奈良県明日香村
2007年9月30日 撮影
そろそろ飛鳥の彼岸花も見頃を迎えているでしょうか?
●鬼の雪隠・鬼の俎
近鉄飛鳥駅で下車し、田圃の脇の細い道を歩いていくと、鬼の雪隠と呼ばれる謎の石が現れます。
雪隠ってトイレのことですよね。
鬼の雪隠鬼の厠から少し歩くと、「鬼の俎」と記された道しるべがあります。
道しるべに従って階段を歩いていくと、平べったい石が現れます。
これが鬼の俎です。
鬼の俎
昔、ここに鬼が住んでおり、霧を発生させて道に迷った人間を鬼の俎で料理し、鬼の厠で用を足したなーんて伝説が残されていますよ。
●鬼の厠、鬼の俎は石室だった。残念ながらこれらの謎の石が鬼の雪隠・鬼の俎であったというのは伝説にすぎず、『鬼の厠』は古墳の石室、『鬼の俎』は石室の底石だと考えられています。
『鬼の厠』と『鬼の俎』はセットでひとつの石室だったという説、また明治時代まで『鬼の俎』の西にもう一つ別の俎があったそうで、二基の墓があったとする説もあります。。
現存しない俎の方は割られて庭石にされ、現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されているそうです。
●斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が有力『鬼の厠』『鬼の俎』は二基の石室であり、斉明天皇と間人皇后が合葬された墓ではないかという説もありますが、
現在、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が有力視されています。
(斉明天皇は孫の健皇子と合葬してほしいと詔していますが、日本書紀に合葬したという記述はなく、どうやら合葬されなかったようです。)
牽牛子塚古墳の石室はふたつあり、最近の発掘調査で八角墳であることが確認されました。
斉明天皇代の天皇家の墓のほとんどは八角墳なのです。
●石舞台古墳は暴かれた墓だった?
鬼の厠・鬼の俎から1.5kmほど東に向かって歩いていくと石舞台古墳があります。
石舞台古墳は盛土が失われて石室がむき出しになっています。
昭和初期に発掘調査が行われ、南北約83m、東西81mの方墳であったことがわかりました。
不思議なのはこれだけ巨大な古墳の盛り土が全く失われてしまっていることです。
まるで今問題になってる豊洲みたいですね。
梅原猛さんは中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、石舞台古墳も暴かれた墓ではないかとおっしゃっています。
石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされていますが、馬子の孫の蘇我入鹿は自分の屋敷を宮門(みかど)と呼ばせるなど天皇のように振る舞っているのがけしからんとして、645年に中大兄皇子に斬殺されています。
翌日、入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺しました。
馬子の墓は謀反人・入鹿の祖父の墓だとして暴かれ、盛り土が取り除かれて石室がむき出しの状態にされたのかも。
●『鬼の雪隠』『鬼の俎』は蘇我蝦夷・入鹿親子の墓?うーん、すると『鬼の雪隠』『鬼の俎』も石舞台同様、暴かれた墓なのではないでしょうか?
石室が二基あったということは、もしかして蘇我蝦夷・入鹿親子の墓だったりして?
そして霧を発生させて旅人を迷わせ、料理して食ってしまう鬼とは蘇我蝦夷・入鹿親子なのではないでしょうか?
高松塚古墳 光の地上絵 飛鳥光の回廊 『高松塚古墳の被葬者は蘇我入鹿だった?』 ↑ こちらの記事では「高松塚古墳は蘇我入鹿、キトラ古墳は蘇我蝦夷の墓」と書いてるじゃないか、って?
高松塚古墳私は蘇我蝦夷・入鹿の墓はいったん暴かれたのちに天災やら疫病の流行やらがあり、
それらは彼らの祟りであるとして高松塚古墳・キトラ古墳に埋葬されたのかも、と考えているのです。
高松塚古墳の被葬者には頭蓋骨の上部がありませんでした。(下顎の部分はありました。)
梅原猛さんはこれを「死後、白骨化してから持ち出したのではないか」とおっしゃっていました。
これはなかなか鋭い指摘だなあと思いました。
入鹿ははじめこの鬼の厠・鬼の俎付近の墓に葬られていたのが
後に謀反人であるとして暴かれ、そののち高松塚古墳に再び葬るさいに、頭蓋骨を抜き取った状態で葬られたのではないかと思ったりします。
頭蓋骨を抜き取るのは、蘇我入鹿が復活しないようにとのまじないではないかと思います。
肉体は魂の容れ物であり、頭蓋骨がない遺体にしておけば入鹿の魂は復活しない、と考えられたのではないかと思うのです。
追記
「この皇極元年(642)蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納する。さらに引き・続いて全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼んだ。蝦夷が、墓の建設は自分の死後人に苦労をかけないためだと言ったのに対して、上宮王家の春米(つきしね)女王は「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」と非難したと伝えられる。」
↑ こちらの記事によれば、蝦夷の墓が大陵、入鹿の墓が小陵となっています。
高松塚・キトラ古墳が蝦夷・入鹿父子の今木の双墓だとすれば、大きい高松塚古墳が蝦夷の墓、小さいキトラ古墳が入鹿の墓となります。
蘇我入鹿の首が中大兄皇子に斬られて皇極天皇の御簾に食らいついた、という伝説から、頭蓋骨が発見されていない高松塚古墳を蘇我入鹿の墓と考えたのですが、考えなおしが必用ですね。すいません。 ●今木の双墓日本書紀によれば、蘇我蝦夷と入鹿は生前に今来の土地に双墓をつくったとあります。
奈良県御所市に今来という地名があり、大字古瀬小字ウエ山に隣り合って存在する水泥古墳と泥塚穴古墳が蝦夷、入鹿の双墓ではないかと言われていますが、時代があわないとの指摘もあります。
鬼の俎・鬼の雪隠の西500mほどのところに梅山古墳があり、欽明天皇陵に治定されています。
※ 上の地図では道の北に「鬼の俎・鬼の雪隠」と記されていますが、これは間違いです。
「鬼の俎・鬼の雪隠」と記されているところは「鬼の俎」で「鬼の雪隠」はこの場所よりやや西で、道の南にあります。黒岩重吾さんは蘇我蝦夷・入鹿の墓、今木の双墓は梅山古墳(現・欽明天皇陵)ではないかとしておられます。
現在の梅山古墳が前方後円墳になっているのは江戸時代に改修されたためで、それ以前の絵には双円墳が描かれているというのです。
黒岩さんが見た絵と同じかどうかわかりませんが、こちらのサイトの下に古い欽明天皇陵を描いた絵が掲載されています。 →
☆ 上から見下ろした絵なら古墳の形がはっきりわかりますが、横から見た絵なので古墳の形がはっきりわかりません。
双円墳のようにも、崩れた前方後円墳のようにも見えます。
黒岩さんの説にしろ、私の説にしろ、飛鳥には今木という地名がない点が弱点ですね~。
地名が変わるということはふつうにあることではあるんですが。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2016/09/20 15:37]
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