京都府木津川市 岩船寺
奈良市二条大路南 イトーヨーカ堂奈良店(長屋王邸跡)
撮影 2008年 6月21日
塔百景7●昔の天邪鬼はまるでムンクの「叫び」岩船寺のある当尾の里は京都府ですが、奈良市から近く大和棟の民家があるなど、大和路の趣がある場所です。
満開の紫陽花の花の向こうに三重塔が見えていました。
この三重塔の屋根を天邪鬼が支えています。
本堂にはガラスケースが置かれてあってその中に天邪鬼が展示されていました。
未確認なのですが、たぶん、このガラスケースの中におさめられた天邪鬼はかつて三重塔についていた物じゃないかと思います。
昭和18年に三重塔の解体修理が行われていますが、そのときにとりはずされたものなのかも?
ガラスケースの中の天邪鬼は現在の天邪鬼(写真2枚目)とはまるで違っていました。
目と口の部分に穴が開けられていて、まるでしゃれこうべのようです。
ムンクの『叫び』に描かれた人物を思い出させます。
天邪鬼は悲痛の叫びをあげているようにも見えました。
●長屋王の変岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっていますが、この年『長屋王の変』が起こっています。
『長屋王が呪術を行って国を潰そうとしている!』と朝廷に密告されたんですね。
舎人親王によって厳しい取り調べが行われ、長屋王はその結果、長屋王は自殺に追い込まれてしまいました。
現代であれば呪術は科学的でないとして信用されていないので、呪術を行ったとしても罰せられることはありません。
しかし、奈良時代には呪術を行うということは大罪だったんですね。
でも、長屋王が本当に呪術を行ったのかどうか?
『続日本紀』には「誣告」と記されています。
誣告とは「故意に事実を偽って告げる」という意味です。
昔の人は、長屋王が呪術を行って国家を潰そうとしたというのは事実ではないと認識していたのでしょう。
聖武天皇の皇子の安積親王の母親は県犬養広刀自で、藤原氏ではありませんでした。
このため、長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたのではないか。
そして長屋王の変は藤原氏がこれを廃そうとした陰謀だったのではないかとする説が有力です。
長屋王の没後、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てることにしています。
光明皇后は人臣として初めて皇后になったのです。
そして光明皇后の兄たち、藤原四兄弟は権力を掌握することになったのです。
●藤原四兄弟の相次ぐ死ところが、737年、藤原四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡してしまいました。
人々は「藤原四兄弟が死んだのは、長屋王の怨霊の祟りにちがいない!」と噂しました。
●天邪鬼は長屋王?聖武天皇は長屋王の怨霊をおそれ、長屋王の霊を鎮魂するために岩船寺を建てたのではないかと思ったりします。
三重塔の屋根を支えていた悲痛の叫びをあげる天邪鬼は、長屋王の怨霊なのかも?
天邪鬼の上に重たい屋根が乗せられているのは、天邪鬼が暴れないようにするための呪術的な仕掛けなのかもしれませんね。
●長屋王は長屋親王だった?1986 年から1989年にかけて、奈良そごう建設にあたり発掘調査が行われました。
その結果、建設予定地より、長屋王の邸宅跡が発見されました。
出土した木簡には「長屋親王」の文字が記されたものがあり、長屋王は「王」ではなく「親王」で正当な皇位継承権があったのではないかとする説もあります。
●そごうの倒産は長屋王の怨霊の祟りだった?奈良そごうは経営不振に陥って2000年に閉鎖し、現在その建物にはイトウヨーカ堂が出店しています。
そごうが閉鎖したとき、「そごうが倒産したのは長屋王の祟りである。」などという噂が流れました。
死後、1000年以上たっても祟るとは、長屋王の怨霊、恐るべし~。
イトウヨーカ堂奈良店の裏手に長屋王邸の小さな模型があります。
上の写真はマンホールの蓋ではありません~。
長屋王低の柱跡を示したもので、やはり建物の裏側の従業員出入り口付近にあります。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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