実際に見に行ったわけではないので、よくわからないんですが、残念ながら今年はあまり咲いていないと聞きました・・・。
●志貴皇子邸宅跡百毫寺の境内に万葉歌碑が建てられています。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
笠金村という人が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌です。
百毫寺は高円山の山麓にあり、かつて志貴皇子の邸宅があった場所だと伝わっています。
高円山には志貴皇子の陵もあります。
志貴皇子は天智天皇の第三皇子とも、第七皇子とも伝わっています。
●志貴皇子の薨去年は715年?716年?
昔、図書館で借りて「志貴皇子暗殺説」について説かれた本を読んだのですが、本のタイトルや著者名を忘れてしまいました。(すいません!)
志貴皇子暗殺説とは次のようなものです。
①日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっています。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせます。
また笠金村は 次のような歌も詠んでいます。
御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。) こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思えます。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われるというのです。
●鹿鳴草②百毫寺の境内にたくさん植えられている萩は別名を『鹿鳴草』といいますが、日本書紀に次のような物語があります。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
笠金村は「
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 」と歌を詠んでいますが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているようです。
●志貴皇子には正当な皇位継承権があった?また、のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないかとおっしゃっています。
実際、奈良豆比古神社に伝わる口承では「志貴皇子は天皇に近い人だった」と伝わっているそうです。
志貴皇子についてはこちらの記事にも書きました。→
中秋の名月と采女祭 采女神社 『猿沢池の采女伝説のモデルとは?』 志貴皇子は次のような歌を詠んでいます。
志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の萌え出づる春になりにけるかも
(岩にほとばしる滝の上のさわらびが萌えでてくる春になったのだなあ。) この歌は志貴皇子が皇位継承権を手にした喜びを詠んだものではないかと思うんですが、みなさまはどうお考えになりますか?
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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