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岩船寺 紫陽花 『天邪鬼の叫び』 

京都府木津川市 岩船寺
奈良市二条大路南 イトーヨーカ堂奈良店(長屋王邸跡)
撮影 2008年 6月21日

岩船寺 紫陽花
塔百景7

●昔の天邪鬼はまるでムンクの「叫び」

岩船寺のある当尾の里は京都府ですが、奈良市から近く大和棟の民家があるなど、大和路の趣がある場所です。

満開の紫陽花の花の向こうに三重塔が見えていました。
この三重塔の屋根を天邪鬼が支えています。 

岩船寺 天邪鬼


本堂にはガラスケースが置かれてあってその中に天邪鬼が展示されていました。
未確認なのですが、たぶん、このガラスケースの中におさめられた天邪鬼はかつて三重塔についていた物じゃないかと思います。
昭和18年に三重塔の解体修理が行われていますが、そのときにとりはずされたものなのかも?

ガラスケースの中の天邪鬼は現在の天邪鬼(写真2枚目)とはまるで違っていました。
目と口の部分に穴が開けられていて、まるでしゃれこうべのようです。
ムンクの『叫び』に描かれた人物を思い出させます。
天邪鬼は悲痛の叫びをあげているようにも見えました。

●長屋王の変

岩船寺は729年、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝わっていますが、この年『長屋王の変』が起こっています。

『長屋王が呪術を行って国を潰そうとしている!』と朝廷に密告されたんですね。
舎人親王によって厳しい取り調べが行われ、長屋王はその結果、長屋王は自殺に追い込まれてしまいました。

現代であれば呪術は科学的でないとして信用されていないので、呪術を行ったとしても罰せられることはありません。
しかし、奈良時代には呪術を行うということは大罪だったんですね。

でも、長屋王が本当に呪術を行ったのかどうか?
 『続日本紀』には「誣告」と記されています。
誣告とは「故意に事実を偽って告げる」という意味です。
昔の人は、長屋王が呪術を行って国家を潰そうとしたというのは事実ではないと認識していたのでしょう。

聖武天皇の皇子の安積親王の母親は県犬養広刀自で、藤原氏ではありませんでした。
このため、長屋王の子・膳夫王が皇位継承の最有力者とされていたのではないか。
そして長屋王の変は藤原氏がこれを廃そうとした陰謀だったのではないかとする説が有力です。

長屋王の没後、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てることにしています。
光明皇后は人臣として初めて皇后になったのです。
そして光明皇后の兄たち、藤原四兄弟は権力を掌握することになったのです。

岩船寺 十三重塔
●藤原四兄弟の相次ぐ死

ところが、737年、藤原四兄弟は天然痘にかかって相次いで死亡してしまいました。
人々は「藤原四兄弟が死んだのは、長屋王の怨霊の祟りにちがいない!」と噂しました。
 
●天邪鬼は長屋王?

聖武天皇は長屋王の怨霊をおそれ、長屋王の霊を鎮魂するために岩船寺を建てたのではないかと思ったりします。
三重塔の屋根を支えていた悲痛の叫びをあげる天邪鬼は、長屋王の怨霊なのかも?

天邪鬼の上に重たい屋根が乗せられているのは、天邪鬼が暴れないようにするための呪術的な仕掛けなのかもしれませんね。

●長屋王は長屋親王だった?

1986 年から1989年にかけて、奈良そごう建設にあたり発掘調査が行われました。
その結果、建設予定地より、長屋王の邸宅跡が発見されました。
出土した木簡には「長屋親王」の文字が記されたものがあり、長屋王は「王」ではなく「親王」で正当な皇位継承権があったのではないかとする説もあります。

●そごうの倒産は長屋王の怨霊の祟りだった?


奈良そごうは経営不振に陥って2000年に閉鎖し、現在その建物にはイトウヨーカ堂が出店しています。
そごうが閉鎖したとき、「そごうが倒産したのは長屋王の祟りである。」などという噂が流れました。
死後、1000年以上たっても祟るとは、長屋王の怨霊、恐るべし~。 

長屋王邸跡 模型


イトウヨーカ堂奈良店の裏手に長屋王邸の小さな模型があります。

長屋王邸跡 


上の写真はマンホールの蓋ではありません~。
長屋王低の柱跡を示したもので、やはり建物の裏側の従業員出入り口付近にあります。



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[2016/06/20 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

方広寺 豊国神社 紫陽花 『秀吉の命日は本当に8月18日?』 

京都市東山区 方広寺・豊国神社
撮影 2016年6月13日


豊国神社 紫陽花

豊国神社(京都)

●方広寺が大仏殿と呼ばれるワケ

1596年、松永久秀の焼き討ちによって東大寺の大仏さまは大きなダメージを受けました。

東大寺 大仏 

東大寺 大仏 
現在の大仏は1685年から1691年にかけて復興されたもので
『奈良六大寺大観 東大寺二』は、右腋から下腹にかけて、両手の前膊と袖、両脚が奈良時代のものであるとしています。


方広寺 鐘楼

方広寺 鐘楼


そこで豊臣秀吉は新たに大仏をつくり、1595年に方広寺に安置しました。
方広寺が別名、大仏殿と呼ばれるのは、そのためです。
今の方広寺の境内は狭いですが、かつては大寺院で、現在の妙法院・豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地までがすべて方広寺の境内であったそうです。

地図はっておきますね。



●慶長伏見地震

方広寺の大仏は東大寺大仏よりも大きく、像高は19mもありました。
(東大寺大仏はブロンズ製で、当初の像高は15m80cm/現在の東大寺大仏は14m98cm)
方広寺に大仏は工期短縮のため、漆膠製で作られました。

ところが翌年・1596年の慶長伏見地震で壊れてしまい、秀吉は大仏に向かって「自分の身も守れないのか!」とひどく怒ったそうです。
いや、怒られてもねえ~。
大仏さまはきっと「ちゃんとブロンズでつくってくれてたら壊れなかったのに!工期短縮とかいって漆膠で作ったりするから壊れたんじゃないの!」と言い返したかったにちがいありません。

慶長伏見地震では秀吉が作った伏見城も壊れています。
マグニチュード 7.25-7.75と推定され、1000人以上の人が犠牲になったと言われています。

伏見桃山城 月

伏見桃山城 模擬大天守と小天守

本当に、昔も今も、日本は地震国なのでやっかいです。

●信濃善光寺の阿弥陀三尊象を遷座

ともかく、せっかく作った大仏様が壊れてしまったので、1597年秀吉は当時、甲斐善光寺に安置されていた信濃善光寺の本尊・阿弥陀三尊象を方広寺に遷座しました。

善光寺 本堂 

善光寺 本堂

●秀吉の最後

1598年5月ごろより秀吉は体調を崩し、五大老(徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と前田玄以・長束正家らにあてた遺言書(『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』)を書いています。

そこには「ワシを八幡神として祀れ。遺体は火葬にするな。」などと書かれてありました。

日光東照宮 例大祭 百物揃千人武者行列 『変わっていく神の定義?』※追記 訂正 
↑ 
こちらの記事に
「豊臣秀吉は豊国大明神として豊国神社などに祀られていますが、
豊国大明神という神名は朝廷より与えられたもので、
家康のように「死後神として祀れ」と言ったとはウィキペディアには書かれていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89 」

と書きましたが、秀吉は「死後八幡神として祀れ」と遺言していたんですね。すいません~。
訂正させていただきます。


また秀吉が死後八幡神として祀れと遺言していたのは、大広寺を東大寺のかわりだと考えていたためだと思います。
東大寺の鎮守の社は手向山八幡ですので。
大仏を作ったのもそのためでしょうね。

手向け山八幡宮 紅葉 

手向山八幡宮

そして秀吉が体調を崩したのは、「善光寺の阿弥陀三尊の祟りじゃーーーっ」ということになり
阿弥陀三尊は信濃善光寺に戻されることになりました。
しかし病が回復することはなく、秀吉は8月に亡くなりました。

善光寺絵巻 
善光寺境内にある善光寺絵巻に描かれた善光寺の阿弥陀三尊。本物は絶対秘仏。

●秀吉、神となる。
 
その後しばらく秀吉の遺体は伏見城下に安置されていました。

9月になると、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に方広寺の鎮守として八幡大菩薩堂の建築が始まり、
4月に秀吉の遺体は阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。
そして、朝廷は秀吉に「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えたのです。
これが方広寺の隣にある豊国神社の創祀となります。

豊国神社 

豊国神社(京都)

秀吉は八幡神として祀られることを望んでいたのに、実際には「豊国大明神」として祀られたわけです。
朝廷はなぜ、秀吉に八幡神という神号を与えなかったのでしょうか。

八幡神とは15代応神天皇のことです。
秀吉は天皇家の人間ではなく、臣下ですから、「いくらなんでも八幡神は望みすぎやろ~」ということだったのではないかと想像します。

 秀吉の霊は神として祀ったため、葬儀はおこなわれませんでした。
そして秀吉の命日8月18日には豊国祭が盛大に行われたということです。

●家康、豊国大明神の神号をはく奪する。

1615年、大阪の陣で豊臣家は滅亡し、徳川家康が天下をとりました。
徳川家康は後水尾天皇の許しを得て豊国大明神の神号をはく奪。
秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」として仏式で祀られるようになりました。
そして神社は潰されてしまったのです。
北政所の懇願によって社殿だけは残されたようですが、家康は豊国神社参道を塞ぐためにわざわざ新日吉神社を遷宮させています。
家康の執念がすごいのか、当時こんなことは当たり前だったのか。

新日吉神社 鉾さし 

新日吉神社

●明治になってようやく再興された豊国神社

豊国神社が再興されたのは、1875年、明治天皇によってです。
このとき、豊国大明神という神号も復されました。

●秀吉の命日は本当に8月18日?

前置きが長くなりましたが、本日のテーマは「秀吉の命日は本当に慶長3年8月18日(1598年9月18日)なのか」ということです。

秀吉の死はしばらくの間は公にはされず、伏せられていました。
これはこのとき慶長の役のまっただ中で、軍の指揮がさがるのを防ぐためだとも言われていますが
案外、秀吉の命日を8月18日とでっちあげるためだったりして?

●歴史上有名人の命日は3月21日に集中している。

小野小町や和泉式部など多くの歴史上の有名人の命日が3月21日なのだそうです。
3月21日は春分の日で、彼岸の中日とされています。
春分と秋分(9月21日ごろ)には太陽が真東から昇り、真西に沈みます。
ここから、西方浄土を思い、故人を偲ぶ習慣が生じたのだといわれています。
おそらく、小野小町や和泉式部らの命日が3月21日とされているのは事実ではなく、3月21日は彼岸の中日なので彼女たちの命日とされたのでしょう。

●8は復活をあらわす数字だった?


金戒光明寺 紫陽花 『吉備観音はカニの観音?』 

↑ こちらの記事にも書いたのですが、八は中国語の「发财發財/金持ち)」の「)」と音が同じであり
また字形が末広がりで縁起がいいと言われます。

梅原猛さんは8という数字は復活を意味し、八角墳や八角堂は死者の復活を願って作られたのではないかとおっしゃっています。
京都の上御霊神社・下御霊神社で八所御霊を祀っているのも、御霊が神として復活するようにとの願いが込められているのだと思います。
(参照/等持院 皐月 六請(ろくしょう)神社 『六請神社は六所御霊を祀る神社?』 

そういえば、秀吉が希望した「八幡神」にも「八」の字がありますね。

即身仏となるために入定した人の目的は56億7000万年後、弥勒菩薩が現れるときに復活し、その聖業に参加するためだったといいます。
おそらく、魂が復活するためには魂の容れ物である肉体が必要であると考えられていたのではないでしょうか。


秀吉は遺体を火葬しないよう遺言していますが、それは将来復活したときに肉体が必要だと考えたためなのかも?



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[2016/06/19 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

藤森神社 紫陽花祭 『鞠は神様の魂を表している?』 

京都市伏見区  藤森神社

藤森神社 蹴鞠  
藤森神社では紫陽花の開花に伴って紫陽花苑を開園し、紫陽花祭として様々な奉納行事を行っています。
蹴鞠の奉納もあります。
(藤森神社の紫陽花祭についてはこちら→

●「あり」「やー」「おう」という掛け声は鞠の神さまの名前だった。

『成通卿口伝日記』には次のように記されています。

平安時代、藤原成通という蹴鞠の名人がいました。
藤原成通は千日蹴鞠を行うという願をたて、毎日蹴鞠をしていました。
満願の日、3~4歳の三人の童子が現れ、成通に言いました。
「鞠を好む人は、鞠に熱中して余計なことを考えなくなります。
そうなれば自然と心の罪はなくなっていき、輪廻転生にもよい影響をもたらす縁が生まれることとなるのです。」
三人の童子は鞠の精で、夏安林(げあんりん/アリ)、春陽花(しゆんようか/ヤウ)、秋園(しゆうえん/オウ)という名前でした。


鞠人たちは「あり」「やー」「おう」と掛け声をかけますが、これは神様の名前を唱えているのだそうです。

●木の股に挟まれて死んだ大国主命

藤森神社 蹴鞠4

鞠は木の枝に挟んで懸(かかり/蹴鞠を行う広場のこと。鞠壺ともいう。)に持ち込みます。
これ見るたびに、私は大国主命を思い出すんですよ~。

大国主の兄神たち(八十神)はみなヤガミヒメと結婚したいと思っていましたが、ヤガミヒメはオオナムヂ(のちの大国主命)と結婚すると言いました。
八十神は、オオナムヂを殺そうとし、木の割れ目の中にオオナムヂが入ったところを見計らって、楔を引き抜きました。
オオナムヂは木に挟まって死んでしまいました。
オオナムヂの母親はオオナムヂを生き返らせ、木国のオオヤビコのところへ行かせました。
そこへ八十神がオオナムヂを追ってやってきましたが、オオヤビコは木の股をくぐり抜けさせてオオナムヂを逃がしました。


木の股にはさまれた鞠は、まるで大国主命の魂のようではありませんか。

●神様に土をつけてはいけない。
 
藤森神社 蹴鞠3

白い鞠が空中を舞うようすは、なんとなく霊が空中をさまよっているようにも見えます。

蹴鞠は鞠を地面に落とさず長く蹴り続けることを目的としています。
相撲で負けることを「土がつく」といいますが、鞠は神聖なものなので地面に落としてはいけないという信仰があったのではないかと思ったりします。

来月は祇園祭ですが、祇園祭の長刀鉾には生き稚児を乗せますね。
巡幸の途中で生き稚児を鉾からおろすんですが、大人の氏子さんが生き稚児を肩に乗せておろし、鉾から降りたあとも生き稚児を形に乗せたまま歩いていました。
生き稚児は神の化身なので、地面に足をつけてはいけない、ということなのではないでしょうか。 

長刀鉾 生き稚児 

米原子供歌舞伎でも大人が子供の役者を抱きかかえて舞台まで連れていきますし、舞台を降りるときも大人が子供役者を抱いて舞台からおろし、子供を抱いたまま去っていきます。

米原子供歌舞伎 


藤森神社 蹴鞠2 

紫陽花祭では舞楽の奉納もありました。
欄陵王かな?
高長恭という武将は「音容兼美」と言われ、美声の上に超イケメンだったそうです。
あまりのイケメンぶりに兵達がぼうっとなってしまうので(BL?)恐ろしげな仮面をかぶって出陣したといいます。  

藤森神社 舞楽 


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[2016/06/18 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

智積院 紫陽花 『紫陽花は死をイメージさせる花だった?』 

京都市東山区 智積院
撮影 2016年6月13日


●古くから日本に自生していた紫陽花

智積院 金堂 紫陽花  

紫陽花の原種は日本のガクアジサイだといわれています。
智積院の紫陽花はホンアジサイでしょうか。
紫陽花ってたくさん種類があってよくわからないんですよね~。
またホンアジサイというのは通称であると説明しているサイトもありました。

ホンアジサイはガクアジサイの園芸品種だといわれていますが、自生しているともいわれ、よくわかっていないようです。

いずれにせよ紫陽花は古くから日本にあり、万葉集にも紫陽花を詠んだ歌が2首あります。

言問はぬ 木すら味狭藍(あじさい) 諸弟(もろと)らが 練の村戸(むらと)に あざむかえけり/大伴家持
(恋を語らない木ですら、紫陽花のように移ろいやすい。???らの巧みな言葉に私は騙されてしまいました。)


これは大伴家持が大伴坂上大嬢(おほとものさかのうへのおほをとめ)に贈った五首の相聞歌のうちの一首です。

「練りの村戸」は「老練な心」という意味だそうです。
三句目の「諸弟(もろと)」はどういう意味なのかよくわかっていません。
紫陽花の花の色が変わりやすいところから、このような歌が詠まれたのでしょう。

もう一首は次の歌です。

安治佐為の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ/橘諸兄
(紫陽花が八重に咲くように、いつまでも健やかにいてください。この花を見るたび私はあなたを思い出します。)

智積院 金堂 紫陽花2  


●4枚の花弁をもつ紫陽花は「宵(よひ)」を導くための言葉だった。


万葉集に紫陽花を詠んだ歌がたった2首しかないというのはオドロキですが、平安時代の和歌にも紫陽花を詠んだ歌は僅かしかありません。

『古今和歌六帖』にるこの歌は、その僅かな紫陽花を詠んだ歌のひとつです。

あかねさす 昼はこちたし あぢさゐの 花のよひらに 蓬ひ見てしがな
(明るい日中は噂がうるさくてうっとおしい。紫陽花の花が四ひらのように、宵に会いたいわ。)

「こちたし」は「言痛し」で「噂がうるさくてうっとおしい」と言うような意味です。
「あぢさゐの花のよひら」は「(宵)よひ」を導くための言葉です。

●古の人々は紫陽花に4のイメージを持っていた?

うーん、この歌は面白いです!
単なる言葉遊びじゃないの、って?
確かに単なる言葉遊びです。
だけど、この歌は「古の人が紫陽花に、その花びら(厳密には装飾花というそうですが)の数=4のイメージを持っていた」ことを教えてくれているような気がします。

●「かわひらこ(蝶の古名)」という言葉が忘れられてしまった理由

 水尾の里 アサギマダラ

話は変わりますが、蝶々という言葉は漢語で、やまと言葉では「かわひらこ」というそうです。
ところが、古の人は死者の魂が蝶になると考えていたため「かわひらこ」という言葉を忌んで使わなくなり、ついには「かわひらこ」という言葉を忘れてしまったと聞いたことがあります。

これをヒントに考えてみたのですが
紫陽花は花びらが4枚なので、「四」の音が「死」に通じることを忌み、積極的に紫陽花の歌を詠もうとしなかったのではないでしょうか。
紫陽花を詠んだ歌が少ないのは、そのためだったりして?

紫陽花とバッタ

●紫陽花は死者にたむける花だった。

紫陽花が植えられたお寺がたくさんあるのは、紫陽花が死者にたむける花であったからだといいます。
そういえば智積院の紫陽花園のすぐ向う側は墓地になっています。

なぜ紫陽花が死者にたむける花であったのかは、花びらが4枚で、四が死に通じるからではないかと私は思います。

http://homepage2.nifty.com/nijime/htm/honajisai.htm
↑ こちらのサイトには「講談社 週刊花百科 第1巻 第15号」の次のような引用が記されています。

ガクアジサイは平安時代から庭木として植えられていたが、萼片が4枚で「死」に通じるので縁起が悪いと寺などでひっそりと咲くのみであった。

智積院 紫陽花 


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[2016/06/17 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

真如堂 紫陽花 菩提樹  沙羅双樹 『詮子、遵子を呪う?』 

京都市左京区 真如堂
撮影 2016年6月13日


真如堂 紫陽花 

●女人救済の阿弥陀如来

真如堂には次のような創建説話が残されています。

円仁は夜ごとに根元が光る霊木を見つけました。
霊木を割ると、中から座像と立像の阿弥陀如来の形が現れました。
円仁は座像の形のほうを用いて阿弥陀如来座像を造立し、如法堂に安置しました。これは後に日吉大社念仏堂の本尊となりました。

その後、円仁は遣唐使として唐へ赴きました。
円仁が日本への帰る際、荒れ狂う波間の虚空から阿弥陀如来が現れ、円仁に引声念仏を授けました。
円仁はこの阿弥陀如来を持ち帰り、光る霊木より現れた阿弥陀如来を完成させ、その胎内に波間から現れた阿弥陀如来をおさめました。

円仁は阿弥陀如来に「比叡山の修行僧の本尊となってください」と言うと、阿弥陀如来は首を振りました。
そこで円仁は「それでは都のすべての人をお救いください。特に女性をお救いください。」というと阿弥陀如来はうなづかれました。
ここから「うなづきの阿弥陀」と呼ばれています。

984年、比叡山の僧・戒算の夢枕に、阿弥陀仏の化身の老僧が現れ、次のように告げました。

「私は叡山の常行堂よりやってきた。京ですべての者にご利益を施すつもりである。特に女人を救い隊と思っているので、京に下山させてほしい。」
「神楽岡のあたりに、小さな桧千本が一晩のうちに生えた場所がある。そこが衆生済度の場である。」と。

老僧が霊地であると言ったのは東三條女院(藤原詮子/ふじわらのせんし)の離宮でした。
詮子もまた戒山と同じ夢を見たので、自分の離宮に「うなづきの阿弥陀」を遷座しました。


真如堂 紫陽花2 

●引きこもりから、国母専朝へ。


創建説話を読んで、「ふーん」で終わらせずに、お寺の縁起に登場する人物や年を調べてみるとおもしろいです。

真如堂の創建説話に登場する藤原詮子〈962-1002)は摂政関白・太政大臣藤原兼家と摂津守藤原中正の娘の時姫の間に生まれました。
978年円融天皇に入内し、980年には円融天皇の第一皇子・懐仁親王(のちの一条天皇)を生みました。
ところが、藤原頼忠の娘・遵子(じゅんし)が后となってしまいました。
藤原遵子の兄・藤原公任には「こちらの女御はいつ后になられるんですか」と皮肉を言われるしまつ。(『大鏡』)
よほど悔しかったのでしょう、父親の藤原兼家とともに東三条邸にひきこもってしまいました。
そして天皇が何度「戻っておいで」と言っても戻らなかったのです。

しかし遵子は円融天皇の皇子を産むことはありませんでした。
そのため986年、詮子が生んだ一条天皇が即位し、詮子は皇太后となったのです。
皇太后となった詮子は、遵子の兄・藤原公任に「姉君の素腹の后はどちらにおいでですか?」とやり返しています。(『大鏡』)
そして、ひきこもっていたことが信じられないほど、政治にも口出しするようになったのです
藤原実資は日記『小右記』に「国母専朝」と書いています。
「国母」とは「皇太后」を意味する言葉です。ここでは詮子のことですね。
皇太后が牛耳る朝廷、というような意味でしょうか。

真如堂 沙羅双樹 
沙羅双樹

●遵子が円融天皇の皇子を産みませんように!

詮子の離宮に「うなづきの阿弥陀」が安置されたのは984年でした。
一条天皇が即位し、詮子が皇太后となったのはその2年後の986年です。
詮子の離宮に「うなづきの阿弥陀」が安置されたのは、詮子が東三条邸に引きこもっていたころだと考えられます。

「うなづきの阿弥陀」は「女人を救済する」と言ったとありますが、「うなづきの阿弥陀」が救済する女人とは詮子のことなのではないでしょうか。

おそらく、詮子または詮子の父・兼家は、この「うなづきの阿弥陀」を拝んでこんな風に祈願していたのではないかと思います。

「どうか、憎き遵子が円融天皇の皇子を産みませんように。
私(詮子)が生んだ懐仁親王(のちの一条天皇)が即位しますように。
そして遵子ではなく私が皇太后になれますように!」

あるお寺にいったとき、お寺の大黒さん(住職の奥様のこと)がこんなことをおっしゃっていたのを思い出します。
「愛染明王の何も持っていない手には秘密の呪符を握らせたそうです。そして、その呪符には『○○、死ね』などのように書いて呪詛したそうです。」と。

昔の仏教はこのように呪術的意味合いの濃いものであったようです。

真如堂 菩提樹 

菩提樹



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[2016/06/15 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

水月公園 花菖蒲 『こうもりの形をしたあずまや』  


大阪府池田市 水月公園
撮影 2011年6月11日


水月公園 花菖蒲


●蘇州より贈られたあずまや 

大阪府池田市と中国蘇州市は友好都市を締結している関係から、蘇州市より池田市に斉芳亭が贈られました。

蘇州市には明・秦時代の古い庭園があり、蘇州古典園林と呼ばれています。
斉芳亭は蘇州古典園林のひとつ、拙政園の六角亭をモデルに作られたものだそうです。

●こうもりを表す瓦

蘇州古典園林に留園という庭園もあり、可亭というあずまやがあります。
斉芳亭はこの可亭にも似ています。

可亭の屋根の軒先には丸みを帯びた逆三角形の瓦が飾られているそうですが、この瓦は蝙蝠(こうもり)を表すものなのだとか。
(蝙蝠→
蝙蝠の翼は三角形を連ねたような形をしていますね。
で、止まるときには逆さになっているので、逆三角形なのかも?

実際に可亭を見たことがないので、どんな瓦なのかわからないのですが、斉芳亭の屋根にも丸みを帯びた逆三角形の瓦が使われています。

また斉芳亭の屋根の形そのものも、蝙蝠を思わせる形のようだと思いませんか?→

水月公園 花菖蒲2


●中国ではこうもりは縁起がいいものとされていた。

日本では蝙蝠は気味が悪いものというイメージが強いですが、中国では「ピェンフー」と発音し、「フー」とは福のことなので、縁起がいいものだとされています。
百年以上生きたネズミがコウモリになるともいわれ、長寿のシンボルでもあります。

中国では卍(まんじ)や桃をくわえた蝙蝠の絵が描かれることがありました。
卍は万と同じ音なので、蝙蝠が卍をくわえると『万福』、桃は寿のシンボルなので蝙蝠が桃をくわえるとは『寿福』の意味なのだそうです。

そういえば斉芳亭の屋根の下の部分のデザインは卍になっています。
またよく見えなかったのですが、逆三角形の瓦には寿の文字が書いてあるそうです。 

水月公園 説明 


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[2016/06/14 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

金福寺 さつき 『村山たか女と多賀大社の因縁?』 

京都市左京区 金福寺
撮影 2014年6月8日

金福寺 皐月 

金福寺


急な夕立があり、雨宿りのため金福寺に駆け込みました。
金福寺は村山たか女ゆかりの寺として知られています。

●女スパイ村山たか女の生涯


村山たか女は1809年に生まれました。
父親は多賀大社般若院の院主、母親は多賀大社般若院の住職の妹であるとか、彦根の芸妓だとか言われています。

多賀大社 枝垂れ桜

多賀大社


1809年というのは江戸時代でして、このころは神仏が習合して祀られおり、多賀大社の中に般若院という寺があったのです。
現在のように神社と寺が別のものとして祀られるようになったのは、明治に神仏分離令が出されて以降のことなんですね。

また、当時の仏教は、浄土真宗をのぞき、僧侶の妻帯を認めていませんでした。
般若院は浄土真宗の寺ではないので(たぶん天台宗?)僧侶の妻帯は認められていなかったはずです。
なので、般若院の院主が子供をもうけるというのは、ものすごく世間体の悪いことだったんでしょうね。
そのため、たか女は多賀社寺侍の村山氏に預けられて育ちました。

18歳のころ、たか女は彦根藩主・井伊直亮(なおあき)の妾となりますが、数年後に暇をだされ、京都で芸妓になりました。

祇園 八朔 
祇園白河

その後、金閣寺の僧との間に子供をもうけ、子供は寺侍多田源左衛門の子となる予定でしたが、出産後まもなく離縁されてしまいます。

金閣寺 雪 
金閣寺

たか女は子供を連れて彦根に戻り、彦根城に住んでいた井伊直亮の弟・井伊直弼と恋仲となります。
以前、妾となっていた男性の弟とfalling love、というわけですね。


彦根城 紅葉 ライトアップ
彦根城

やがて井伊直弼とたか女は別れますが、その後たか女が江戸幕府のスパイとして活動しているところを見ると、実際に別れたのではなく、別れた風を装っていたんじゃないかとも思えます。
1842年ごろ井伊直弼がたか女にあてた手紙には「藩の反対にあって会えない」とあります。
そういうこともあって別れたように見せかけていたのかもしれません。

またたか女は直弼の家臣・長野主膳と恋仲であったともいわれます。

1846年、井伊直弼は彦根藩主となり、1858年には江戸幕府の大老となりました。
そして100人以上の討幕派を死刑や流罪にするなどして弾圧しました。(安政の大獄/1858年~1859年)

このとき、たか女は長野主膳とともに京都の倒幕派の情報を江戸幕府に送っていたのです。

しかし1860年に直弼は尊王攘夷派によって暗殺されました。(桜田門外の変)
1862年には長野主膳も彦根藩によって斬殺されました。
たか女も捕えられ、三条大橋の橋脚に縛られて、生きさらしにされました。
たか女の息子・多田帯刀もとらえられ、殺されて晒し首とされました。

3日五、たか女は宝鏡寺の尼僧によって助けられ、出家して金福寺で余生を過ごし、1876年、67際でなくなりました。

金福寺 皐月2 
金福寺

●多賀大社般若院院主の子として生まれた因縁

息子の首をさらされたたか女は「多賀大社般若院の院主の子として生まれた」ことの因縁のようなものを感じたことだろうと想像します。
なんでかって?

●お多賀杓子とミシャグジ

多賀大社 橋

多賀大社

多賀大社では「お多賀杓子(おたがじゃくし)」というお守りの杓子を授与しています。

名古屋市南区の石神社などで、ミシャグジという神様に杓子が奉納されているケースがあります。
なぜ杓子なのかというと、ミシャグジ様とシャクシの音が似ているからでしょう。
「お多賀杓子」はこのミシャグジの信仰と関係があるのではないかと私は考えています。

●ミシャグジ→石神→咳の神

横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているそうです。
同様の信仰は各地にあります。
参照/多賀大社 桜 『お多賀杓子とミシャグジ』 

ミシャグジは石神と書いて、シャクジ、サクジなどとも呼ばれていました。
石→せき→咳、という語呂合わせで、ミシャグジは咳の神に転じたのではないかと思います。

●多賀大社の奥宮・胡宮神社は石神だった。

胡宮神社は多賀大社の奥宮だといわれていますが、胡宮神社の御神体・青龍山には胡宮磐座があります。

胡宮神社 鳥居 桜

胡宮神社


磐座とは信仰の対象となった岩のことを言います。
岩と石のちがいはその大きさだけですから、胡宮磐座は石神=ミシャグジ様だといえるのではないでしょうか。
そして、この胡宮磐座がミシャグジ様として信仰され、そこから多賀杓子が作られるようになったのではないでしょうか。

●胡宮神社は異民族の神?

それでは多賀大社の奥宮が胡宮神社という名前なのはなぜなのでしょうか。
 
胡という漢字を漢和辞典で調べてみると、次のように書いてあり(青字部分)、そこからピンク字部分のように推論しました。

獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。→ 延命の神?(多賀大社や胡宮神社は延命にご利益があるとされている。)
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。→ 北方の異民族の神?
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。


●胡宮神社はドクロの神?

しかし、胡宮神社という社名にはそれ以上の意味があると思います。
胡宮神社 桜 『胡という漢字を調べてみたら色んなことがわかった!』  ← こちらの記事には書かなかったんですが~。

胡という漢字には次のような意味もあるということでした。
①獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。


ここから考えるに、多賀大社や胡弓神社の神様は、首の神様=ドクロの神様でもあったのではないかと思うのです。
しゃもじをたてた形は、人の頭部と首に似ているではありませんか。

息子を晒し首とされたたか女が「多賀大社般若院の院主の子として生まれた」ことの因縁のようなものを感じたのではないかと思ったのはそのためです。

多賀大社は首の神、ドクロの神であり、多賀大社般若院の院主の子として生まれたたか女の息子は、殺されて晒し首にされているのですから。

●弓で弾く楽器を胡弓というのはなぜ?

胡弓という楽器があります。
三味線に似ていますが、三味線と違って弓で弾きます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E5%BC%93#/media/File:Playing_on_Samisen,_Yokin_and_Kokin.jpg



動画お借りしました。動画主さんありがとうございます!
美しい音色に聞きほれてしまいますね。

四角い箱に柄がついたような形をしていて、しゃもじに似ていますね。
また胴体から切り離した頭部(首・ドクロ)にも似ています。
それで胡弓という名前がつけられたのではないでしょうか。

琉球には胡弓(クーチョー)と読いう楽器がありますが、やはり弓で弾きます。
琉球の胡弓は昔は椰子の実を割って胴にしていたというので、日本の胡弓よりさらに頭部(首・ドクロ)のイメージに近いです。

さらに、擦弦楽器を総称して胡弓と呼ぶこともあり、明治初期にはバイオリンのことも胡弓といっていたようです。

つまり弓でひくものが胡弓であり、似たような形をしていても三味線には胡という漢字は用いられないのです。
これはなぜでしょうか?

それは弓でひくことに、首を刀などで切断しているイメージがあるからではないでしょうか?

中国の楽器・二胡も弓で弾き、「胡」の文字が使われていますね。



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[2016/06/13 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

伏見稲荷大社 田植祭 『伏見稲荷大社に紀氏の神が鎮座していた!』 

京都市伏見区 伏見稲荷大社
お田植祭  6月10日


伏見稲荷大社 田植祭2

●土地と神を奪われた紀氏 

藤森神社 紫陽花 『紀氏の祖神を祀る寺』  
↑ こちらの記事に次のようなことを書きました。

①もともと藤森神社は現在の伏見稲荷大社がある場所に祀られており、その地に伏見稲荷大社が創建されることとなったので現在地に移転した。
そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも藤森神社の氏子である。

②藤森神社は紀氏の祖神を祀る神社だといわれる。
藤森神社の主祭神はスサノオですが、ホツマツタエにはソサノオは紀州の生まれとあるので、スサノオが紀氏の祖神だと考えられる。

③もともとこのあたりの土地は山城国紀伊郡といい、紀氏の土地であったのが、藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたのだと考えられている。

④伏見稲荷大社は稲荷社の総本社とされているが、紀氏の本拠地・和歌山県有田市糸我町にある稲荷大神社が最古の稲荷社(532年創建)であるという言い伝えがある。
もともと紀氏が信仰していた稲荷神を、秦氏や藤原氏が奪って自分たちの神としたのではないか。

⑤『稲荷大名神流記』に、紀州の神と空海は仲がよく、また紀州の神が東寺にきてくれたので神として鎮まっていただいた、との旨が記されている。
しかし藤森神社の氏子はいまでも祭のたびごとに伏見稲荷大社へ行き「土地返せ」とはやし立てている。
ここから空海がかなり強引なやり方で紀州(紀氏)の神を奪ったのではないかと想像される。

伏見稲荷大社 田植祭 御田舞

●伏見稲荷大社の御祭神

伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂大神で、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を配祀しています。

宇迦之御魂大神は食物神で、伊勢神宮の外宮に鎮座する神・豊受大神と同一視されています。
佐田彦大神は猿田彦神、大宮能賣大神はアメノウズメ、田中大神は田を立ち直らせる神とのことです。

●伏見稲荷大社に紀氏の神が鎮座していた!


残る四大神とはどのような神様なのでしょうか?

柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神神々のことだということです。(式内社調査報告)

五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神です。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られている神とあります。紀伊国とは紀州のことです。

伏見稲荷大社 田植祭 

また記紀の記述によれば、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としており
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとあります。

そして、和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としています。
都麻都姫命(抓津姫/は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されていますが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明です。

紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのでしょう。
そして紀州は紀氏の本拠地でした。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられるでしょう。

事八十神はスサノオの子で大国主の兄す。
古事記では八十神と書かれ、クシイナダヒメが大国主と結婚したいと言ったことを恨んで大国主をいじめています。
一柱ではなく、大勢の神の総称のように思われますが、紀州と関係があるのかどうかはわかりません。

伏見稲荷大社は紀氏の祖神を祀る藤森神社を移転させて現在地に鎮座したわけですが
現在でも紀州の神を祀り続けていたのです。

伏見稲荷大社 きつね 



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[2016/06/12 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

詩仙堂 さつき 『三十六柱の怨霊の肖像画を飾るお堂?』 

京都市左京区 詩仙堂
撮影 
 2012年6月10日
 

詩仙堂 皐月 

●石山丈山、武士をやめて文人になる。


石山丈山(1583年 - 1672)は徳川家の家臣で、1615年、33歳のとき大坂夏の陣に参加しました。
このとき丈山は「本陣をはなれてはいけない」という軍の指示を無視して大阪城へ向かい、城門から出てきた敵を倒しました。
この丈山の行為は軍の規則を破ったとして、軍功は認められませんでした。
それで嫌気がさしたのでしょうか、丈山は武士をやめて京都の妙心寺で禅の修行をするようになりました。
また儒学も熱心に学んだようです。
その後、武士として浅野家に仕えた時期もありましたが、54歳の時、相国寺畔の睡竹堂に住み、文人としての生活をスタートさせました。
「詩仙堂」に住むようになったのは、59歳のことで、90歳で亡くなるまで詩仙堂で生活しました。

●三十六歌仙

詩仙堂という名前は、中国の詩人三十六人の詩と像を描いたものを飾ったところからそう呼ばれるようになったとのことです。

日本の歌人で三十六歌仙というのがありますね。
藤原公任の『三十六人撰』に撰ばれた36人の歌人のことです。

36人の名前をあげておきますね。

柿本人麻呂・山部赤人 ・大伴家持 ・猿丸大夫・僧正遍昭 在原業平
大中臣頼基・坂上是則・源重之・藤原朝忠・藤原敦忠・藤原元真
小野小町 ・藤原兼輔・紀貫之・凡河内躬恒・紀友則 ・壬生忠岑
源信明・斎宮女御・藤原清正・藤原高光・小大君・中務
伊勢・藤原興風・藤原敏行・源公忠・源宗于・素性法師
藤原仲文・清原元輔・大中臣能宣・源順・壬生忠見・平兼盛

石山丈山は日本の歌人が歌仙であるのに対して、中国の詩人のことを詩仙とし、三十六歌仙になぞらえて三十六人の中国の詩人を選んだのでしょう。  

詩仙堂 皐月2 
 
●六歌仙

さて、三十六歌仙のほかに六歌仙と呼ばれている人物がいます。
僧正遍照・在原業平・小野小町・文屋康秀・喜撰法師・大友黒主の6人の歌人です。
このうち、僧正遍照・在原業平・小野小町の3人は三十六歌仙にも選ばれています。

●大友黒主と大伴家持は同一人物だった?

また、六歌仙の大友黒主とは大伴家持のことではないかと、私は考えています。
大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、大友黒主と大伴家持はほとんど同じ歌を詠んでいるからです。
また「古今和歌集仮名序」に「大友黒主は古の猿丸太夫の次なり」とあります。よく意味がわかりませんね。

古今和歌集の奥義を口伝や切紙によって師から弟子に伝えたもののことを古今伝授といいますが
百人一首を選んだ藤原定家は古今伝授を受けています。
定家は「大友黒主は古の猿丸太夫の次なり」の意味を知っていたはずです。
そう思って百人一首を調べてみたところ、猿丸大夫は5番、その次の6番は大伴家持でした。

藤原定家は古今和歌集仮名序に「大友黒主は古の猿丸太夫の次なり」とあるのを受けて、猿丸大夫の次に大伴家持をもって来たのだと思います。

詳しくはこちらの記事をお読みください。→ 祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 

●喜撰法師は紀氏一族をさす?

六歌仙の一、喜撰法師は紀名虎または紀有常のことではないかという説があります。
ですが、もっと広い意味で「紀氏一族」ととらえてもいいかもしれません。

●三十六歌仙は怨霊だった?

とすると、三十六歌仙に紀貫之・紀友則が選ばれていますから、三十六歌仙の中に六歌仙のうち五歌仙までが選ばれているということになります。

六歌仙や三十六歌仙は歌のうまい歌人のことだと一般には考えられています。
しかし小説家の高田祟史さんはそうではなく、「六歌仙とは怨霊である」と説いておられます。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人物のことで、天災は疫病は怨霊の祟りで引きおこされると考えられていました。

そして、六歌仙は全員藤原良房及び藤原氏の他氏排斥の犠牲者なのです。

詳しくはこちらの記事をお読みください。髄心院 八重桜 石楠花 『男神は井戸に姿を映して女神になった?」 

そして三十六歌仙の中には六歌仙のうち五歌仙までが選ばれていると考えらえます。
三十六歌仙もまた怨霊なのではないでしょうか。

とすれば、詩仙堂に飾られている中国の36人の詩人も怨霊であるかもしれませんね。

●和歌は呪術の道具だった?

高田祟史さんは、かつて和歌は文学ではなく、呪術の道具であったとおっしゃっています。

たとえば在原業平が藤原基経の40歳の祝いの席で、次のような歌を詠んでいます。

花 りかひくもれ いらくの むといふなる まがふがに
(桜の花よ、散ってあたりを曇らせておくれ。 老いが来るという道が見えなくなってしまうように。)


五七五七七の冒頭の漢字をつなぐと「桜散老来道(桜散り老い来る道)」となります。
業平と藤原基経は政治的に対立しており、業平は一見、基経の長寿を願うような歌を詠みながら、その裏に呪いをかけていたというのです。

丈山はたくさんの漢詩を読んでいますが、漢詩にも呪術的な側面があったのかもしれないですね。

六丈山は漢詩のほか、煎茶、作庭にも秀でた才能を持っていたようですが、煎茶や作庭に呪術的な意味を持つものであったのではないかと私は考えています。
それについてはまた改めて書きたいと思います。

 詩仙堂 皐月3  



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[2016/06/11 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

等持院 皐月 六請(ろくしょう)神社 『六請神社は六所御霊を祀る神社?』 

京都市北区 等持院 六請神社
撮影 2016年6月3日

等持院 芙蓉池と庭園 皐月 

 
等持院 皐月

●足利将軍家の菩提寺

等持院は室町幕府初代将軍の足利尊氏が1342年に創建したお寺です。
霊宝殿には歴代足利将軍の像(5代義量、14代義栄を除きます。)と徳川家康の像が安置されています。

尊氏さんはちょっと垂れ目で愛嬌のあるお顔立ちをしておられました。
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki11.html
↑ こちらのサイトに歴代足利将軍像の写真があります。
また、5代義量、14代義栄の像がない理由についての推論も記されていますが、これについては改めてじっくり考えてみようと思います。(こればっか~!)

等持院には足利尊氏の墓があるということなんですが、見落としてしまった~!(こういうこともしょっちゅう書いてるな・・・)



等持院 庭園 皐月 
等持院 皐月

●等持院の鎮守・六請神社

等持院の西隣には六請(ろくしょう)神社があります。
六所明神、衣笠岳御霊社などとも呼ばれているそうです。

六請神社は等持院の鎮守とされています。
さらに六請神社の西隣には真如寺があり、六請神社は真如寺の鎮守ともされています。

真如寺は無学祖元という僧侶の遺爪髪を祀るために創建されたお寺で、1342年に夢窓礎石が足利尊氏の執権・高師直・尊氏の弟の足利直義の援助をえて寺院として整備されたと伝わります。

南門が閉まっていたので、拝観できないお寺だと思いましたが、ウィキペディアを見ると境内の写真があります。
他の場所に入り口があるのかも?
今度行ったときに入り口を探してみます。

六請神社  
六請神社 (女性は葵祭に登場された方です。/合成)

さて、六請神社の創建は等持院や真如寺よりも古く飛鳥時代にまで遡るといわれています。
もともとは衣笠山に葬られた御霊を祀っていたとか、衣笠の地を開拓した者の霊を祀っていたなどともいわれています。
この地には大伴氏の支族・伴林氏が住んでいたそうなので、衣笠の地を開拓した者とは、伴林氏のことなんでしょうか。

●六請神社は六所神社?

さきほど六請神社は六所明神と呼ばれるという話をしましたが、六所は「むしょ」であり、墓所(むしょ)が訛ったものだともいわれています。
かつて衣笠山は風葬の地で、いたるところに死体が放置されていたというので、なるほど墓所から六所明神になったというのはありそうに思えます。

しかし、六所御霊を祀っていたところから、六所明神と呼ばれ、また六所神社から六請神社になったとも考えられるのではないでしょうか。

●六所御霊って何?

神泉苑 躑躅 
神泉苑 躑躅

863年、神泉苑で御霊会が行われています。御霊とは政治的陰謀によって不幸な死を遂げた人のことで、怨霊と同義と考えていいと思います。

このような御霊は祟って天災や疫病をひきおこすと考えられ、祟らないように慰霊する儀式が行われました。
これが御霊会です。

863年の御霊会では、次の六柱の御霊が慰霊されました。

①早良親王(藤原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となり、流刑となって淡路に向かう船上で憤死。無実を訴えてハンガーストライキを行った。)

②伊予親王(謀反を企てたとして母親の藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、服毒自殺。死後無実であることが判明/伊予親王の変)

③藤原吉子(伊予親王の母親。伊予親王とともに川原寺に幽閉され服毒自殺。/伊予親王の変)

④橘逸勢(謀反を企てたとして伴健岑とともに捕えられ拷問をうけた。流罪となって伊豆へ向かう途中死亡/承和の変)

⑤分室宮田麻呂(唐よりの物産を勝手に没収しようとしたとして伊豆に流罪となった。のち、無罪とされた。)

⑥藤原仲成(平城上皇を担ぎ上げて謀反をおこしたことにより斬殺された/薬子の変)

または藤原広嗣(九州で反乱をおこし斬殺された/藤原広嗣の乱)

●なぜ藤原薬子や伴健岑は六所御霊に入っていないのか

ここで不思議に思うことがあります。
「薬子の変」は藤原仲成・藤原薬子兄妹が平城上皇を担ぎ上げておこしたクーデターです。
これに失敗したことで薬子は服毒自殺しています。
藤原仲成は六所御霊に入っているのに、なぜ共謀してクーデターをおこした薬子は六所御霊に入っていないのでしょうか。

また「承和の変」は橘逸勢と伴建岑がともに計画したもので、どちらも流罪になっています。
それなのに橘速成のみが六所御霊の一柱とされ、伴建岑は六所御霊に入っていません。

●誰を御霊にするかではなく、御霊を六柱にすることに意味がある?

これは「6」という数字に意味があり、そのため御霊を6柱に絞ったためではないかと私は考えています。

梅原猛さんは8という数字は復活を意味する数字ではないかとおっしゃっています。
八角墳や八角堂は死者の復活を願って建てられたのではないかというのですね。
そういえば、八咫鏡は天照大神を復活させるのに用いた鏡です。

易の本によると、1は神・起源、2は対比・分裂、3は懐妊、4は実現・世界、5は智恵・想像力、6は星・健在意識と潜在意識の調和、7は神的受胎・休息・沈黙、8は無限、9は完成・達成、10は神・男性=1と女性=0の相互作用と書かれていました。
ここに「8は無限」とありますが、無限なのは復活を繰り返すことだとも考えられます。

すると6と言う数字は死を意味する数字だったのではないかと思えるのです。
生きとし生けるものが輪廻するとされる6つの世界のことを六道といいますし
墓場の入り口には六地蔵がおかれています。
六歌仙という言葉もありますが、高田祟史さんは「六歌仙は怨霊である」としておられ
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことなので、やはり死のイメージがあります。

ただね~、7も死を意味する数字のように思えるんですよね~。
初七日・二七日(ふたなのか)のように人が亡くなった際の法要は7日ごとに行いますので。

6と7の数字の意味には微妙な違いがあると思うので、これについてはあらためてじっくりと考えてみたいと思います。

六所御霊から八所御霊への転換?

下御霊神社 
下御霊神社(女性は葵祭に登場された方です。/合成)

上御霊神社や下御霊神社では八所御霊といって8柱の御霊を祀っていますが
上御霊神社・下御霊神社の創祀は863年に神泉苑で行われた御霊会だとされています。
つまり、六所御霊に2柱の御霊が追加されて八所御霊になったたわけです。(祭神については諸説あります)

八所御霊としたのは、八が復活を意味する数字なので、怨霊が神として復活するという意味がこめられているのではないかと思います。

上御霊神社 六斎念仏 

上御霊神社 六斎念仏


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[2016/06/10 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)