滋賀県大津市 武部大社
8月17日・・・船幸祭
船渡御。
写真上部に写っているのは瀬田の唐橋です。
船の上から小さな花火が打ち上げられました。
こういうのも風情があっていいなあ~。
午後8時20分ごろより花火が始まりました。
花火ってきれいだけど、夏の花火は送り火のようにも感じられてしみじみとした気持ちになりますね。
●ヤマトタケルの御子が創祀した神社建部大社は景行天皇46年にヤマトタケルの御子・建部稲依別命(タケベイナヨリワケノミコ)が創祀したと伝わっています。
建部稲依別命はヤマトタケルの妃・フタジヒメと東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山に住んでおり、その地に父・ヤマトタケルを祀っていましたが、675年に近江の守護神として、現在地へ遷座したそうです。
ヤマトタケルは大和の生まれですが、近江と関係の深い人物だったのかもしれませんね。
●ヤマトタケルの東国平定にちなむ船幸祭ヤマトタケルは父・景行天皇に命じられて九州の熊襲武、出雲の出雲武を征伐し、さらに東国を平定する旅にでかけます。
建部神社の船幸祭はその東国平定の旅にちなむものだと言われています。
●ヤマトタケルの死ヤマトタケルはさらに伊吹山の神を征伐するために出かけますが、神の化身である白い大猪が氷雨を降らし、ヤマトタケルは病を患ってしまいます。
ヤマトタケルは病身で大和を目指し、能煩野(三重県亀山市〉で国偲び歌を詠んで亡くなりました。
倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し麗し
(大和はこの国の中でもっともすばらしいところ。山が重なりあって青垣のようだ。山に囲まれている。大和は美しい。)
●青垣と青柴垣と風葬ここに青垣とありますが、私は青垣ときいて青柴垣を思い出してしまいます。
☆ ←こちらのサイトには次のように記されています。
「大国主神が国譲りして、「八十クマデに隠りましき」とありま すが、「クマデ」というのは、のち「青柴垣」と書かれるように、柴を沢山立て た中に死体が入っていたということです。
今でも土葬の周りにたくさん柴を立て る風習が紀伊半島、とくに高野山周辺の村村によく残っていて、高野山などの墓は青く茂っています。 」
ヤマトタケルが大和は青垣のようだと詠ったのは、「大和は風葬の際用いる青柴垣のように山が連なっていて、墓場にちょうどいい」という意味ではないかと思ったりします。