奈良県明日香村 橘寺
●仏頭山橘寺の後ろにけ山が写っていますが、この山を仏頭山といいます。
欽明天皇の宮は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋)でしたが、別宮としてこの地に橘の宮がありました。
574年、欽明天皇の第四皇子・橘豊日命(たちばなのとよにのみこと/のちの用明天皇)の皇子として聖徳太子はこの橘の地で生まれました。
あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、不思議なことがおきました。
蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いたというのです。
推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じました。
そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めたのが橘寺だといいます。
●気持ち悪い。
山に千の仏頭があらわれた・・・
みほとけの身体がなくて、頭の部分だけが現れるってなんか気持ち悪くないですか?
●千のドクロが現れた山?
無実の罪で流罪となった菅原道真は死後怨霊になったと信じられ、京都の北野天満宮などに祀られました。
怨霊は祀り上げることで人々にご利益を与えてくださる神に転じると考えられていたのです。
北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観音菩薩」と刻まれた石碑が建てられています。
天満宮とは菅原道真のことで、「天満宮御本地仏 十一面観音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味です。
これは無念の死を迎えて怨霊となった菅原道真が煩悩を捨て去り、悟りを開いて成仏した姿が十一面観音であるという意味だと思います。
死んだ人のことを「仏さん」などと言うのは、
死んだ人が煩悩を捨て去り、悟りを開いて成仏すると考えられたためではないでしょうか。
すると、千の仏頭が現れたということは、千の死んだ人のドクロが現れたということなのかも?
●首をくくって自害した聖徳太子の子孫たち聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したといいます。
聖徳太子は日本で最も尊敬されている人物のひとりでしょうが、現在の日本人の血には聖徳太子の血は一滴も流れていないということになります。
山にあらわれた千の仏頭とは斑鳩寺で首をくくって自害した聖徳太子の子孫のことなのかも、と思います。
橘寺は聖徳太子、および自害した聖徳太子の子孫の霊を慰霊するための寺として建てられたのかもしれませんね。
●橘寺は聖徳太子の霊がたてた寺?山背大兄王ら聖徳太子の子孫が斑鳩寺で首をくくったとき、聖徳太子はすでに亡くなっていたじゃないか。
すでに死んだ聖徳太子が自分の子孫を慰霊するための寺を建てられるはずがないって?
梅原猛さんは「古代の人は生きている人と死んだ人の区別をきっちりとつけていなかった。」とおっしゃっています。
橘寺の創建説話に登場する聖徳太子とは、すでに死んでこの世にはいなかった聖徳太子の霊だと考えると辻褄があいます。
死んだ聖徳太子の霊がこの世に戻ってきて、自害した自分の子孫たちが成仏できるようにと勝鬘経の講義を行い、また自分の子孫たちを慰霊するために橘寺を建てた。
そんなふうに昔の人々は考えたということではないでしょうか。
今でもこういう考え方をすることがあります。
例えば家を新築するとして、「家を無事に建てることができたのは死んだ親父が天国で見守ってくれたからだ。」みたいなことは普通に言われています。
本当は家を建てたのは死んだ父親ではなく、自分自身なんですけどね。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
いつも応援ありがとうございます♪
にほんブログ村
にほんブログ村