奈良県大和郡山市 矢田寺
●矢田寺地蔵縁起『矢田寺地蔵縁起』に次のようにな説話が記されています。
嵯峨天皇の御世、小野篁(802~852)という役人がいました。
小野篁は昼は宮中に、夜は閻魔庁に仕えていました。
ある時、閻魔大王が篁に言いました。
『自分には三熱の苦しみがある。この苦しみから離れるために菩薩戒を受けたいので、適任者を探してほしい。』と。
篁は矢田寺の満慶上人こそ適任者だと考え、満慶上人を閻魔庁に連れていきました。
満慶上人は閻魔庁で閻魔大王に会い、閻魔大王に菩薩戒を授けました。
閻魔大王はそのお礼に満慶上人を地獄に案内しました。
満慶上人は、地獄の燃えさかる炎の中で、生身の地蔵菩薩に会いました。
地蔵菩薩は『苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる。』とおっしゃって
亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けておられました。
矢田寺へ戻った満慶上人は仏師に地蔵菩薩の姿を刻ませましたが、思うように彫ることができませんでした。
ある日4人の翁があらわれ、3日3晩のうちに地蔵菩薩を彫り上げました。
それは満慶上人が地獄で出会った地蔵菩薩そのままのお姿でした。
4人の翁は『我らは仏法守護の神である。』と告げて、五色の雲に乗って奈良の春日山へと飛び去りました。
そのため、矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作と伝えられています。
また満慶上人は地獄から戻るとき、閻魔大王より米の入った手箱をもらいましたが、
米はどれだけ使っても減らず、常に米が箱いっぱいに満ちていました。
そのため人々は満慶を満米上人と呼ぶようになりました。
上の写真は閻魔堂で、閻魔大王ほか、十王像が安置されていました。
●六道珍皇寺『矢田寺地蔵縁起』に登場する小野篁は平安時代の官僚で、京都・六道珍皇寺を創建したともいわれています。
六道珍皇寺はあの世とこの世が交わるところと畏れられた「六道の辻」にあり、境内には篁が閻魔庁に通うのに使ったといわれる井戸があります。
●流罪になった小野篁
なぜ篁には「昼は宮中に、夜は閻魔庁に仕えた」などという伝説が残されているのでしょうか。
篁は遣唐副使に任ぜられました。
このとき遣唐大使・藤原常嗣の船と交換したのですが、交換した船が壊れていたのです。
篁は壊れた船で唐へは行けないと考え、仮病を使って乗船を拒否しました。
そのため篁は隠岐へ流罪となったのですが、1年あまりで許されて帰京しています。
●平安京の中はこの世、平安京の外はあの世に喩えられていた。平安時代には、平安京の中はこの世、平安京の外はあの世だと考えられていたと何かの本で読んだ記憶があります。
鴨川の東は平安京の外側だったのですが、今でも阪急河原町駅でおりると、鴨川の西は商店街や銀行、百貨店などがあってまさしくこの世という感じです。
ところが四条大橋を渡って鴨川の東側へ行きますと、建仁寺・知恩院・清水寺などの寺院や、八坂神社・安井金毘羅宮などの神社、
鳥辺野の風葬地の名残を残す大谷墓地などがあって、あの世の雰囲気が漂っています。
四条大橋はまるでこの世とあの世をつなぐ橋のようです。
●隠岐はあの世に喩えられた?当時の人々は隠岐という都から遠く離れた小島をあの世と考え、そのため篁はあの世の閻魔庁に仕えたなどという伝説が生じたのではないかと思ったりします。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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