北野天満宮 余香祭 『醍醐天皇のノイローゼの原因は道真のストーカー行為だった?』 


京都市上京区 北野天満宮
余香祭 10月29日


北野天満宮 菊 

北野天満宮 本殿


●醍醐天皇、道真の詩に感激して更衣を与える。

今ごろは旧暦では9月9日の重陽の節句の時期にあたります。
北野天満宮にも大輪の菊がお供えされていました。

900年菅原道真公は重陽の節句の翌日、9月10日の宴の際に歌を詠んだそうです。

「秋思」という題だというので、たぶん、この漢詩のことじゃないかと思います。(ちがってたら指摘をお願いします!)

秋思詩 (しゅうしのし

丞相(じょうしょう)年を度(わた)って 幾ばくか楽思(らくし)せる
今宵(こんしょう)物に觸れて 自然に悲しむ
聲寒き絡緯(らくい) 風の吹く處
葉の落つる梧桐(ごどう) 雨の打つ時
君は春秋に富み 臣は漸く老いたり
恩は涯岸(がいがん)無くして 報ゆる
猶(なお)遲し知らず此の意 何が安慰(あんい)せん
酒を飲み琴を聽き 又詩を詠ず


右大臣を拝命し年を越したが、政務に負われ、どれほど楽しい思いをしただろうか。
今宵も何かにつけて自然に悲しく思う。
もの寂しい虫の音、秋風の吹くところに。
葉が落ちる青桐、雨が降る夜に。
わが君は若く、私は老いていくばかり。
君の恩にはまだ報いることができていない。
このやるせない心を何が慰めてくれるであろうか、自分にはわからない。
ただ酒を飲み、琴を聴き、また詩を吟詠するばかりである。


この詩を聞いた醍醐天皇は感激されてご道真にご自身のご更衣を与えました。

大阪天満宮 秋思詩 
大阪天満宮に展示されていた人形

 ●道真、去年の秋を思い出し、残り香を拝する。

ところが、その翌年、藤原時平の讒言によって道真は大宰府に流刑となってしまうのです。
そして、道真は9月10日に「重陽後一日」の詩を詠みました。

去年の今夜 清涼に待す
秋思の詩篇 獨り斷腸
恩賜の御衣は今此こに在り
捧持して 毎日餘香を拝す

去年の今夜は清涼殿の宴で、醍醐天皇のお傍にはべっていた私。
「秋思」という題で私は詩を詠んだの。
思い出すとはらわたがちぎれてしまいそうだわ。
あの時、あなたからいただいた着物は、今も大事にしているわ。
毎日、こうしてその着物をとりだして、匂いをかいでいるのよん。
あなたの匂いがまだ残っているから。


余香祭はこれにちなむ行事で、本殿で全国から寄せられた詞を披露します。

大阪天満宮 配所の月 
大阪天満宮に展示されていた人形

●乙女チック道真?


重陽の節句の翌日に詠んだ歌だそうですが、重陽の節句は菊の節句ともいわれます。
菊はBLの象徴(菊座を検索!)ですし、道真は醍醐天皇を愛していたのかも。(きゃー♡)
離れ離れになっても、道真は醍醐天皇を偲び続けているのでしょうか。
なんとも乙女チックな道真さん?

大阪天満宮 人形

大阪天満宮に展示されていた人形


●道真、怨霊になる。


903年、道真は大宰府で亡くなりました。

道真の死後、都では不幸な事件が相次ぎました。

909年、醍醐天皇に讒言をした藤平時平が39歳という若さで病死。
913年、源光が狩の際、泥沼で溺死。源光も道真左遷にかかわったとされています。
923年、醍醐天皇の皇太子・保明親王が薨去。
醍醐天皇は保明親王の子の慶頼王を皇太子としましたが、925年にわずか4歳で夭逝。
930年には清涼殿に落雷があり、多くの死傷者が出ました。

これらの一連の事件は道真の怨霊の仕業と考えられました。

清涼殿落雷事件の3か月後、醍醐天皇は崩御されました。
死因は道真の怨霊に怯えるあまり、ノイローゼになったためとも言われています。

北野天満宮 余香祭

北野天満宮 余香祭 烏帽子には菊が飾られています。

●思い出の清涼殿


雷が落ちた清涼殿は、醍醐天皇と道真にとって思い出の場所でした。
醍醐天皇は重陽の節句に清涼殿で宴を開き、ここで道真が秋思詞を詠んだのでした。
その清涼殿に雷が落ちるなんて、これはもう道真が雷神になって復讐しにきたにちがいないと思ったことでしょうね。

北野天満宮 余香祭 

●桜散り老い来る道


高田祟史さんは和歌とは呪術だったとおっしゃっています。

在原業平が藤原基経の四十歳の算賀にこんな歌を詠んで送っています。
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
(桜の花よ、散り乱れてあたりを霞ませておくれ。『老い』が通って来ると聞く道が、花に紛れてしまうように。)


この歌は一見、基経を気遣う歌のようでありますが、
五七五七七の冒頭の漢字をつなげてみると…桜散老来道(桜散り老い来る道)になると高田祟史さんはおっしゃっています。
つまり在原業平は藤原基経に対して
「桜が散ると、老いがやってくる。基経め、さっさと老いぼれて死にやがれ~」と歌を詠んだということですね。

 北野天満宮 余香祭2

醍醐天皇の着物は藁人形がわりにされた?

道真が詠んだのは和歌ではなく漢詩ですが、漢詩も和歌同様、呪術的に用いられることがあったのではないでしょうか。
道真の「重陽後一日」の詩、一見すると乙女心を読んだかのようですが、そうじゃないかも~。

醍醐天皇の着物は、醍醐天皇を模した藁人形のようなものだといってもいいでしょう。
そしてその醍醐天皇の形代ともいうべき着物の匂いを毎日かいでいる道真。
ときどきなら乙女チックですんでも、毎日となれば、すごい執念です。
それも、はらわたがちぎれるような思いで匂いをかいでいる。
まるでストーカーのようです。(ちょっとストーカーとはちがうか?)

だんだん、不気味になってきましたね。

北野天満宮 菊2

北野天満宮 本殿


●醍醐天皇がノイローゼになったのは道真のストーカー行為が原因だった?


道真は醍醐天皇に対する乙女チックな恋心を詩に詠んだのではなく、猛烈な恨み心を詠んだのではないでしょうか。

最初にあげた現代語訳は間違いかもしれません。
次のように訳すべきかも。

去年の今夜は清涼殿の宴で、醍醐天皇のお傍にはべっていた私。
「秋思」という題で私は詩を詠んだ。
それなのに、醍醐天皇は藤原時平の讒言を真に受けて私を大宰府に左遷した。
思い出すとはらわたがちぎれてしまいそうだ。憎き、醍醐天皇め!
あの時、醍醐天皇からいただいた着物がここにある。
この着物は醍醐天皇の形代である。
毎日、こうして着物をとりだして、醍醐天皇の匂いをかいでは、恨んでやるのだ!

こんな歌を詠まれたら、醍醐天皇でなくてもノイローゼになりそう?

北野天満宮 楼門

北野天満宮 楼門


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[2016/10/31 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 夕景  『豊臣秀吉とBL』 

 大阪市中央区 大阪城
2010年11月7日 撮影


大坂城 夕景

●太閤さんの城


大阪城は『太閤さんの城』と呼ばれています。
太閤とは摂政または関白の職を子弟に譲った人物のことですが、一般に『太閤さん』といえば豊臣秀吉のことをさします。
しかし秀吉が築城した大阪城は1614年の大坂夏の陣で焼失し、現存する櫓や石垣などは江戸幕府によって築造されたものなのだそうです。

豊国神社(長浜)豊公神社 

豊国神社(長浜) 豊公祭


●秀吉はたいへんな女好きだった。

秀吉は当時たしなみとされていた男色には興味がなく、たいへんな女好きで、多くの側室をもっていました。

秀吉が美少年の小姓・池田信輝の三男・羽柴長吉を呼び、「姉か妹はいないか」と聞いたという話は有名ですね。
羽柴長吉があまりに美しいので、彼に姉妹があるとすれば、相当な美女だろうと秀吉は思ったというのです。

 豊国神社(長浜) 豊公祭 

滋賀県長浜市 豊国神社 豊公祭


●秀吉は少しはBLに興味があった?

しかし、最近『BL新日本史』という本を図書館で借りて読んだところ、「秀吉は全く男色に興味がなかったというわけではない。」というようなことが記されていました。
その本は返却期限がきて返してしまったので、ネットで調べてみました。
『石田軍記』に「秀吉と石田三成がBLの関係だった」と記されており、また南方熊楠は「秀吉と織田信忠がBLの関係だった」と言っているそうです。

金剛寺 菊滋童 屏風

菊滋童の屏風 金剛寺(奈良県五條市)


●戦国時代、なぜBLが流行したのか?

戦国時代にBLが流行したのはなぜなのでしょうか。
それは生理的な理由というよりも、信仰上の理由があったのではないかと私は考えています。

最近、町のあちこちで菊が飾られているのを見かけます。
旧暦では今頃が重陽の節句ですね。

9月9日は重陽の節句(菊の節句)でたいへんおめでたい日とされていましたが、
重陽の節句には菊滋童の舞が舞われたり、菊滋童の絵が描かれた屏風が展示されたりします。

周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。


菊滋童は菊の露を飲んで700年の長寿を得たとされる伝説の少年です。
秀吉が朝廷より豊臣姓を賜ったのは天正14年9月9日ですが、吉日ということでこの日が選ばれたのでしょう。

 法輪寺 重陽神事2

重陽神事 菊滋童の舞 (京都 法輪寺)

陰陽道では奇数を陽、偶数を陰とします。
そして性別では男性が陽で、女性が陰です。
男性と男性が重なることはまさしく重陽じゃないですか。

上のgifアニメは能・菊滋童ですが、ウィキペディアの男色のページに次のように記されています。

「この時代に成立した能や狂言には男色がとても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B#.E5.AE.A4.E7.94.BA.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.9A.E6.AD.A6.E5.A3.AB.E3.81.AE.E7.94.B7.E8.89.B2より引用

そして重陽は不老長寿の象徴なので
BLは不老長寿をもたらす呪術として尊ばれたのではないかと思うのです。
菊は昔からBLの象徴でもありました。

昔の人にとって陰陽道は科学だったそうなので、秀吉も多少はたしなんだのではないかと思います。

金剛寺 菊枕 

菊枕 金剛寺(奈良県五條市)


●不老長寿とは子孫繁栄のこと?

実際には菊滋童のように700年も生きるのは不可能で、不老長寿とは子孫繁栄のことだと聞いたことがあります。
しかし秀吉は子供にめぐまれませんでした。
南殿との間に生まれた長子・羽柴秀勝は6歳で夭折。
淀殿との間に生まれた次男・豊臣鶴松は3歳で夭折。
そこで秀吉は甥の豊臣秀次を養子としましたが27歳のとき秀吉に切腹を命じられて没しました。
秀次を養子としたあと淀殿との間に三男・豊臣秀頼がうまれたため、秀吉は秀次を疎んで切腹を命じたという説があります。
こうして秀吉の死後秀頼は秀吉の跡をつぐのですが、しだいに徳川家康が権力を握るようになっていきます。
そして1615年の大阪夏の陣で、大阪城天守閣は炎上し、秀頼は母親の淀殿とともに自害して果てたのです。
享年23歳でした。
こうして豊臣家は滅亡してしまいました。

秀吉が不老長寿の呪術ともいえるBLにもっと励んでいれば、秀吉の子孫は繁栄したかも?
案外、秀吉の子孫が断絶してしまったため、「秀吉はBLに興味がなかった」などと言われているのだったりして?
んなわけないか。

大坂城 夕景



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[2016/10/30 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

叡福寺 夕景 桜紅葉 『太子廟には鳥が巣をつくらない』 

大阪府南河内郡 叡福寺
2010年11月6日 撮影


叡福寺 多宝塔 夕景 
塔百景25

叡福寺境内の奥に叡福寺北古墳があり、聖徳太子廟に治定されています。
↓ 立派な扉がついていますが、明治時代にコンクリートで塞がれたので中に入ることはできません。

太子廟 

●太子廟七不思議


太子廟には不思議な言い伝えがあり太子廟七不思議と言われています。

①御廟内には松や笹が生えない。
②鳥が巣を造らない。
③大雨が降っても御廟の土が崩れない。
④御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
⑤メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(1054年)に発見された。
⑥御廟の西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふいたものである。
⑦894年、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かく柔らかかった。

叡福寺 仁王像 

●古代、鳥は死の象徴だった?

この太子廟七不思議の中で「②鳥が巣を造らない。」というのが気になっています。

現代人にとって鳥は希望の象徴で「翼ください」なんて歌もありますね。
けれど古代人にとっては鳥は希望の象徴ではなく、死の象徴であったように思われます。

というのは、古事記に「死んだヤマトタケルが白鳥となって飛び立った」「鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を執り行う」などの記述があるからです。
またササキという鳥がいますが、これに御をつけるとミササギ(陵)となります。
昔の人は死んだ人の霊は鳥になって空へ飛んでいくと考えたのではないでしょうか。

巨大な前方後円墳が地上からではその形が認識できず、飛行機などに乗って高いところから見下ろすことによってようやくその形が認識できるのも、古墳が鳥の視線を意識して作られているためだと思います。



大阪府堺市 仁徳天皇陵 きれいな前方後円墳の形がわかりますね。



聖徳太子廟 円墳なのだそうですが、こちらは周囲にも木が茂っているせいか、よく形がわかりませんね。


●聖徳太子の棺の中に遺体がなかった。

そして太子廟七不思議にはありませんが、「聖徳太子の棺の中を調べてみたところ遺体がなかった」という伝説もあります。

すなわち「②鳥が巣を造らない。」というのは「棺の中に聖徳太子の遺体はない。」ということなのではないでしょうか。
聖徳太子の遺体はヤマトタケルのように鳥となってとびたっていってしまったと昔の人は考えたために「②鳥が巣を造らない。」などと言われているのではないでしょうか。

叡福寺 桜紅葉 
 
叡福寺境内よりPLの塔を望む

叡福寺境内よりPLの塔を望む。




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[2016/10/29 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

金剛寺 菊薬師 『井上内親王が高齢出産した男児の正体とは』 


金剛寺・・・奈良県五條市野原西3-2-14
菊薬師・・・10月25日~11月10日

金剛寺 菊 

金剛寺 菊

●井上内親王、光仁天皇を呪詛する?

井上内親王は奈良時代の人物で光仁天皇の皇后でした。
そして井上内親王が産んだ他戸親王は光仁天皇の皇太子にたてられていました。

ところが772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪されてしまうのです。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わっ高野新笠を母に持つ山部王(のちの桓武天皇)が立太子しました。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、に幽閉され、775年に二人は幽閉先で逝去しました。

金剛寺 菊2 

金剛寺 菊

●藤原氏の陰謀?

いやー、この事件って本当におかしいですよね。
井上内親王は光仁天皇の皇后という安泰な立場でありながら、なぜわざわざ夫の光仁天皇を呪詛する必要があったのかなあと思ってしまう。
そういうわけで、井上内親王が光仁天皇を呪詛したというのはでっちあげで山部王を皇太子につけたいと考えていた藤原百川らの陰謀とする説が有力です。

金剛寺 菊3 

金剛寺 菊

●井上内親王、怨霊になる。

その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあります。
また『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されていますし、『水鏡』には次のようにあります。
『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。
12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。
また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』

井上内親王陵 
井上内親王陵

●井上内親王ゆかりの地・五條


井上内親王と他戸親王が幽閉されたのは奈良県五條市須恵付近(五条駅南側)でした。
須恵付近はかつて下馬町と呼ばれていて、ここを下馬せずに通行すると井上内親王の祟りで落馬すると言い伝えられていました。

また井上内親王は奈良から流される時、産屋峰(今の奈良カントリークラブ五条コースの辺り)で男児を出産したという伝説があります。
このとき井上内親王は56歳です。これが本当なら随分と高齢出産だったわけです。
井上内親王が産屋峰で産んだ男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となった いわれます。

その他、五條市には井上内親王陵・他戸親王陵もありますし、産屋峰で出産した若宮を祀る若宮火雷神社(わかみやほのいかずちじんじゃ)もあります。

790年には井上内親王や早良親王を祀る御霊神社(御霊本宮)が、800年には霊安寺(現存せず)が創建されています。
その後、御霊本宮から分祀され、現在五條市内には23もの御霊神社があるそうです。
よほど井上内親王の怨霊は恐れられたでしょう。

御霊神社(奈良県五條市) 木漏れ日 
御霊神社(五條市霊安寺町)


●井上内親王を祀る金剛寺

五條市内にある23の御霊神社のうちのひとつが、金剛寺のすぐ近くにありました。(写真はありません。すいません。)
そして金剛寺はその御霊神社の宮寺(神社を管理するために置かれた寺)でした。

金剛寺の本堂には、御本尊の薬師如来の他、日光菩薩・月光菩薩・十二神将などが祀られていました。
あと、阿弥陀如来があって節分の日に開帳されるそうです。

観音堂の仏壇には円形の鏡が置いてあり、その後ろに小さな2体の観音像が安置されていました。 
明治初期の神仏分離令の際に、天満宮・御霊宮にあった十一面観音、准胝観音がここ金剛寺に移されたのだそうです。
鏡は神仏習合の名残なのでしょう。(神社にはたいてい鏡がかけてありますね)

お寺の方に、准胝観音は井上内親王と他戸親王、十一面観音は菅原道真だと説明を受けました。

●本地垂迹説

日本では古くから神仏は習合されて信仰されていましたが、そのベースとなったのが本地垂迹説という考え方です。
本地垂迹説とは、日本古来の神々(天照大神・菅原道真・井上内親王など)は仏教のみほとけが仮に衆上を救うために仮に姿を著したものであるとする考え方のことです。
そして日本古来の神々のことを権現、仏教のみほとけのことを本地仏といいました。

北野天満宮の西隣にある東向天満宮には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑が建てられています。
天満宮とは菅原道真のことです。
つまり「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真のもともとの正体である十一面観音をお祀りしています」というような意味なんですね。

准胝観音は井上内親王・他戸親王の本地仏なのでしょう。

●雷神になった井上内親王の子と菅原道真の関係

金剛寺は井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社の宮寺なので、井上内親王と他戸親王を祀る准胝観音を祀っているのはわかります。
だけどなぜ井上内親王とは関係がなさそうな菅原道真の本地仏である十一面観音を祀っているのでしょうか?

井上内親王が産屋峰で産んだ男児は後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となった という話を思い出してください。

この天満宮にあったとされる十一面観音はもともとは菅原道真ではなく、井上内親王が産んでのちに雷神となった男児ではないでしょうか?

●北野天満宮にはもともと火雷神が祀られていた。

『水鏡』には『(井上内親王の祟りによって)777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。』とあり、777年の干ばつは井上内親王の怨霊の仕業だと考えられたことがわかります。

菅原道真の生没年は845年ー903年なので、このころまだ菅原道真は世の中に存在していませんでした。
そして道真の死後、930年に清涼殿に落雷があり多くの死傷者が出、これは雷神となった道真の怨霊の仕業であると考えられたようです。

そして947年、京都に北野天満宮が建立され、道真が御祭神として祀られるようになたわけですが
もともとこの北野天満宮があった土地には火雷神が祀られていたというのですね。
つまり、菅原道真はもともと北野に祀られていた火雷神と習合された結果、北野の地に祀られるようになったのではないでしょうか。

●神の名前は襲名される?

津守国基 (1023-1102)という住吉大社の神主が、和歌の浦に住吉のお堂の壇に用いる石を探してやってきて、こんな歌を詠んでいます。

年ふれど 老いもせずして 和歌の浦に いく代になりぬ 玉津島姫
(長い年を生きてきただろうに、年老いることもなく、和歌の浦に鎮座して幾代になるのだ、玉津島姫よ。)

和歌の浦は和歌山県にあり、かつてここに玉津島神社がありました。

で、詞書を読むとこんなことが書いてあります。

「この歌を詠んだ夜の夢に、唐衣を着た女房が10人ほどあらわれて、ちょうどいい石はこれだよと教えてくれた。」

唐衣を着た女房が10人ほどあらわれたというのは、玉津島姫は10人いるということなのではないでしょうか。
もしかして、歌舞伎のように、次々に新しい神が玉津島姫の名前を襲名するので、女神はいつまでも年老いることがないのかも?

そう考えると、火雷神(雷神)もまた、次々に新しい神が火雷神の名前を襲名するのではないでしょうか。


「えっ、ということはつまり北野に祀られていた火雷神って井上内親王が産屋峰で産んだ雷神のこと?」
と思われたでしょうか?

北野に祀られていた火雷神は井上内親王が産んだ雷神ではないと思いますが、これについてはまた後日お話しできればと思います。

でも五條の天満宮のもともとの神は、菅原道真ではなく井上内親王が産んだ雷神ではないかと思います。

五條付近 吉野川 夕景 
五條市 吉野川


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[2016/10/28 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛城山 紅葉 すすき 『雄略天皇、葛城神、一言主神は同一神だった?』 

奈良県御所市 葛城山
2014年11月3日 撮影


葛城山紅葉 
●能・葛城

知らなかったんですが、能に葛城という作品があるそうです。

出羽国(山形県)・羽黒山の山伏が、大和国(奈良県)葛城山へとやって来ました。
たいへんな雪に困っていると里女が彼女の庵へ案内してくれました。
そして焚火をして山伏を温めてくれたのでした。

里女は山伏に言いました。
「雪の中で集めて束にした木々の細枝を標〔しもと〕といいます。
標結ふ 葛城山に 降る雪の 問なく時なく 思ほゆるかな という古歌もあるんですよ。」と。

山伏が夜の勤行を始めようとすると、里女は「自分の三熱〔さんねつ〕の苦しみを助けて下さい」と言いました。
山伏が女性の素性を訪ねると「自分は葛城の神ですが、昔、役の行者に命ぜられた岩橋を架けなかったため、不動明王の索に縛られ苦しんでいるのです。」といって消えてしまいました。
山伏は女神のために祈祷すると葛城の神が現れ、、お礼を述べて舞い、岩戸の中へ姿を隠しました。

葛城山 紅葉と薄 
●標を束ねる葛

標結ふ 葛城山に 降る雪の 問なく時なく 思ほゆるかな
標(しもと)を束ねるのに葛を用いたので、葛城を導く言葉として用いられているそうです。

この歌は古今和歌集にある歌だそうですが、ぐぐっても現代語訳がでてきません~。

「木々の細い枝を束ねた標(しもと)を束ねる葛、その葛の文字を持つ葛城山に降る雪を絶え間なく思っています。」
みたいな意味ですかね?
間違っていたらご指摘いただけますと嬉しいです。

のちに女神は
自分は葛城の神ですが、昔、役の行者に命ぜられた岩橋を架けなかったため、不動明王の索に縛られ苦しんでいるのです。
と言っています。


女神は自分を細い枝にたとえ、葛で束ねられた標(しもと)のように不動明王の索に縛られていることを伝えようとして
標結ふ 葛城山に 降る雪の 問なく時なく 思ほゆるかな
という古歌を持ち出したのではないでしょうか。

不動明王の索とは不動明王が手に持っている羂索(投げ縄のようなもの)のことではないかと思います。


●葛城の神は一言主神だった?

平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」にはこんな話が記されています。

役行者は鬼神たちに葛城山と吉野金武峰山を結ぶ橋をかけるよう命じたが、一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったため橋は完成しなかった。
これに怒った役行者は一言主神を呪術で縛り付けた。


能「葛城」で女神は
昔、役の行者に命ぜられた岩橋を架けなかったため、不動明王の索に縛られ苦しんでいるのです。
と言っています。

葛城の神とは一言主神だったんですね!

●容姿の醜い一言主神

能「葛城」では女神はただ「岩橋を架けなかった」と言っていますが、「日本霊異記」や「今昔物語集」では「一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかった」となっています。

祇園祭 宵山 役行者山

上の写真は祇園祭・役行者山の御神体で、中央が役行者、向かって右は葛城神、向かって左は一言主神です。
一言主神は鬼の姿をしています。
私なんかは鬼の姿をした一言主神ってかっこいいと思いますが、一般的に見て美しいとは言い難いかも。
やはり観音菩薩のような優し気な顔を美しいと思う人がほとんどでしょう。

●やっぱり一言主神は女神だった。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 

そして雄略天皇は次のような歌を詠んでいます。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの?
大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳です。)

これは先にご紹介した伝説(青文字部分)の、雄略天皇と一言主神の出会いの歌ではないかと私は思うんですね。
つまり、菜を摘む娘は一言主神ではないかということです。

ナンパしてきた雄略天皇に対して、娘はこう答えたのではないでしょうか。

『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』
参照/一言主神社 秋季大祭 『性別がルーズな日本の神』

そう、雄略天皇がナンパした娘は一言主神じゃないかと私は思うんです。

能「葛城」は一言主神が女神であることを裏付けているように思えます。

葛城山 薄

●三熱の苦しみ

能「葛城」では一言主神と思われる女神が
「三熱〔さんねつ〕の苦しみを助けて下さい」
と言っています。

三熱とは仏教の用語で、竜・蛇などが受ける三つの苦悩のことです。

①熱風・熱砂に身を焼かれる。
②悪風が吹いて住居・衣服を奪われる。
③金翅鳥 (こんじちょう) に食われる。

ちょっとまってー。
雄略天皇の伝説にこうあったではありませんか。

雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。


もしかして、雄略天皇は三熱の②「悪風が吹いて住居・衣服を奪われる。」に該当するのでは?

でも能「葛城」では三熱の苦しみがあるのは葛城の神=一言主神だったはず。

いや、一言主神と雄略天皇は全く同じいでたちをしているのでしたね。
全く同じいでたちをしていたということは、一言主神と雄略天皇は同一神?

さらに、葛城の神と一言主神は同一神と考えられるので、葛城神・一言主神・雄略天皇は同一神ということになりませんか?


葛城山 薄2   


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[2016/10/27 00:03] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

曽爾高原 すすき 夕景 『お亀は伊勢斎宮だった?』 

奈良県宇陀郡 曽爾高原
2014年10月25日 撮影

曽爾高原 薄 
●お亀ヶ池伝説

曽爾高原のススキの草原の中にお亀が池という池があります。



曽爾高原 お亀が池


お亀が池には次のような伝説があります。

伊勢国・太郎生村出身のお亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていました。
あるとき井戸の水に美しい男性の顔が映り「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といいました。
それ以来、お亀は夜になると出かけるようになりました。
男が理由を尋ねると『子供を授かるように水垢離をしている。』と言いました。
お亀は男児を出産し、姿を消してしまいました。
夫はお亀を探して太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませました。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消しました。
夫は懲りずにまた太郎路池に行きました。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かりました。
夫はなんとか逃げ帰りましたが、すぐに亡くなってしまいました。
お亀は野火から山火事になった時、焼けて死にました。
もとはこの池は太良路池といっていましたが、このお亀の事件があってからお亀ヶ池というようになりました。
またお亀が襲い掛かった場所を「大口」、一直線に追いかけてきたところを「立堀(たてほり)」、大蛇が疲れて休んだところを「弊足(びょうそく)」、水を飲んだところを「水舌(みずのみ)」と地名が残っています。

曽爾高原 薄2 
●伊勢内宮の神は男の蛇神で、斎宮のもとへ通っていた。

私はこの話を聞いて伊勢神宮に伝わる話を思い出しました。
伊勢内宮の神は男の蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」というのです。

●蛇は太陽神

まず蛇神についてですが、太陽神を蛇神とするのは日本だけでなく、世界中にあります。
蛇が脱皮する様は再生をイメージさせ、再生を繰り返す太陽(沈んでは昇る)とイメージが重ねられたと説明されます。

喜光寺 宇賀神 

上の写真は喜光寺(奈良市)の宇賀神です。
宇賀神とは頭が人間で体が蛇の姿をした神様です。

三輪山(奈良県桜井市)は蛇がとぐろを巻く姿だと言われます。
ということは、蛇の頭部や宇賀神の頭部は山から昇ってくる太陽を意味しているのではないでしょうか。

●天照大神は男神だった?

次に天照大神が男神であるということについて考えてみましょう。
天岩戸に隠れた天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から出てきました。
女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だとする説があります。

物部氏の祖神とされるニギハヤヒは、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまの ほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されていて、この神が本当の天照大神ではないかとも言われています。

そして初代神武天皇が東征して畿内入りするより早く畿内にニギハヤヒが天下っていたとする記述が日本書紀にあり、畿内には神武以前に物部王朝があったのではないかとも言われています。
どうも、日本書紀や古事記の記述は改竄されているように思われます。


曽爾高原 夕焼け

●御霊=男女双体、荒魂=男神、和魂=女神

神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)に分けられ、荒魂は男神で和魂は女神とする説があります。
とすれば御霊は男女双体となります。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


詳しくはこちらの記事をお読みください →  飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』

天照大神に仕える伊勢斎宮は男神である天照大神と和合して御霊にさせる存在なのだと思います。
「伊勢内宮の神は男神で蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」というのは、荒霊と和霊が和合して御霊になるということを物語的に表現したものではないでしょうか。

多気山不動尊 道祖神  


●お亀は伊勢斎宮、男神はニギハヤヒ?


お亀の出身地の伊勢国・太郎生は三重県津市美杉町太郎生で、曽爾高原から3kmあまりの場所にあります。
伊勢という地名は伊勢神宮を思わせます。
お亀は伊勢斎宮と同一視されているのだと思います。

そしてお亀は池の主である男神と逢引をしていたと考えられますが、池にすむ男神とは本当の天照大神、ニギハヤヒでしょう。

お亀は蛇神として登場しますが、さきほども述べたように伊勢の神は蛇神だという話があります。

実際には天照大神は男神だと考えられますが、日本書紀や古事記では天照大神は女神であるとしています。
それを受けてお亀が天照大神であると考えられ、お亀が蛇として登場する物語がつくられたのかもしれませんね。

 曽爾高原 月


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[2016/10/26 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪天満宮 流鏑馬 『大阪天満宮流・流鏑馬』 


大阪市北区 大阪天満宮
流鏑馬式・・・10月25日 



●オフィス街を駆け抜ける流鏑馬

関西で流鏑馬といえば京都の下鴨神社とか滋賀の近江神宮などが有名です。
下鴨神社や近江神宮には長い参道があり、そこで流鏑馬が行われます。
でも大阪天満宮は表門を入ると目の前に拝殿があり、馬が駆けていけるような長い参道はありません。
大阪天満宮で流鏑馬が行われると聞いたんですが、いったい馬はどこを駆けるのでしょうか?

大阪天満宮の表門から馬に乗った人が出てきましたよ。

大阪天満宮 流鏑馬3 

道の両脇にはオフィスビルがゴミゴミと建ち並んでいます。

大阪天満宮 流鏑馬2 

みめうるわしい殿方ばかりでうれしくなっちゃう~♪(スケベ)

大阪天満宮 流鏑馬1 

もしかして、オフィスビルが建ち並ぶこの道で流鏑馬やるんすか?

こんなところで弓矢放ったらあぶないやん!
と思ったら、半弓で的をたたいて破っていました!

大阪天満宮 流鏑馬4


●大阪天満宮 流鏑馬の起源


大阪天満宮の流鏑馬の起原ははっきりしないそうですが、1588年に流鏑馬を行ったという記録があります。
『難波鑑(1676年)』には失踪する馬上から的を矢で射る様子が記されています。
このころはまだ一般的なスタイルの流鏑馬が行われていたのですね。

『葦の若葉/大田南畝(1801年)』には現在と同じ、馬上から半弓で的を破る流鏑馬の様子が記されています。
1800年ごろの大阪天満宮の周囲はすでに民家などが密集していて、安全を考えて独特の形式が生み出されたのだろう、とのことです。

●松平忠明が天満宮に乗馬を奉納した理由


安土桃山時代、松平忠明という人がいました。

松平忠明は徳川氏の重臣・奥平信昌の四男で、母親は徳川家康の娘・亀姫でした。
つまり松平忠明は家康の外孫だったのですね。
1588年に徳川家康の養子となり、松平姓を賜っています。。
1603年、徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。
1614年に大坂冬の陣、1615年に大坂夏の陣がおこり豊臣氏は滅亡しました。
松平忠明は大阪の陣で手柄をたてて摂津大坂藩10万石の藩主となり、大阪城に入城しました。
そして同年、松平忠明は幕命により乗馬を大阪天満宮の神事に奉納しています。

松平忠明および幕府は大阪天満宮に大阪の陣の勝利祈願をかけていたのでしょう。
そしてそれが叶えられたので乗馬を奉納したのかな、と思ったりします。

大阪天満宮 流鏑馬6 




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[2016/10/25 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

亀岡祭 鍬山神社 『仲が悪い鍬山宮と八幡宮』 


鍬山神社・・・京都府亀岡市上矢田町上垣内22-2
亀岡祭・・・10月23日から25日 

亀岡祭 八幡山 

亀岡祭の宵宵宮の日、亀岡の町を訪ねました。
祭囃子を聞きながら情緒ある町を散策すると、十一基の山鉾が次々に現れます。

おでんやぜんざい、お神酒などの接待を行っている山もあり、いろいろ御馳走になりました。
亀岡のみなさん、ありがとうございました!

亀岡祭 お囃子

●亀岡盆地は湖だった。

亀岡祭は鍬山神社の祭礼ですが、鍬山神社には次のような伝説が伝えられています。

亀岡盆地が湖だった頃、大己貴命が八人の神様とともに樫船に乗り、鍬で浮田の峡を切り開き肥沃な農地を作りました。


大己貴命が切り開いた浮田の峡とは保津峡のことです。
実際、亀岡盆地が過去湖だったことを示す地層が発見されているそうです。

亀岡祭 桑山宮 

●大己貴命と誉田別尊

鍬山神社の御祭神は大己貴命と誉田別尊ですが、誉田別尊が祀られたのは709年の創建から456年後の1165年のことです。
もともとは大己貴命を祀る神社だったのでしょう。

誉田別尊とは応神天皇=八幡神のことです。
八幡は「ハチマン」のほか「ヤハタ」「ヤワタ」とも読まれ、渡来人の秦氏が祭祀する神だと考えらえています。
『日本書紀』には『応神14年、弓月君が応神天皇の助けを得て百済より百二十県の人を率いて帰化した。』と記されています。
秦氏が日本にやってこれたのは応神天皇の援助があったからこそで、そういったことから秦氏は応神天皇を神として崇めていたのでしょうか。

亀岡祭 高砂山 

●土木・治水の技術力に長けていた秦氏

保津川流域には秦氏が大勢住んでいました。
鍬山神社に誉田別尊を祀ったのは秦氏でしょう。

秦氏は土木・治水の技術力に長けた氏族で、渡月橋の下にある葛野大堰は秦氏が作ったものです。
保津峡の治水工事なども行ったことでしょう。

亀岡祭 蛭子山


●秦氏の神乗っ取り計画

保津峡を作った大己貴命は秦氏が祀る神・誉田別尊と同一神なのかな、と最初は思いました。
けれどもそう思わせることが目的で秦氏は鍬山神社に誉田別尊を祀ったのかもしれません。
つまり秦氏は鍬山神社の神をのっとるのが目的で鍬山神社に誉田別尊を祀ったのではないか、ということです。

というのは秦氏には神をのっとった前科があるのです。

亀岡祭 羽衣山


京都の藤森神社は紀氏の祖神を祀る神社で、もともとは伏見稲荷大社がある場所にあったそうですが、その地に秦氏が祭祀する伏見稲荷神社が建てられたため移転したのだそうです。
これは本来は紀氏の神であった稲荷山の神を、秦氏がのっとったということでしょう。

詳しくはこちらの記事をお読みください → 藤森神社 紫陽花 『紀氏の祖神を祀る寺』  

亀岡祭 三輪山


鍬山神社ももともとは他の氏族が祀る神社であったのを、秦氏がのっとろうとして誉田別尊を祀ったのではないかと思ってしまいます。

鍬山神社に伝わる次の伝説はこれを伝えるものではないかと思えるのです。

1165年、八幡宮を鍬山宮の隣に祀っていたところ、雷雨の発生や鳩と兎の争いがあり、八幡宮を杉谷に遷したところ収まりました。
1609年、鍬山宮と八幡宮を隣合わせに祀りましたが、争いを防ぐために両宮の間に小池が設けられました。


 亀岡祭 八幡山2




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[2016/10/24 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

鞍馬の火祭 『鞍馬に海賊が現れた?②』※追記あり 

鞍馬の火祭 『鞍馬に海賊が現れた?』  の続きでーす。

由岐神社 割拝殿
由岐神社 割拝殿

鞍馬の火祭は鞍馬寺境内にある由岐神社の祭礼です。

●氏子さんたちのいでたちは海賊のいでたちだった?

前回、鞍馬の火祭りの氏子さんは船頭篭手(せんどうごて)を身に着けていますが、これは藤原純友率いる海賊たちのいでたちではないかと書きました。

鞍馬は山中なのに船頭篭手って違和感がありますよね。

鞍馬の火祭 
向かって右の男性が腕につけているのが船頭篭手

940年9月9日、由岐明神は宮中から鞍馬へ遷宮されました。
このとき、平将門の乱は平定されていましたが、藤原純友の乱はまだ平定されていませんでした。
そこで由岐明神が鞍馬へ遷宮されたのは、藤原純友の乱平定を祈願するためではないかと私は考えました。
そして鞍馬の火祭は藤原純友の霊が海賊たちによって鞍馬に運ばれている様子を表しているのではないか、と思ったのです。

鞍馬の火祭2

●由岐 明神はうつぼ明神?

由岐明神は靭(ゆき)明神とも呼ばれています。
靭とは矢を入れる道具のことで、『うつぼ』とも読みます。

ウツボという魚もいますね。 



ウツボは凶暴な魚で『海のギャング』とも言われます。
ウツボは海賊の首領だった藤原純友のイメージにぴったりだと思うんですが、どうでしょうか?

靭明神とは魚のウツボの神であり、藤原純友のことじゃないかと思います。

鞍馬の火祭3

●日振島とウツボ

紀伊半島・四国・九州・沖縄ではウツボを食べるそうです。
おいしいそうですよ。一度食べてみたい!

で、海のギャング=海賊の首領こと私たちの藤原純友が本拠地としていたのは日振島です。

下は豊後水道および宇和海の地図です。
西には九州の大分県、東には四国の愛媛県があります。
地図上の宇和海という文字の下にwような形をした島が見えます。これが日振島です。

日振島でもウツボを食べる食習慣があったことでしょう。



●日振島は火振島?

日振島という地名の由来について、ウィキペディアには次のように記されています。

昔から船の往来があり、島民がたいまつの火を振ることで灯台の代わりをしたことに因む、との説がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%8C%AF%E5%B3%B6#.E5.9C.B0.E5.90.8D.EF.BC.88.E5.B3.B6.E5.90.8D.EF.BC.89.E3.81.AE.E7.94.B1.E6.9D.A5 より引用 

もしかして、鞍馬の火祭で用いられるたいまつは日振島の島民たちが灯台がわりに振っていたたいまつがルーツだったりして?! 

鞍馬の火祭 お旅所

 画質がわるくてすいません!

●チョッペンはカシオペア座と日振島を表している?

終電に間に合わなくなっていまうので泣く泣く帰宅したんですが、鞍馬の火祭では深夜チョッペンの儀が行われます。

チョッペンの儀とは二人の青年が脚を上向けに開脚して2つのV字形=W字形を作るというものです。
成人式の意味合いがあるなどと言われています。

↓ すばらしい動画があったのでお借りしました。動画主さん、ありがとうございます!



私はこのチョッペンの儀は日振島を表していると思います。



どうでしょう?形がにていませんか?

またチョッペンや日振島はカシオペア座にも似ています。

カシオペア座   
ヘタクソな図ですいません~。

カシオペア座のWは向かって左側のVが広いのに対し、日振島のWは向かって右側のVが広くなっていますね。
だけど上図のカシオペア座は地球上から空を見上げたときの形です。
星が天球に貼りついているものとして、天にいる神様が天球の上から眺めるとカシオペア座は日振島と同じように向かって右側のVが広い形に見えるはずです。



●錨星(カシオペア座)が北斗七星をつなぎとめる。

古の日本では、カシオペア座は北極星より下にあってW字形のときは錨星、北極星より上にあってⅯ字形のときは山形星と呼ばれていました。

カシオペア座 錨星 山形星  

錨とは綱や鎖をとりつけて海底や川底に沈めるもののことで、海賊の首領・藤原純友と関係が深そうに思えます。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E9%8C%A8 (錨の画像)

山形星(カシオペア座)と北斗七星

カシオペア座が錨星のとき、北極星を挟んだ上部には北斗七星があります。
錨星は北斗七星をつなぎとめているようにも見えます。

●北斗七星と平将門


北斗七星といえば平将門です。
加門七海さんが将門関連史跡の鎧神社・鬼王神社・築土八幡・神田明神・将門の首塚・兜神社・水稲荷神社をつなぐと、北斗七星の形になると指摘されているのです。

また将門の子孫を称する相馬家は家紋に『繋ぎ馬』を使用していました。↓

File:CrestOfSoumaClan.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CrestOfSoumaClan.jpg?uselang=ja より引用
作者/正親町三条さん

私は繋ぎ馬の紋は北斗七星を表しているのではないかと思います。
馬の頭から首にかけては北斗七星の枡の部分、胴の部分は持手部分ではないでしょうか。

●馬は北斗七星と錨星に繋ぎ留められている?

 飛鳥昭雄さんによれば古事記・神世第4代に登場する角杙神・妹活杙神という神名の『杙』とは牛や馬を繋ぎとめておくためのものであるといいます。

ヘブライ語で『角』と『光る』はどちらも『krn』と記します。
つまり角とは光のことで、角杙神とは光りながら地球のまわりを回る神=太陽、妹活杙神の活とは『満ち欠けする』の意で、満ち欠けしながら(活)地球の周りをまわる女神=月のことであるというのです。

飛鳥さんの説をヒントに考えてみたのですが、繋ぎ馬紋の馬を繋いである二本の杭のうち、ひとつは北極星、もうひとつは錨星(カシオペア座)を表わしているのではないでしょうか?

鞍馬の火祭5

●鞍馬七福神

鞍馬寺の山門をくぐるとケーブルカーがあって鞍馬山上の多宝塔前まで行けるんですが
ケーブルカーに乗らずに向かって左手の参道をのぼっていくと途中に由岐神社があります。
由岐神社からさらに参道をのぼっていくと双福園(恵比須天・大黒天を祀る)・福寿星神祠(福禄寿・寿老人を祀る)・巽の弁才天社(弁才天を祀る)・弥勒堂(布袋尊を祀る)・開運毘沙門天祠(毘沙門天を祀る)が次々に表れます。
これらは鞍馬七福神と呼ばれています。

鞍馬七福神 弥勒堂
鞍馬七福神 弥勒堂

●鞍馬寺境内に北斗七星と錨星があった!


高田祟史さんは七福神は北斗七星として祀られ、北極星の周囲を永遠に回り続けるという呪術がかけられているとおっしゃっていました。
鞍馬七福神は北斗七星の神を祀っているのではないでしょうか。
この鞍馬七福神の配置が北斗七星の形になっていたら面白かったんですが、そうはなっていませんでした~(笑)。

そしてこの鞍馬七福神の下に由岐神社があるというわけです。

鞍馬七福神=北斗七星=平将門?
由岐神社=靭(ゆき)明神=ウツボの神=海のギャング=藤原純友?=日振島=錨星(カシオペア座)

※追記
七福神信仰は由岐明神が遷宮された940年にはまだなかったかもしれません。
しかし古より北極星や北斗七星に対する信仰がありました。
鞍馬寺には古より北斗七星に対する信仰があったのではないでしょうか。
そしてその北斗七星に対する信仰を受けて、鞍馬七福神は作られたのではないかなあと思ったりします。


http://www.kuramadera.or.jp/annai.html(鞍馬寺境内図)

すると上の境内図の⑱「いのちの像」が北極星を表しているのかも?
「いのちの像」は鞍馬寺の御本尊・尊天(宇宙のエネルギーを象徴する神)をあらわすものとされます。

鞍馬寺 いのちの像 
鞍馬寺 命の像

いのちの像は由岐神社と鞍馬七福神をつなぐ場所にありますし、何より3つの輪がついたこの形・・・。

全ての星は北極星を中心にして回りますね。
まるで北極星には宇宙を回転させるパワーがあるかのようです。

いのちの像とは北極星の像であり、須弥山(かな?)にかかる3つの輪は宇宙を回転させるパワーのように見えてしまいます。

いのちの像は新しいもののように思えますが、いのちの像が建てられた場所は古から何か言われのあった場所なのかもしれませんね。

ううーん、だんだん由岐明神を鞍馬に遷宮させたことの意味が見えてきたように思えます。

鞍馬の火祭6

●鞍馬寺に棲むタゴカエルは平将門の化身?

鞍馬寺の奥の院あたりにはタゴカエルという蛙が生息しているそうです。
そして東京にある平将門の首塚にはガマの置物を奉納する習慣があります。

将門の首塚

平将門は藤原秀郷・平貞盛らに討伐されたのち、京の鴨川のほとりで首が晒されていました。
ところがあるとき首が空に舞い上がり、故郷へ戻って落ちたという伝説があります。
そこで「無事帰る」の語呂合わせから蝦蟇の置物が奉納されているのだと言われています。

私は蛙は人間の頭蓋骨を表しており、将門の首塚に蝦蟇の置物が奉納されているのは、将門がドクロの神だからではないか考えていますが、長くなるのでこれについてはコチラの記事をお読みください。
金峯山寺 蔵王堂 蓮華会 蛙飛行事 『蛙と空飛ぶドクロ』 

ともかく、このタゴカエルの鳴き声は人々に平将門を思わせたことでしょう。
人々はタゴカエルの鳴き声を聞いて「平将門の怨霊の声だ!」と思ったかも。



●鞍馬七福神・由岐神社に仕掛けられた呪術

藤原純友の乱はいまだ平定されない。
その上、鞍馬に平将門の怨霊が現れた。
これは大変、なんとかしなくては。
そうだ、いい方法がある!

平将門は北斗七星の神である。
そして錨星の形をした日振島を本拠地とする藤原純友は錨星の神である。
鞍馬七福神を北斗七星の神(平将門)として祭り、北極星(いのちの像の場所?)に繋ぎ止めよう。
さらに由岐明神を錨星の神(藤原純友)として祭り、北極星と繋ぎ止めよう。
こうすれば、北斗七星の神(平将門)と錨星の神(藤原純友)は北極星を挟んで繫がれる。
暴れまわる馬・平将門の怨霊も、海のギャング・藤原純友の錨で繋ぎ止めれば暴れることはないだろう。
さらに藤原純友(錨星)は北斗七星のひしゃくで水を濯がれ、溺れて死ぬだろう!

このような呪術が鞍馬にはかけられているのではないかと思います。

※ユーチューブの動画はお借りしたものです。動画主さんたち、ありがとうございます!

鞍馬の火祭7 



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[2016/10/23 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

鞍馬の火祭 『鞍馬に海賊が現れた?』 


京都市左京区 由岐神社
鞍馬の火祭・・・10月22日

鞍馬の火祭 門前町の飾りつけ

●大地震と天慶の乱

昨日、中国地方で大きな地震がありましたね。関西も結構揺れました。
被害にあわれた方々に心よりお見舞い申しあげます。

939年ごろ、都は大地震にみまわれ、また天慶の乱が起きるなどしました。
天慶の乱とは平将門の乱と藤原純友の乱のことで、同時期におきたので天慶の乱と総称されています。
また出羽で俘囚(朝廷の支配に属した蝦夷のこと)が反乱を起こしており、これも天慶の乱と呼ばれています。
939年は朝廷にとって大変な年だったのです。

鞍馬の火祭4

●由岐明神の遷宮

940年9月9日、朱雀天皇はそれまでは御所で祭っていた由岐明神を鞍馬に遷宮させました。
それはもちろん939年におこったもろもろの悪いことを払拭するという意味合いがこめられたものだったのでしょう。

由岐明神の遷宮の行列は無数の松明を携え、その行列は十町(約1キロ)に及びました。
『鞍馬の火祭』はこの遷宮の様子を再現したものだといわれています。
  
鞍馬の火祭 猿田彦

●山中なのに船頭篭手?


下の写真の男性が腕につけているのは船頭篭手(せんどうごて)です。
船頭篭手は船頭の力強い腕力を表すために身に着けているとされていますが、
鞍馬は山なのに船頭ってちょっと違和感があります。

鞍馬の火祭

鞍馬川という川が流れていますが川を渡る船の船頭さんなんでしょうか?
鞍馬川って水量がそんなに多くないと思いますが、保津川の急流下りをするような船が中世には鞍馬川を渡っていたのでしょうか?

鞍馬の火祭 太鼓

 
●由岐明神は藤原純友の乱平定を目的として遷宮された?

940年由岐明神が遷宮してきたのは9月9日ということですが、9月9日は旧暦だと思うので、これを新暦に直すと1940年10月12日となります。

平将門は940年3月25日に討死し、由岐明神が鞍馬に遷宮してきたときすでに平将門の乱は鎮圧されていました。
しかし、このとき藤原純友の乱はまだ鎮圧できていませんでした。

由岐明神を鞍馬に遷宮させたのは、由岐明神に立派な社殿を奉り、また都の東北におくことで鬼門封じとし、藤原純友の乱を鎮圧させようという呪術的な目的があったのではないでしょうか。

くらまのひまつり かがりび もり

●藤原純友は海賊の棟梁だった。


藤原純友は海賊の棟梁で、海賊を率いて乱を起こしました。
当時の海賊がどのようないでたちをしていたのかわかりませんが
もしかして鞍馬の人々が祭礼で身に着けているような船頭篭手をつけていたのかも?

鞍馬の人々のいでたちは藤原純友率いる海賊のいでたちなのではないでしょうか?

941年5月、朝廷の派遣した軍が純友軍を破りました。
純友は小舟に乗って伊予に逃れましたが、同年6月に捕らえられ、獄中で死亡しました。

鞍馬の火祭2


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[2016/10/22 09:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)