上賀茂神社 夏越神事 『旧暦の夏の終わりはお盆の始まり』 

京都市北区 上賀茂神社
夏越神事・・・6月30日 


上賀茂神社 夏越神事 
 
●藤原家隆が見た風景が今も目の前に。

風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆
(風がそよぐ楢の小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)


鎌倉時代の歌人・ 藤原家隆(1158年-1237年)が詠んだ歌です。

藤原家隆ってどこかで聞いた名前だなあ?
そうそう、こちらの記事に登場した方ですね。→ 夕陽丘の夕景 夜景 『日想観は守屋を極楽浄土に送る行事だった?』 
大阪の、現在夕陽丘と呼ばれているあたりに庵をもうけ、日想観を修したのが藤原家隆さんでした。

藤原家隆の墓 

この歌の詞書に「六月祓」とあります。

六月祓は夏越の祓、夏越神事などともいわれ、旧暦6月晦日に行われていた行事です。
人形(ひとがた)に息を吹きかけこのて自分の穢れを移し、川や海に流します。
また「ならの小川」とは上賀茂神社の境内を流れる小川のことです。

なので、上賀茂神社の六月祓(夏越の祓・夏越神事)を詠んだ歌であることがわかります。

上賀茂神社では古式を守り、今も鎌倉時代と同じ夏越神事を行っています。
藤原家隆さんが見たのと同じ風景が目の前にあるということに感動します。

●新暦7月に涼しい風が吹いてすっかり秋らしくなった?

風そよぐ ならの小川の ゆふぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける/藤原家隆
(風がそよぐ、ならの小川の夕暮れは、すっかり秋の気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。)


この歌は、こんな風に現代語訳されることがあります。
「涼しい風がそよぐならの小川はすっかり秋らしい気配が漂っている。みそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだなあ。」と。

なるほど、秋になると涼しい風が吹きます。だけどちょっと待ってください。

夏越神事は旧暦の六月の晦日に行われる行事でした。
新暦に換算すると7月ごろです。

7月の京都は夏の真っ盛りで秋らしい気配なんてまるでありません。
それなのに家隆さんはなぜ「みそぎをする様子だけが夏のしるしなのだなあ。」などと歌を詠んだのでしょうか。

●旧暦では秋の始まりは涼しい季節の到来ではなく、もっとも暑い季節の到来を意味していた。

私ははじめ、冷夏だったのだろうかとか、昔の7月は今と違って夜は涼しかったんだろうかとか考えてみました。
だけど、ちょっと考えてみてわかりました。
これは謎でもなんでもなかったのです。

旧暦では1月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬としていました。
新暦は約ひと月遅れなので、新暦の2月・3月・4月が旧暦の春、新暦の5月・6月・7月が旧暦の夏、新暦の8月・9月・10月が旧暦の秋、新暦の11月・12月・1月が旧暦の冬。
だいたいそう考えていいでしょう。
 
古の人にとって秋の始まりとは涼しい季節の到来ではなく、もっとも暑い季節の到来を意味していたのですね~。
「涼しい風が吹いてすっかり秋らしくなった」というのは新暦の感覚だったのです。

上賀茂神社 夏越神事 (2)


●古の人にとって「そよ風」は不気味な風だった?


家隆さんは「風そよぐならの小川のゆふぐれは」と詠っていますが、この風はどうやら涼しい風ではないようです。
それではどんな風が吹いていたのでしょうか?

「風そよぐ」の「そよぐ」は漢字では「戦ぐ」と書きます。
漢和辞典で『戦』という漢字の意味を調べてみたところ、、次のように記されていました。
① 戦う。戦をする。
② いくさ 
③ おののく ふるえる 
④ そよぐ そよそよと揺れ動く
⑤ はばかる 

現代人は『そよ風』」を『吹かれて心地よく感じる優しい風』のことだと思っていますが、古の人々にとって『そよ風』とは葉をざわつかせる不気味な風だったのではないか、と思ったりします。

●秋の到来はお盆の始まりだった。

6月晦日の翌日は7月1日ですが、旧暦の7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)といわれていました。
釜蓋朔日とは、地獄の釜の蓋が開く日であのことであり、この日からお盆が始まるとされていたのです。

家隆さんは楢の葉がざわつくようすに、お盆であの世からこの世に戻ってきた霊の気配を感じたのではないでしょうか。
そして「ああ、お盆の季節がやってきたんだなあ」という気持ちを歌に詠んだのではないかと思います。


かみがもじんじゃ なごしのはらえ
 



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[2016/06/30 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

貴船神社 夏越神事 『蘇民将来伝説とユダヤの過越祭』  

貴船神社 夏越の祓 お祓い 
京都市左京区 貴船神社
夏越神事・・・6月30日 


●茅の輪潜り

きぶねじんじゃ ちのわくぐり_edited-1


水無月の晦日(6月30日)、貴船神社では夏越神事が行われています。
本殿前には大きな茅輪が置かれ、神職さんの後に続いて一般の参拝者たちも歌を唱和しながら茅の輪潜りをしました。

水無月の 夏越の祓ひ する人は、千歳の命 延ぶといふなり (1回目/左回り)
思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな(2回目/右回り)
蘇民将来 蘇民将来(3回目/左回り)


●シマクサラシと過越祭

琉球地方には『シマクサラシ(疫祓いの意)』という風習があります。
牛を屠り、その血にススキの穂や桑の葉を浸し、家の門口や四隅に塗っておくと、悪霊が入ってこないと言い伝えられています。

また旧約聖書の『出エジプト記』の『過ぎ越しの物語』に次のようにあります。

モーゼはすべての長老を呼び次のように言った。
『羊を過越の犠牲として屠りなさい。そしてその血にヒソプ(ハッカ科の植物)を浸し、鴨居と入り口の二本の柱に血を塗りなさい。そして夜があけるまで外に出ず、家の中に籠もっておくように。』と。
神ヤーベはエジプト人の家で生まれた初子を全て殺しました。
その際、戸口に羊の血が塗られたユダヤ人の家には立ち寄りませんでした。
 
なんとも残酷で、差別的な神様だなあと思ってしまう~。

ユダヤでは毎年、太陽暦の3月末から4月初めころ、過越祭が行われていますが、これはこの逸話にちなむものだそうです。

貴船神社 夏越の祓2 
↑ 布を裂く神事。布を裂く音で悪霊を退散させるとかなんとか言ってたような?(曖昧ですいません)

●シマクサラシや蘇民将来伝説は過越祭の影響を受けたもの?

シマクサラシや蘇民将来伝説は、この過越祭の影響を受けたものではないかという説があります。
とんでも説のようですが、西洋と日本はシルクロードでつながっていました。
法隆寺の柱のエンタシスもローマの建築様式の影響を受けたものだといわれていますね。
血と茅は音が同じであるところから、日本では血のかわりに茅を使うのだろうか、などと思ったりします。

●租未将来子孫也の護符とメズサ


日本には『蘇民将来子孫也』と書いた護符を玄関に貼って魔除けにしますが、 同じ様にユダヤ人はメズサという神の言葉を書いた護符を家の門口につけます。

貴船神社 夏越の祓 

●蘇民将来はユダヤ人、巨旦将来はエジプト人?


蘇民将来は『将来蘇る民』と読めますが、 聖書には『終末にメシヤが到来し、死者は墓から蘇る』とあります。
メシヤが蘇させるのはユダヤ人であって、エジプト人ではないでしょう。
蘇民将来はユダヤ人、巨旦将来はエジプト人のイメージと重なります。

●スサノオは日本版モーゼだった?

蘇民将来がもてなした武塔神のルーツについてはよくわかっていませんが、スサノオと習合されています。
またスサノオは牛頭天王とも集合されています。
牛頭天王像は牛を頭に載せた姿のものの他、角の生えた姿で作られているものもあります。

ミケランジェロが刻んだモーゼにもまた角があります。
ヘブライ語で光のことをkornと記しますが、 角もまたkornであり、ミケランジェロは光と角を間違えたのだろうといわれています。

スサノオはモーゼをモデルとして作られた日本の神様なのかも?。

●人形流し

貴船神社 夏越祓

さて、茅の輪潜りをおえたのち、人々は人形(ひとがた)に息を吹きかけました。
これは自分の身についた穢れを人形に移すおまじないです。
人形は木箱に集められ、神職さんたちによって貴船川に流されました。
人形は風に乗って花びらのように散っていきました。 

ううーむ、人形が十字架のように見える~。

貴船神社 夏越の祓3 


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[2016/06/29 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

矢田寺 紫陽花 『小野篁はなぜ閻魔庁に仕えたという伝説が残されているの?』 

 
奈良県大和郡山市 矢田寺

矢田寺 六角堂 

●矢田寺地蔵縁起


『矢田寺地蔵縁起』に次のようにな説話が記されています。

嵯峨天皇の御世、小野篁(802~852)という役人がいました。
小野篁は昼は宮中に、夜は閻魔庁に仕えていました。
ある時、閻魔大王が篁に言いました。
『自分には三熱の苦しみがある。この苦しみから離れるために菩薩戒を受けたいので、適任者を探してほしい。』と。

篁は矢田寺の満慶上人こそ適任者だと考え、満慶上人を閻魔庁に連れていきました。
満慶上人は閻魔庁で閻魔大王に会い、閻魔大王に菩薩戒を授けました。
閻魔大王はそのお礼に満慶上人を地獄に案内しました。
満慶上人は、地獄の燃えさかる炎の中で、生身の地蔵菩薩に会いました。
地蔵菩薩は『苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる。』とおっしゃって
亡者の身代わりとなって地獄の責め苦を受けておられました。

矢田寺へ戻った満慶上人は仏師に地蔵菩薩の姿を刻ませましたが、思うように彫ることができませんでした。
ある日4人の翁があらわれ、3日3晩のうちに地蔵菩薩を彫り上げました。
それは満慶上人が地獄で出会った地蔵菩薩そのままのお姿でした。
4人の翁は『我らは仏法守護の神である。』と告げて、五色の雲に乗って奈良の春日山へと飛び去りました。
そのため、矢田寺の地蔵菩薩は、春日四社明神(春日大社の神)化身の作と伝えられています。

また満慶上人は地獄から戻るとき、閻魔大王より米の入った手箱をもらいましたが、
米はどれだけ使っても減らず、常に米が箱いっぱいに満ちていました。
そのため人々は満慶を満米上人と呼ぶようになりました。 


 
矢田寺 閻魔堂


上の写真は閻魔堂で、閻魔大王ほか、十王像が安置されていました。 

●六道珍皇寺

『矢田寺地蔵縁起』に登場する小野篁は平安時代の官僚で、京都・六道珍皇寺を創建したともいわれています。
六道珍皇寺はあの世とこの世が交わるところと畏れられた「六道の辻」にあり、境内には篁が閻魔庁に通うのに使ったといわれる井戸があります。 

六道珍皇寺    

●流罪になった小野篁

なぜ篁には「昼は宮中に、夜は閻魔庁に仕えた」などという伝説が残されているのでしょうか。

篁は遣唐副使に任ぜられました。
このとき遣唐大使・藤原常嗣の船と交換したのですが、交換した船が壊れていたのです。
篁は壊れた船で唐へは行けないと考え、仮病を使って乗船を拒否しました。
そのため篁は隠岐へ流罪となったのですが、1年あまりで許されて帰京しています。

●平安京の中はこの世、平安京の外はあの世に喩えられていた。

平安時代には、平安京の中はこの世、平安京の外はあの世だと考えられていたと何かの本で読んだ記憶があります。

鴨川の東は平安京の外側だったのですが、今でも阪急河原町駅でおりると、鴨川の西は商店街や銀行、百貨店などがあってまさしくこの世という感じです。

ところが四条大橋を渡って鴨川の東側へ行きますと、建仁寺・知恩院・清水寺などの寺院や、八坂神社・安井金毘羅宮などの神社、
鳥辺野の風葬地の名残を残す大谷墓地などがあって、あの世の雰囲気が漂っています。

四条大橋はまるでこの世とあの世をつなぐ橋のようです。


鴨川 川床と四条大橋

●隠岐はあの世に喩えられた?

当時の人々は隠岐という都から遠く離れた小島をあの世と考え、そのため篁はあの世の閻魔庁に仕えたなどという伝説が生じたのではないかと思ったりします。



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[2016/06/28 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

梅宮大社 花菖蒲 『橘氏の没落の原因を作ったのは橘嘉智子だった?』 

京都市右京区 梅宮大社
撮影2014年6月8日


梅宮大社 花菖蒲2 
●梅宮大社の神々

梅宮大社では、次の神々をお祀りしています。

本殿・・・・酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神
相殿・・・・嵯峨天皇・橘嘉智子(嵯峨天皇の皇后)・仁明天皇(嵯峨天皇と橘嘉智子の子)・橘清友(橘嘉智子の父)
若宮社・・・橘諸兄(たちばなのもろえ)
護王社・・・橘氏公(たちばなのうじきみ)・橘逸勢(たちばなのはやなり)

今回は梅宮大社で祀られている橘氏の人々の中の、嵯峨天皇・橘嘉智子・仁明天皇・橘逸勢についてお話したいと思います。

●橘氏より立后したただひとりの女性

橘嘉智子は嵯峨天皇の皇后となりました。橘氏からの立后は後にも先にも橘嘉智子ただひとりだけです。
橘嘉智子の立后は姻戚である藤原冬嗣の後押しを受けたものでした。

橘嘉智子は正良親王・正子内親王をもうけました。
正良親王と正子内親王は同年の生まれで双子ではないかともいわれていますが、人の妊娠期間は十月十日といわれているので
同年の生まれで双子でない兄弟姉妹は存在します。
同年の生まれだから双子であるとは限りません。
参照/http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1387502.html

正良親王は即位して54代仁明天皇となり、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となりました。

橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇との間に恒貞親王をもうけました。
833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位し、恒貞親王が仁明天皇の皇太子となりました。

●承和の変

このころ、藤原良房という人物が朝廷内で権力を握っていました。
良房は仁明天皇と妹・順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいました。
その空気を察した伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画を練りました。
しかしこの計画は橘嘉智子にばれてしまいます。
そして橘嘉智子はこれを藤原良房に話したのです。
その結果橘逸勢は伊豆への流刑となり、その護送中に病没しました。
恒貞親王もこの計画に連座したとして廃太子となり、かわって道康親王が皇太子となりました。
恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだそうです。(承和の変) 

●橘氏没落の原因を作った橘嘉智子

橘嘉智子はj自分の孫・道康親王を皇位につけたいと考えて良房に相談したのでしょうが
正子内親王が産んだ恒貞親王だって自分の孫です。

結果的に嘉智子の行為は藤原氏を繁栄させ、橘氏の没落を招いてしまったのではないでしょうか。
娘の正子内親王には恨まれるし、従兄弟の橘逸勢は流刑になってしまうし
橘嘉智子、何やってるんだ、と思ってしまいます。

そしてこれ以降、橘氏より政治の中枢を担う人物は登場しなくなります。
梅宮大社はそんな橘一族の霊を慰めるための神社という一面をもっているのではないでしょうか。
 
梅宮大社 花菖蒲 




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[2016/06/27 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

夕陽丘の夕景 夜景 『日想観は守屋を極楽浄土に送る行事だった?』 

大阪市天王寺区 四天王寺 一心寺 口縄坂


一心寺 仁王門


斬新なデザインの一心寺山門。夕焼け空は合成です~。


●夕陽丘と日想観

上町台地の西に位置するこのあたりは夕陽丘と呼ばれています。
夕陽丘という地名は、1236年に歌人の藤原家隆がこのあたりに『夕陽庵(せきようあん)』をもうけ、「日想観」を修したことに由来すると言われています。

「日相観」とは沈む夕日を拝み、西方浄土に思いをよせる修行です。

藤原家隆の墓 

天王寺区夕陽丘町にある家隆塚(伝藤原家隆墓)

現在では上町台地から見下ろしても林立するビルが見えるばかりですが、平安時代には海が見えたというのですね~。
夕陽丘から望む海に沈みいく夕陽は、それは美しかったことでしょうね。

ちぎりあれば 難波の里に やどり来て 波の入り日を おがみつるかも/藤原家隆
(前世より因縁があったので、難波の里に住み、波の向うに沈み行く夕陽を拝んでいるのだなあ。)

四天王寺は「日相観」の修行の中心地であり、現在でも毎年9月21日の彼岸の日に大勢の人が集まって夕陽を拝む日相観の行事を行っているそうです。

四天王寺 夕景 合成 

四天王寺夕景。これも合成っすー。(汗~)

●なぜ四天王寺で日相観が盛んに行われたのか?

今日は、なぜ四天王寺で日相観が盛んに行われたのかについて考えてみたいと思います。
西の海に太陽が沈むからじゃないのって?
それはそうですが、西の海に太陽が沈む場所って他にもたくさんあると思うんですね。

また、仏教寺院はほぼ東西南北をほぼきっちり会わせて作られていることが多いので
太陽が真西に沈む彼岸の日に西門に立つと、高い建物や山がない限り沈みゆく夕陽をみることができるはずなんですね。
上町台地にある四天王寺からだと夕陽を望みやすいというのはあったでしょうけど。

●四天王寺には物部守屋に対する信仰があった?


以前の記事、四天王寺 紫陽花 一心寺 ジャカランタ 『ミシャグジ神の正体は物部守屋だった?』 で述べたように
四天王寺境内には守屋祠があり、物部守屋に対する信仰があったと思います。

守屋祠 

●咳の地蔵尊=ミシャグジ神=物部守屋?

四天王寺 咳の地蔵尊 
また四天王寺には「咳の地蔵尊」があります。
名古屋市の石神社ではミシャグジという神様に杓子を奉納する習慣があります。
横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、やはり杓子を奉納する習慣があり、咳の病に霊験あらたかと伝えられています。
ここからミシャグジ神=石神であり、(石は「しゃく」ともよむので、御石神→ミシャクジン→ミシャグジと転訛したのかも)
石と咳はどちらも「セキ」と読むので、石神→セキガミ→咳神 と転じたのではないかと考えました。

長野県諏訪大社上社の南西6kmほどの場所には守屋神社があり、物部守屋を祀っています。
そして諏訪大社上社(タケミナカタを祀る)の御神体・守屋山の頂上にある磐座は守屋神社の奥宮ともされています。

守屋山が守屋神社(物部守屋を祀る)の奥宮であり、かつ諏訪大社上社の御神体であるということは
物部守屋とタケミナカタは同一神なのではないでしょうか。

③物部守屋=タケミナカタ

さらに、諏訪大社のもともとの御神体はミシャグジ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神であるとする説もあるのです。
④物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神

というわけで、四天王寺の咳の地蔵尊とはミシャグジ神であり、物部守屋の霊のことなのではないかと推論するわけです。
⑤物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神

●ミジャグジ神=蛇神?

ミジャグジ神は、白蛇の姿をしているなどと言われています。

⑥ミジャグジ神=白蛇
⑤物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神
なので
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神

●太陽神は蛇神

世界各地に太陽神を蛇神とする信仰があります。
でも蛇は細長い形をしており、太陽は丸いです。
姿形は似ても似つかないのに、なぜ蛇が太陽神であるなどとされているのでしょうか。

三室戸寺 宇賀神

上の写真は三室戸寺にある宇賀神ですが、これを見て、なぜ蛇が太陽神なのかわかったような気がしました。

http://oomiwa.or.jp/about/miwayama/#linktop
↑ 大神神社のHPに大神神社のご神体である三輪山の日の出の写真が掲載されています。

この写真と上の宇賀神の写真を見比べてみてください。
三輪山は蛇がとぐろを巻くおすがただといわれています。
すると宇賀神の頭部と、三輪山の頂近くに昇った太陽が重なって見えてしまいます。
宇賀神の頭部は山の頂に昇った太陽を擬人化したものではないでしょうか。

⑧蛇神=太陽神

●物部守屋は太陽神だった?

⑧蛇神=太陽神
かつ
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神
なので
⑦物部守屋=タケミナカタ=ミシャグジ神=御石神=セキガミ=咳の神=蛇神=太陽神

となり、物部守屋は太陽神だと考えられるのではないかと思うのです。

ただし、物部守屋は登りゆく太陽神ではなく、沈みゆく太陽神だと思います。

587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争で、守屋側は敗戦し、守屋は戦死したからです。

四天王寺で日相観が行われていたのは、四天王寺の沈みゆく太陽神=守屋祠に祀られた物部守屋が西方浄土で成仏することを願う行事だったのではないでしょうか。

口縄坂 夜景 

口縄坂。今は林立するビルが見えるばかりですが、昔はここから海が見えたのですね。

 




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[2016/06/26 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

観音寺 紫陽花  『万葉集 紫陽花の歌 諸兄と諸弟』 


京都府福知山市 観音寺
撮影 2011年6月20日(柏葉紫陽花)2014年 7月7日 (本紫陽花・額紫陽花)

観音寺 仁王門 紫陽花

 
観音寺は720年に伝説的人物の法道仙人が開いたお寺だとされています。
法道仙人はインドの仙人で、鉄の宝鉢を持っていたところから、空鉢仙人とも呼ばれています。
牛頭天王と一緒に日本にやってきたといわれています。


●紫陽花は死をイメージさせる花だった?


智積院 紫陽花 『紫陽花は死をイメージさせる花だった?』 
↑ こちらの記事に、次のような内容を書きました。

①万葉集に2首紫陽花を詠んだ歌がある。

②平安時代の和歌にも紫陽花を詠んだ歌は僅かしかない。

あかねさす 昼はこちたし あぢさゐの 花のよひらに 蓬ひ見てしがな
(明るい日中は噂がうるさくてうっとおしい。紫陽花の花は四ひらですが、宵にあいたいわ)
この歌から、古の人の紫陽花のイメージが、その花びらの数「4」だったのではないかと思える。

④蝶々という言葉は漢語で、倭言葉では「かわひらこ」だが、古の人は死者の魂が蝶になると考えていたため、「かわひらこ」という言葉を忌んで使わなくなり、ついには「かわひらこ」という言葉を忘れてしまったと聞いたことがある。

⑤④と同様、紫陽花は花びらが4枚なので、「四」の音が「死」に通じることを忌み、積極的に紫陽花の歌を詠もうとしなかったため、紫陽花を詠んだ歌が少ないのではないか。

観音寺 仁王門 紫陽花2 

●諸兄と諸弟


万葉集にある2首の紫陽花を詠った歌を鑑賞してみましょう。

①言問はぬ 木すら味狭藍 諸弟(もろと)らが 練の村戸(むらと)に あざむかえけり/大伴家持
(恋を語らない木ですら、紫陽花のように移ろいやすい。???らの巧みな言葉に私は騙されてしまいました。)


これは大伴家持が大伴坂上大嬢(おほとものさかのうへのおほをとめ)に贈った五首の相聞歌のうちの一首です。

「練りの村戸」は「老練な心」という意味だそうです。
三句目の「諸弟(もろと)」はどういう意味なのかよくわかっていません

②安治佐為の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ/橘諸兄
(紫陽花が八重に咲くように、いつまでも健やかにいてください。この花を見るたび私はあなたを思い出します。)

ん?①の紫陽花の歌に「諸弟」とありますが、②の紫陽花の歌を詠んだのは橘諸兄ですね。
諸弟と諸兄・・・・この二つの言葉は「諸」が共通し「弟」「兄」と対比になる言葉が含まれています。

もしかして、この二つの歌は対になっているのではないでしょうか。

●諸弟は諸兄に対する家持の悪口だった?


紫陽花の歌を詠んだ大伴家持(718-785)は「諸弟」と言っていますが、もうひとつの紫陽花の歌を詠んだのは橘諸兄です。
大伴家持はこの橘諸兄のことを、悪口で「諸弟」と言っているのでは?

今でもたとえば「良子」という女性がいたとして、「何が良子やねん!やってることはまるで悪子やんか!」みたいに言ったりしますよね。

だとすれば、大伴家持は万葉集を編纂した偉大な歌人、というイメージが粉々に崩れていく音が聴こえてきそう~。
でもそう考えると逆に大伴家持という人物に対して親しみが湧いてきます(笑)。

観音寺 鐘楼 柏葉紫陽花 

●家持を騙した諸兄の歌

これが正しければ、大伴家持は橘諸兄の歌に騙されたということになりますが、確かに家持がいうように橘諸兄はなかなか巧みな言葉で家持を騙しているように思えます。

橘諸兄の歌にある「背子」とは親しみをこめて相手のことを呼ぶ語で、大伴家持のことをさしているのではないでしょうか。
そして「紫陽花は八重に咲くので縁起のいい歌」であるというふうに思わせて、実は「4ひらの花びらの紫陽花は死をイメージさせる花で縁起の悪い歌」だったと家持は大伴坂上大嬢にぐちっているのではないでしょうか。

●和歌という呪術

高田祟史さんは和歌とは文学ではなく呪術だったと説いておられます。
たとえば在原業平が藤原基経の40歳の祝いの席で、次のような歌を詠んでいます。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに
(桜の花よ、散ってあたりを曇らせておくれ。 老いが来るという道が見えなくなってしまうように。)


五七五七七の冒頭の漢字をつなぐと「桜散老来道(桜散り老い来る道)」となります。
業平と藤原基経は政治的に対立しており、業平は一見、基経の長寿を願うような歌を詠みながら、その裏に呪いをかけていたというのです。

これと同様、橘諸兄は祝いの歌のように見せかけて、実は家持を呪っていたのかも?


観音寺 本堂 柏葉紫陽花


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[2016/06/25 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』 

男綱・・・奈良県明日香村稲淵
女綱・・・奈良県明日香村栢森

●雄綱・雌綱

 飛鳥 勧請綱 雌綱 田植

勧請縄 雌綱

奈良県明日香村栢森の飛鳥川に勧請綱(女綱)がかけられています。 
 
飛鳥 勧請綱 雄綱

 勧請縄 雄綱

こちらは明日香村稲淵の飛鳥川にかけられている勧請綱(雄綱)です。
春に撮影したもので、辛夷の花が咲いていました。

みなさまお気づきのように、勧請綱は男性のシンボル、女性のシンボルをつけた綱です。

●飛鳥は性のシンボルだらけ!


マラ石 
マラ石(マライヒじゃないよん~。)

明日香にはマラ石もありますし、猿石の中にもシンボルをむき出しにしているのがありますね。

猿石  

猿石

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言  
飛鳥坐神社 おんだ祭

飛鳥坐神社のおんだ祭では夫婦和合の狂言か行われています。 

飛鳥って性のシンボルだらけです!


●陰陽石は道祖神?

飛鳥坐神社 陰陽石 

上の写真は飛鳥坐神社にあった陰陽石です。
飛鳥坐神社にはこんな石がすごくたくさん置いてあります。

で、上の写真のような形をしたお守りの珍珍鈴というのを授与しています。
行くたびに欲しいなと思うんですが、恥ずかしくてどうしても「これください!」と言えない~(笑)

飛鳥坐神社の陰陽石は道祖神だといってもいいと思います。

道祖神はサルタヒコ(男神)とアメノウズメ(女神)が手をつなぎ合う姿であらわされることもありますが、上の写真のような陰陽石であらわされることもあるのです。

なぜか近畿には男女の神像で表される道祖神って少ないんですよね。
下の写真は栃木県河治温泉の男女の神像が手をつなぎあうお姿の道祖神です。

河治温泉 道祖神 
河治温泉 道祖神

●道祖神と大聖歓喜天

道祖神は男女双体の神ですが、男女双体の神といえば、仏教の大聖歓喜天や中国の神・伏義&女媧などがあります。

大聖歓喜天→https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Icon_of_Shoten.jpg

大聖歓喜天は象頭をした男女の神が抱きあう姿で表されます。
これは祟り神であった鬼王ビナヤキャが、十一面観音の化身であるビナヤキャ女神を抱くことによって仏法守護を誓ったことをあらわしています。
上の図ではちょっとわかりにくいですが、相手の足を踏みつけているのがビナヤキャ女神で、踏みつけられているほうがビナヤキャです。

ビナヤキャ女神がビナヤキャの足を踏みつけているのは、ビナヤキャの祟ろうとするパワーをビナヤキャ女神がその性的魅力で押さえつけていることを示しているのだと思います。

伏義&女媧→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%82%AB#/media/File:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg

次に伏義&女媧の図を見てみると、こちらは伏義の右手と女媧の左手がつながっています。
大聖歓喜天は女神が男神の足を踏みつけて男神の祟る力を抑えているのに対し、伏義&女媧は女神が男神の手を押さえつけることで祟る力を抑えようとしているのではないでしょうか。

●道祖神は手を握り合っているのではなく、女神が男神の手を押さえつけているの図だった?

そう考えると、道祖神は手をつなぎあっているのではなくて、やはり女神が男神の手を押さえつけているの図なのではないかと思えてきます。

安曇野の道祖神の中には手を繋ぎ合う姿をしたもののほかに、性交しているものや、女神が男神の足を踏みつけているものもあるそうです。
大聖歓喜天は女神が男神の足を踏みつけるお姿をしているのでしたね。
同様のお姿をした道祖神があるということは、大聖歓喜天と道祖神が習合されていることを示しているように思われます。

● 男女和合は荒魂を慰霊する呪術だった?

神はそのあらわれ方によって、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるそうです。
そして男神は荒霊を、女神は和霊を表すとする説があります。

御霊・・・・・・・・神の本質・・・・・・男女双体・・・道祖神・・・・・・大聖歓喜天
荒魂・・・・・神の荒々しい側面・・・・・男神・・・・・サルタヒコ・・・・ビナヤキャ
 和魂・・・・・神の和やかな側面・・・・・女神・・・・アメノウズメ・・・ビナヤキャ女神


男女和合には荒霊(男神)を和霊(女神)と和合させることによって慰霊するという呪術的な意味があるのではないかと、私は考えています。



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/06/24 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 勝鬘院(しょうまんいん) 夕景 口縄坂 夜景『多宝塔の形は何を表している?』 

大阪市天王寺区 四天王寺・勝鬘院(しょうまんいん)・口縄坂
 
 四天王寺 夕日

四天王寺 (合成)塔百景90


●勝鬘院の起源は四天王寺の施薬院だった。

四天王寺の北側、勝山通りの 坂道をとことことこと登っていきますと、多宝塔が見えてきます。
勝鬘院の多宝塔です。
手前に見えているお堂は四天王寺支院の真光院です。

愛染堂 夕景2 

勝鬘院多宝塔と真光院 塔百景91




593年、聖徳太子が四天王寺内に施薬院という福祉施設を開きました。
病人やけが人に薬を与えて治療する施設ですかね。
これが勝鬘院の起源であるとされています。

四天王寺の南には四天王寺病院がありますが、こちらもこの施薬院を継承するものだとされています。

四天王寺の西にある建設会社・金剛組は聖徳太子が創業者で、世界最古の企業とされていますし
1400年以上を経た今になっても聖徳太子に起源を持つ会社や病院が存在しているなんて、聖徳太子の影響力って本当に半端ないですね。

●勝鬘院の多宝塔は聖徳太子が創建したというけれど・・・

勝鬘院の多宝塔は593年に聖徳太子が創建し、1597年に豊臣秀吉によって再建されたとされています。
もしかしたら聖徳太子が多宝塔を建てたというのは事実かもしれませんが、そうだとしても、おそらくそれは現在のような形のものではなかったと思います。

というのは、ウィキペディアに次のように記されているからです。

「初重を平面方形、二重を平面円形とする二層塔は日本独自の形式であり、平安時代初期に空海が高野山に建立を計画していた毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)にその原型が求められる。この塔は空海の没後に完成し、その後も何度か焼失と倒壊を繰り返して、現在高野山にある塔(大塔または根本大塔と呼ばれる)は昭和12年(1937年)に再建された鉄筋コンクリート造のものである。この塔の創建時の形態は、現在の多宝塔に近いものであったと考証されている。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A1%94#.E5.A4.9A.E5.AE.9D.E5.A1.94.E5.BD.A2.E5.BC.8F.E3.81.AE.E8.B5.B7.E6.BA.90より引用

初重を平面方形、二重を平面円形とする二層塔を初めて建てたのは空海だというんですね~。
聖徳太子は空海より前の飛鳥時代の人物です。

高野山 壇上伽藍 根本大塔  

高野山 根本大塔

多宝塔という言葉は法華経にでてくるそうです。
この法華経の成立時期については諸説あるようですが、紀元100年~150年といわれているようなので、聖徳太子の時代にはあったのでしょう。
もしも聖徳太子が多宝塔を建てたというのが事実なら、それはどんな形をしていたんでしょうか?

 ●多宝塔は天円地方を表している?

現在の日本で多宝塔と呼ばれているのは、初重平面が方形、上重平面が円形の二層塔です。
この形は何を意味しているのでしょうか。

愛染堂 夕景

勝鬘院 多宝塔  塔百景92

私はこの形から天円地方(てんえんちほう)を思い出してしまいます。
天円地方とは古代中国の宇宙観で、天を円、地を方とする考え方です。

●伏儀と女媧の持ち物が逆になっているのはなぜ?

中国に伏儀と女媧という兄妹または夫婦とされる神がいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%82%AB#/media/File:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg
↑ こちらはウィキペディアに掲載されている伏儀と女媧の図です。
女媧は手にコンパスを、男神の伏義は手に直角定規をもっていますね。

女媧が手に持つコンパスは円なので天、伏儀が手に持つ直角定規は方なので地。
あれれ、でも陰陽道では天は陽、地は陰とされています。
そして男性が陽、女性が陰なので、持ち物が逆じゃないの?

陽・・・天/男性
陰・・・地/女性

なぜ持ち物が逆になっているのかについては諸説あるようですが、私は記紀神話にある次の物語がそれを説くヒントになるのではないかと思います。

高天原にやってきたスサノオを、天照大神は「高天原を奪いにきたのではないか」と疑いました。
そこでスサノオは疑いをはらすために『誓約(うけい)の子産み』をしようと言いました。
まず天照大神がスサノオの物実(ものざね)である十拳剣(とつかのつるぎ)を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像三女神)が生まれました。
次にスサノオが天照大神の物実である『八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠』を噛み砕き、ふっと吹き出した息の霧から 五柱の男神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)が生まれました。
スサノオの十拳剣からうまれた三柱の女神はスサノオの子、天照大神のみすまるの珠からうまれた五柱の男神は天照大神の子とされました。
スサノオは「私の心に邪心がないので、私の産んだ子は女神だったのです。」といいました。


ここに「物実(ものざね)」という言葉が出てきますが、物実とは「物事のもとになるもの」を意味します。

そして天照大神が産んだ子は、スサノオの十拳剣から生まれたので、スサノオの子、
スサノオが産んだ子は、天照大神のみすまるの珠から生まれたので、天照大神の子としたというのですね。

コンパスは伏儀の物実、直角定規は女媧の物実であり、伏儀と女媧は夫婦神なので、相手の物実を持っているのかもしれません。

●多宝塔は男女和合を表している?

方が女性、円が男性であれ、方が男性で円が女性であれ、多宝塔の形・・・方と円が重なっているのは、男女和合を示すものではないかと思ったりします。

このブログで何度も書いているんですが(しつこいとか言わないでね~)
神はその現れ方で御霊・和魂・荒魂に分けられるとされ、女神は和魂、男神は荒魂であるとする説があります。

御魂・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


そして明治に神仏分離令が出されるまで、神仏は習合して信仰されていました。

多宝塔は男神と女神の和合をあらわす塔なのではないでしょうか?

またウィキペディアには次のように書いてあります。
「多宝塔は、「法華経」見宝塔品第十一に出てくるもので、釈迦が霊鷲山で法華経を説法していると多宝如来の塔が湧出し、中にいた多宝如来が釈迦を讃嘆し半座を空け、二如来が並座したとされることに由来する。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A1%94#.E5.A4.9A.E5.AE.9D.E5.A1.94.E3.81.AE.E5.87.BA.E5.85.B8 より引用

みほとけに性別はないといわれますが、釈迦は男性なので、多宝如来って女性なのでは?
そして釈迦と多宝如来が並座したとは、釈迦と多宝如来が和合したということを意味していたりして?


勝鬘院は愛染堂ともよばれ愛染明王をおまつりしていますが、愛染明王は男女和合・恋愛成就にご利益があるとされています。
そう考えると、勝鬘院と多宝塔の組み合わせはぴったりだと思えるんですが、とんでもですか?

口縄坂 夜景2 

愛染堂より徒歩10分ほどのところにある口縄坂

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[2016/06/23 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

馬見古墳群 花菖蒲 『帆立貝型古墳は何の形?』 

奈良県北葛城郡河合町  馬見丘陵公園館
撮影 2009年6月6日


●馬見古墳群

馬見古墳群は4世紀末から6世紀にかけて造営されたもので、そのうち8基を含む土地が馬見丘陵公園として整備されています。

ナガレ山古墳

ナガレ山古墳は築造された当時の姿に復元されていました。 (人物は堺祭の行列に登場された方です。/合成)
円筒埴輪がずらりと並ぶ姿は圧巻ですね。

エジプトのように乾燥した土地であったなら、この姿に近い状態のまま後世に残ったかもしれませんが、日本ではすぐ草木が生えて古墳が小山のようになってしまうんですね~。

前方後円墳はマナの壺を象ったものだった?

馬見丘陵 模型 

↑ 上はナガレ山古墳近くに置かれていた模型です。
ナガレ山古墳の形がよくわかりますね。

飛鳥昭夫さんは、前方後円墳の形は「マナの壺」であるとおっしゃっています。

マナの壺とは古代イスラエルの三種の神器のひとつで(あと二つはアロンの杖、十戒石版)、つきることなく中からマナ(餅に似た食べ物)が出てくるとされます。



上は大阪府堺市にある仁徳天皇陵ですが、確かに壺をひっくり返したようにも見えます。
仁徳天皇陵の前方部と後円部の境目には丸く膨らんだ部分がありますが、これは壺の左右にある持ち手であると、飛鳥昭夫さんはおっしゃっています。

●帆立貝形古墳は何の形?

馬見丘陵 花菖蒲

↑ 花菖蒲園の後ろに見えている小山は乙女山古墳です。 
航空写真でみるとこんな感じです。 ↓



前方後円墳に比べて前方部が短く、帆立貝形古墳と呼ばれます。
これは何を象ったものなのでしょうか?

交野天神 国栄石  

上の写真は大阪の交野天神社境内に置かれている国栄石ですが、袋の形をしていますね。
帆立貝形古墳は袋を形どったものではなのでしょうか?

智積院 布袋唐子嬉戯の図

上は京都・智積院にある「布袋唐子喜戯の図(作/月樵道人」です。

智積院 さつき 『布袋はなぜ大勢の子供たちと戯れているの?』 の記事の中で私は次のように書きました。

①母親のことを「お袋」というのは、袋が胎盤や子宮を意味しているからではないか。
②布袋が子供たちと戯れる絵が数多く描かれているが、それは布袋の持っている袋が胎盤や子宮を意味しているからではないか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E5%AE%AE#/media/File:Gray38.png
↑ こちらは『胎児の入った子宮』の図ですが、帆立貝型古墳はこれにもとてもよく似ています。

帆立貝型古墳は子宮をイメージしたものではないでしょうか。
つまり死者は子宮の中で眠っているというわけです。

昔の人は、死者が生まれ変わることを願って、このような形の古墳を作ったのかもしれませんね。

ナガレ山古墳 子供さんたち 

ナガレ山古墳の写真に、堺祭の行列に登場した子供さんたちを合成しました。



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[2016/06/22 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 紫陽花 一心寺 ジャカランタ 『ミシャグジ神の正体は物部守屋だった?』 

大阪市天王寺区 四天王寺・一心寺
撮影 2016年6月19日


 
四天王寺の境内をぶらぶらお散歩。

四天王寺 紫陽花 


●四天王寺は物部守屋の土地と奴婢をもちいて建立された。


587年、廃仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦争がありました。
聖徳太子は蘇我馬子側に参戦していました。
戦争は蘇我馬子が勝利し、聖徳太子は物部守屋の土地と奴婢をもちいて四天王寺を建立したのです。
 
四天王寺 咳の地蔵尊 
●四天王寺のミシャグジ神?


おや?「咳の地蔵尊」と書いてありますね。
これはもしかして、ミシャグジ神では?

多賀大社 桜 『お多賀杓子とミシャグジ』 
↑ こちらの記事に書いたんですが

名古屋市南区の石神社ではミシャグジという神様に杓子を奉納する習慣があります。同様の信仰は各地にあるようです。

横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されています。

そこで私はミシャグジ神とは石の神であり(石神社がミシャグジとして信仰されているところから)、石→セキ→咳と言う語呂合わせから咳の神に転じたのではないかと推理しました。

四天王寺  亀の池

●石上神宮は石神(ミシャグジ)?


先ほども述べたように、四天王寺は物部守屋の土地と奴婢を用いて建立した寺です。
この辺りはもともとは物部氏の土地であったのでしょう。

奈良県天理市にある石上神宮は物部氏が祭祀する神社でした。
あれっ? もしかして石上神宮の石上とは「石神」が転じたもので、ミシャグジとは物部氏の神様なんじゃないの?
 
四天王寺 中門 
●洩矢神=ミシャグジ=物部守屋?

長野県諏訪地方では洩矢神(もりやしん、もれやしん)が厚く信仰され、ミシャグジ神と同一視されることもあるそうです。
洩矢と守屋って発音がいっしょやん?

で、この洩矢神後裔が守矢氏で、代々諏訪大社の神長官を務めてきたというんですね~。
そしてこの守矢氏が守ってきた「七本の峯のたたえ」はミシャグジ神が降りる木だと言われているそうです。

「七本の峯のたたえ」とは何のことなのか、よくわからないのですが(汗~)
http://www.toho-motoneta.net/index.php?%B1%CC%CC%F0%BF%DB%CB%AC%BB%D2%2F%C5%DA%C3%E5%BF%C0%A1%D6%BC%B7%A4%C4%A4%CE%C0%D0%A4%C8%BC%B7%A4%C4%A4%CE%CC%DA%A1%D7
↑ こちらのサイトに次のような内容が記されたサイトがありました。

諏訪七木(すわしちぼく)

①桜湛(さくらたたえ)
②真弓湛(まゆみたたえ)・・・檀(まゆみ)。
③峯湛(みねのたたえ)・・・峰タタイノ木。樹齢200年程のイヌザクラが現在は峯湛の木とされている。現存している。
④檜湛(ひくさたたえ) ・・・干草タタイノ木。
⑤松木湛(まつのきたたえ)
⑥橡木湛(とちのきたたえ) ・・・栃の木。
⑦柳湛(やなぎたたえ)


 諏訪大社上社の御神体は‘守屋’山とされているそうですが、守屋山って物部守屋と同じ名前ですよね。

さらに諏訪大社上社の南西6kmほどの場所には守屋神社があり、物部守屋を祀っています。
そして諏訪大社上社の御神体・守屋山に頂上にある磐座は守屋神社の奥宮ともされているのです。

守屋神社では諏訪大社との関係は否定されているそうですが、私には関係がありそうに思えるなあー。

つまり、次のように推測するわけです。
①守屋山の頂上にある磐座に降臨する神=洩矢神=ミシャグジ神物部守屋の霊
②守屋山を御神体とする諏訪大社上社=物部守屋を祀る神社
③代々諏訪大社の神長官を務めた守矢氏=洩矢神の後裔=物部守屋の後裔

四天王寺の境内には守屋祠もあります。

もりやほこら 

そこで、さらに次のように推測します。

④四天王寺は守屋の霊を慰霊するための寺であり、守屋に対する信仰があった。
⑤①で説明したように、洩矢神=ミシャグジ神物部守屋の霊だと考えられる。
⑥四天王寺にはかつてミシャグジ神に対する信仰があったが、なんらかの理由で咳の地蔵尊におきかえられた。

●一心寺にもミシャグジ神が鎮座していた?


四天王寺からとことこと歩いて数分、一心寺にやってきました。

一心寺は1185年に四天王寺の別当・慈円の要請を受けて法然が草庵を結んだのが始まりとされます。
一心寺は四天王寺と関係の深いお寺なんですね。

このあたりは大阪の陣の舞台となったところで、大阪夏の陣・天王寺・岡山の戦いで討ち死にした本多忠朝の墓があります。
 
一心寺 本田忠朝の墓 ジャカランタ3

本多忠朝の墓(上の写真の五輪塔)の周囲にはジャカランダの花が咲いていました。
きれいだと思ったけど、最盛期には紫色の桜のようにぎっしり花がつくみたいですね。
来年はジャカランダの最盛期に参拝したいです。

えーー、本多忠朝はお酒が大好きで、そのため冬の陣では負けてしまい、家康にこっぴどく叱られたそうです。
それで名誉挽回とばかりに夏の陣では頑張ったのですが、討ち死にし 死ぬ間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれています。
史実ではなく、伝説じゃないかと思いますが。

そんなわけで本多忠朝の墓は「酒封じの神」として信仰され、禁酒祈願に訪れる人が大勢いるとのことです。

一心寺 本田忠朝の墓 ジャカランタ

その本多忠朝の墓所に、たくさんのしゃもじが奉納されていました。
おお、これもまさしく「ミシャグジ神」に対する信仰です。

本多忠朝の墓は大きな石の五輪塔なので、石神として信仰され、そのためしゃもじを奉納する習慣が生じたのではないでしょうか?

また四天王寺にはミシャグジの信仰があったと推測されるので、四天王寺と関係の深い一心寺でもミシャグジが信仰されるよういなったのかもしれません。

いやまて、本多氏と本田氏はもともと同族であったともいうし、もしかしたら本田善光と関係があるのかも?

本田善光は物部守屋が難波の堀江に流した仏像を持ち帰り、善光寺に祀ったとされる人物です。

宮元 健次さんが、『善光寺の謎 (祥伝社黄金文庫)』という本の中で次のような意味のことを書いておられるそうです。

①善光寺内陣に守屋柱と呼ばれている柱がある。
②戒壇めぐりを行うことは、守屋柱を一周し、錠(独鈷)によって守屋柱に宿る守屋の霊を封じることである。
③善光寺は物部守屋を慰霊するための寺である。
(参照/善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 

もしかして本田善光とは物部氏であり、本多氏の祖も物部氏だったりして?


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[2016/06/21 00:08] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)