京都御所 百日紅 『僧正遍照、大嘗祭で呪いの歌を詠む?』 


京都市上京区 京都御所
2016年7月28日 撮影


京都御苑・九條池の百日紅を見ようと京都御苑を訪れたのですが
「そうだ、京都御所通年公開されることになったんだった~。」と思い出し、京都御所に行ってみることにしました。

京都御所 松 
拝観は無料で、入場する際持ち物チェックがあります。
あと番号札を身につけるようにと指示がありました。

●1331年から1869年まで皇居があった場所


14世紀ごろ、鎌倉幕府は持明院統と大覚寺統から交互に天皇をたてていました。
1308年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位します。
1331年、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇は京都を脱出して南山城の笠置山に籠りました。
このとき鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇を即位させました。
これがきっかけで南北朝が並立するようになっていきます。

光厳天皇は土御門東洞院殿を里内裏としました。
それ以来、ここが皇居として用いられるようになり、明治2年(1869年)に明治天皇が東京へ行幸するまで続きました。
ただし、建物は何度も建て直されています。

794年の平安遷都時の内裏は現在の御所より西の千本通り沿いにありました。

●即位の礼が行われていた紫宸殿

京都御所 承明門と紫宸殿 
承明門と紫宸殿

承明門の向うに紫宸殿が見えています。
紫宸殿は儀式を行うところで、昭和天皇まで『即位の礼』はここで行われていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC#/media/File:Enthronement_of_Emperor_Hirohito.jpg
(ウィキペディア 昭和天皇の即位の礼(京都御所・紫宸殿の儀) 大阪朝日新聞 昭和3年10月1日付挿画)

今上天皇の『即位の礼』は1990年11月12日に東京で行われました。

京都御所 池と百日紅2 
●大嘗祭

11月23日は勤労感謝の日ですが、この日宮中では新嘗祭が行われます。
新たな天皇が即位した年に行われる新嘗祭は大嘗祭と呼ばれ、即位の礼と一連の儀式とされています。

大嘗祭は大極殿前に大嘗宮という建物をつくり、そこで行われたそうです。
1990年の大嘗祭では東御苑に約9000㎡もの土地が用意され、39棟もの建物が建てられたとか。

大嘗祭では様々な行事が行われるそうですが、その中に五節舞(ごせちのまい)があります。

●五節舞

五節舞とは大嘗祭や新嘗祭で4,5人の舞姫による舞のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E#/media/File:Gosechi_no_Mai-Hime_Shozoku.JPG(ウィキペディア 五節舞姫装束)



動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。


百人一首にこの五節舞を詠んだ僧正遍照の歌がありますね。

天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)


この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とあります。

遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されています。

僧侶がこんな好色な歌詠んでいいのかな~、と思っていましたが(笑)、古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)となっており、遍照が出家する以前に詠んだ歌だと一般には考えられています。

京都御所 池 

●六歌仙は怨霊だった。


僧正遍照
は六歌仙の一です。(他の五歌仙は在原業平分室康秀喜撰法師小野小町大友黒主
高田祟史さんは「六歌仙とは藤原氏と敵対関係にあった人物であり、怨霊である。」とおっしゃっています。

そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかります。

喜撰法師紀名虎または紀有常だという説があります。
紀名虎の娘で紀有常の妹の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産みました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談しましたが、源信は藤原良房を憚ってこれを諌めたそうです。
藤原良房の娘の藤原明子もまた文徳天皇に入内して惟仁親王(のちの清和天皇)を産んでいました。
この惟仁親王が皇太子になりました。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、その中に遍照在原業平紀有常らの名前があります。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もあります。

遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わりますが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったそうです。

在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王の寵臣でもあり紀氏側の人物でした。

文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われます。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となりましたが、死後冤罪であったことがわかりました。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もあります。

大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されています。
大友黒主とは大伴家持のことだと思います。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとしてすでに死亡していたのですが、死体が掘り起こされて流罪とされました。

参照/ 祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 

京都御所 池と百日紅

●小野小町は男だった?


残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。
惟喬親王はもちろん男性なのですが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんあるのです。
古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いています。

参照/ 髄心院 八重桜 石楠花 『男神は井戸に姿を映して女神になった?」 

京都御所 平安装束の女性たち  

↑ 八坂神社のかるた始めに登場したかるた姫さんたちを合成しました。

●藤原高子、五節舞姫となる。

さて世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったわけですが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめています。
そして866年には清和天皇に入内して女御となりました。

高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていきます。
藤原良房にとって高子は、天皇家と結びつきを強めるための大切な存在であったのです。

●「天つかぜ~」は高子入内を妨害する呪術の歌だった?

京都御所 蹴鞠の絵


すると、僧正遍照が 
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
と歌を詠んだ真意が見えてくるような?

この歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないでしょうか。
遍照は宮中を天上になぞらえているのでしたね。
そして「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」と詠んだ歌のように思えます。

古今和歌集ではこの歌の作者名は「よしみねのむねさだ」と遍照が在俗時の名前になっているので、出家する前に詠んだ歌だと考えられています。
そこで遍照が出家したのは849年、高子が五節舞姫を務めたのが859年なので、遍照が詠んだ五節舞を舞う乙女とは高子のことではない、と思われる方もいるかもしれませんね。

遍照出家後に詠んだ歌ではあるが、「高子を入内させないでくれ」というとんでもない内容の歌なので、
呪ったことがばれないように、あえて在俗時の名前で掲載されたという可能性もあると思います。

今は人を呪っても罪にはなりませんが、古には権力者を呪うことは罪として罰せられたのです。

「僧侶が好色な歌を詠むとはいかがなものか」との批判を避けると言う目的があったのかも?

絶対に遍照が在俗時に詠んだ歌であるとは言い切れないと思うのです。

京都御所 蹴鞠の庭   

蹴鞠の庭。
絵に描かれた人物を現実の風景の中に立たせてみたら面白いだろうな~、とずっと思っていました。
そこで京都御所の建具(戸かな?)に描かれていた蹴鞠する人々の絵を合成してみました。


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[2016/07/31 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

狸谷山不動院 夕日 火渡り祭 『即身仏になろうとした正禅』  

京都市左京区 狸谷山不動院
狸谷山火渡り祭・・・7月28日
 

狸谷山不動院 夕日 

狸谷山不動院の掛け造の本堂から、夕日が沈んでいくのが見えました。 

狸谷山不動院 護摩 
日没後、本堂前で護摩供が行われました。 

狸谷山不動院 火渡り

護摩供のあと、火渡りをして無病息災を祈ります。
火渡りは誰でも参加することができます。

●咤怒鬼不動明王

狸谷山不動院の御本尊の『不動明王』は桓武天皇の勅願によって平安京の城郭東北隅に鬼門守護として祭祀されていたもので、咤怒鬼(タヌキ)不動明王として信仰されていました。
その後、1249年に洞窟に安置されました。

●木食上人

1718年には、木食上人正禅が現内陣で、(洞窟を改修したものだそうです。)17年間参籠しています。

木食とは『穀物を断って木の実や草のみを食べる修行』のことで、木食上人とはこのような修行を行った僧のことを言います。

●正禅は即身仏になろうとした?

木食は入定して即身仏となるためにかかせない修行でした。
即身仏となるためには脂肪を減らし、死後腐りにくい体にする必要がありました。
そのため、木食を行ったのです。
特に水銀土壌で育った木の実や草を食べると、体内に水銀が蓄積され、水銀の防腐作用で死後腐りにくい体になったようです。

正禅は1763年に死亡して五条坂の安祥寺に埋葬されたそうですが、即身仏となることをめざしていたのではないでしょうか。

●なぜ即身仏になろうとしたの?

即身仏をめざした人の目的は、56億7000万年後の弥勒の聖業に参加するためだったといいます。
将来復活するためには、魂の容れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。

●数字の8は復活を意味する数字?

梅原猛さんは数字の8は復活を意味する数字だとおっしゃっていました。
八角堂や八角墳は死者の復活を願って作られたものだというのですね。

●狸には復活のイメージがある?

ここ狸谷山不動院には信楽焼きの狸の像がたくさん奉納されていますが、信楽焼きの狸は『八』と記された酒瓶に御用帳を持っています。
また『狸の○○八畳敷』などとも言います。 → goo辞書
『狸の○○千畳敷』ともいいますが~。 (笑)

木食上人正禅といい、信楽焼の狸といい、狸谷山不動院には復活のイメージがありますね~。

狸谷山不動院 火渡り2 


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[2016/07/30 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

喜光寺 蓮 ひまわり 『試みの大仏殿』 

喜光寺 本堂 蓮


●ふたつの創建年


喜光寺にはふたつの創建年が伝えられています。
①『行基年譜(1175年)』・・・721年、寺史乙丸が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。

②『菅原寺記文遺戒状』・・・715年、元明天皇の勅願によって創建された。

また、聖武天皇が参詣したさい、本尊より不思議な光が放たれ、これを喜んだ聖武天皇が「菅原寺」から「喜光寺」という寺名に改めたという伝説が伝えられています。

菅原寺と呼ばれていたのはこの地が菅原と呼ばれているからです。

●試みの大仏殿

行基は東大寺大仏殿の十分の一の大きさで喜光寺を建てたという伝承があり、そのため本堂は「試みの大仏殿」と呼ばれています。
(ただし室町時代に再建されていますが。)

東大寺 中門 大仏殿

東大寺 中門と大仏殿

喜光寺 門 本堂 
喜光寺 南大門と本堂

●715年は志貴皇子の薨去年
『菅原寺記文遺戒状』は喜光寺の創建を715年としていますが、万葉集詞書はこの年志貴皇子が薨去したと記しています。

●食い違う志貴皇子の薨去年

ところが、日本続記や類聚三代格は、志貴皇子の薨去年を716年としていて万葉集詞書と食い違っています。

●志貴皇子暗殺説

笠金村という人が志貴皇子の挽歌を詠んでいます。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)
この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせます。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)


こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思えます。

これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたのではないか。

のちに志貴皇子の子の光仁天皇が即位しているところから、志貴皇子には正当な皇位継承権があったのではないかというのです。

喜光寺 ひまわり 

喜光寺 本堂 花はひまわりかな?


●志貴皇子暗殺の首謀者は誰?


715年は元正天皇が即位した年でもあります。
元正天皇は女性だったのですが、甥の聖武天皇がまだ若かったため、中継ぎの天皇として即位したのです。
私は元正天皇が皇位につくために志貴皇子を暗殺したのではないかと考えています。

●大仏殿は長屋王の怨霊封じ込めのお堂?

東大寺の大仏は長屋王の怨霊封じ込めの像であるとする説があります。

729年、長屋王は謀反を企てたとして厳しい取り調べを受け、自殺においこまれました。(長屋王の変)

当時、聖武天皇と夫人の藤原光明子の間には男子がなく、長屋王は皇位継承に近い立場にありました。
そのため藤原四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が長屋王を廃するためにしくんだ陰謀であると考えられています。

長屋王の変ののち、藤原光明子は人臣として初の皇后となり、藤原四兄弟が政治の実権を掌握しました。
ところが737年、藤原四兄弟は流行っていた天然痘にかかって次々に死亡し、長屋王の怨霊の仕業であると怖れられました。
また大地震がおこったり、740年には藤原広嗣の乱がおこりました。

そこで聖武天皇は長屋王の怨霊を封じ込めるみほとけとして大仏をつくったのではないか、というのです。
とすれば、大仏殿は怨霊封じ込めのお堂ですね~。

喜光寺 蓮  

●「試みの大仏殿」伝承の真実?

東大寺大仏殿が長屋王の怨霊封じ込めの寺ならば、喜光寺は志貴皇子の怨霊封じ込めの寺なのではないでしょうか?

長屋王の怨霊が登場するまで、奈良で一番の怨霊は志貴皇子だったことでしょう。
ところが、志貴皇子を上回る強烈な怨霊の長屋王が現れ、藤原四兄弟は長屋王の怨霊の祟りで次々に死んでいったのです~。
長屋王の怨霊封じ込めのため大仏殿は作られたのではないでしょうか?

そのため、志貴皇子を慰霊する寺・喜光寺の本堂は「長屋王以前の古い怨霊を封じ込める寺」という意味で「試みの大仏殿」と呼ばれたのではないかと思ったりします。

喜光寺 阿弥陀三尊像


 喜光寺の仏像は嬉しいことに撮影okです。
仏像の撮影okのお寺が増えるといいなあ~。


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[2016/07/29 01:19] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

唐崎神社 御手洗祭 『宇志丸は牛丸?』  

滋賀県大津市 唐崎神社

7月27日、28日は唐崎神社の「みたらし祭」です!

唐崎神社 みたらし祭 
湖上焚上神事。
古い御札やお守りなどを焚きあげて清めます。 

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火

そのあと、手筒花火神事が行われました。(7月28日のみ)

●琴御館宇志丸
 
633年、琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)という人がこの地に住み、地名を「唐崎」と名付けたそうです。
その後、天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神を大津に勧請した際、神は琵琶湖を渡りこの地に降り立ったといわれています。
唐崎神社は日吉大社の摂社ですが、日吉大社の西本宮の御祭神が大己貴神ですね。

●琴御館宇志丸の娘・別当命

唐崎神社が創建されたのは持統天皇の御代の697年で、琴御館宇志丸の妻・女別当命(わけすきひめのみこと)を御祭神としています。

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火2


●池や湖のほとりには女神が祀られる。

日本では水神は大抵女神とされていて、池や湖のほとりには弁財天やイチキシマヒメが祀られています。
唐崎神社は琵琶湖のほとりにあるということで、やはり女神の女別当命を祀っているのでしょう。

●女別当命は琴御館宇志志丸の和魂?


神はその現れ方で、御霊(神の本質)、荒魂(神の荒々しい側面)、和魂(神の和やかな側面)にわけられると言われますが、
男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説があります。

女別当命とは荒霊である琴御館宇志志丸の和霊なのではないでしょうか。

●宇志丸は牛丸?

琴御館宇志丸の宇志丸とは牛丸で、牛頭天皇と関係があるのかもと思ったりします。
牛頭天皇とは京都八坂神社の御祭神で、疫神として畏れられた神です。
唐崎神社の御手洗祭と同時期に行われる祇園祭はこの牛頭天皇を慰霊する祭です。 

唐崎神社 みたらし祭 手筒花火3 

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[2016/07/28 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

法起寺 青空 /法輪寺 夕景 /法隆寺 花火 『人木の墓』  

奈良県斑鳩町 法輪寺 法起寺 法隆寺

法起寺 青空 

法起寺 塔百景95
 

斑鳩の里を歩くと田園風景の中に法隆寺、法輪寺、法起寺の3基の塔が次々に現れます。
この3基の塔のある風景に惹かれて何度ここにやってきたかなあ~♪



法輪寺の東に法起寺、法輪寺の南に法隆寺があります。

●消えた死体

『日本霊異記』に、『聖徳太子が不思議な事を示しなさった話』という話があります。

聖徳太子が片岡村を通りかかったとき、路傍に病気の老人が寝ていました。
太子は自分の着物を脱いで老人に与えましたが、帰りがけに見ると乞食に与えた衣が木の枝に掛けられており、乞食の姿はありませんでした。
太子はその衣を枝からとって着ました。
家来が『賎人が触って穢れた衣をなぜ着るのですか。』と尋ねると、太子は「お前の知らぬことだ」と答えました。
やがて、乞食が他の場所で死んでいるのが見つかり、太子は岡本村の法林寺の北東にあった守部山に墓を造って納め、人木の墓と名づけました。
後に太子の使いの者が墓の様子を見にいくと、墓の口は開いていないのに、乞食の遺体はなくなっていました。
そして、そこには一首の歌が立てかけられていました。

鵤の 富の小川の 絶えばこそ わが大君の 御名忘られめ
(斑鳩の富の小川の水が耐えたなら聖徳太子の御名は忘れられるでしょう。しかしそんなことは絶対にありません。)

使者は乞食を賎しいと見ましたが、聖徳太子は乞食が聖人であることを見抜いていたのです。


●法林寺は法輪寺

法輪寺 夕景 
法輪寺 塔百景9

『日本霊異記』に登場する岡本の法林寺とは法輪寺のことだと思います。
法輪寺は法林寺と書くこともあり、近所には岡本という地名もあります。

守部山、人木の墓の場所についてはわかりません。

●聖徳太子と達磨は同一人物だった?

この聖人は達磨であるとして建立されたのが達磨寺だとされています。

四天王寺 達磨像 


上の写真は聖徳太子が建立したと伝わる大阪の四天王寺にあった達磨像です。

四天王寺に達磨像があるのは、聖徳太子が着物を脱いで達磨の聖徳太子は老人に自分の着物を脱いで着せ、老人がいなくなったあと、またその着物を身に着けています。
着物を共用することで、聖徳太子と老人は同一人物であるということを示しているようにも思えます。

●人木の墓は法輪寺の三重の塔?

そうだとすると法林寺の東北にあったとされる『人木の墓』は聖徳太子の墓だということになります。

法輪寺は聖徳太子の皇子・山背大兄王が太子の病気平癒を願って建立したとされています。
そして仏塔とは仏舎利を祀るためのもの、つまり墓だといってもいいでしょう。

人木の墓とは法輪寺の三重塔のことではないのかな、と思ったりします。

法隆寺 花火

法隆寺 花火 塔百景96


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[2016/07/27 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

朝護孫子寺 夜霧 『戒壇めぐりは坑道めぐり?』  

奈良県生駒郡 朝護孫子寺

朝護孫子寺 本堂 霧 
数年前の夜、PLの花火が見えるんじゃないかと思って、朝護孫子寺へ行きました。
夜8時でも、朝護孫子寺の門はあいていました。門をしめないお寺なのかもしれません。
花火の音はよく聞こえましたが、花火はぜんぜん見えませんでした。(まぬけ~)

花火は見えませんでしたが、夜霧が出てきれいでした。

●ムカデは毘沙門天の使い
 
朝護孫子寺の本堂の欄間や額にはムカデが彫られています。 

朝護孫子寺 額


朝護孫子寺のご本尊は毘沙門天ですが、ムカデは毘沙門天の使いとされているのですね。
京都の鞍馬寺も尊天(毘沙門天王・千手観音菩薩・護法魔王尊)の一として毘沙門天を祀っていますが、以前鞍馬寺でムカデの絵の描いた護符や茶碗が展示されているのを見たことがあります。

●毘沙門天は鉱山の神

毘沙門天はもともとはインドの神クベーラで、夜叉を使役して貴金属や宝石を採掘させる神でした。
クベーラは鉱山の神だといってもいいのではないでしょうか。

●ムカデ穴

朝護孫子寺 ムカデのレリーフ


そして坑道のことをムカデ穴などといい、鉱山のある地域の中にはムカデを神として崇め、ムカデは殺してはいけないとしているところもあります。
ムカデが毘沙門天の使いだというのはこのためでしょう。

●百足衆

戦国時代、武田信玄の伝令部隊や金山衆は百足衆と呼ばれていました。
武田氏は鉱山を所有しており、また毘沙門天を厚く信仰していたことから金山衆だけでなく、伝令部隊も百足衆と呼ばれたのではないでしょうか。

戦国時代は鉱山争奪戦だったとも聞きます。

●戒壇めぐり

以前、朝護孫子寺の戒壇めぐりを体験したことがあります。
戒壇めぐりとは朝護孫子寺本堂地下の真っ暗な回廊を手探りでめぐることをいいます。
目を開けているのか開けていないのかわからないくらい暗いです。

暗さといい、回廊の狭さといい、まるで坑道を歩いているかのようでした。
しばらく歩いていくと、生まれ年の守本尊が現れます。
守本尊はぼうっと明るく、これは鉱物のイメージだと思いました。

朝護孫子寺の戒壇めぐりは坑道をイメージして作られたものなんじゃないかなあ、と思いました。

朝護孫子寺 本堂 霧2

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[2016/07/26 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪天満宮 天神祭 『村上天皇はなぜ大阪天満宮を創祀したのか』 

大阪市北区 大阪天満宮
天神祭 7月25日

天神祭 猿田彦 

露払役の猿田彦(天狗)

●25に縁の深い菅原道真

大阪天満宮の御祭神・菅原道真は25に縁のある人で、誕生日は6月25日、命日は2月25日です。
そのため、25日は天神さん(菅原道真)の縁日 となっています。
天神祭も天神さんの縁日の7月25日に行われています。 

天神祭 地車 
地車

天神祭 獅子舞 

獅子舞

天神祭 傘踊

傘踊

天神祭 陸渡御5

斎主かな? その後ろは御錦蓋(おきんがい/日傘)
 

天神祭 陸渡御4 

御錦蓋

天神祭 采女  

采女。
みなさんべっぴんさんなんですが、ベールごしに見るとますますべっぴんに見える~♡ 



天神祭 陸渡御7  

鳳神輿 

天神祭の陸渡御って見物人も多いけど、行列に参加している人がそれ以上に多いように感じます。
いったい何人の人が行列に参加しているのやら。

何かわからないのもたくさん~(汗)
知ってる人、教えて!


天神祭 陸渡御6 

天神祭 陸渡御3

天神祭 陸渡御2 

御鳳輩
道真公の御神霊が乗っているそうです。



●菅原道姉怨霊となる

菅原道真は平安時代の政治家で、右大臣にまで上り詰めました。
道真の才覚に嫉妬した左大臣の藤原時平が醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言し、道真は大宰府に左遷となり、数年後失意のうちに死亡しました。

天神祭 陸渡御 

↑ これは菅原道真公の像じゃないかと思うんですが、どうでしょう?

あるとき、清涼殿に落雷があり炎上するという事件がおきました。
また疫病が流行り、天変地異もあり、これらは道真の怨霊の仕業だと考えられました。

清涼殿炎上の3か月後に醍醐天皇は崩御しましたが、死因は道真の怨霊を畏れるあまりノイローゼになったためだとも言われています。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天変地異は怨霊の仕業でひきおこされると昔の日本人は考えていたのです。
そして祟り(怨霊)は神として祭り上げるとご利益を与えてくださる和霊に転じると考えられていました。

●村上天皇が大阪天満宮を創祀したワケ

大阪天満宮を創祀したのは村上天皇ですが、村上天皇は醍醐天皇の皇子です。
醍醐天皇は道真を左遷にした人物ですから、醍醐天皇の子である村上天皇も道真の怨霊を畏れたことでしょう。
末代まで祟ってやる~、なんていいますからね。

村上天皇は道真に祟られては大変、と大阪天満宮を創建したのだと思います。 

天神祭 陸渡御 猩々 

これは猩々だと思います。
猩々とは人間に似た大酒呑みの動物とのこと。
あなたのまわりにも猩々さんいませんか?
 



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[2016/07/25 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

祇園祭 花傘巡行 『牛頭天王の総本社はどこ?』  

京都市東山区 八坂神社 
花笠巡行 7月24日

パレードが始まるよ!

祇園祭 花笠巡行 祇園太鼓花笠と獅子 
祇園太鼓花傘と獅子

祇園祭 花笠巡行 神饌行列

神饌行列 ~♡

祇園祭 花笠巡行 織商鉾

織商鉾♡

 
祇園祭 花笠巡行 鷺踊

 
鷺踊 ♡


祇園祭 花笠巡行 馬長 

馬長 馬の鼻が切れちゃったけど男の子がかわいいので♡

祇園祭 花笠巡行 宮川町
  
  
宮川町 ♡

祇園祭 花笠巡行 久世六斎

久世六斎

 

 祇園祭 花笠巡行 幌武者

幌武者。背中にしょっているのは「幌(ほろ)」で、連絡役の武者が矢を防御するために身に着けるのだそうです。


●スサノオと牛頭天皇の習合

祇園祭は八坂神社の祭礼ですが、
八坂神社の)社伝には次のようにあります。
「656年、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られるスサノオを山城国愛宕郡八坂郷に祀った。 」

これを読むとスサノオは新羅の神のように思えますが、スサノオは日本の神で、新羅の牛頭天皇と習合されたとする説が一般的なようです。

●ふたつの牛頭天皇総本宮

そして八坂神社は牛頭天皇の総本宮を称していますが、なんと兵庫県姫路市の広峰神社(兵庫県姫路市広嶺山52)もまた牛頭天皇の総本宮を称しているのです。

広峰神社側の資料には次のようにあります。

①869年疫病が流行り、藤原基経が播磨国の牛頭天皇を都に勧請した。
②京都四条にある元祇園梛神社(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことが始まりである。

梛神社
 
③京都に着いた牛頭天王は北白川の東光寺に祭られた。
④その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、牛頭天王を遷座した。
⑤しかし疫病はおさまらず、広峯神社の社人を都に招いて白幣祭を行わせたところ疫病はおさまった。
⑥この白幣祭が祇園御霊会のルーツである。

しかし八坂神社は鎌倉時代に入ってから広峯神社が言い出したことだとしているようです。

また神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などは、神様を廣峯神社から八坂神社へ移した際に神様が休憩された場所と伝わっています。

祇園祭 祇園甲部 雀踊 

祇園甲部 雀をどり~♡

べっぴんさん揃いのパレードでした♪



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[2016/07/24 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

金戒光明寺 楓 夕景 夜景  『五劫思惟阿弥陀と達磨』 

京都市左京区 金戒光明寺
撮影 2016年7月12日

金戒光明寺 三重塔 
塔百景94

●アフロヘア―の五劫思惟阿弥陀

金戒光明寺で有名なのが五劫思惟阿弥陀の石像です。

今回光明寺 五劫思惟阿弥陀仏像


寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ~♪ という落語の前座噺がありますが
五劫の劫とは時間の単位です。
一劫とは天女が3年(または100年)に一度舞い降りてきて、四十里立方(約160㎞)の大岩を羽衣で撫でることによって
大岩がなくなるまでの時間のことを言うそうです。
そのとてつもなく長い時間が五劫なのでさらに五倍というわけです。

阿弥陀さまはそんなにも長い間ただ考え続けていたため、螺髪が伸びてアフロヘア―になってしまったのですね。

五劫思惟阿弥陀像は大変珍しい仏像で、東大寺勧進所の阿弥陀堂、奈良五劫院・奈良十輪院、京都大蓮寺、和歌山道成寺、京都西向寺、東京淨真寺など僅かな寺にあるのみだそうです。

●三種類ある手の形

五劫思惟阿弥陀像はいずれもアフロヘア―が特徴ですが、手の形は三種類あるそうです。

①合掌型。(東大寺勧進所の阿弥陀堂像・十輪院像・大蓮寺像)
②定印型。(西向寺像・淨真寺像)
③定印を結ぶ手を袖のなかに隠す。(道成寺像・五劫院像)

定印とは↓ このような手の形を言います。

金戒光明寺 阿弥陀仏
金戒光明寺 阿弥陀像(向かって右)

金戒光明寺の五劫思惟阿弥陀像は③ですね。

●達磨と同じ手の形

四天王寺 達磨像 

四天王寺 達磨像

金戒光明寺の五劫思惟阿弥陀は手を袖の中に隠していますが、達磨も手を袖の中に隠していますね。

達磨は南天竺国香至王の第三王子で、僧になったとされる人物です。
達磨は嵩山少林寺で9年間座禅をつづけたと言われています。

五劫思惟阿弥陀は長い間考え続け、達磨は長い間座禅をして瞑想し続けたということで、両者は似ているような気がします。


金戒光明寺 夕景

●達磨と聖徳太子は同一視されていた?

達磨は聖徳太子と関係が深い人物でして『日本霊異記』に、『聖徳太子が不思議な事を示しなさった話』という話があります。

聖徳太子が片岡村を通りかかったとき、路傍に病気の老人が寝ていました。
太子は自分の着物を脱いで老人に与えましたが、帰りがけに見ると乞食に与えた衣が木の枝に掛けられており、乞食の姿はありませんでした。
太子はその衣を枝からとって着ました。
家来が『賎人が触って穢れた衣をなぜ着るのですか。』と尋ねると、太子は「お前の知らぬことだ」と答えました。
やがて、乞食が他の場所で死んでいるのが見つかり、太子は岡本村の法林寺の北東にあった守部山に墓を造って納め、人木の墓と名づけました。
後に太子の使いの者が墓の様子を見にいくと、墓の口は開いていないのに、乞食の遺体はなくなっていました。
そして、そこには一首の歌が立てかけられていました。

鵤の 富の小川の 絶えばこそ わが大君の 御名忘られめ
(斑鳩の富の小川の水が耐えたなら聖徳太子の御名は忘れられるでしょう。しかしそんなことは絶対にありません。)

使者は乞食を賎しいと見ましたが、聖徳太子は乞食が聖人であることを見抜いていたのです。


この聖人は達磨であるとして建立されたのが達磨寺だとされています。

聖徳太子は老人に自分の着物を脱いで着せ、老人がいなくなったあと、またその着物を身に着けています。
着物を共用することで、聖徳太子と老人は同一人物であるということを示しているようにも思えます。 

金戒光明寺 夜景

●56億7000万年考え続ける菩薩

広隆寺は渡来人・秦氏の氏寺で、聖徳太子から授かった弥勒菩薩を祀るために建てたと伝わっています。

弥勒菩薩は半跏思惟像です。
思惟とは「考える」という意味です。
弥勒菩は56億7000万年後に復活するとされる菩薩ですが、56億7000万年もの長い間考え続けるわけですね。

●聖徳太子怨霊説


聖徳太子ゆかりの寺・法隆寺の救世観音は聖徳太子等身大の像と伝わっていますが
光背が頭に直接釘で打ち付けられています。
一般的には光背は足元に建てた棒にとりつけられ、法隆寺の救世観音像は特異な像なのです。

梅原猛さんは、聖徳太子は怨霊であり、救世観音の頭に光背が釘で打ち付けられているのは聖徳太子の怨霊封じの呪術であると説かれました。

聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自殺しました。
そのため聖徳太子は怨霊になったと人々に畏れられたのではないか、というのです。

井沢元彦さんは梅原猛さんの説を受けて、広隆寺の弥勒菩薩は聖徳太子の怨霊封じの像であり、怨霊が蘇らないように56億7000万年もの間復活を待ち続ける姿にされているというようなことを言っていたと思います。
ちょっと記憶があいまいで、すいません~。

すると、五劫思惟阿弥陀も五劫という気が遠くなるほど長い年月考え続けることで、怨霊を封じた像なのかもしれませんね。

金戒光明寺 山門 ライトアップ




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[2016/07/23 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

東本願寺 蓮 『親鸞は双子だった?』 


京都市下京区 東本願寺 
2016年7月18日撮影


京都の寺院めぐりは京都バス・市バス共通の1日乗車券が便利~。
500円で何回でもバスに乗り放題。
http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/page/0000028337.html

いつものように1日乗車券を使ってバスに乗り、京都駅に向かっていたところ、バスの車窓から東本願寺の蓮が咲いているのが見えた!

それで予定を変更し、京都駅から歩いて東本願寺へと向かいました♪

東本願寺 蓮 
●聖徳太子より親鸞へ、ふたつの夢告


東本願寺は親鸞を宗祖とする浄土真宗のお寺です。

親鸞は19歳のころ太子廟に参篭し、その際、聖徳太子より夢告を受けています。
その夢告の内容は「お前は10年余りのうちに死ぬ」というものでした。

叡福寺 太子廟 
太子廟

太子廟で夢告をうけてから10年後、六角堂に参篭した際、聖徳太子より「私が女性となってあなたの妻になり、命が終わるときには極楽に導きましょう。」との夢告を受けました。

六角堂 しだれ桜 
六角堂

●ひとつめの夢告は外れたのか?

その後、親鸞は90歳で入滅しました。
「10年余りのうちに死ぬ」という最初の夢告は外れたのでしょうか。

●六角堂に参篭して透明人間になった男

以前、六角堂 しだれ桜 『六角堂参篭と透明人間』 という記事の中で、「今昔物語集」にある六角堂に参篭して透明人間になった男の話を書きました。

透明人間になった男は、不動明王の呪文で姿が見えるようになったとされますが、これはいったん死んだ男が生き返ったということを比喩的に表現したものではないでしょうか。

●透明人間と親鸞は同一視された?

「今昔物語集」の成立は、1087~1156年と考えられています。
私は透明人間の話は親鸞がモデルになっているのではないかと思いましたが
親鸞の六角堂参篭は1201年なので、「今昔物語集」の成立の後ということになります。

親鸞は透明人間のモデルではないようですが、関係ないとは言い切れません。
今昔物語集の透明人間の話をベースにして、親鸞の六角堂夢告伝説は作られたのではないでしょうか。
透明人間と親鸞は同一視されたのではないかと思うのです。

●親鸞は29歳で死亡したが生き返った?


透明人間になった男が不動明王の呪文によって姿が見えるようになるという話は
死んだ男が生き返ったということではないかと私は考えました。

透明人間と親鸞が同一視されていたとすれば、親鸞もまた最初の夢告とおり29歳で死亡したが、生き返ったのかも?

六角堂 しだれ桜 『六角堂参篭と透明人間』  
↑ こちらの記事には次のようにう書きましたが

六角堂に籠っていた期間、親鸞は世間から姿を消しており、100日後に六角堂を出て世間に姿を現したので
姿を消していた期間、親鸞は透明人間になっていたと表現したのではないかなあ、と。

双子のトリック?

イエスキリストもいったん死亡して3日後に生き返っていますね。
キリスト教が多くの人に信仰されているのは、この奇跡ゆえだといえると思います。

しかしキリストの復活は、双子のトリックだったとする説があります。
キリストには双子の弟がいて十字架に磔になったのは弟だというのですね。

●兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるの?


キリストが死の直前に叫んだ、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は『わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか)』と訳されています。
『エリ』とはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈されたようですが、
この『エリ』(『高い』『より上にある』)とは『神』ではなく、『兄』のことで
キリストの弟が「兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるの?」という意味ではないかというのです。

親鸞にも双子の兄弟がいて、本物の親鸞は死んだが、その兄弟が何食わぬ顔をして親鸞だと名乗り出たのだったりして?

●かつて双子は忌むべき存在だった?

こんな単純なトリックがなぜ通用したのかって? 

双子は畜生腹であるなどとして忌まれており、そのため双子の片割れは殺されたり、里子に出されたりしたと聞いた記憶があります。
当然、記録になど残されないので、はっきりしたことはわからないのですが~。

最近でも、三笠宮様と円照寺門跡・山本静山尼が双子ではないかと言われていましたね。

忌むべき存在なので双子の存在はあまり一般の人には知られていなかったのではないかと思います。

東本願寺 御影堂門 蓮 

東本願寺・御影堂門前。
こちらの蓮はほとんど咲いていなかったので、合成で花を咲かせてみた。(汗)



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[2016/07/22 00:19] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)