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金福寺 さつき 『村山たか女と多賀大社の因縁?』 

京都市左京区 金福寺
撮影 2014年6月8日

金福寺 皐月 

金福寺


急な夕立があり、雨宿りのため金福寺に駆け込みました。
金福寺は村山たか女ゆかりの寺として知られています。

●女スパイ村山たか女の生涯


村山たか女は1809年に生まれました。
父親は多賀大社般若院の院主、母親は多賀大社般若院の住職の妹であるとか、彦根の芸妓だとか言われています。

多賀大社 枝垂れ桜

多賀大社


1809年というのは江戸時代でして、このころは神仏が習合して祀られおり、多賀大社の中に般若院という寺があったのです。
現在のように神社と寺が別のものとして祀られるようになったのは、明治に神仏分離令が出されて以降のことなんですね。

また、当時の仏教は、浄土真宗をのぞき、僧侶の妻帯を認めていませんでした。
般若院は浄土真宗の寺ではないので(たぶん天台宗?)僧侶の妻帯は認められていなかったはずです。
なので、般若院の院主が子供をもうけるというのは、ものすごく世間体の悪いことだったんでしょうね。
そのため、たか女は多賀社寺侍の村山氏に預けられて育ちました。

18歳のころ、たか女は彦根藩主・井伊直亮(なおあき)の妾となりますが、数年後に暇をだされ、京都で芸妓になりました。

祇園 八朔 
祇園白河

その後、金閣寺の僧との間に子供をもうけ、子供は寺侍多田源左衛門の子となる予定でしたが、出産後まもなく離縁されてしまいます。

金閣寺 雪 
金閣寺

たか女は子供を連れて彦根に戻り、彦根城に住んでいた井伊直亮の弟・井伊直弼と恋仲となります。
以前、妾となっていた男性の弟とfalling love、というわけですね。


彦根城 紅葉 ライトアップ
彦根城

やがて井伊直弼とたか女は別れますが、その後たか女が江戸幕府のスパイとして活動しているところを見ると、実際に別れたのではなく、別れた風を装っていたんじゃないかとも思えます。
1842年ごろ井伊直弼がたか女にあてた手紙には「藩の反対にあって会えない」とあります。
そういうこともあって別れたように見せかけていたのかもしれません。

またたか女は直弼の家臣・長野主膳と恋仲であったともいわれます。

1846年、井伊直弼は彦根藩主となり、1858年には江戸幕府の大老となりました。
そして100人以上の討幕派を死刑や流罪にするなどして弾圧しました。(安政の大獄/1858年~1859年)

このとき、たか女は長野主膳とともに京都の倒幕派の情報を江戸幕府に送っていたのです。

しかし1860年に直弼は尊王攘夷派によって暗殺されました。(桜田門外の変)
1862年には長野主膳も彦根藩によって斬殺されました。
たか女も捕えられ、三条大橋の橋脚に縛られて、生きさらしにされました。
たか女の息子・多田帯刀もとらえられ、殺されて晒し首とされました。

3日五、たか女は宝鏡寺の尼僧によって助けられ、出家して金福寺で余生を過ごし、1876年、67際でなくなりました。

金福寺 皐月2 
金福寺

●多賀大社般若院院主の子として生まれた因縁

息子の首をさらされたたか女は「多賀大社般若院の院主の子として生まれた」ことの因縁のようなものを感じたことだろうと想像します。
なんでかって?

●お多賀杓子とミシャグジ

多賀大社 橋

多賀大社

多賀大社では「お多賀杓子(おたがじゃくし)」というお守りの杓子を授与しています。

名古屋市南区の石神社などで、ミシャグジという神様に杓子が奉納されているケースがあります。
なぜ杓子なのかというと、ミシャグジ様とシャクシの音が似ているからでしょう。
「お多賀杓子」はこのミシャグジの信仰と関係があるのではないかと私は考えています。

●ミシャグジ→石神→咳の神

横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているそうです。
同様の信仰は各地にあります。
参照/多賀大社 桜 『お多賀杓子とミシャグジ』 

ミシャグジは石神と書いて、シャクジ、サクジなどとも呼ばれていました。
石→せき→咳、という語呂合わせで、ミシャグジは咳の神に転じたのではないかと思います。

●多賀大社の奥宮・胡宮神社は石神だった。

胡宮神社は多賀大社の奥宮だといわれていますが、胡宮神社の御神体・青龍山には胡宮磐座があります。

胡宮神社 鳥居 桜

胡宮神社


磐座とは信仰の対象となった岩のことを言います。
岩と石のちがいはその大きさだけですから、胡宮磐座は石神=ミシャグジ様だといえるのではないでしょうか。
そして、この胡宮磐座がミシャグジ様として信仰され、そこから多賀杓子が作られるようになったのではないでしょうか。

●胡宮神社は異民族の神?

それでは多賀大社の奥宮が胡宮神社という名前なのはなぜなのでしょうか。
 
胡という漢字を漢和辞典で調べてみると、次のように書いてあり(青字部分)、そこからピンク字部分のように推論しました。

獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。→ 延命の神?(多賀大社や胡宮神社は延命にご利益があるとされている。)
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。→ 北方の異民族の神?
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。


●胡宮神社はドクロの神?

しかし、胡宮神社という社名にはそれ以上の意味があると思います。
胡宮神社 桜 『胡という漢字を調べてみたら色んなことがわかった!』  ← こちらの記事には書かなかったんですが~。

胡という漢字には次のような意味もあるということでした。
①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。


ここから考えるに、多賀大社や胡弓神社の神様は、首の神様=ドクロの神様でもあったのではないかと思うのです。
しゃもじをたてた形は、人の頭部と首に似ているではありませんか。

息子を晒し首とされたたか女が「多賀大社般若院の院主の子として生まれた」ことの因縁のようなものを感じたのではないかと思ったのはそのためです。

多賀大社は首の神、ドクロの神であり、多賀大社般若院の院主の子として生まれたたか女の息子は、殺されて晒し首にされているのですから。

●弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?

胡弓という楽器があります。
三味線に似ていますが、三味線と違って弓で弾きます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%BC%93#/media/File:Playing_on_Samisen,_Yokin_and_Kokin.jpg



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!
美しい音色に聞きほれてしまいますね。

四角い箱に柄がついたような形をしていて、しゃもじに似ていますね。
また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ています。
それで胡弓という名前がつけられたのではないでしょうか。

琉球には胡弓(クーチョー)と読いう楽器がありますが、やはり弓で弾きます。
琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近いです。

さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていたようです。

つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていても三味線には胡という漢字は用いられないのです。
これはなぜでしょうか?

それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないでしょうか?

中国の楽器・二胡も弓で弾き、「胡」の文字が使われていますね。



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/06/13 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)