば、七回忌は死後8年目に突入する日だと考えられます。

『夕霧七年忌』の物語のテーマは、『夕霧が死後8年目に難波太夫として復活した』ということなのではないでしょうか。

嵐山 もみじ祭 平安管弦舟2 


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[2016/11/13 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

壺阪寺 紅葉 

奈良県高市郡 壺阪寺
2009年11月10日 撮影


今日から数日でかけます。
いただいたメールの返事は帰宅後必ずしますので、よろしくお願いします。

壺阪寺 紅葉  

●壷阪寺は持統天皇を弔うための寺?

壺阪寺の創建は703年ですが、この前年、持統天皇が崩御されています。
なので壺阪寺は持統天皇を弔うための寺ではないかと私は考えています。

壺阪寺 紅葉3

 ●持統天皇は数字の8にこだわりがあった?

仁王門に立つと山の中腹に八角円堂が見えます。
そういえば、飛鳥にある天武・持統陵〈野口王墓〉も八角墳です。
どうやら持統天皇は数字の8にこだわりがあった人のようです。



↑ 天武・持統陵(野口王墓)少し崩れていますがなんとなく八角形なのがわかりますね。

●8は復活を意味する数字?

梅原猛さんは数字の8は復活を意味する数字ではないかとおっしゃっています。
八角墳や八角円堂は死者の復活を祈って作られたものではないかというのですね。

確かにそう考えると辻褄のあう言葉がたくさんあります。
八咫鏡は天照大神を復活させた鏡。
八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多いです。
すなわち八咫烏とは復活した太陽神というわけです。

持統天皇は死後の復活を強く願った人だった人だったのかも。

●大津皇子の謀反は持統天皇の陰謀だった?

鸕野讚良(うののさらら/のちの持統天皇)は天智天皇の皇女で、同母姉に大田皇女がいます。
鸕野讚良と大田皇女はともに叔父の天武天皇に嫁し、鸕野讚良は草壁皇子を、大田皇女は大津皇子をもうけました。

686年、大津皇子は謀反を企てたとして死を賜り、自害しました。
この事件は、草壁皇子を皇位につけるために持統天皇が仕組んだのではないか、という説が有力です。

壺阪寺 鬼瓦 

●即位することなく、薨去した草壁皇子


686年、天武天皇が崩御しましたが、草壁皇子がただちに即位することはありませんでした。
そして即位しないまま、689年に草壁皇子は薨去してしまったのです。
690年、鸕野讚良は草壁皇子の子の文武天皇を即位させるために、中継ぎの天皇としては自ら即位しました。(持統天皇)
そして697年に文武天皇に譲位しました。

「なにがなんでも自分の血をひく者に皇位を継承させるのだ!」という持統天皇の執念を感じます。

不老長寿とは、実は子孫繁栄のことなのだと聞いたことがあります。
子孫繁栄は自分自身の魂の復活であるともいえるのではないでしょうか。

それで持統天皇の墓は八角墳で、壺阪寺のお堂は八角形なのかも?

●火葬されたわが身を嘆く歌


持統天皇は皇族で初めて火葬された人物です。

春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
(春がすぎて夏がやってきたらしい。白い衣が天の香久山に干してあるそうなので。)


持統天皇が詠んだこの有名な歌は、持統天皇の霊が火葬されたわが身を嘆く歌だと思います。
なんでかって?

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水と考えられていました。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいますね。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。

「春過ぎて」は「春の土用が過ぎて」という意味、「夏」は「五行説の火」を表しているのだと思います。
そして「白妙の衣」とは「死に装束」のことでしょう。

歌の意味はこういうことだと思います。↓

「春の土用が過ぎて、火性の夏になってしまったようです。私は天香久山に干されている衣をまとい、夏の火性と同じように火葬されてしまうのですね。」

壺阪寺 天竺渡来大石堂

●持統天皇が詠むにふさわしい歌を持統天皇御作とした?


もちろん、死んだ人が歌を詠むことはできません。
この歌は別の人が詠み、持統天皇が詠むにふさわしい歌ということで持統天皇御作とされているのでしょう。
昔は著作権という考え方はなかったので~。

天智天皇の「「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌も、万葉集にある詠み人知らずの歌「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないのですが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

●長くは続かなかった天皇の火葬

持統天皇が火葬されたのち、文武、元明、元正と火葬が続きましたが、次代の聖武天皇以降土葬に戻っています。

持統・文武・元明・元正が火葬されたのは、彼らが仏教徒であり、釈迦が荼毘に付されたことをうけてのことでしょうが
聖武天皇は熱心な仏教徒であったにもかかわらず、土葬されています。

かつて即身仏になるべく入定した人が大勢いましたが、彼らの目的は56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるとき、その聖業に参加するためだったといわれます。
おそらく、人間が復活するためには魂の容れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。
それで聖武天皇は「朕は火葬は嫌じゃ―!」と言ったのかもしれません。

●途絶えてしまった天武系天皇の血筋


ところが聖武天皇の皇子は夭逝してしまい、やむなく聖武天皇の皇女が譲位を受けて即位したのですが(孝謙天皇)
独身で即位した女性天皇の結婚は許されていなかったようで、孝謙天皇は生涯独身でした。
そのため跡継ぎができず、聖武天皇の血筋は絶えてしまいました。

これはすなわち、持統天皇の血筋が絶えたということですが
日本社会は男系の血筋を重んじるので、持統天皇の夫・天武天皇の血筋が絶えたといったほうがいいかもしれません。

●持統天皇を火葬にしたのは藤原氏の策略だった?

持統・文武・元明・元正天皇らは火葬されたのは藤原氏の策略ではないか、と私は考えています。
藤原不比等は天智天皇の後胤であると記された文献が残されており、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたと思うんです。
それで、称徳天皇(孝謙天皇と同一人物。重祚して称徳天皇となりました。)が崩御して天武系天皇の血筋がたえてしまったあと、藤原百川・藤原永手らは天智天皇の孫にあたる光仁天皇をたてたのではないでしょうか。
平城京から平安京に遷都したのも、天武系天皇の都である平城京を捨てたかったのではないかと思います。

持統天皇が崩御されたころ、権力を持っていたのは、藤原氏の祖・藤原不比等です。
不比等は「お釈迦さまも火葬されたのですから、天皇も火葬にするべきですよ~」などと主張したのではないでしょうか。
でも不比等は復活するためには魂の容れ物である肉体が必要だと考えていたと思います。
つまり、不比等は天武系天皇の血筋を絶やすための呪術として、持統天皇を火葬させるように働きかけたのではないかと思うのです。
 
壺阪寺 紅葉2


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[2016/11/12 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

石龕寺 紅葉 『戦国武将はなぜ毘沙門天を信仰したのか』 

兵庫県丹波市・・・石龕寺
2014年11月9日 撮影


 石龕寺-紅葉

石龕寺の奥の院を参拝しようとして、たいへんな目にあいました!(自分が悪いんですが~)
奥の院に行く道は2つあったんですが、夕方だったので、ひとつはもう門がしまっていました。
それでもうひとつの道を歩いていったんですが、これが結構な山道で
ものすごく細い道とか崖になってるところがあるんですよ。
まさかこんな道だとは思わなかったー。

とりあえず奥の院を参拝することはできたんですが、もう暗くなりかけていたので写真も撮らずに引き返しました。
山道を下っているうちにあたりは真っ暗に!
懐中電灯で足元を照らしながらなんとか下山することができましたが、すごく怖かったです!

●各地に残る「聖徳太子が毘沙門天を刻んだ」という伝説

石龕寺には次のような創建説話が伝えられています。

5 87年、廃仏派・物部守屋vs崇仏派・蘇我馬子の戦いがありました。
その際、聖徳太子は蘇我馬子側につき、自ら刻んだ毘沙門天を兜の真甲にいただいて戦い勝利を収めました。
ところがこの毘沙門天像が空中に飛散してしまったため聖徳太子は諸国を回って探しました。
毘沙門天はこの地の石窟の中におられるのがみつかったので、聖徳太子はここに小堂をたてました。
これが石龕寺の始まりです。


聖徳太子が毘沙門天を刻み、毘沙門天の加護を得て587年の戦いに勝利したという話は各地の寺の創建説話にあるようです。
奈良県生駒郡にある朝護孫子寺も毘沙門天を本尊としていますが、この毘沙門天像も聖徳太子が刻んだものとも伝えられています。

朝護孫子寺 本堂 霧 
朝護孫子寺

●毘沙門天は鉱山の神だった。

毘沙門天はもともとはインドの神クベーラで、夜叉を使役して貴金属や宝石を採掘させる神でした。
クベーラは鉱山の神だといっていいでしょう。

そして石龕寺から里山林遊歩道を歩くと岩屋城跡に出ますが(もちろん、行くことができませんでした~)
そこからさらに尾根道を歩いていくと旧金屋鉱山があります。

この地には鉱山があったため毘沙門天を祀っているのでしょう。

朝護孫子寺に鉱山があったかどうかはわかりませんが。

東大寺 大仏殿 多聞天 

東大寺大仏殿 多聞天(毘沙門天は四天王の一としては多聞天と呼ばれます。)


●ムカデは毘沙門天の使い

戦国武将たちはこの毘沙門天を厚く信仰していました。
武田信玄も毘沙門天を信仰しており、彼の精鋭部隊は百足衆と呼ばれていました。
百足は毘沙門天の使いとされていました。
また坑道のことをムカデ穴ともいい、鉱山と毘沙門天と百足には密接な関係があったのです。

朝護孫子寺 額 

朝護孫子寺の額

朝護孫子寺の額や欄間のレリーフにはムカデが刻まれていました。

鞍馬寺 ムカデを描いた茶碗 

↑ こちらは鞍馬寺に展示されていたムカデを描いた茶碗です。
すごくかわいいー♪(変?)こんなのほしいです。

鞍馬寺も毘沙門天を祀っています。
ただし、鞍馬寺が鉱山だったかどうかはわかりません。
近くに二ノ瀬という地名があり、二ノ瀬は丹の瀬かつては丹が採れたのではないかと考えたりもしますが。

鞍馬寺 竹伐会式2 

鞍馬寺

●戦国時代は鉱山争奪戦だった。

なぜ戦国武将たちが毘沙門天を信仰していたのかというと、戦国時代は鉱山争奪戦であったからだとも言われています。

岩屋城は和田日向守斉頼(ときより)が1516年に築城した城ですが、1579年に明智光秀に攻められて落城しました。
その後、1586年に佐野下総守栄有が再築城しましたが、1596年豊臣秀吉の命によって城は取り壊されました。

和田日向守斉頼や佐野下総守栄有は石龕寺の毘沙門天を深く信仰していたことでしょう。

石龕寺-紅葉2 


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[2016/11/11 00:00] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)