奈良県桜井市 笠山荒神
2009年9月22日撮影
一面に広がる蕎麦畑。
その傍らに笠山荒神があります。
笠山荒神の拝殿の瓦は能・翁の面でした。
荒神さんと翁って何か関係があるんでしょうか?
●竃の神笠山荒神の御祭神は土祖神(はにおやのかみ)・ 興津彦命(おきつひこのみこと)・興津姫命(おきつひめのみこと)の三柱で、竈の神・防火の神として信仰されています。
興津彦命は奥津日子命、興津姫命は奥津比売命とも表記されます。
漢和辞典をひいてみると次のように書いてありました。
【奥】もとかまどのある所をいい、のちには家の奥深い西南のすみをいい、ひいて広くおくまったところをいう。
(角川漢和中辞典/昭和51年1月20日161版発行) それで竈の神の名前を奥津日子命(興津彦命)、奥津比売命(興津姫命)というのですね~。
炭火の火種のことを『おき火』というそうですが、『おき火』の『おき』ももともとは『奥』だったのかもしれませんね。
笠山荒神参道を歩いていただいたのは、安井金毘羅遇・櫛祭に登場された方です。(合成)●おきつひめは火山の女神?『おきつひめ』って最近どこかで聞いたなあ~?
そうそう、石川県輪島に奥津比咩(おくつひめ)神社があり、奥津姫神を祀っていたのでした。
そのときの記事はこちらです。↓
奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』
石川県輪島市海士町・奥津比咩神社の入水神事。
輪島から50km沖にある舳倉島にも奥津比咩神社があります。
海士町の人々はかつて夏に舳倉島に移り住んでアワビやエビをとり、秋ごろ海士町に戻るという生活をされていました。そのため舳倉島の奥津比咩神社を勧請して海士町に祀ったのでしょう。舳倉島の奥津姫神は『沖の女神』という意味だと思っていましたが、竈の神・奥津比売命と同一の神様なのかも。
そう思って調べてみたところ、舳倉島は火山島であることがわかりました。
火山島は火を噴くので、竈の神、奥津姫神を祀っているのではないでしょうか。
●舳倉島はへっつい(竃)の島?舳倉島(へぐらじま)の舳(へ)は『へっつい』のことではないかと思ったりします。
というのは、興津姫命(奥津比売命)は別名を大戸比売神(おおへひめのかみ)ともいうのです。
関西ではかまどのことを『へっつい』といいますが、大戸比売神の戸(へ)は『へっつい(かまど)』のことだとされています。
火を噴く火山島なので、へっつい(竃)の島という意味ではないでしょうか。
山口家住宅(大阪府堺市) へっついさん「へぐらじま」の「くら」はわかりませんが、蔵王権現と関係があるかも?
蔵王権現とは奈良県吉野山にある蔵王堂の御本尊です。
蔵王権現の蔵は「くら」とよみますね。
また、桜は蔵王権現の御神木とされ、吉野山にはたくさんの桜が献木されています。
この桜の語源は、「くら」に接頭語の「さ」(さおとめ、さみだれなど)がついたものだと説明されることがあります。
「くら」とは蔵王権現のことであり、「さくら」とは蔵王権現をあらわす「くら」に接頭語「さ」をつけたものなのかも?
吉野山。遠くに蔵王堂が見えています。●荒神舳倉島の奥津姫神は海に時化をおこして多くの猟師の命を奪う荒魂であったようです。
(男神=荒魂、女神=和魂、とする説があり、私はこれを支持していますが、必ずしもそうでないケースがあったのかも~)
荒神という名前の由来は不明ですが、「荒魂」からくるという説もあり、舳倉島の奥津姫神に通じるところがありそうです。
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[2016/09/30 19:00]
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奈良県葛城市 當麻山口神社
宵宮祭 9月22日
●當麻山口神社 宵宮祭9月22日、當麻山口神社で宵宮祭が行われるというので友人を誘って行ってみました。
宵宮祭に参列する氏子さんたちがぞくぞくとやってきて拝殿に着席されます。
観光客は私と友人のふたりだけで、「ここにいて写真を撮ってもいいんだろうか?」と不安な気持ちに~。
ですが、みなさん親切で、「写真撮ってもいいですよ」とおっしゃってくださいました。
おごそかに神事が行われる中、私たちのカメラのシャッター音がやけに響いて~(汗)
氏子さんの中にはうるさいと感じられた方がおられるかもしれません。
もしもそうだったら申し訳ありませんでした。

宵宮祭は新生児が神職さんより祈祷を受け、絵馬を奉納するというものです。
絵馬は拝殿に4枚ほど奉納されていましたが、赤ちゃんの姿はありませんでした。
少子化のため、今年はこの地域で赤ちゃんが生まれなかったのかも?
それで氏子さんの、離れて住むお孫さん、親戚の子供さんなどの絵馬を用意したのではないかと想像します。
http://www.lint.ne.jp/nomoto/PHOTOSALON/kinsatu_1109.html↑ こちらの方はかわいい赤ちゃんを入れて素敵な写真を撮っておられます。いい写真ですね!
當麻山口神社 絵馬堂の絵馬
●宵宮祭の本来の意味は還御祭だった。宵宮祭について、コトバンクには次のように記されています。
夜宮,宵宮祭,宵祭とも。現在は例祭の前夜に行われる前夜祭,準備祭となっているが,本来は当番の家やお旅所に奉安されていた神霊が本祭のため本社に帰る還御祭に当たり,例祭の中でも重要な位置を占めていた。
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B5%E5%AE%AE-652649より引用
當麻山口神社の隣にある傘堂●當麻山口神社宵宮祭の本祭は?當麻山口神社宵宮祭の翌日に本祭はありません。
1か月後の10月22日に例大祭がありますので、この例大祭の宵宮祭という意味なんでしょうか?
詳しい方、おられましたら教えてください!
●當麻山口神社宵宮祭は彼岸の行事?
暦法のひとつである二十四節気とは1太陽年を24に分割して季節をあらわす名前をつけたものですが
この季節を表す名前の中に春分・秋分があります。
春分と秋分には太陽は真東よりのぼり真西に沈みます。
そのため、春分と秋分には、西方にある極楽浄土に思いをはせる習慣が生じ、さらに先祖供養をする習慣が生じたとされます。
この習慣のことを彼岸といいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%88%86%E3%81%AE%E6%97%A5#.E8.BF.91.E5.B9.B4.E3.81.AE.E6.98.A5.E5.88.86.E6.97.A5.E3.81.A8.E7.A7.8B.E5.88.86.E6.97.A5上記ウィキペディアに近年の秋分日が記されていますが、だいたい9月23日ですね。9月22日が秋分日の年もありますが。
當麻山口神社の宵宮祭は毎年9月22日です。
もしかして氏子さんたちが各自めいめいで、先祖供養をする秋分日が本祭で、その宵宮祭という意味合いがあるのかも?
●彼岸と日の没する山・二上山當麻山口神社は二上山の麓にありますが、奈良から見て二上山は西に位置し、夕日の沈む山であると古より認識されていたと思われます。
私も奈良で二上山に沈む夕日の写真をたくさん撮っています。
奈良県明日香村より二上山を望む
●當麻寺の練り供養は沈む太陽を比喩する行事だった?當麻山口神社はかつて當麻寺境内にあったそうで、當麻寺と関係の深い神社だと考えられます。
その當麻寺では5月に『當麻のお練り』という行事が行われています。
「當麻のお練り」は當麻寺に伝わる中将姫伝説を再現したものです。
中将姫伝説とは次のようなものです。
中将姫は藤原豊成と紫の前の間に生まれましたが、中将姫が幼いころ、母親の紫の前は亡くなってしまいました。
藤原豊成は照夜の前という後妻を迎えましたが、照代の前は中将姫を憎み継子いじめをしていました。
豊成が諸国巡視の旅に出かけた際、照夜の前は従者に中将姫を殺すようにと命じました。
しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山に草庵を結び念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
その後中将姫は出家して當麻寺に入りました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。
私は中将姫とは太陽を擬人化したものであり、中将姫が生きながらにして西方浄土に向かうとは、沈み行く太陽が二上山の向うの西方浄土に向かうさまを表現したものではないかと思います。
當麻寺周辺は沈み行く太陽に対する信仰の厚い地域であったのではないでしょうか。
●死者に自らの穢れをあの世にもっていってもらう。
↑ こちらは京都・即成院の二十五菩薩練供養です。
即成院本堂には二十五菩薩と阿弥陀如来像が安置されています。
即成院の練り供養は、當麻寺の練り供養と同じく、西方浄土より二十五菩薩が死者を迎えに来る様子を再現したものです。
この行事について、梅原猛さんは「死者に自らの穢れをあの世にもっていってもらう」という信仰があったというような意味のことをおっしゃっていたように記憶しています。
彼岸は西国浄土に思いをはせ、西国浄土におられるご先祖様の供養をする日です。
當麻山口神社の宵宮祭は、このご先祖様に子孫の誕生を報告し、また生まれた子供の穢れをご先祖様にもっていってもらうという行事なのかも?
當麻寺 彼岸花毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2016/09/29 16:34]
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愛知県半田市 赤レンガ建物
前回の矢勝川堤から2.5kmほどの場所に半田赤レンガ建物があります。
●ジブリのアニメにも登場したカブトビール半田赤レンガ建物は1898年(明治31年)にカブトビール半田工場として建てられました。
ジブリのアニメ「風立ちぬ」では、名古屋駅周辺が舞台のひとつとなっており、「カブトビール」の看板が描かれているそうです。
「風立ちぬ」、映画館まで見に行ったんですが、「カブトビール」の看板はちょっと覚えてないので、もう一度映画見たいです。
昔の名古屋駅に設置された「カブトビール」の看板の写真はこちらにありました。
→
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB#/media/File:Nagoya_Station_in_Taisho_and_Pre-war_Showa_eras.JPGこちらは
大正時代の加富登麦酒株式会社半田工場(現在の半田赤レンガ建物)です。→
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB#/media/File:Kabuto-beer_Handa_brewery.jpg設計はドイツのゲルマニア機械製作所
、構造設計は妻木 頼黄(つまき よりなか)です。
横浜赤レンガ倉庫もこの方が構造設計されていますね。
横浜赤レンガ倉庫●半田赤レンガ建物は省エネ設計だった!半田赤レンガ倉庫はビール工場として作られたので、低温を保つ工夫がいろいろとなされているようです。
①屋上スラブ(下が空間になっている構造の床のこと)が2重~3重のアーチ耐火床
②①以外の屋上スラブには断熱用大鋸屑(おがくず)が厚く設置されている。
③レンガ壁体(へきたい。壁面を含む壁の全層のこと)に断熱材として厚さ40mmのコルクが張り付けてある。
④西面が半地下。(西面が半地下だとなぜ涼しいんでしょうね?)
⑥壁、床スラブが厚い。
外気温が34度のとき、1階貯蔵庫の室温を図ると21度だとか。これはすごい!
壁がびっくりするくらい厚いです。
これは建物を切り離したあとのようです。
↑ 説明版に描かれていた平面図。
↑ 柱頭。
↑ 説明版より 建物を切り離す以前、柱頭はこんな感じで使われていたようです。
鉄製なので頑丈だったことでしょう。
●中島飛行機製作所の衣糧倉庫に。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)、赤レンガ建物は中島飛行機製作所の衣糧(衣服と食糧)倉庫となりました。
建物が省エネ設計であることが、衣糧倉庫として用いるのに都合がよかったのではないかと想像します。
●東南海地震・三河地震、そして半田空襲1944年(昭和19年)12月7日、昭和東南海地震(半田市は震度6以上、死者188名)が起こりました。
中島飛行機半田製作所は
山方工場・葭野工場が倒壊するなどの被害を受けたそうです。
1945年(昭和20年)1月13日には三河地震(死者12名)が起こりました。
このタイミングを見計らうように、1945年7月15日と7月24日、米軍によって半田空襲が行われました。
中島飛行機製作所本工場へ81発、山方工場へ35発の爆弾を投下されたそうです。
軍用機を生産していたので、狙われたんでしょうね。
この半田空襲によって264名以上の方が亡くなられたということです。
半田赤レンガ建物の北側です。目を凝らしてよーく見ると・・・
壁に無数の機銃掃射痕が残っています。
頑丈な造りだったので空襲に耐えたのでしょうか?それとも衣糧倉庫なので執拗に攻撃されなかったのでしょうか?
●弾道ミサイル空襲警報戦争はあってほしくないですが、最近北朝鮮がミサイルを討ち、日本の排他的経済水域に落下したようですね。
これに対して政府が弾道ミサイル空襲警報を出さなかったとして、武田邦彦さんは激しく批判されています。
弾道ミサイル空襲警報なんて初めて聞きました。なんでメディアはこういうことを報道しないんでしょうか?
考えたくないですが、もしも戦争になった場合、空襲で狙われるのは原発ではないでしょうか。
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[2016/09/28 21:35]
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愛知県半田市 矢勝川堤
2016年9月24日 撮影歩いても、歩いても彼岸花が続く矢勝川堤の散歩道。
地元の方にお話しを伺ったら、「今年はあんまり咲いてない」ということでした。
あるいはまだ蕾がいっぱいあったので、今頃満開になっているかも。
パンフレットの写真などを見ると、彼岸花がぎっしり咲いて真っ赤なカーペットのようです。
そういうときに再び訪れることができるといいなあ~。
●ゴン狐愛知県半田市は童話作家・新見南吉さん生誕の地です。
矢勝川堤防は南吉さんがよく散歩された道で、川の向こうには権現山(愛知県知多郡阿久比町)が見えます。
南吉さんの作品に登場する「ごん狐」はこの権現山から名前をとったという説もあります。
キツネのゴンがいたずらをしにきたと思い、兵十はゴンを銃で撃ってしまいます。
そして兵十は土間に栗が置いてあるのを見つけ、毎日兵十に栗を届けてくれていたのがゴンだったことを知ります。
やるせない物語ですね~。
「ごん狐」は青空文庫で読むことができますよ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html
向かって左の山が権現山 ●改変された「ごん狐」ところが、どうも青空文庫の「ごん狐」は新見南吉さんのオリジナルではないようで、あちこち改変されているようです。
http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/papers/gon.htm↑ 上記サイトに詳しく説明されています。
オリジナルの文章を読んでみたいです。
●猟師に伝わる権現山に住む狐の物語?
南吉さんのオリジナルではタイトルは「権狐」となっており、引退した猟師の茂助爺に聞いた話としています。
ここから考えて、権狐は「権現山に住む狐」であり、猟師のあいだに伝わる伝説だったのではないかと想像します。
日没後、彼岸花がライトアップされました。●本地垂迹説権現山の権現とは、本地垂迹説に基づく言葉です。
本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方のことです。
そして仮にこの世に姿を現した日本の神々のことを「権現」、神のもともとの正体である仏教の神々のことを「本地仏」といいます。
菅原道真を祀る北野天満宮の西に東向天満宮があり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石碑がありますが
これは、天満宮(菅原道真のこと)の本地仏である十一面観音をお祀りしていますというような意味です。
逆に言えば、菅原道真は十一面観音の権現だということです。
で、今回は参拝することができなかったのですが、権現山には五郷社、明神社というふたつの神社があるようです。
明神社の御祭神は調べたけれどわかりませんでした。
五郷社の御祭神はスサノオです。
スサノオはインドの神・牛頭天皇と習合され、その本地仏は薬師如来とされることが多いです。
逆にいえば、スサノオは薬師如来の権現とされることが多いということになります。
明治の神仏分離令まで、さきほどご説明した本地垂迹説にもとづき神仏は習合して信仰されていました。
五郷社は薬師如来を祀る寺院と関係の深い神社だったのかも、と思って近所のお寺を調べてみましたが、御本尊まではわかりませんでした~。
●神使
また神使(しんし)というものがあります。
読んで字のごとく「神の使い」という意味で、伊勢神宮の神使は鶏、大神神社の神使は蛇などとされています。
狐は稲荷神の神使とされることが多いですが、ガイドブックをみても矢勝川周辺に稲荷神社は見当たりません。
物語に登場する狐の名前が権というところから考えると、権は権現山の神の神使じゃないかと思うんですが。
●狐は権現山の神の使いだった?美味しいのは猪や鹿など草食動物の肉で、狐や狸など雑食動物の肉はまずいそうです。
ただ、毛皮をとることができます。
そういうことで、このあたりの猟師さんは狐をとらえていたのかも?
南吉が猟師から聞いた話だということは、狐の権は猟師たちが信仰していたの神の使いなのかもしれませんね。
そして山でとれる栗などの恵みは権現山の神使である狐がもたらしてくれるものであると考えられていたのではないかなあ、と思いました。
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[2016/09/27 17:46]
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奈良市中院町 元興寺
2012年9月23日 撮影
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)刀を持っているのが中大兄皇子、首を斬られているのが蘇我入鹿。●蘇我入鹿と鹿鳴草
元興寺は飛鳥時代に蘇我馬子が創建した寺ですが、馬子の孫の蘇我入鹿は中大兄皇子に討たれて死に、その後、蘇我氏は没落してしまいました。
萩の別名は『鹿鳴草』といいます。
そして日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があります。
雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)
謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないかというのです。
蘇我入鹿は謀反人であり、蘇我氏の氏寺の元興寺に謀反人を象徴する鹿鳴草(萩)は似合いすぎるほどですね。
●萩の白花は謀反人に振る塩に喩えられている?なぜ萩のことを『鹿鳴草』というのでしょうか。
萩には白色の花と紫色の花がありますが、白い萩の花は塩を振ったように見えます。
また鹿の夏毛には白い斑点があり、その白い斑点もまた塩に喩えられたのではないでしょうか。
東大寺にてつまり、白い萩の花は謀反人=雄鹿をあらわすものだと思います。
●萩の紫花は雌鹿をあらわしている?①紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも/大海人皇子
(紫草のように美しいあなた。あなたが憎ければ、人妻と知りながら、こんなに恋い焦がれずにいられるものを。)
②紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰/詠人知らず
(顔をぽっと赤らめた海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)
※紫色に布を染める際、媒染剤として椿の灰をいれると鮮やかに染まったのだそうです。 この2つの歌を鑑賞すると、女が男に恋する様子を紫と表現していたのかな、と思えます。
紫色の萩の花は雄鹿に恋する雌鹿をあらわしているのではないでしょうか。
●御霊・荒魂・和魂
このブログで何度も何度も何度も書いていますが、またしつこく書きます。(笑)
神はそのあらわれ方によって、御霊(みたま/神の本質)・荒霊(あらたま/神の荒々しい側面)・和霊(にぎたま/神の和やかな側面)の3つに分けられ、男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説があります。
御霊・・・神の本質・・・・・・・・・・男女双体
荒霊・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・萩(白)
和霊・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・萩(紫) 謀反の罪で殺された人は死後怨霊になると考えられていました。
つまり、謀反人とは怨霊であり、荒霊であり、男神なのです。
この荒霊である謀反人の霊を慰霊するためには女神と和合させる必要があると考えられていたのではないかと思います。
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[2016/09/26 12:04]
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奈良県宇陀市 仏隆寺
撮影 2008年9月23日
毎年9月には仏隆寺の彼岸花を見にいくのを楽しみにしていたんですが、数年前、猪や鹿に彼岸花の球根が食べられてしまったとか・・・。(写真はそれ以前に撮影したものです。)
ボランティアの方々が以前のような景観に戻すよう、3年計画で球根を植えられているとのことで頭が下がります。
彼岸花の球根は毒があってモグラなどの小動物を避けるために田畑の畔に植えられた、と聞いたことがあるんですが、
猪や鹿は彼岸花を食べても平気とはオドロキです。
烏丸半島の蓮もそうですが、植物というのはある日突然全滅してしまったりすることがあるのですね。
動物に食い荒らされて全滅することもあれば、寿命ということもありますね。
染井吉野は寿命60年だとかいわれていますね。
「同じ風景は二度はない」と肝に命じ、一期一会を大切にして撮影したいです。
197段の階段を昇って山門をくぐると境内には白い彼岸花が咲いていました。
●堅恵は即身仏になろうとした?仏隆寺は室生寺の末寺で、850年に空海(774-835)の高弟・堅恵(けんね/生没年不詳)によって創建されたと伝わっています。
本堂の東、鎮守の社の背後に入定石窟があります。
この石窟は堅恵の廟だといわれています。
入定とは即身仏となるために、石室に籠ることを言います。
堅恵は即身仏になるためにこの石窟に入定したということでしょうか?
●『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は何と読む?突然ですが謎々です。
『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』 これはなんと読むのでしょうか。
この文章は『弘法大師如意宝珠納札銘』に記されたものです。
●ヒントは落語の平林落語の平林がヒントです。
丁稚の定吉は店主に平林さんのところに手紙を届けるようにとおつかいを頼まれます。
ところが定吉は途中で行先を忘れてしまいます。手紙には宛名が書いてあるのですが、定吉は漢字が読めません。
そこで手紙のあて名を道行く人に聞くと
「たいらばやし」だとか「ひらりん」だとか「いちはちじゅうのもくもく」「ひとつとやっつでときっき」などといい加減なことを教えられます。
定吉はこれらを全部つなげて怒鳴りました。
『たいらばやし』か『ひらりん』か『いちはちじゅうのもっくもくー』『 ひとつとやっつでとっきっきー』
『いちはちじゅう』は『一八十=平』、『もっくもくー』は『木木=林』
『 ひとつとやっつでとっ』は『一八十=平』、『きっきー』は『木木=林』と漢字を分解しているわけです。
オモシロイ!
●謎々の答え『宇一山』は正確には『宀一山(べんいつさん/ういつさん)』で『宀一』は『室生』の二字のそれぞれ上下を採ったもの。
『竹目々』は『竹木目』で『箱』の字を分解したもの。
『土心水師』は堅恵法師の部首を採った略とされます。
すると、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は『室生山精進峯の箱の底が堅恵法師の道場である』という意味になると思います。
即身仏となるとき、生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせたりしたようです。
つまり、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』とは、『堅恵は室生山精進峯に入定した』という意味なのではないでしょうか。
堅恵は867年7月5日に仏隆寺の石窟の中に入定したともいわれています。
ということは室生山精進峯とは仏隆寺のある摩尼山のことなのかもしれませんね。
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[2016/09/23 00:00]
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奈良県明日香村 橘寺
●仏頭山橘寺の後ろにけ山が写っていますが、この山を仏頭山といいます。
欽明天皇の宮は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋)でしたが、別宮としてこの地に橘の宮がありました。
574年、欽明天皇の第四皇子・橘豊日命(たちばなのとよにのみこと/のちの用明天皇)の皇子として聖徳太子はこの橘の地で生まれました。
あるとき聖徳太子が3日間にわたり勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行うと、不思議なことがおきました。
蓮の花が庭に降り積もり、仏頭山に千の仏頭が現れ光り輝いたというのです。
推古天皇はこれにたいそう驚かれて、この地に寺を建てるようにと聖徳太子に命じました。
そこで聖徳太子が橘の宮を寺と改めたのが橘寺だといいます。
●気持ち悪い。
山に千の仏頭があらわれた・・・
みほとけの身体がなくて、頭の部分だけが現れるってなんか気持ち悪くないですか?
●千のドクロが現れた山?
無実の罪で流罪となった菅原道真は死後怨霊になったと信じられ、京都の北野天満宮などに祀られました。
怨霊は祀り上げることで人々にご利益を与えてくださる神に転じると考えられていたのです。
北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観音菩薩」と刻まれた石碑が建てられています。
天満宮とは菅原道真のことで、「天満宮御本地仏 十一面観音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味です。
これは無念の死を迎えて怨霊となった菅原道真が煩悩を捨て去り、悟りを開いて成仏した姿が十一面観音であるという意味だと思います。
死んだ人のことを「仏さん」などと言うのは、
死んだ人が煩悩を捨て去り、悟りを開いて成仏すると考えられたためではないでしょうか。
すると、千の仏頭が現れたということは、千の死んだ人のドクロが現れたということなのかも?
●首をくくって自害した聖徳太子の子孫たち聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下、全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したといいます。
聖徳太子は日本で最も尊敬されている人物のひとりでしょうが、現在の日本人の血には聖徳太子の血は一滴も流れていないということになります。
山にあらわれた千の仏頭とは斑鳩寺で首をくくって自害した聖徳太子の子孫のことなのかも、と思います。
橘寺は聖徳太子、および自害した聖徳太子の子孫の霊を慰霊するための寺として建てられたのかもしれませんね。
●橘寺は聖徳太子の霊がたてた寺?山背大兄王ら聖徳太子の子孫が斑鳩寺で首をくくったとき、聖徳太子はすでに亡くなっていたじゃないか。
すでに死んだ聖徳太子が自分の子孫を慰霊するための寺を建てられるはずがないって?
梅原猛さんは「古代の人は生きている人と死んだ人の区別をきっちりとつけていなかった。」とおっしゃっています。
橘寺の創建説話に登場する聖徳太子とは、すでに死んでこの世にはいなかった聖徳太子の霊だと考えると辻褄があいます。
死んだ聖徳太子の霊がこの世に戻ってきて、自害した自分の子孫たちが成仏できるようにと勝鬘経の講義を行い、また自分の子孫たちを慰霊するために橘寺を建てた。
そんなふうに昔の人々は考えたということではないでしょうか。
今でもこういう考え方をすることがあります。
例えば家を新築するとして、「家を無事に建てることができたのは死んだ親父が天国で見守ってくれたからだ。」みたいなことは普通に言われています。
本当は家を建てたのは死んだ父親ではなく、自分自身なんですけどね。
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[2016/09/22 09:42]
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奈良県明日香村 飛石
2009年9月20日 撮影
●飛石飛石とは川に石を並べて橋替わりにしたもののことをいいます。
明日香川には万葉集の時代から飛石があったようで、飛鳥川の飛石を読んだ歌が数首残っています。
●飛石を渡って女のもとに通う男2701: 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも
(明日香川の石橋(飛び石)を明日も渡ってあなたに会いに参ります。
石橋の石と石の間隔は途切れていますが、私の心は途切れることなくあなたを思っています。) 古代の日本は妻問婚だったので、逢瀬とは男が女に会いにいくものでした。
この歌は男性が愛しい女性に対して詠んだ歌だと思います。
この歌は万葉集の2701番の歌ですが、次の2702番も明日香川を詠んだ歌です。
●水かさが増えて男がやってこないのを憂う女2702: 明日香川 水行きまさり いや日異(ひけ)に 恋のまさらば ありかつましじ
明日香川(の水かさが増えるように、日ごとにに恋する気持ちが増していったら、とても生きてはいられません。) 明日香川の水かさが増すと石橋(飛び石)は水の底に沈んでしまうので、男は石橋を渡って女に会いに行くことができませんね。
2702番の歌は水かさが増えて男がやってこないのを憂いた女の歌のように思えます。
2713番も飛鳥川を詠んだ歌です。
●浮気する男の言い訳?2713: 明日香川 行く瀬を早み 早けむと 待つらむ妹を この日暮らしつ
明日香川の速い瀬の流れのように、愛しいあの女は『早く来てほしい』と私を待っているだろうと思いながら、行くことができずに1日が過ぎてしまいました。) 水嵩が増して明日香川の瀬が速く、石橋はやはり水底に沈んだままのようです。
もしかしたら男は他に好きな女ができて言い訳をしているのかも?
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[2016/09/21 07:00]
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奈良県明日香村
2007年9月30日 撮影
そろそろ飛鳥の彼岸花も見頃を迎えているでしょうか?
●鬼の雪隠・鬼の俎
近鉄飛鳥駅で下車し、田圃の脇の細い道を歩いていくと、鬼の雪隠と呼ばれる謎の石が現れます。
雪隠ってトイレのことですよね。
鬼の雪隠鬼の厠から少し歩くと、「鬼の俎」と記された道しるべがあります。
道しるべに従って階段を歩いていくと、平べったい石が現れます。
これが鬼の俎です。
鬼の俎
昔、ここに鬼が住んでおり、霧を発生させて道に迷った人間を鬼の俎で料理し、鬼の厠で用を足したなーんて伝説が残されていますよ。
●鬼の厠、鬼の俎は石室だった。残念ながらこれらの謎の石が鬼の雪隠・鬼の俎であったというのは伝説にすぎず、『鬼の厠』は古墳の石室、『鬼の俎』は石室の底石だと考えられています。
『鬼の厠』と『鬼の俎』はセットでひとつの石室だったという説、また明治時代まで『鬼の俎』の西にもう一つ別の俎があったそうで、二基の墓があったとする説もあります。。
現存しない俎の方は割られて庭石にされ、現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されているそうです。
●斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が有力『鬼の厠』『鬼の俎』は二基の石室であり、斉明天皇と間人皇后が合葬された墓ではないかという説もありますが、
現在、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が有力視されています。
(斉明天皇は孫の健皇子と合葬してほしいと詔していますが、日本書紀に合葬したという記述はなく、どうやら合葬されなかったようです。)
牽牛子塚古墳の石室はふたつあり、最近の発掘調査で八角墳であることが確認されました。
斉明天皇代の天皇家の墓のほとんどは八角墳なのです。
●石舞台古墳は暴かれた墓だった?
鬼の厠・鬼の俎から1.5kmほど東に向かって歩いていくと石舞台古墳があります。
石舞台古墳は盛土が失われて石室がむき出しになっています。
昭和初期に発掘調査が行われ、南北約83m、東西81mの方墳であったことがわかりました。
不思議なのはこれだけ巨大な古墳の盛り土が全く失われてしまっていることです。
まるで今問題になってる豊洲みたいですね。
梅原猛さんは中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、石舞台古墳も暴かれた墓ではないかとおっしゃっています。
石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされていますが、馬子の孫の蘇我入鹿は自分の屋敷を宮門(みかど)と呼ばせるなど天皇のように振る舞っているのがけしからんとして、645年に中大兄皇子に斬殺されています。
翌日、入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺しました。
馬子の墓は謀反人・入鹿の祖父の墓だとして暴かれ、盛り土が取り除かれて石室がむき出しの状態にされたのかも。
●『鬼の雪隠』『鬼の俎』は蘇我蝦夷・入鹿親子の墓?うーん、すると『鬼の雪隠』『鬼の俎』も石舞台同様、暴かれた墓なのではないでしょうか?
石室が二基あったということは、もしかして蘇我蝦夷・入鹿親子の墓だったりして?
そして霧を発生させて旅人を迷わせ、料理して食ってしまう鬼とは蘇我蝦夷・入鹿親子なのではないでしょうか?
高松塚古墳 光の地上絵 飛鳥光の回廊 『高松塚古墳の被葬者は蘇我入鹿だった?』 ↑ こちらの記事では「高松塚古墳は蘇我入鹿、キトラ古墳は蘇我蝦夷の墓」と書いてるじゃないか、って?
高松塚古墳私は蘇我蝦夷・入鹿の墓はいったん暴かれたのちに天災やら疫病の流行やらがあり、
それらは彼らの祟りであるとして高松塚古墳・キトラ古墳に埋葬されたのかも、と考えているのです。
高松塚古墳の被葬者には頭蓋骨の上部がありませんでした。(下顎の部分はありました。)
梅原猛さんはこれを「死後、白骨化してから持ち出したのではないか」とおっしゃっていました。
これはなかなか鋭い指摘だなあと思いました。
入鹿ははじめこの鬼の厠・鬼の俎付近の墓に葬られていたのが
後に謀反人であるとして暴かれ、そののち高松塚古墳に再び葬るさいに、頭蓋骨を抜き取った状態で葬られたのではないかと思ったりします。
頭蓋骨を抜き取るのは、蘇我入鹿が復活しないようにとのまじないではないかと思います。
肉体は魂の容れ物であり、頭蓋骨がない遺体にしておけば入鹿の魂は復活しない、と考えられたのではないかと思うのです。
追記
「この皇極元年(642)蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納する。さらに引き・続いて全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子入鹿のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼ぴ、入鹿の墓を小陵と呼んだ。蝦夷が、墓の建設は自分の死後人に苦労をかけないためだと言ったのに対して、上宮王家の春米(つきしね)女王は「蘇我臣は、国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ。」と非難したと伝えられる。」
↑ こちらの記事によれば、蝦夷の墓が大陵、入鹿の墓が小陵となっています。
高松塚・キトラ古墳が蝦夷・入鹿父子の今木の双墓だとすれば、大きい高松塚古墳が蝦夷の墓、小さいキトラ古墳が入鹿の墓となります。
蘇我入鹿の首が中大兄皇子に斬られて皇極天皇の御簾に食らいついた、という伝説から、頭蓋骨が発見されていない高松塚古墳を蘇我入鹿の墓と考えたのですが、考えなおしが必用ですね。すいません。 ●今木の双墓日本書紀によれば、蘇我蝦夷と入鹿は生前に今来の土地に双墓をつくったとあります。
奈良県御所市に今来という地名があり、大字古瀬小字ウエ山に隣り合って存在する水泥古墳と泥塚穴古墳が蝦夷、入鹿の双墓ではないかと言われていますが、時代があわないとの指摘もあります。
鬼の俎・鬼の雪隠の西500mほどのところに梅山古墳があり、欽明天皇陵に治定されています。
※ 上の地図では道の北に「鬼の俎・鬼の雪隠」と記されていますが、これは間違いです。
「鬼の俎・鬼の雪隠」と記されているところは「鬼の俎」で「鬼の雪隠」はこの場所よりやや西で、道の南にあります。黒岩重吾さんは蘇我蝦夷・入鹿の墓、今木の双墓は梅山古墳(現・欽明天皇陵)ではないかとしておられます。
現在の梅山古墳が前方後円墳になっているのは江戸時代に改修されたためで、それ以前の絵には双円墳が描かれているというのです。
黒岩さんが見た絵と同じかどうかわかりませんが、こちらのサイトの下に古い欽明天皇陵を描いた絵が掲載されています。 →
☆ 上から見下ろした絵なら古墳の形がはっきりわかりますが、横から見た絵なので古墳の形がはっきりわかりません。
双円墳のようにも、崩れた前方後円墳のようにも見えます。
黒岩さんの説にしろ、私の説にしろ、飛鳥には今木という地名がない点が弱点ですね~。
地名が変わるということはふつうにあることではあるんですが。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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[2016/09/20 15:37]
奈良県 |
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