京都市右京区 大覚寺・・・京都府嵯峨大沢町4
観月の夕べ 中秋を含む3日間●嵯峨天皇の月見の会にちなむ行事大覚寺の観月の夕べは、平安時代、中秋の日に嵯峨天皇(786-842)が大沢池に龍頭鷁首舟を浮かべて月見の会を行ったことにちなむ行事です。
大沢池は大覚寺の東にある広大な池です。
塔百景19えーっ。大覚寺の東に広沢池がある?ということは、上の写真はカメラを西に向けて撮ったんじゃないの?
満月の日、京都での月の出は午後5時ごろで、月の入は翌日の午前3時半ごろやん。
上の写真はもう月が沈みそうなんで午前3時ごろ?そんな遅い時間に観月会やってるのって?
おっしゃるとおり。上の写真はウソです~。
大沢池には舟が浮かびますが、多宝塔の前をよこぎるなんてことはなく、これもウソです~。(合成)
●名古曽の滝えー、大沢池の北に『名古曽の滝』の跡があります。
水は一滴も流れていない、枯れた滝の跡です。
百人一首に
瀧の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なお聞えけれ
(この瀧の音は聞こえなくなってから随分たつが、その評判は流れ伝わって今も人々の語り草となっている。) という歌があります。
藤原公任(966-1041)が、この『名古曽の滝』を詠んだ歌です。
「滝の音は絶えて久しくなりぬれど」とあるので、公任の時代、すでに滝は枯れてしまっていたのでしょう。
ちょっと月大きすぎ?
●大沢池は月見に適した場所嵯峨天皇が大沢池で月見を行ったのちも、ここで月見が行われたかどうかわかりません。
ですが、大沢池は平坦な土地にあって空を遮る高い山などがないので、月見をするには最適の場所だったのではないかと思います。
広い池に月が映るのも趣がありますしね。
瀧の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なお聞えけれ この歌の詞書には、『大覚寺に人々あまたまかりたりけるに,古き瀧を詠み侍りける』とあります。
観月会で大勢の人が集まっているときに詠んだ歌なのかも、と思ってしまいます。
●三舟の才 『大鏡』に藤原公任に関する『三舟の才』というエピソードが記されています。
あるとき、藤原道長が大堰川に漢詩の舟・管絃の舟・和歌の舟を出しました。
そして、漢詩の舟には漢詩の名人を、管絃の舟には管絃の名人を、和歌の舟には和歌の名人を乗せました。
道長は公任には『自分で乗る舟を選ぶように』と言いました。
公任は和歌の舟を選び、
小倉山 嵐の風の 寒ければ もみぢの錦 きぬ人ぞなき
と歌を詠んで賞賛されました。
しかし公任は『漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったのに』と悔やみました。 ●大堰川大堰川は京都府を流れる淀川水系の川ですね。
京都市右京区京北地区流域は上桂川、南丹市園部地区流域は桂川、南丹市八木地区から亀岡市付近では大堰川、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川、嵐山から南は再び「桂川」というそうです。
ややこしい~。
上の地図で亀岡市とあるあたりが大堰川と呼ばれる流域ですね。
大沢池は愛宕山とある表示のところから南東6~7kmあたりです。
●大堰川の舟遊びを思い出して詠んだ歌?藤原公任は広沢池の観月会にでかけ、で大沢の池に浮かぶ龍頭鷁首舟を見て大堰川の舟遊びを思い出し、大沢池のほとりにある『名古曽の滝』にかけて
瀧の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なお聞えけれ と詠んだのではないでしょうか。
つまりこの和歌の意味は『大堰川の舟遊びは昔のことになってしまいましたが、いまだにあのときの『三舟の才』のエピソードは人々の語り草になっています』という意味ではないかと思うのです。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2016/09/15 00:00]
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