滋賀県蒲生郡日野 正明寺
万灯会・・・8月5日~8月15日 (確認をお願いします。)
正明寺では8月5日から8月15日まで万灯会を行っています。
(檀家さんがお茶をいれてくださいました。ありがとうございました!)
● 後水尾天皇の勅願寺正明寺は飛鳥時代、聖徳太子が創建した寺だと伝わっています。
戦国時代の戦火を受けて消失しましたが、江戸時代に黄檗宗の寺として再興され、後水尾天皇の勅建寺となりました。
正明寺には黄檗宗総本山の萬福寺と同様の魚梆(ぎょほう)がありました。
萬福寺の魚梆はこちら→
☆ ●漆器の産地だった城下町・日野1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、日野は城下町として整備されました。
日野には木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展しました。
当時の日野には『日野市』という市場町がありました。
日野市は上の市と下の市から成り、上の市には世神(渡世の神)である惟喬親王が、下の市では市神が祀られていたそうです。
木地師資料館の惟喬親王像
●上の市で惟喬親王が祀られていた理由惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したとか、京都の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったなどという伝説があります。
そういったことから、惟喬親王は木地師の祖とされ信仰されていました。
上の市で世神として惟喬親王が祀られていたのはそのためでしょう。
木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っています。●御霊として祀られた惟喬親王惟喬親王(844- 897)は文徳天皇の第一皇子で母親は紀名虎の娘の静子でした。
文徳天皇には藤原良房の娘・明子との間に第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)もありました。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しました。
源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめたそうです。
こうして世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は出家して小野の地に隠棲し、のちに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)、玄武神社、惟喬神社などに御霊として祀られました。
大皇器地祖神社御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことです。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた者のことで、疫病や天災や怨霊の仕業で引き起こされると考えられていました。
惟喬親王はかつて怨霊として畏れられていたということでしょう。
ウィキペディア「祟り神」によれば「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である」
と記されています。
●清和天皇にイメージを重ねた後水尾天皇後水尾天皇という諡号は遺諡(遺詔によって自ら決める追号)によって贈られたものなのですが、水尾とは清和天皇の異称です。
徳川光圀の『西山随筆』には、「兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であることからこの諡号を自ら選んだのだろう」とあります。
後水尾天皇には良仁親王という異母兄がおり、豊臣秀吉の後押しを受けて皇位継承者とされていました。
ところが秀吉が死亡して徳川家康が政治の実権を握ると、家康の後押しによって後水尾天皇が皇位継承者とされたのです。
後水尾天皇は自らを清和天皇のイメージとかさね、清和天皇との世継ぎ争いに敗れた惟喬親王を祀り上げることで自らの守護神にしようと考えたのではないでしょうか。
そのため惟喬親王に対する信仰の強い日野の正明寺を勅願寺としたのではないかと思ったりします。
そんなことを考えていると、たくさんの灯りは惟喬親王を慰霊するためのもののように思えてきました。