京都市上京区 京都御所
2016年7月28日 撮影京都御苑・九條池の百日紅を見ようと京都御苑を訪れたのですが
「そうだ、京都御所通年公開されることになったんだった~。」と思い出し、京都御所に行ってみることにしました。
拝観は無料で、入場する際持ち物チェックがあります。
あと番号札を身につけるようにと指示がありました。
●1331年から1869年まで皇居があった場所14世紀ごろ、鎌倉幕府は持明院統と大覚寺統から交互に天皇をたてていました。
1308年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位します。
1331年、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇は京都を脱出して南山城の笠置山に籠りました。
このとき鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇を即位させました。
これがきっかけで南北朝が並立するようになっていきます。
光厳天皇は土御門東洞院殿を里内裏としました。
それ以来、ここが皇居として用いられるようになり、明治2年(1869年)に明治天皇が東京へ行幸するまで続きました。
ただし、建物は何度も建て直されています。
794年の平安遷都時の内裏は現在の御所より西の千本通り沿いにありました。
●即位の礼が行われていた紫宸殿
承明門と紫宸殿
承明門の向うに紫宸殿が見えています。
紫宸殿は儀式を行うところで、昭和天皇まで『即位の礼』はここで行われていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC#/media/File:Enthronement_of_Emperor_Hirohito.jpg(ウィキペディア
昭和天皇の即位の礼(京都御所・紫宸殿の儀) 大阪朝日新聞 昭和3年10月1日付挿画)今上天皇の『即位の礼』は1990年11月12日に東京で行われました。
●大嘗祭11月23日は勤労感謝の日ですが、この日宮中では新嘗祭が行われます。
新たな天皇が即位した年に行われる新嘗祭は大嘗祭と呼ばれ、即位の礼と一連の儀式とされています。
大嘗祭は大極殿前に大嘗宮という建物をつくり、そこで行われたそうです。
1990年の大嘗祭では東御苑に約9000㎡もの土地が用意され、39棟もの建物が建てられたとか。
大嘗祭では様々な行事が行われるそうですが、その中に五節舞(ごせちのまい)があります。
●五節舞五節舞とは大嘗祭や新嘗祭で4,5人の舞姫による舞のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E#/media/File:Gosechi_no_Mai-Hime_Shozoku.JPG(ウィキペディア
五節舞姫装束)
動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。百人一首にこの五節舞を詠んだ僧正遍照の歌がありますね。
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とあります。
遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されています。
僧侶がこんな好色な歌詠んでいいのかな~、と思っていましたが(笑)、古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)となっており、遍照が出家する以前に詠んだ歌だと一般には考えられています。
●六歌仙は怨霊だった。
僧正遍照は六歌仙の一です。(他の五歌仙は
在原業平・
分室康秀・
喜撰法師・
小野小町・
大友黒主)
高田祟史さんは「六歌仙とは藤原氏と敵対関係にあった人物であり、怨霊である。」とおっしゃっています。
そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかります。
喜撰法師は
紀名虎または
紀有常だという説があります。
紀名虎の娘で紀有常の妹の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産みました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談しましたが、源信は藤原良房を憚ってこれを諌めたそうです。
藤原良房の娘の藤原明子もまた文徳天皇に入内して惟仁親王(のちの清和天皇)を産んでいました。
この惟仁親王が皇太子になりました。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、その中に
遍照・
在原業平・
紀有常らの名前があります。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もあります。
遍照は藤原良房にすすめられて出家したと伝わりますが、彼は出家した理由を決して人に話さなかったそうです。
在原業平は紀有常の娘を妻としており、惟喬親王の寵臣でもあり紀氏側の人物でした。
文屋は分室とも記され、
文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われます。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となりましたが、死後冤罪であったことがわかりました。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もあります。
大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されています。
大友黒主とは大伴家持のことだと思います。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとしてすでに死亡していたのですが、死体が掘り起こされて流罪とされました。
参照/
祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 
●小野小町は男だった?残る小野小町について、私は「小野宮」と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。
惟喬親王はもちろん男性なのですが、古今和歌集には男性が女性の身になって詠んだ歌というのがたくさんあるのです。
古今和歌集の編者の一人である紀貫之も土佐日記で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いています。
参照/
髄心院 八重桜 石楠花 『男神は井戸に姿を映して女神になった?」
↑ 八坂神社のかるた始めに登場したかるた姫さんたちを合成しました。●藤原高子、五節舞姫となる。さて世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったわけですが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめています。
そして866年には清和天皇に入内して女御となりました。
高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていきます。
藤原良房にとって高子は、天皇家と結びつきを強めるための大切な存在であったのです。
●「天つかぜ~」は高子入内を妨害する呪術の歌だった?
すると、僧正遍照が
天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
と歌を詠んだ真意が見えてくるような?
この歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないでしょうか。
遍照は宮中を天上になぞらえているのでしたね。
そして「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」と詠んだ歌のように思えます。
古今和歌集ではこの歌の作者名は「よしみねのむねさだ」と遍照が在俗時の名前になっているので、出家する前に詠んだ歌だと考えられています。
そこで遍照が出家したのは849年、高子が五節舞姫を務めたのが859年なので、遍照が詠んだ五節舞を舞う乙女とは高子のことではない、と思われる方もいるかもしれませんね。
遍照出家後に詠んだ歌ではあるが、「高子を入内させないでくれ」というとんでもない内容の歌なので、
呪ったことがばれないように、あえて在俗時の名前で掲載されたという可能性もあると思います。
今は人を呪っても罪にはなりませんが、古には権力者を呪うことは罪として罰せられたのです。
「僧侶が好色な歌を詠むとはいかがなものか」との批判を避けると言う目的があったのかも?
絶対に遍照が在俗時に詠んだ歌であるとは言い切れないと思うのです。
蹴鞠の庭。
絵に描かれた人物を現実の風景の中に立たせてみたら面白いだろうな~、とずっと思っていました。
そこで京都御所の建具(戸かな?)に描かれていた蹴鞠する人々の絵を合成してみました。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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