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大阪城 城灯りの景 と 真田陣太鼓 『大阪戦国武将を偲ぶ旅&穴あき銭』  

大阪市中央区 大阪城
大阪市天王寺区 一心寺 安居神社

大阪城 城灯りの景 

↑ 2009年に行われた大阪城『城灯りの景』を撮影したものです。
2013年度は西の丸庭園がモトクロスの大会を行ったため荒れてしまって『城灯りの景』は中止になったそうです。
それ以降、『城灯りの景』は行われていないのかも?
ググっても出てこないので~。

●豊臣秀吉が築城した大阪城

1583年ごろ、羽柴秀吉が大坂城・築城を開始しました。
1598年、秀吉が亡くなり、1599年には豊臣秀頼が大坂城本丸へ居住しました。
五大老の徳川家康も大坂城西の丸で政務を執りました。

ただし、現存する遺構のほとんどは江戸時代に江戸幕府が作ったものだそうです。
それでも秀吉を愛する大阪の人々は、大阪城を「太閤さん(豊臣秀吉のこと)の城」と呼んでいます。

●大阪の陣

1614年、徳川家vs豊臣家の戦い「大阪の陣」が起こりました。
大阪・天王寺公園にある茶臼山は大阪冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村(豊臣方)が本陣を置いたところです。 

●一心寺にある本田忠朝の墓

 一心寺 納骨堂 

↑茶臼山の北に一心寺があります。 

一心寺 本田忠朝の墓  


↑ 一心寺には大坂夏の陣で討死した本田忠朝(徳川方)の墓があります。

本田忠朝は「大坂冬の陣」において飲酒が原因で敗退し、家康より叱責を受けました。
「大坂夏の陣」ではその汚名を挽回するべく、毛利勝永軍に正面から突入して戦死しました。
臨終の際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言ったとか。
現在では本田忠朝は「酒封じの神」として信仰され、本田忠朝の墓には「断酒祈願」をする参拝者が絶えません。
あなたも参拝する?

●真田幸村終焉の地・安居神社

安居神社

↑ 一心寺の北に安居神社があります。
真田幸村は15,000の松平忠直隊を破って家康本陣に攻め込み、家康に自害を考えさせるほどでした。
しかし幸村は安居神社で味方の傷ついた兵士を看病していた際、敵に襲われました。
「わしの首を手柄にされよ」
幸村はそう言い、敵に首を討ちとられました。

●大阪城炎上

1615年5月8日、松平忠直・井伊直孝らの軍勢が大阪城に攻め込みました。
豊臣秀頼と母・淀君は山里曲輪(やまざとくるわ)の隅矢倉に逃げ込みましたが、矢倉に鉄打ち込まれた鉄砲から出火して大坂城は焼け落ちてしまいました。 

大阪城 真田陣太鼓3 

↑ 2009年 大阪城 城灯りの景では、真田陣太鼓の演奏がありました。
太鼓の激しいビートは大坂の陣で散っていった武将たちを思い出させます。

●六文銭
真田陣太鼓の写真に六文銭を描いた旗が見えますね。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_Crest_rokumonsen.svg

亡くなった人が三途の川を渡る際、渡し賃が必要だとして死者に六文を持たせる習慣があり、これを六文銭といいました。
六文銭の六は、生きとし生けるものが輪廻するという六つの世界、六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)にちなむと考えられています。

真田家はこの六文銭をモチーフとした家紋を用いていたのです。

いや、これは六文銭ではない。六連星とよばれた昴(すばる)をあらわしているのではないか、とする説もありますが。

●永楽通寶

戦国時代には永楽通寶などの明より輸入した通貨が用いられていました。
織田信長は永楽通寶をデザインしたものを旗印として用いていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nobunaga_flag.png
リンク先は3つの永楽通寶が描かれた織田家の旗印です。

真田幸村や織田信長がこうした旗印を用いた理由についてはよくわかりません。
おいおい考えてみようと思います。(なんじゃ、そりゃ~)

●穴あき銭は何をデザインしたもの?


でも、この永楽通寶のデザインについては思い当たることがあります。
円形で中央に四角い穴があいた銭は「穴あき銭」「方孔銭」「円形方孔銭」「方孔円銭」などと呼ばれていたようです。

寛永通宝


↑ そういえばうちに古い硬貨があったなあ、と思い出し探してみたところ、寛永通宝が見つかりました。
寛永通宝は江戸時代に流通していたものですが、永楽通寶と同じような穴あき銭です。
ちなみに販売価格は1枚せいぜい数十円から100円くらいで価値のあるものではありません。(中には5万円以上の値がつくものもあるそうです。)

穴あき銭は天円地方のデザインになっています。
天円地方とは古代中国の宇宙観で、天は円形、地は方形であるとする考え方のことです。

 大阪城 城灯りの景2

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[2016/08/31 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

旧安西家住宅 『七夕馬と天然痘』 

千葉県木更津市 旧安西家住宅 

●旧安西家住宅

旧安西家住宅 外観

丘の上に茅葺屋根の家を発見!

旧安西家住宅 農作業の道具

使い込まれた農作業の道具が置いてあります。

旧安西家住宅 外観2 
ちょっとお邪魔させていただきましょう~♪

旧安西家住宅 竃 

玄関を入ると、土間の奥に素敵なカントリーキッチン(竃)が!

旧安西家住宅 竹でできた水道の蛇口 

水道の蛇口は竹でできていました。

旧安西家住宅 囲炉裏 
土間をあがったところには囲炉裏がありました。
古民家が好きであちこち見に行ってますが、関西では囲炉裏がある民家をみかけたことがありません。
関西はとにかく夏が暑いため囲炉裏が作られなかったようです。
かわりに火鉢が用いられることが多かったそうです。

山口家住宅 関東長火鉢 

↑ これは大阪府堺市の和田家住宅。写真向かって右に関東長火鉢が置かれています。

旧安西家住宅 仏壇 
黒光りするフローリングの床。写真中央にあるのは仏壇です。

旧安西家住宅 梁 

太くて立派な梁。

旧安西家住宅  
床の間のある部屋。案内板には「おく」と書かれています。

旧安西家住宅 薬研と七夕馬 
写真向かって左は薬研(やげん)。
漢方薬の原料となるハーブなどを砕くための道具です。

写真むかって右は七夕馬だと思います。

●七夕馬

千葉県では旧暦7月7日にマコモなどで作った七夕馬を作る習慣があったそうです。
子供たちがこの七夕馬を牽いて草を刈りに行き、刈った草を七夕馬に背負わせて家に帰るのだとか。

七夕馬は四つ脚につくられることもありますが、写真のように前脚のみというケースもありました。
参照/https://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/tanabatauma/tokatsu.htm

なぜ子供が七夕馬を牽いて草を狩りにいくのでしょうか。
その意味については不明とのことです。

●草神から瘡神に転じた神社

瘡神社 

↑ 大阪府枚方市・片埜神社の境外社に瘡(くさがみ)神社です。
瘡神社は次のような伝説を伝えます。

菅原道真が無実の罪で流罪となり大宰府へ向かう途中、この地で道真の馬が倒れました。
道真は馬を地元の人に託して大宰府へ向かいました。
地元の人は手厚く介抱しましたが、馬は死んでしまいました。
馬が埋葬された場所には馬の好物である草がたくさんお供えされ、「草神様」と呼ばれるようになりました。
この「草神」が「瘡(くさ)神」に転じて「瘡神社」となり、皮膚病にご利益があると信仰されました。


瘡とは皮膚病のことですが、天然痘を意味するものでもあったのではないかと思います。
日本書紀には「瘡発でて死る者――身焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」と記されており、天然痘の病状を記したものではないかと考えられています。

天然痘は疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいい、豆粒状の丘疹が全身にできます。

現在では種痘によって天然痘は撲滅されたとされますが、天然痘は近年まで猛威をふるっていた恐ろしい伝染病でした。
奈良時代には藤原四兄弟が天然痘に感染して死亡していますし
孝明天皇(1831-1867)の死因も天然痘であると記録されています。

七夕は牽牛と織姫が年に一度の逢瀬を楽しむとされる日ですが
牛頭天王(スサノオと習合されている)は疫神とされていました。
そして牽牛と牛頭天王はどちらも名前に「牛」とあるので同一視されていたのではないでしょうか。
つまり、牽牛は疫神であり、瘡をもたらす神であると考えらえていたのではないかと思うのです。

七夕馬をひいて子供たちが草を刈りいくのは、草を刈ることが、瘡(くさ)を刈るに通じると考えられたためではないでしょうか。
そして草が好物の馬は、瘡(くさ)を食べてくれる神として信仰されていたため、草刈りに牽いていかれたのではないかと思います。



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[2016/08/30 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)

横浜レトロ建築 みなとみらい夜景 ピカチュウ大量発生チュウ 『大国主とねずみの関係』 


●横浜のレトロ建築


横浜赤レンガ倉庫
 
横浜赤レンガ倉庫


神奈川県庁  

神奈川県庁


横浜市開港記念会館 

横浜市開港記念館

横浜 開通合名会社 煉瓦遺構 

開通合名会社 煉瓦遺構


明治時代に建てられた開通合名会社の社屋は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で大部分が倒壊しました。
ところが、震災後建てられた復興建築の内部にその一部が残っていたのだとか。
建物の中に煉瓦遺構が残っていたこともすごいけど、それが保存されているというのがもっとすごい~。
横浜の人は粋ですね!

横浜税関 

横浜税関


●ピカチュウ大量発生チュウ

みなとみらい ピカチュウ

みなとみらいはピカチュウ大量発生チュウとのことで、すごい人でした!
観覧車にもピカチュウが発生!

ピカチュウってネズミなんですよね。
というわけで、今回のテーマはねずみです。(むりくり感ありまくり?)

横浜夜景2 
遠くに見えているのは葛西臨海公園の観覧車

●大国主とネズミの神話


ねずみと聞いて私がまず思い浮かべるのはやっぱりまずピカチュウ、それから大国主命です。

大国主命が根の国(死後の国。黄泉の国と同様のものと考えられています。)に行った際、根の国の王・スサノオより様々な試練をあたえられました。

うじゃうじゃと蛇がいる部屋に泊まらされたかと思うと、その翌日にはムカデと蜂のいる部屋に泊まらされました。
しかしスサノオの娘のスセリヒメよりもらった蛇・ムカデ・蜂を追い払うひれ(スカーフのようなもの)によって大国主は無事でした。

次にスサノオは広い野原に鳴鏑(なりかぶら)を射て、それを拾ってくるよう大国主命に命じました。
そして大国主命が野原に入ると野原に火をつけたのです。
大国主命の前にネズミが現れ、「内はほらほら、外はすぶすぶ」(穴の内側は広い、穴の入り口はすぼまって狭い)と告げました。
大国主命がその場を踏むと地面に穴が開き、大国主はそこに逃れることができました。

横浜スタジアム 
横浜スタジアム 遠くに見える湾岸用コンテナクレーンが王冠のように見える!

●大国主はなぜネズミと関係が深いの?


ネズミは七福神の大黒天の使いであるともされます。
大黒天の黒は陰陽五行では北(子)の方角を表し、子=ネズミなので大黒天の使いとなったとする説もあります。

さらに大黒天と大国主命は「大黒」と「大国」の音が同じであることから習合して信仰されていました。
そのため大国主はネズミと関係が深いのではないかとも言われています。

みなとみらい 観覧車


●ネズミの語源は「根の国に住む」?

またネズミの語源は、大国主命の根の国での神話にネズミが登場することから、「根の国に住む」に由来するのではないかとする説もあります。


横浜夜景 観覧車

●大国主と毘沙門天は同一神だった?

子の方角は北ですが、北方守護のみほとけに毘沙門天がいます。
大国主命とネズミ(干支の子)が関係が深いところから考えて、大国主と毘沙門天は同一神であるとも考えられるのではないでしょうか?

毘沙門天・・・北方守護の神
大国主命・・・ネズミ(干支の子/方角では北)と関係が深い

みなとみらい観覧車2

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[2016/08/29 00:00] 神奈川県 | トラックバック(-) | コメント(-)

葛西臨海水族園 「クラゲは観音様の化身だった?」 

 東京都江戸川区 葛西臨海水族園

葛西臨海水族園 マンボウ 
マンボ―!ウ―ッ!(おやじギャグ?)

葛西臨海水族園

水族館なんて何年ぶりかなあ~。

 葛西臨海水族園 フグ

フグの正面顔って超かわいい~♡

●水母娘娘

中国北部の水が乏しい地域では水母娘娘(すいぼにゃんにゃん)という女神が信仰されているそうです。
水母娘娘は水を管理する女神で、水瓶の上に座るお姿で現されるのだとか。
そして水母娘娘は怒ると水瓶の蓋をあけて大洪水をおこし、十分な供養をすると水瓶の水を適量出すというのです。

 葛西臨海水族園 クラゲ

クラゲって漢字では水母とか海月とか水月と書くんですね。
クラゲは体がゼラチン質で体内に水をたくわえているようにも見えますね。
それが水瓶のようだとして水母娘娘の「水母」という漢字があてられるのかも?

●クラゲは水に映った月

海月、水月というのはクラゲの形が月のように見えるところからくるのでしょうね。
真上から見れば満月のようだし、横から見れば半月のようです。
くらげがフニャフニャしているのは、水に映った月が波でゆがむんだ姿のようにも見えますね。
クラゲを月と見るなんて、昔の人は洒落てますね。

葛西臨海水族園3


●超美形!東慶寺の水月観音

水月といえば水月観音という観音様がおられますね。
超美形の観音さまです。
写真はこちら→http://www.tokeiji.com/heritage/suigetsu-kannon/
東慶寺さんは参拝したことがないのですが、ぜひ水月観音さまを拝みに行ってみたいです。
(水月堂拝観は事前予約が必要とのこと)

●私流とんでも仏像鑑賞術


本屋さんに行くと「仏像の見方」というような本を売っていることがありますね。
みほとけの手の印相の意味、明王・天部などの見分け方などが説明されているようです。

そういったことも大事だと思うのですが、もっと感覚的に仏像を鑑賞してみるのも面白いのではと思います。

葛西臨海水族園 ペンギン


●正明寺の千手千足観音は蟹の観音様?


滋賀県高月の里に正明寺というお寺があり、珍しい千手千足観音をお祀りしています。→ http://guide.travel.co.jp/article/4886/
この千手千足観音さまの足の部分はカニのようですね!
カニをひっくり返してみると、筋肉が折りたたまれるようになっています。
→ http://www.chiba-muse.or.jp/UMIHAKU/kikaku/14marisai/figs/photo17.jpg

千手千足観音さまはたくさんの脚が並んでいて、縦に筋が入っているように見えますが、これはカニの腹部の筋肉を表しているのかも?

葛西臨海水族園2 
青いつけまつげ?

●興福寺の阿修羅像は土蜘蛛だった?


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_Kohfukuji.jpg
↑ 興福寺の阿修羅像です。

阿修羅像は八部衆の一ですが、他の八部衆には象・蛇・獅子・金翅鳥・ニシキヘビなどのイメージを持つものがあります。
阿修羅も何かの動物をイメージしたものではないかと思って鑑賞してみたのですが、この筋肉が全くついていないかのような細長い腕は昆虫ではないかと思いいたりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A2#/media/File:Archindae_characters.jpg
↑ 蜘蛛に似ていると思うのですがどうでしょう?

阿修羅の腕は6本ですが、足が2本なので、合計8本となり蜘蛛と同じ数になります。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG
↑ 阿修羅像の左目はいったん白でキャッチライトをいれたあと墨で塗りつぶされています。
つまり目が潰されているのですね。
これは阿修羅が反逆者であることを意味しているのだと思います。
蜘蛛は蜘蛛でも阿修羅はまつろわぬ民・土蜘蛛のイメージなのではないでしょうか。

●水月観音はクラゲの観音様?

東慶寺の水月観音のお姿をもう一度見てください。
http://www.tokeiji.com/heritage/suigetsu-kannon/

ずいぶんリラックスされたお姿で、全体のシルエットが崩れた三角形のようになっていますね。
この崩れた三角形はくらげをイメージしたものではないでしょうか。
胸元から飾りのついた細い紐のようなものが数本出ていますが、これはクラゲの触手のイメージでは?

葛西臨海水族園 クラゲ2




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[2016/08/28 00:04] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

東京の風景 イロイロ 『君が代は天皇になれなかった者の長寿を寿ぐ歌だった?』 

富士山

●リオデジャネイロオリンピックの感動!


リオデジャネイロオリンピックでは日本人選手が大活躍してたくさんの感動を与えてくれましたね。
皆さんは何が印象的でしたか?

私はやっぱり男子400mリレーですねー。
1×4=4のはずが10・・・いえ50くらいになってたと思います。
ボルトの礼儀正しさというか紳士的な態度にも感動~。日本チームのこと、ほめてくれましたね。

あと競歩は荒井選手の頑張りはもちろんのこと、周囲のサポートがよかった。
シドニーオリンピックで柔道の篠原さんが本当は金メダルだったのに誤審で銀メダルになったことは忘れられません。
申し訳ないけれど、あれは周囲のサポートが悪かったというしかないです。
荒井選手は篠原選手のようにならなくて本当によかった。

卓球の水谷選手の頑張りにもしびれました!

メダルとれなかった選手が「ごめんなさい」という必要はありませんね。
メダルとってくれると嬉しいけど、メダルとれなくてもたかがスポーツなんですから、福士加代子さんのようにあっけらかんとしていていいんじゃないかなあ~。
オリンピックを楽しんで帰ってきてくれればそれでいいよね。

●リオデジャネイロオリンピック閉会式 東京大会プレゼンテーション



リオデジャネイロオリンピック閉会式の2020年東京大会プレゼンテーションもよかったですね!
安倍首相がマリオに変身してドカンから現れるってナイスアイデア!

キャプテン翼、どらえもん、キティちゃんなども登場して楽しい気分に~。
高橋陽一先生は「キャプテン翼」しか描けないなんて言われてるけど、それしか描けない「キャプテン翼」が世界中の人に愛されてるなんてすごいことです。
私も愛読してました~♡

オープニングの「君が代」の合唱もとても美しかったですね。
今日は東京の写真をご紹介しつつ(タイトルにはイロイロと書きましたが、イロイロというほどバリエーションないかも~)、
この「君が代」についておしゃべりしたいと思います。

新宿御苑 薔薇 
新宿御苑

●君が代の歌詞が作られたのは平安時代だった

♪ 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

国歌の「君が代」は軍国主義の歌だとして嫌う人もいますが、私はこの歌大好きなんですよ。
曲は1880年(明治13年)に創られたものですが、歌詞はなんと平安時代の古今和歌集にある和歌なんですね!
ちゃんと調べたわけではないですが、国歌としては一番古いのでは?
(違っていたら教えてね~。)
しかも、作者は読み人知らずだなんてシブいー。

新宿のゴジラ 

新宿にゴジラが現れた!


ただし初句は「わが君は」となっていますが。

♪ わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 

長寿を寿ぐ歌として長い間詠われていくうちに「わが君は」が「君が代は」に変化したと考えられています。

浅草寺 雷門 
浅草寺 雷門

●「君」は天皇を指す言葉ではなかった。

君と言う言葉は天皇を意味することもありましたが、
自分が仕えている人のことや、貴人、身分の高い女房(朝廷や貴人邸に仕える女性)、男、遊女などを指す言葉としても用いられていました。

浅草寺 五重塔 皐月  

浅草寺五重塔


●「わが君」とは惟喬親王のことだった。

♪ わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで

さきほどこの歌の作者は「読み人知らず」だといいましたが、岐阜県揖斐川町春日には君が代の由来となったといわれるさざれ石があり、藤原朝臣石位左衛門が詠んだ歌だとして次のように伝えられているのだとか。

待乳山聖天 二股大根 
待乳山聖天

惟喬親王に仕えていた木地師の藤原朝臣石位左衛門は、親王より「よい椀生地を探せ」と命じられました。
そこであちこち探し回って春日村を発見し、ここに移り住みました。
石位左衛門は春日村と京を行き来する途中で「さざれ石」を発見して
♪ わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで
と詠みました。

木地師の藤原朝臣石位左衛門のいう「わが君」とは惟喬親王のことだと考えるのが自然でしょう。

羽田空港 夕景 
羽田空港 夕景

●天皇になれなかった惟喬親王


惟喬親王は文徳天皇の第一皇子ですが、天皇にはなれませんでした。

文徳天皇には紀静子(紀名虎の娘)との間に惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に惟仁親王がありました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者であった藤原良房を憚って文徳天皇を諌めたそうです。
そして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となり、8歳で即位して清和天皇となりました。
藤原良房は天皇の外祖父となり、政治の実権を握りました。

スカイツリー 夕景  
スカイツリー 夕景

つまり
♪ わが君は 千代に八千代に さざれ石の 磐となりて 苔のむすまで
この歌は、天皇の長寿を寿ぐ歌ではなく、天皇になれなかった者の長寿を寿ぐ歌であったと考えられます。

それにしても、惟喬親王に仕えていた木地師の名前がなぜ紀氏と敵対していた藤原なんでしょうか?

※惟喬親王のことはこのブログで何度も記事に書いています。
よかったら読んでみてくださいね。
http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B&charset=utf-8

スカイツリー 花火  
スカイツリーと花火

●天皇家の先祖・ニニギは繁栄を選び、長寿を選ばなかった。

天皇家の先祖・ニニギは葦原中国に天下ったのち、オオヤマツミより二人の娘・イワナガヒメとコノハナサクヤヒメを与えられたのですが、
めんくいだったニニギは容姿の醜いイワナガヒメを送り返してしまったと記紀神話には記されています。
オオヤマツミはニニギの長寿を祈ってイワナガヒメを、ニニギの繁栄を祈ってコノハナサクヤヒメを差し出したので
ニニギの子孫である天皇の命は短くなったということです。

天皇家はこの世での繁栄を選び、長寿を選ばなかったのですね。

天皇になれなかった惟喬親王は53歳でお亡くなりになられています。
なので彼も長寿であったとはいえません。
しかし、惟喬親王は玄武神社・大皇器地祖神社などの御祭神として祀られ、今でも厚く信仰されています。

磐座信仰といって神は磐の上に降臨するという信仰がありました。
この世で天皇になれなかった惟喬親王は神となり、さざれ石となって永遠に生き続けるということなのかな?

なんだか「銀河鉄道999」を思い出しますね。
鉄郎は永遠の命を得るため機械の体を求めて旅をするのですが、機械の体とは惑星を支えるネジになることだったのです。

羽田空港より東京ゲートブリッジを望む  
羽田空港より東京ゲートブリッジを望む

※東京オリンピックは開催費用が予定の3倍になるなど問題山積みですが
利権にまみれないクリーンなオリンピックをめざしてほしいです。

羽田空港 夜景 

羽田空港より


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[2016/08/27 00:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

世界農業遺産 能登の里山里海 『自然と共存する能登の暮らしと信仰』  

●白米千枚田

白米千枚田です!

 白米千枚田

半畳に満たないような小さな田んぼもあるんですよ。
これだけの棚田ができあがるには、相当先人たちの苦労があったことでしょう。
千枚田オーナー・トラスト制度があり、漫画家の永井豪先生の田んぼもありました。
永井豪先生の作品と言えば、ハレンチ学園、キューティーハニー、マジンガーZ・・・。好きだったなあ~。
永井豪先生は石川県輪島市の出身なのだそうです。
今度は田んぼに水をはったころ夕景を見にきたいなあ。

●揚げ浜式塩田

すず塩田村      

↑ このあたりでは500年ほど前から揚げ浜式塩田で塩づくりが行われていたそうです。
写真は『すず塩田村』の観光用の塩田ですが、観光用ではない塩田もいくつかありました。
「まれ」に登場した桶作さんの塩田もこんな感じでした。
いまも古式を守った塩づくりが行われているのですね。

能登の旅のおみやげには「塩」がおススメ!すごくおいしいです!

輪島 塩田に海水を撒く   
↑ 『塩の駅』で。
揚げ浜式塩田とは、厚さ10cmほどの粘土を敷き、その上に粒子の細かい砂を敷き詰めたものです。
ここに汲み上げた海水を巻き、天日と風によって水分を蒸発させます。
砂の下に敷いた粘土は海水が地中にしみこむのを防ぎます。 

輪島 塩づくりの道具

↑ 塩田に海水を撒くための道具です。先が尖った方にも穴が開いていて、その穴を掌で塞いで水を汲み、塩田に撒いておられました。 

すず塩田村2

↑ 『すず塩田村』にて。
上から2枚目の写真の小屋の中です。
塩田に撒いた海水の水分を蒸発させたあと、塩砂をかき集めて海水で洗います。(鹹水)
この鹹水を煮詰めると塩の結晶ができます。

●間垣

 間垣のある民家

↑ 海岸沿いの集落に設けられていた間垣。
これで強い海風を防ぐのですね。

●輪島塗にも用いられている珪藻土


七輪の里

↑ 『七輪の里・珪藻土資料館』です。

珪藻土とは珪藻という水藻が長い間に堆積したものです。
太古の能登半島は海の底にあったため、珪藻土が産出されるのです。
七輪はこの珪藻土を焼いて作られています。
また輪島塗では漆に焼いた珪藻を混ぜたものを用いています。
漆に珪藻土を混ぜることで漆が木地に吸着して丈夫になるのだとか。

軍艦島 
↑ 軍艦島(見附島)。
佐渡島からやってきた空海が最初に見つけたことから「見附島」というのだといわれています。
島全体が七輪の原材料の珪藻土で出来ています。
側面にあるロープの模様のようなものは自然にできたものなんでしょうか?

●海の神に対する厚い信仰

袖ヶ浜  
↑ 袖が浜の夕日。

重蔵神社 キリコ

↑ 重蔵神社の祭礼。

重蔵神社という変わった神社名はトミヒコ(ナガスネヒコの別名)のトミが十三となって、さらに重蔵となったのではないかと思います。

大阪の十三(じゅうそう)という地名が重蔵からくる、という説があります。

トミヒコとは初代神武天皇が日向より東征して機内する以前より畿内に住んでいた人物で、物部氏の祖神・ニギハヤヒを神として奉じていました。
そのため、畿内には神武以前に物部王朝があったとする説があります。
トミヒコは物部王朝の王だったのではないかと思います。

トミヒコは神武と闘って敗れますが、トミヒコの兄・アビヒコは東北に逃れたとする伝承があり、安倍氏はそのアビヒコの子孫とされます。
能登の国造は安倍氏でした。
能登にはトミヒコに対する信仰があったのではないでしょうか。

(参照/重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事 
輪島市海士町にある奥津比咩神社の入水神事。
輪島市海士町にある奥津比咩神社は近年、舳倉島の奥津比咩神社を勧請したとのことです。

舳倉島の奥津比咩は輪島では広く信仰されており、重蔵神社の祭は「舳倉島の女神と輪島の男神が年に1度出会う祭」とされています。

(参照/奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』 

 御陣乗太鼓3

↑ 名舟町の御陣乗太鼓が「道の駅輪島 ふらっと訪夢」前広場で行われていました。

戦国時代、武器をもたない名舟村の人々は仮面をかぶり太鼓を打ち鳴らしながら上杉軍に夜襲をかけました。
上杉軍はこれをもののけの夜襲だと思い込んで逃げたと伝わります。
上杉軍を撃退することができたのは舳倉島の奥津姫神の御神徳のおかげであるとされています。

名舟でも舳倉島の奥津姫は厚く信仰されていたのですね。

名舟の御陣乗太鼓には男幽霊と女幽霊が登場しますが、男幽霊は男神の重蔵、女幽霊は奥津姫なのではないでしょうか?

御陣乗太鼓


上の写真向かって右は男幽霊で、別名を土左衛門(どざえもん)というそうです。

土左衛門とは水死体のことです。
土左衛門とは十三衛門のことであり、重蔵(十三が転じて重蔵になったと思うので)のことではないでしょうか?

このあたりの人は漁師が多く、水難で命を落とす人が多かったのではないでしょうか。
それで土左衛門の神・重蔵を厚く信仰したのではないかと私は考えます。

(参照/輪島ふらっと訪夢 御陣乗太鼓 『男幽霊(土左衛門)は重蔵だった?』  

自然と共存する能登の人々の暮らし、そして能登の人々の海の神に対する厚い信仰に感動です!



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[2016/08/26 00:00] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)

輪島ふらっと訪夢 御陣乗太鼓 『男幽霊(土左衛門)は重蔵だった?』  

石川県輪島市 『道の駅輪島ふらっと訪夢

御陣乗太鼓3 
●もののけの夜襲と見紛う御陣乗太鼓

御陣乗太鼓は石川県輪島市名舟町の人々によって継承されてきた伝統芸能です。
道の駅輪島ふらっと訪夢』前の広場で公演されていました。

戦国時代、越後(現在の新潟県)の上杉謙信は、能登の七尾城(七尾城跡/石川県七尾市古城町)を落とし(七尾城の戦い)、さらに名舟村にまで攻め込んできました。
名舟の村人は武器を持っていませんでしたが、村の古老があるアイデアを思いつきました。
そのアイデアとは、樹の皮で作った仮面を被り、海藻をかつらのように頭にかぶり、太鼓を打ち鳴らしながら上杉軍に夜襲をかけるというものでした。
上杉軍はこれをもののけの夜襲だと思い込み、あわてて逃げましたということです。
 

 御陣乗太鼓2 
向かって右が翁、中央が夜叉、向かって左が女幽霊かな? 

御陣乗太鼓 

向かって左、オレンジ色の着物を着ているのは達磨太子です。
達磨の横、写真中央は翁、写真向かって右は男幽霊だと思います。
男幽霊は別名を土左衛門(どざえもん)といいます。

男幽霊の別名が「土左衛門(どざえもん)」だと聞いて、またまたテンションがあがってしまった~。
というのは、次のようなことがひらめいたからです! 

●重蔵・お小夜悲恋伝説


前回、輪島の重蔵神社の祭礼についてお話ししました。
(前回の記事はこちら→重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 

重蔵神社の8月23日の祭礼は「舳倉島の女神が松明の明かりを目指してやってきて、輪島の男神が結ばれ、産屋に見立てたお仮屋で新しい神様が産まれる祭」とされています。
輪島の男神とは重蔵神社の神のことだと考えられます。

舳倉島には奥津比咩(おくつひめ)神社があり、奥津姫神を祀っています。
舳倉島の女神とは奥津姫神のことでしょう。

さて、重蔵神社の西十数キロほどのところに琴ヶ浜があります。
琴ヶ浜は『鳴き砂の浜』と呼ばれ、『重蔵・お小夜悲恋伝説』が伝わっています。

猟師の重蔵が水死し、恋人のお小夜は悲しむあまり、海に入って死んでしまいました。
琴が浜を歩くときゅっきゅっと音がするのはお小夜の泣き声だといわれています。


ここにも重蔵が登場します。どうやら重蔵はこの地方で広く信仰されていた神様のようですね。

御陣乗太鼓 

●お小夜とは奥津姫だった?


重蔵神社の祭礼は「舳倉島の女神が松明の明かりを目指してやってきて、輪島の男神が結ばれ、産屋に見立てたお仮屋で新しい神様が産まれる祭」というこでした。

ということは、お小夜とは奥津比咩神社の御祭神・奥津姫なのではないでしょうか?

重蔵神社の近くにも奥津比咩神社がありますが、輪島の奥津比咩神社は近年になって舳倉島の奥津比咩神社より分霊をお迎えして創建された神社です。
その輪島の奥津比咩神社の8月22日の祭礼では女装した氏子さんたちが神輿を担いで海にはいる入水神事が行われています。

奥津比咩神社の入水神事についての記事はこちら→奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』 

入水とは海に飛び込んで自殺することを言います。
奥津比咩神社の入水神事は、奥津姫神が自殺したことをあらわす神事だと考えられます。
重蔵の恋人、お小夜も奥津姫神と同じように自殺しています。
このように、奥津姫神とお小夜には共通点があるのです。

さらに名舟の村では上杉軍を撃退することができたのは舳倉島の奥津姫神の御神徳のおかげであるとして、毎年奥津姫神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)の神輿渡御では、御陣乗太鼓が先導するとのことです。

舳倉島の奥津姫神は重蔵神社だけでなく、名舟の人々にも厚く信仰されていたようです。

●重蔵は御陣乗太鼓に登場する男幽霊(土左衛門)だった?

猟師の重蔵は水死したということですが、水死体のことを俗語で土左衛門といいます。
どうやら重蔵と御陣乗太鼓に登場する男幽霊(土左衛門)には共通点がありそうです。

輪島には猟師が多く、水難で亡くなる人々が多かったことでしょう。
そのような水難で亡くなった人々を慰霊する神社が重蔵神社であり、重蔵神社という社名は、水死体を意味する土左衛門から来るものではないでしょうか?

水死体→土左衛門(どざえもん)→どざ→十三→じゅうぞう→重蔵

御陣乗太鼓3


●土左衛門(水死体)の語源

ちょっとまて~!
重蔵は水死体を意味する土左衛門からくるというが、
重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 
↑ 
こちらの記事では重蔵はトミヒコ(ナガスネヒコの別名)からくると言ってるじゃないかって?

はい。つまり重蔵は水死体=土左衛門であり、水死体のことを土左衛門というのはトミヒコからくるのではないかと私は考えているわけです。

水死体のことを土左衛門というのは、享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が、大変な肥満体で体の膨れ上がった水死体ににていたためであるなどと言われています。
しかし、この説が絶対正しいとはいいきれません。
語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/to/dozaemon.html)にも、「正確な語源は未詳」と記されています。


トミヒコは初代神武天皇が日向より東征して機内入りする以前より畿内に住み、物部氏の祖神とされるニギハヤヒを神として奉じていました。
ここから機内には神武天皇以前に物部王朝があったとされます。

トミヒコは日向からやってきた神武に抵抗しますが、神武に服したニギハヤヒによって殺されたと記紀には記されています。

一方、イザナギ・イザナミの長子であるエビスは3歳になっても腰のたたない身体障害児であったため葦舟に乗せて流されたと記紀は記します。
わずか3歳で、しかも身体障害児だったエビスは海に沈んで市に、水死体になったことでしょう。
水死体のことをエビスという地方もありますね。

このエビスとは滅ぼされた前政権の王・トミヒコのことではないでしょうか。
つまり、次のように転訛して水死体のことを土左衛門というようになったのではないかと思うのです。

トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう→重蔵
トミヒコ→トミ→十三→どざえもん(水死体)



御陣乗太鼓2

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[2016/08/25 00:00] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)

重蔵神社 夏祭 『重蔵神社はトミヒコ神社?』 

石川県輪島市 重蔵神社
夏祭・・・8月23日~24日


●輪島大祭

8月22日から8月25日までの4日間、石川県輪島市にある奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社で夏祭りが行われ、輪島大祭(キリコ祭)と呼ばれています。
22日、23日は奥津比咩神社、23日・24日は重蔵神社、24日・25日は住吉神社、25日・26日は輪島前神社の祭礼です。

重蔵神社 キリコ2

●重蔵神社の夏祭

8月22日の奥津比咩神社の祭礼に続き、23日は重蔵神社の祭礼が行われました。 

輪島大祭は別名をキリコ祭ともいいます。
キリコとは大きな御神灯のことです。

輪島大祭を行う四つの神社(奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社)ではいずれもこのキリコの巡幸が行われます。

22日も奥津比咩神社のキリコ巡幸を見る予定にしていたのですが、雨が降り出し、雷もごろごろ言いだしたのであきらめてホテルに戻り、のんびり温泉に入りました。(いい湯でした~♪)

23日の重蔵神社はすごい人でした! 
 
重蔵神社 キリコ 
重蔵神社前の広場にキリコが集まっています。

 重蔵神社 猿田彦

猿田彦(天狗)を先導として行列が夜道を練り歩きます。

重蔵神社 行列 

港の広場にキリコが集まってきました。

重蔵神社 キリコ6 
氏子さんたちはキリコを担いでもの凄いスピードで走ってきます。

重蔵神社 キリコ3 
重蔵神社では次のように伝わっています。
『23日の晩、舳倉島の女神が松明の明かりを目指してやってきて、輪島の男神が結ばれ、産屋に見立てたお仮屋で新しい神様が産まれる』

大小ふたつの松明に点火されましたが、大きい松明は男神を、小さい松明は女神をあらわしているのではないでしょうか。 

重蔵神社 松明  

↑ 大松明。燃えてるところをうまく撮れなかったので、燃えてる風に加工しました~。(汗)

●十三(じゅうそう)の地名の由来


重蔵神社という神社名を聞いて、テンションがあがってしまったー!
大阪の十三(じゅうそう)の地名の由来について、重蔵からくるのではないか、という説があるのを思い出したからです!

詳しくはこちらの記事をお読みください。 → なにわ淀川花火大会  『十三と近藤重蔵』 

十三駅前商店街を抜けたところに神津神社があるのですが、その神津神社のHPに十三の由来について記されていました。

 
①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。

②中津の南浜に住む重蔵という長者が加島へ遊びにいくとき、十三の渡しに舟をつないでいたため

③戦国時代の武将が戦死すると一族郎党妻子すべてが死に、それを憐れんで人々が十三塚を作った。(柳田国
男氏)

④条里制の十三条(天坊幸彦氏)

⑤十三は堤(つつみ)の意味(池田末則氏)

⑥中津の富島という地名からくる。


●重蔵神社はトミヒコ神社?

重蔵神社 キリコ4

十三の地名の由来についてのひとつの説として、 富島の富が十三(とみ)と訛ったものだというのがあります。

そして青森県の津軽半島西岸に十三湖(じゅうさんこ)という湖があります。。
中世、十三湖には十三湊(とさみなと)があり、安部氏・安藤氏の拠点として栄えました。

安部氏はナガスネヒコの兄・アビヒコを祖とする氏族です。
安藤氏は安東氏ともいい、前九年の役(1051~1062)で源 頼義と闘った安倍貞任の子孫と称しています。
遡れば安藤氏もアビヒコにまで繋がります。

アビヒコの弟のナガスネヒコとは、古事記や日本書紀に登場する畿内を本拠地とする豪族で、ニギハヤヒを神として奉じていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神であり、初代神武天皇より早く畿内に天下っていました。
そこへ神武天皇が東征してやってきて、神武に服したニギハヤヒによってナガスネヒコは殺されたと記されています。

アビヒコは神武が畿内入りする前には畿内に住んでいたのですが、神武畿内入りによって東北に逃れたと伝えられています。
そして物部氏と関係の深い人物だといえるでしょう。

アビヒコの兄・ナガスネヒコは別名をトミヒコともいいました。
トミヒコのトミは十三(トミ)につながります。

大阪の十三(じゅうそう)や十三湊、そして重蔵神社などはアビヒコの兄・トミヒコ(ナガスネヒコ)のトミからつけられたものなのかもしれませんね。

そう思って調べてみたところ、能登の国造(古代日本、地方を治めた官職。大化の改新以降、祭祀を司る世襲制の名誉職となった。)は安倍氏でした。
やはり能登はアビヒコやナガスネヒコと関係がある土地なのかも?

重蔵神社 キリコ5



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[2016/08/24 00:00] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)

奥津比咩神社 夏祭 『キリコ祭は七夕行事だった?』 

石川県輪島市 奥津比咩 (おくつひめ)神社
夏祭・・・8月22日~23日


●輪島大祭

8月22日から8月25日までの4日間、石川県輪島市にある奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社で夏祭りが行われ、輪島大祭(キリコ祭)と呼ばれています。
22日、23日は奥津比咩神社、23日・24日は重蔵神社、24日・25日は住吉神社、25日・26日は輪島前神社の祭礼です。

●奥津比咩神社の夏祭

奥津比咩神社 神輿   

8月22日、輪島市内のホテルに到着したのは午後4時。
奥津比咩神社の神輿渡御は午後4時からの予定。
たいへん、間に合わないよ~、と慌てて神社に向かいました。
神社に到着するとちょうど神輿が神社の階段を降りてくるところでした。 よかった、よかった。

奥津比咩神社-輪島大祭 猿田彦

行列を先導する猿田彦(天狗)。
輪島の民家は写真のように板を横に貼ったログハウス風のものが多いです。何か理由があるのでしょうか? 

奥津比咩神社-輪島大祭 行列

猿田彦のあとを、提灯を担いだ氏子さんたちが続きます。 

奥津比咩神社-輪島大祭 神輿 綱引き   
神輿渡御の途中で何度も綱引きが行われ、そのたびに神輿は後方へ戻ってしまうので、なかなか行列が前に進みません(笑)
氏子さんたちはなぜかお化粧をし、エプロンを身に着けています。

 袖が浜 夕日

袖ヶ浜に夕日が沈んでいきます。 

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事3

日没後、砂浜で入水神事が行われました。

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事2 
 
●キリコ祭は七夕の行事?


輪島ナビには『キリコ祭りのいわれ/昔、舳倉島に鎮座した女神と輪島市内の男神が、松明を目印に年に一度お会いするロマンあふれるお祭りです。お供する人々は、この日にすべての厄を払い落とし、新しい神様が誕生する生命力を授かります。』
と記されています。

1年に1度の逢瀬を楽しむといえば七夕です。
旧暦ではお盆は旧暦の7月15日を中心に行われていました。
7月7日の七夕はお盆の行事だったのです。
現在ではお盆は新暦の8月15日を中心として行われることが多いです。
8月22日から8月25日まで行われている輪島大祭はお盆の行事で、舳倉島の女神と輪島の男神が1年に1度の逢瀬を楽しむという伝説は七夕の説話からくるものだと考えられるのではないでしょうか。

舳倉島は輪島市から約50kmの沖にある島で1日1便の船しかないので行けなかったのですが、この島には奥津比咩神社(輪島市舳倉島高見2)があります。
伝説に登場する舳倉島の女神とは奥津比咩の神様のことでしょう。

●夏、舳倉島に移住していた海士町の人々




玄松子の記憶 奥津比咩神社 ← こちらのサイトで舳倉島について詳しく紹介されています。

永禄年間(1558-69)、筑前国(現在の福岡県西部)から海士又兵衛という人物が男女12人を率いて能登国羽喰郡に漂着したという伝承があります。

又兵衛らは赤崎、千の裏に住み着き、珠洲郡沿岸島で鮑を採るなどして生計をたてていましたが、その後鳳至郡北浦北橋に移住しました。
 
天正年中(1573-92)藩祖・前田利家に熨斗鮑を献上し、舳倉島・七ツ島で鮑をとる権利を得ました。
寛永年間(1624-44)輪島町鳳至町の一部が彼らに与えられました。
これが輪島の海士町です。

その後、輪島の海士町の人々は夏に数か月舳倉島に移り住んで鮑やエゴをとり、秋ごろ海士町に戻るようになりました。
海士町の人々は海士町と舳倉島の両方に家を持っていたのです。
1970年ごろより、舳倉島に定住する人が現れました。

海士町の奥津比咩神社は、近年になって舳倉島の奥津比咩神社より御分霊を奉斎したものだそうです。

海士町に奥津比咩神社がつくられたのは、最近では夏になっても舳倉島に渡らない人々が増えたということなのかも?
そうだとしても海士町の人々は舳倉島の女神・奥津比咩を、今でも厚く信仰しているのでしょう。

いや、海士町の人々だけでなく舳倉島の女神・奥津比咩は輪島の人々に厚く信仰されているのだと思います。
というのは奥津比咩神社・重蔵神社・住吉神社・輪島前神社の四神社で行われるキリコ祭は舳倉島の女神と輪島の男神が年に1度出会う祭とされているからです。

●氏子さんがエプロン姿なのはなぜ?

奥津比咩神社-輪島大祭 入水神事

海士町の奥津比咩神社の氏子さんたちは髪を染め、化粧をし、スカートにエプロンを見につけた女装姿でお神輿を担ぎます。
地元の方に「なぜエプロン姿なのか」と伺ったところ、「女の神様だから」と教えていただきました。



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[2016/08/23 00:00] 石川 | トラックバック(-) | コメント(-)

木更津 みなと祭 花火 『鈴森に表れたろくろ首の正体とは?』 

千葉県木更津市 木更津港
木更津港まつり花火大会・・・8月15日

木更津花火4

やっさいもっさい踊りの翌日は花火大会です!

木更津 花火6

●證誠寺の狸囃子伝説の真相?

木更津港からほど近いところに、「證誠寺の狸囃子」の舞台、證誠寺があります。

證誠寺と信楽焼の狸 
證誠寺に狸の幽霊?(狸は紫香楽で撮影したものです。合成。)

昔、證誠寺は「鈴森」と呼ばれる竹藪が生い茂る場所にあり、一つ目小僧やろくろ首などの妖怪が出没していたそうな。
実は鈴森に棲む狸たちが妖術で化けていたのです。
しかし新しくやってきた和尚は一つ目小僧やろくろ首を見ても驚きません。
そこで狸たちは和尚を驚かせてやろうと、證誠寺の庭でお腹をぽんぽこと打って歌い踊りました。
すると和尚は驚くどころか、庭に出て三味線を弾きだしました。
こういうことが3日ほど続きましたが、4日目には狸たちは現れず、翌朝大狸が腹を破って死んでいたので和尚は大狸を懇ろに弔いました。

木更津 花火3

木更津 やっさいもっさい踊り  『狸の踊り念仏?』 

こちらの記事に次のようなことを書きました。

①稲荷神は狐とされるが狸のこともある。

②證誠寺の近くに八剣八幡神社がありますが、その末社・三社神社は御嶽神社 ・三峰神社 ・稲荷神社を祀っている。
この稲荷神社の神使が證誠寺に表れた狸ではないか。

③狐はたいてい女性に化ける。狸は男性的な容姿をしている。(信楽焼きの狸など)

④神はその現れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)の3つにわけられる。
そして和魂は女神、荒魂は男神とする説がある。
狐は女神で和魂、狸は男神で荒魂なのではないか。
御霊・・・・・神の本質・・・・・・・・男女双体
荒魂・・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・狸
和魂・・・・・・神の和やかな側面・・・・女神・・・狐


⑤證誠寺の狸囃子では「つ~つ~月夜だ みな出て来い来い来い~♪ 」と歌う。
月夜とは15日ごろである。
狸たちは旧暦お盆の7月15日に證誠寺の庭に表れたのではないか。

⑥お盆にはご先祖様の霊だけでなく、悪霊も帰ってくると考えられていた。狸とはお盆に帰ってきた悪霊ではないか。

⑦狸はお腹をぽんぽこと叩いたとあるが、太鼓は悪霊を退散させることができると考えられていた。
狸たちは腹鼓を叩くことによって自分たちを退散させてしまったというのが「證誠寺の狸囃子」伝説の意味ではないか。


木更津 花火2 

●狸が化けたろくろ首の正体とは?


昔、證誠寺は「鈴森」と呼ばれる竹藪が生い茂る場所にあり、一つ目小僧やろくろ首などの妖怪が出没していたそうな。
実は鈴森に棲む狸たちが妖術で化けていたのです。

證誠寺からほど近い場所にある八剣八幡神社。
その境内にある三社神社の御祭神の一、稲荷神社が狸の正体ではないかと私は考えましたが、
この八剣八幡神社の前に弁才天厳島神社があります。
時間がなくて写真撮れなかったんですが~(すいません~)



※證誠寺は地図南の矢那川の文字の北にあります。


この弁才天厳島神社の神様ろくろ首の正体ではないかと思います。
なんでかって? 

木更津 花火  

●弁才天と宇賀神

喜光寺 宇賀神

上の写真は奈良・喜光寺境内にある弁天堂の御神体・宇賀神王です。

宇賀神は人頭蛇身でとぐろをまくお姿で表され、弁才天と習合されていることが多いのです。

この宇賀神がとぐろをとき、蛇体を伸ばしたお姿を想像してみてください。
頭部にながーい首がついたろくろ首になりますね。

木更津 花火5 

木更津港



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[2016/08/22 00:00] 千葉県 | トラックバック(-) | コメント(-)