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中秋の名月と采女祭 采女神社 『猿沢池の采女伝説のモデルとは?』  

奈良市橋本町 采女神社
采女祭・・・中秋の日
 

小池百合子東京都知事が築地市場移転を延期すると発言したことについて、多くの著名なジャーナリストたちが批判していました。
ところが、移転先の豊洲の土壌汚染対策として東京都は4.5mの盛り土を行うと説明していたのに、実際には盛り土がされていない箇所があることが判明しましたね。
ジャーナリストたちはきちんとした汚染対策がなされているという前提で小池知事を批判していたわけですが、その前提がひっくり返ってしまったわけです。
なぜ盛り土を行わなかったのでしょうね?

●藤原氏の氏寺

奈良興福寺の南に猿沢池があります。
猿沢池は興福寺の放生池として749年に造られた人工池です。

興福寺は藤原氏の氏寺です。
興福寺の東には春日大社がありますが、春日大社は藤原氏の氏神です。
かつて興福寺と春日大社は一体化していました。

●猿沢池に背を向ける采女神社


采女神社2  

采女神社は春日大社の末社で猿沢池のほとりにありますが、鳥居に背を向け、後ろ向きに建っています。
鳥居は猿沢池に面して建てられているので、采女神社の社殿は猿沢池に背を向けていることになります。

采女神社 

 平安時代に成立した『大和物語』に次のように記されています。
『奈良時代、帝の寵愛が衰えたのを嘆いて入水した采女を慰霊するために社を建てましたが、入水した池を見るにしのびないと社は一夜のうちに後ろ向きになりました。』 

中秋の夜、猿沢池ではこの伝説にちなんで采女祭が行われます。 

采女祭2  
●春日大社の神・アメノコヤネとは天智天皇だった?

春日大社ではアメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ・ヒメガミの四柱の神々をお祀りしています。
アメノコヤネは藤原氏の祖神とされています。

アメノコヤネは漢字で書くと天児屋根命となりますが、私は天児屋根命とは天智天皇のことではないかと考えています。
というのは天智天皇は次のような歌を詠んでいるからです。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)


『児』には『小さい』という意味があり、天児屋命とは『小さい屋根の下におわす神』という意味になります。
仮庵のとまの粗い小屋の屋根はそれは小さいことでしょう。 

采女祭
塔百景18

●藤原不比等、天智天皇後胤説


するとアメノコヤネは藤原氏の祖神なので、藤原氏は天智天皇の子孫だということになりますが、藤原不比等は天智天皇の後胤であるという説があります。
藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったというのです。
そうであるなら、アメノコヤネとは天智天皇のことであり、アメノコヤネが藤原氏の祖神だというのは辻褄があいます。

●アメノコヤネの御子神・春日若宮

アメノコヤネとヒメガミは夫婦神で、春日若宮様はこの二神から生まれた御子神とされています。

12月にこの春日若宮様のお祭り、おん祭が行われています。
このおん祭りで12月16日深夜に若宮神社の前で新楽乱声(しんがくらんじょう)が奏されます。
雅楽における楽譜のことを唱歌(しょうが)といいますが、その唱歌は『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』と記されます。

●奈良豆比古神社の『翁舞』

春日大社の北の奈良坂に奈良豆比古神社があり、毎年10月に『翁舞』の奉納があります。 

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁 

能に『翁」』という演目がありますが、おそらくこの『翁舞』をルーツとするものでしょう。

●ハンセン病にかかったのは春日王ではなく志貴皇子だった?

奈良豆比古神社のパンフレットには天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病にかかり、春日王の子・浄人王が春日王の病平癒を祈って春日大社で舞を舞ったところ春日王の病が回復したと書いてあります。
『翁舞』とはこの浄人王の舞をルーツにするものだと考えられます。

ところが地元ではハンセン病になったのは春日王ではなく、志貴皇子だと口承されており、翁とは志貴皇子のことだとされているそうです。

『とうとうたらりたらりろ』は春日若宮=志貴皇子のテーマソングだった?

翁は『とうとうたらりたらりろ』と謎の呪文を唱えます。
能の翁では『とうとうたらりたらりら』となっています。 

おん祭の新楽乱声を思い出して下さい。
それは『トヲ‥‥トヲ‥‥‥タア‥‥‥ハア・ラロ・・トヲ・リイラア‥‥』でした。
翁はおん祭で奏される新楽乱声の唱歌を唱えているのではないでしょうか。
それは春日若宮様のテーマソングだといってもいいでしょう。

そして春日若宮様とはアメノコヤネとヒメガミの皇子でしたね。
私はアメノコヤネとは天智天皇のことだと考えていますが、志貴皇子は天智天皇の皇子なので、これまた辻褄があうんですね。

●猿沢池に身投げした采女の正体とは

すると、ヒメガミとは志貴皇子の母親の越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)となりますが
越道君伊羅都売は采女(天皇の身の回りのお世話をする女官)で、またまた辻褄があいます。
猿沢池に身を投げた采女とはこの越道君伊羅都売のことではないでしょうか。

天智天皇=天児屋命
ヒメガミ=越道君伊羅都売(采女)
春日若宮=志貴皇子


●奈良豆比古神社に勧請されたヒメガミ

大和物語では帝の寵愛が衰えたのを嘆いて采女が猿沢池に身投げしたのは奈良時代の話となっているのでしたね。
天智天皇は飛鳥時代の人物なので時代があわへんやんって?

奈良時代の780年11月21日に、春日大社のヒメガミが奈良豆比古神社に勧請されています。 
これを昔の人々は「帝(アメノコヤネ)の采女(ヒメガミ)に対する寵愛が衰えた」と比喩的に表現したのではないでしょうか。

采女祭3



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[2016/09/14 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)