大阪市天王寺区 四天王寺 一心寺 口縄坂
斬新なデザインの一心寺山門。夕焼け空は合成です~。●夕陽丘と日想観上町台地の西に位置するこのあたりは夕陽丘と呼ばれています。
夕陽丘という地名は、1236年に歌人の藤原家隆がこのあたりに『夕陽庵(せきようあん)』をもうけ、「日想観」を修したことに由来すると言われています。
「日相観」とは沈む夕日を拝み、西方浄土に思いをよせる修行です。
天王寺区夕陽丘町にある家隆塚(伝藤原家隆墓)現在では上町台地から見下ろしても林立するビルが見えるばかりですが、平安時代には海が見えたというのですね~。
夕陽丘から望む海に沈みいく夕陽は、それは美しかったことでしょうね。
ちぎりあれば 難波の里に やどり来て 波の入り日を おがみつるかも/藤原家隆
(前世より因縁があったので、難波の里に住み、波の向うに沈み行く夕陽を拝んでいるのだなあ。)
四天王寺は「日相観」の修行の中心地であり、現在でも毎年9月21日の彼岸の日に大勢の人が集まって夕陽を拝む日相観の行事を行っているそうです。
四天王寺夕景。これも合成っすー。(汗~)●なぜ四天王寺で日相観が盛んに行われたのか?今日は、なぜ四天王寺で日相観が盛んに行われたのかについて考えてみたいと思います。
西の海に太陽が沈むからじゃないのって?
それはそうですが、西の海に太陽が沈む場所って他にもたくさんあると思うんですね。
また、仏教寺院はほぼ東西南北をほぼきっちり会わせて作られていることが多いので
太陽が真西に沈む彼岸の日に西門に立つと、高い建物や山がない限り沈みゆく夕陽をみることができるはずなんですね。
上町台地にある四天王寺からだと夕陽を望みやすいというのはあったでしょうけど。
●四天王寺には物部守屋に対する信仰があった?以前の記事、
四天王寺 紫陽花 一心寺 ジャカランタ 『ミシャグジ神の正体は物部守屋だった?』 で述べたように
四天王寺境内には守屋祠があり、物部守屋に対する信仰があったと思います。
●咳の地蔵尊=ミシャグジ神=物部守屋?
また四天王寺には「咳の地蔵尊」があります。
名古屋市の石神社ではミシャグジという神様に杓子を奉納する習慣があります。
横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、やはり杓子を奉納する習慣があり、咳の病に霊験あらたかと伝えられています。
ここからミシャグジ神=石神であり、(石は「しゃく」ともよむので、
①御石神→ミシャクジン→ミシャグジと転訛したのかも)
石と咳はどちらも「セキ」と読むので、
②石神→セキガミ→咳神 と転じたのではないかと考えました。
長野県諏訪大社上社の南西6kmほどの場所には守屋神社があり、物部守屋を祀っています。
そして諏訪大社上社(タケミナカタを祀る)の御神体・守屋山の頂上にある磐座は守屋神社の奥宮ともされています。
守屋山が守屋神社(物部守屋を祀る)の奥宮であり、かつ諏訪大社上社の御神体であるということは
物部守屋とタケミナカタは同一神なのではないでしょうか。
③物部守屋=タケミナカタ
さらに、諏訪大社のもともとの御神体はミシャグジ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神であるとする説もあるのです。
④物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神
というわけで、四天王寺の咳の地蔵尊とはミシャグジ神であり、物部守屋の霊のことなのではないかと推論するわけです。
⑤物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神
●ミジャグジ神=蛇神?ミジャグジ神は、白蛇の姿をしているなどと言われています。
⑥ミジャグジ神=白蛇
⑤物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神なので
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神●太陽神は蛇神世界各地に太陽神を蛇神とする信仰があります。
でも蛇は細長い形をしており、太陽は丸いです。
姿形は似ても似つかないのに、なぜ蛇が太陽神であるなどとされているのでしょうか。
上の写真は三室戸寺にある宇賀神ですが、これを見て、なぜ蛇が太陽神なのかわかったような気がしました。
http://oomiwa.or.jp/about/miwayama/#linktop↑ 大神神社のHPに大神神社のご神体である三輪山の日の出の写真が掲載されています。
この写真と上の宇賀神の写真を見比べてみてください。
三輪山は蛇がとぐろを巻くおすがただといわれています。
すると宇賀神の頭部と、三輪山の頂近くに昇った太陽が重なって見えてしまいます。
宇賀神の頭部は山の頂に昇った太陽を擬人化したものではないでしょうか。
⑧蛇神=太陽神●物部守屋は太陽神だった?⑧蛇神=太陽神
かつ
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神
なので
⑧
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神=太陽神となり、物部守屋は太陽神だと考えられるのではないかと思うのです。
ただし、物部守屋は登りゆく太陽神ではなく、沈みゆく太陽神だと思います。
587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争で、守屋側は敗戦し、守屋は戦死したからです。
四天王寺で日相観が行われていたのは、四天王寺の沈みゆく太陽神=守屋祠に祀られた物部守屋が西方浄土で成仏することを願う行事だったのではないでしょうか。
口縄坂。今は林立するビルが見えるばかりですが、昔はここから海が見えたのですね。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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