京都市東山区 方広寺・豊国神社
撮影 2016年6月13日
豊国神社(京都)●方広寺が大仏殿と呼ばれるワケ1596年、松永久秀の焼き討ちによって東大寺の大仏さまは大きなダメージを受けました。
東大寺 大仏
現在の大仏は1685年から1691年にかけて復興されたもので
『奈良六大寺大観 東大寺二』は、右腋から下腹にかけて、両手の前膊と袖、両脚が奈良時代のものであるとしています。
方広寺 鐘楼そこで豊臣秀吉は新たに大仏をつくり、1595年に方広寺に安置しました。
方広寺が別名、大仏殿と呼ばれるのは、そのためです。
今の方広寺の境内は狭いですが、かつては大寺院で、現在の妙法院・豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地までがすべて方広寺の境内であったそうです。
地図はっておきますね。
●慶長伏見地震方広寺の大仏は東大寺大仏よりも大きく、像高は19mもありました。
(東大寺大仏はブロンズ製で、当初の像高は15m80cm/現在の東大寺大仏は14m98cm)
方広寺に大仏は工期短縮のため、漆膠製で作られました。
ところが翌年・1596年の慶長伏見地震で壊れてしまい、秀吉は大仏に向かって「自分の身も守れないのか!」とひどく怒ったそうです。
いや、怒られてもねえ~。
大仏さまはきっと「ちゃんとブロンズでつくってくれてたら壊れなかったのに!工期短縮とかいって漆膠で作ったりするから壊れたんじゃないの!」と言い返したかったにちがいありません。
慶長伏見地震では秀吉が作った伏見城も壊れています。
マグニチュード 7.25-7.75と推定され、1000人以上の人が犠牲になったと言われています。
伏見桃山城 模擬大天守と小天守本当に、昔も今も、日本は地震国なのでやっかいです。
●信濃善光寺の阿弥陀三尊象を遷座ともかく、せっかく作った大仏様が壊れてしまったので、1597年秀吉は当時、甲斐善光寺に安置されていた信濃善光寺の本尊・阿弥陀三尊象を方広寺に遷座しました。
善光寺 本堂●秀吉の最後1598年5月ごろより秀吉は体調を崩し、五大老(徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と前田玄以・長束正家らにあてた遺言書(『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』)を書いています。
そこには「ワシを八幡神として祀れ。遺体は火葬にするな。」などと書かれてありました。
※
日光東照宮 例大祭 百物揃千人武者行列 『変わっていく神の定義?』※追記 訂正 ↑
こちらの記事に
「豊臣秀吉は豊国大明神として豊国神社などに祀られていますが、
豊国大明神という神名は朝廷より与えられたもので、
家康のように「死後神として祀れ」と言ったとはウィキペディアには書かれていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89 」
と書きましたが、秀吉は「死後八幡神として祀れ」と遺言していたんですね。すいません~。
訂正させていただきます。また秀吉が死後八幡神として祀れと遺言していたのは、大広寺を東大寺のかわりだと考えていたためだと思います。
東大寺の鎮守の社は手向山八幡ですので。
大仏を作ったのもそのためでしょうね。
手向山八幡宮そして秀吉が体調を崩したのは、「善光寺の阿弥陀三尊の祟りじゃーーーっ」ということになり
阿弥陀三尊は信濃善光寺に戻されることになりました。
しかし病が回復することはなく、秀吉は8月に亡くなりました。
善光寺境内にある善光寺絵巻に描かれた善光寺の阿弥陀三尊。本物は絶対秘仏。
●秀吉、神となる。
その後しばらく秀吉の遺体は伏見城下
に安置されていました。
9月になると、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に方広寺の鎮守として八幡大菩薩堂の建築が始まり、
4月に秀吉の遺体は阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。
そして、朝廷は秀吉に「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えたのです。
これが方広寺の隣にある豊国神社の創祀となります。
豊国神社(京都)秀吉は八幡神として祀られることを望んでいたのに、実際には「豊国大明神」として祀られたわけです。
朝廷はなぜ、秀吉に八幡神という神号を与えなかったのでしょうか。
八幡神とは15代応神天皇のことです。
秀吉は天皇家の人間ではなく、臣下ですから、「いくらなんでも八幡神は望みすぎやろ~」ということだったのではないかと想像します。
秀吉の霊は神として祀ったため、葬儀はおこなわれませんでした。
そして秀吉の命日8月18日には豊国祭が盛大に行われたということです。
●家康、豊国大明神の神号をはく奪する。1615年、大阪の陣で豊臣家は滅亡し、徳川家康が天下をとりました。
徳川家康は後水尾天皇の許しを得て豊国大明神の神号をはく奪。
秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」として仏式で祀られるようになりました。
そして神社は潰されてしまったのです。
北政所の懇願によって社殿だけは残されたようですが、家康は豊国神社参道を塞ぐためにわざわざ新日吉神社を遷宮させています。
家康の執念がすごいのか、当時こんなことは当たり前だったのか。
新日吉神社●明治になってようやく再興された豊国神社
豊国神社が再興されたのは、1875年、明治天皇によってです。
このとき、豊国大明神という神号も復されました。
●秀吉の命日は本当に8月18日?前置きが長くなりましたが、本日のテーマは「秀吉の命日は本当に慶長3年8月18日(1598年9月18日)なのか」ということです。
秀吉の死はしばらくの間は公にはされず、伏せられていました。
これはこのとき慶長の役のまっただ中で、軍の指揮がさがるのを防ぐためだとも言われていますが
案外、秀吉の命日を8月18日とでっちあげるためだったりして?
●歴史上有名人の命日は3月21日に集中している。小野小町や和泉式部など多くの歴史上の有名人の命日が3月21日なのだそうです。
3月21日は春分の日で、彼岸の中日とされています。
春分と秋分(9月21日ごろ)には太陽が真東から昇り、真西に沈みます。
ここから、西方浄土を思い、故人を偲ぶ習慣が生じたのだといわれています。
おそらく、小野小町や和泉式部らの命日が3月21日とされているのは事実ではなく、3月21日は彼岸の中日なので彼女たちの命日とされたのでしょう。
●8は復活をあらわす数字だった?金戒光明寺 紫陽花 『吉備観音はカニの観音?』 ↑ こちらの記事にも書いたのですが、八は中国語の「
发财(
發財/金持ち)」の「
发(
發)」と音が同じであり
また字形が末広がりで縁起がいいと言われます。
梅原猛さんは8という数字は復活を意味し、八角墳や八角堂は死者の復活を願って作られたのではないかとおっしゃっています。
京都の上御霊神社・下御霊神社で八所御霊を祀っているのも、御霊が神として復活するようにとの願いが込められているのだと思います。
(参照/
等持院 皐月 六請(ろくしょう)神社 『六請神社は六所御霊を祀る神社?』 )
そういえば、秀吉が希望した「八幡神」にも「八」の字がありますね。
即身仏となるために入定した人の目的は56億7000万年後、弥勒菩薩が現れるときに復活し、その聖業に参加するためだったといいます。
おそらく、魂が復活するためには魂の容れ物である肉体が必要であると考えられていたのではないでしょうか。
秀吉は遺体を火葬しないよう遺言していますが、それは将来復活したときに肉体が必要だと考えたためなのかも?
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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