奈良県明日香村 石舞台古墳 高松塚古墳
飛鳥光の回廊・・・9月の初め(2016年は8月27日~28日でもう終了したそうです~)
↑ 蘇我馬子の墓と伝わる石舞台古墳です。
●高松塚古墳・キトラ古墳は高句麗の影響を受けている?http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-700.html↑ こちらの記事に『蘇我氏は高句麗からやってきた渡来人だとする説があり、馬子の墓とされる石舞台古墳は高句麗に見られるピラミッド古墳であった可能性が高い。』と書きました。
明日香にはこの石舞台古墳のほかにも高句麗の影響を受けていると考えられる古墳が2基あります。
高松塚古墳とキトラ古墳です。

↑ 高松塚古墳から飛鳥美人が抜けだした?(合成)ちょっと衣装が違うか。
●高松塚古墳・キトラ古墳には繊細な壁画が描かれていた!高松塚古墳とキトラ古墳の調査結果は日本中を驚かせました。
というのは、石室の壁や天井に繊細な壁画が描かれていたからです!
高松塚古墳には飛鳥美人(女子群像)、官人(男子群像)などのほか、四神図(玄武・朱雀・青龍・白虎の聖獣を四神といいます。高松塚古墳壁画はこのうち朱雀がありません。)・太陽・月・星宿図などが描かれていたのです。
高松塚古墳の南1.5kmほどのところにキトラ古墳がありますが、キトラ古墳の石室内部には四神図、十二支像、太陽・月・天文図が描かれていました。
飛鳥美人↑ 高松塚古墳の周辺は公園として整備され、高松塚壁画館や芝生広場が作られています。
展望台へ上って芝生広場を見下ろすと、小さな燈籠をたくさん並べて飛鳥時代の装束をまとった女性たちが描かれていました。
高松塚古墳壁画に描かれていた飛鳥美人と官人をモチーフとして地上絵を描いたのですね~。
高松塚古墳に描かれた飛鳥美人はこちら →
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takamat1.jpg?uselang=ja 高松塚古墳とキトラ古墳の四神図はとてもよく似ています。
そのため高松塚古墳とキトラ古墳の壁画は同一人物あるいは同一グループによって描かれたものと考えられています。
四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)
高松塚古墳に描かれた四神はこちら → https://www.asuka-park.go.jp/kitora/
●日本では他に例がない壁画古墳壁画が描かれた古墳は九州地方などにもあります。
しかしそれらのほとんどは幾何学的な模様を描いたものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%85%E9%A3%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3高松塚古墳・キトラ古墳の壁画はこれらの装飾古墳とは全く異なるセンスで描かれたものであることは一目瞭然ですね。
そして高松塚古墳・キトラ古墳のような壁画古墳は日本では他には例がないのです。
ただし天皇陵など宮内庁管轄の古墳は発掘調査が禁じられているため、石室内がどうなっているのか、よくわからないのですが~。
●高松塚古墳と高句麗壁画古墳・・・衣装がそっくり!しかしもう少し広い視野で見てみると、中国や北朝鮮などに高松塚古墳に似た壁画古墳があります。
中国の永泰公主墓 に描かれた壁画が高松塚古墳・キトラ古墳の壁画に似ているとの指摘もあります。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Court_Ladies_of_the_Tang.jpgなるほど、繊細なタッチは似ていますね。
でももっと似ている古墳壁画があります。
高句麗壁画古墳の壁画です。
http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/s/?@0_mall/book/cabinet/0470/04704189.jpg↑ 高句麗壁画古墳に描かれた女性像です。
襟のデザイン、プリーツを畳んだようなスカートなど、高松塚のものほとんど同じですね!
●高松塚古墳・キトラ古墳の被葬者は誰?さてさて、高松塚古墳・キトラ古墳の被葬者は誰なんでしょうか?
様々な説がありますが、私は高松塚古墳は蘇我入鹿、キトラ古墳は蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷の墓ではないかと考えています。
645年の乙巳の変で中大兄皇子に斬られて入鹿は死亡し、その翌日入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺しました。
乙巳の変の舞台となった飛鳥板葺宮跡
ピントがあった写真と、ピントをぼかした写真の2枚を多重合成してソフトな感じにしてみた。このとき蝦夷は59歳です。
蘇我入鹿は生年不祥ですが、蝦夷が20歳のときにできた子供だとすれば39歳です。
高松塚古墳から出土した頭がい骨片や歯を鑑定した結果、被葬者は4、50歳代の男性、キトラ古墳は熟年の男性とされていて、年齢はほぼあいます。
また高松塚古墳・キトラ古墳は高句麗壁画古墳に似ていて、被葬者は高句麗と関係の深い人物だと考えられますが
蘇我稲目(蘇我蝦夷の父、蘇我入鹿の祖父)の父が蘇我高麗という名で、当時、高句麗は高麗と呼ばれていたので蘇我氏は高句麗人ではないか、とする説もあります。
追記
「この皇極元年(642)蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納する。さらに引き・続いて全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼んだ。蝦夷が、墓の建設は自分の死後人に苦労をかけないためだと言ったのに対して、上宮王家の春米(つきしね)女王は「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」と非難したと伝えられる。」
↑ こちらの記事によれば、蝦夷の墓が大陵、入鹿の墓が小陵となっています。
高松塚・キトラ古墳が蝦夷・入鹿父子の今木の双墓だとすれば、大きい高松塚古墳が蝦夷の墓、小さいキトラ古墳が入鹿の墓となります。
蘇我入鹿の首が中大兄皇子に斬られて皇極天皇の御簾に食らいついた、という伝説から、頭蓋骨が発見されていない高松塚古墳を蘇我入鹿の墓と考えたのですが、考えなおしが必用ですね。すいません。
●消えた頭蓋骨高松塚古墳の被葬者は下顎の部分の骨はありましたが、その上にあるはずの頭蓋骨がありませんでした。
梅原猛さんは、時間が経過して死体が白骨化したのちに頭蓋骨だけ除かれたのではないかとおっしゃっています。
梅原さんは高松塚古墳の被葬者は弓削皇子としておられて、私とは考えが違うんですが
「死体が白骨化したのち頭蓋骨だけ除かれた」とする見解はナルホド~、と思いました。
●飛行するドクロ
多武峯縁起絵巻(談山神社)には、中大兄皇子に斬られた蘇我入鹿の首が飛び上がり、皇極天皇の御簾に食らいつくシーンが描かれています。
多武峯縁起絵巻 複製(談山神社)平将門の首が飛んだという伝説は有名ですが、蘇我入鹿の首も飛んだのです。
なぜ平将門や蘇我入鹿の首が飛んだなどという伝説が生じたのでしょうか。
髑髏は呪術の道具として用いられており、高貴な身分の人の頭蓋骨ほど効力があるとされていました。
実際に頭蓋骨が盗難されたという事件も起きていいます。
入鹿の死後、かなりたってから入鹿の頭蓋骨は呪術の道具として持ちだされたのかもしれません。
あるいは入鹿の魂が蘇らないように、頭蓋骨を持ちだしたのかも。
入鹿の首が飛んだなどという伝説が生じたのは、そういうことがあったからではないかと思います。
そういうわけで、頭蓋骨のない高松塚古墳の被葬者は蘇我入鹿、
高松塚古墳とよく似た四神図が描かれていたキトラ古墳の被葬者は入鹿の父・蘇我蝦夷ではないかと思うのです。
入鹿の首塚(飛鳥寺)
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2016/09/05 00:00]
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