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葵祭 『天地を和合させる祭?』 

 葵祭 斎王代列 斎王代

葵祭・・・5月15日

5月15日に行われる葵祭の路頭の儀は、御所→下鴨神社→上賀茂神社までの約8kmの道のりを、平安装束に身を包んだ人々が行列を作って練り歩きます。

葵祭と呼ばれるのは1694年にそれまで途絶えていた祭が再興された際、行列に参加する人々や内裏寝殿の御簾、牛馬など祭にかかわるものすべてを葵で飾るようになったためです。

でも正確には葵ではなくて、葵桂といって葵と桂の葉を絡ませたものなのだそうです。
http://kyoto.wakasa.jp/detail/34/1713/
↑ ソースはこちら。

葵祭 本列 乗尻

http://kazahana.asablo.jp/blog/2010/05/17/5092390
↑ こちらのブログには葵桂について次のような内容が記されています。

①欽明天皇代、凶作が続き、「葵を飾り祭りを行って待てば地上に降りよう」との神託があった。
②葵は女性、桂は男性を表している。

そこで葵(葵祭で用いられる双葉葵)と桂について調べてみると、葉の形がとてもよく似ているんですよ。

https://minhana.net/wiki/%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%90%E3%82%A2%E3%82%AA%E3%82%A4(%E3%82%AB%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%82%AA%E3%82%A4)(双葉葵)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%84%E3%83%A9_(%E6%A4%8D%E7%89%A9)#/media/File:CercidiphyllumJaponicumLeaves.jpg(桂)

葵祭 斎王代列 命婦

双葉葵が地上を横に這うように茂る植物であるのに対し、桂は大木となり30mほどになるようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%84%E3%83%A9_(%E6%A4%8D%E7%89%A9)#/media/File:SDC11214_-_Cercidiphyllum_japonicum.JPG(桂)

陰陽道では天を陽、地を陰とします。
つまり天にそびえるように成長する桂は天の象徴、地を這うように茂る双葉葵は地の象徴というわけなんでしょう。
いつも思うんですが、昔の人の自然観察眼はすごいですね。
なんでもいいから桂と双葉葵を用いているのではなくて、ちゃんと意味があるのです。

葵祭 斎王代列 命婦3 

もちろん、桂と葵は天地を表しているだけでなく、男女をも表していると思います。
陰陽道では、天のほか男性も陽、地のほか女性も陰としていますので。

なので、桂と双葉葵を絡ませることには夫婦和合の意味があるのだと思います。

以前にも何度も書いているのですが、繰り返しておきますね。

神はその現れ方によって、御魂・和魂・荒魂に分けられるといわれます。
そして女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすとする説があります。
すると御魂は男女双体になると思います。

御魂・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神

葵祭 斎王代列 騎女2     

歓喜天の説話はこの関係をうまく表していると思います。
(歓喜天は仏教の神ですが、明治まで神仏は習合して信仰されていました。)

鬼王・ビナヤキャは十一面観音の化身であるビナヤキャ女神に一目ぼれして求婚しました。
ビナヤキャ女神はビナヤキャに「人々に祟るのをやめて仏法守護をするならば結婚しましょう。」といいました。
ビナヤキャは仏法守護を誓い、ビナヤキャ女神と結婚しました。


葵祭 斎王代列 騎女

歓喜天は像頭をした男女が抱きあう姿で表されます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%93%E5%96%9C%E5%A4%A9#/media/File:Icon_of_Shoten.jpg


御魂・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・歓喜天(ビナヤキャ+ビナヤキャ女神)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・ビナヤキャ

夫婦和合は、祟り神を仏法守護の神に変えるまじないであるともいえるのではないでしょうか。


葵祭は、女神(葵/和魂)と男神(桂/荒魂)を和合させることによって、祟り神を鎮魂する儀式なのではないかと思います。

葵祭 斎王代列 牛車 

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[2016/05/16 08:37] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

璉珹寺(紀寺跡) 茉莉花 『女人裸形の阿弥陀如来』 

奈良市西紀寺町 璉珹寺
撮影 2014年5月18日

ピーカンに晴れた日って撮影が難しい~。
強い影が出てガチガチに写ってしまいました。
見苦しい写真ですいません~。

璉珹寺 門 茉莉花 
●女人裸形の阿弥陀如来

璉珹寺は紀寺の跡とも言われ、女人裸形の阿弥陀如来立像を御本尊としています。
裸の阿弥陀如来さまで、布で作った袴を着せてあるのですね~。
50年に1度、独身の女性によって袴が取り換えられるそうです。
このように裸形のみほとけを作って布の着物を着せるというのか鎌倉時代に流行ったそうです。

●伝香寺の裸地蔵


下の写真は奈良市伝香寺の地蔵菩薩様で、嬉しいことに撮影OKです。
裸形の地蔵菩薩様に着物を着せてあり、7月23日の着せ替え法要で新しい着物に着せ替えているそうです。

伝香寺 裸地蔵  

伝香寺の裸形の地蔵菩薩は陰蔵相(おんぞうそう)といって、男性のシンボルが体内に密蔵されているのだとか、
円相が描かれていると記されたサイトがありました。
円相とは禅の書画で一筆で円を描いたもののことですね。

つまり、伝香寺の地蔵菩薩の股間には円が描かれており、それは男性のシンボルが体内に密造されていることを表しているということでしょう。

みほとけには性別はないとされるので、みほとけの股間は陰蔵相で表されるのでしょうか。

●奈良国立博物館所蔵の阿弥陀如来の蓮華形は陰蔵相?


すると、奈良国立博物館所蔵の阿弥陀如来立像 ↓ も陰蔵相だといえるのでしょうか?
http://www.narahaku.go.jp/collection/658-0.html
拡大してみると、股間に円形が描かれ、周囲に花びらのようなものがついています。
調べてみたところ、股間についているのは蓮華形とのことです。

●新薬師寺「おたま地蔵」は男の地蔵菩薩だった。

新薬師寺には「おたま地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩があります。
解体修理に出したところ、内部から裸形の体部が発見されました。
もともと裸形のみほとけであったのですが、あとから木製の衣を貼りつけたのですね~。
修理後は裸形の体部に頭部をつなぎ、2体の地蔵菩薩として安置されています。

随分前のことですが、この「おたま地蔵」を拝観したことがあります。
裸形のみほとけの方は、陰蔵相ではなく、股間に蓮のつぼみがついていました。
つまり、蓮のつぼみが男性のシンボルになっているわけです。

みほとけには性別はないといいますが、「おたま地蔵」は男性だといえるでしょう。

●璉珹寺の阿弥陀如来はなぜ女人とされているの?


すると、璉珹寺の女人裸形の阿弥陀如来様の下半身はどうなっているんでしょう?
「このばちあたりめがーー!」と怒られるかもしれませんが、どうしても気になる。(笑)

上半身には何も身に着けておられませんが、お胸はないです。
お胸がないなら、女性じゃなくて男性なんじゃないの、とおっしゃられるかもしれませんが
胸のない女性だっています。(ハーイ!)
やはりこのみほとけが女性であるとされているのは袴に隠されている下半身にあるのではないでしょうか?

そんなことを考えながら門を出ると、門にこんな張り紙が。↓

璉珹寺 張り紙


張り紙に描かれているようなうず巻きがお庭の砂にも描かれていました。(写真撮り忘れました・・・)

ちょっと今探してみても見つからないんですが(汗)、このような渦巻きが描かれた裸形の仏像をネットで見た記憶があるんですよね。

璉珹寺さんのお庭に渦巻きが描かれているのは、御本尊の阿弥陀如来様の股間に渦巻きが描かれているからではないでしょうか?

●鳴門の渦潮はイザナミの女性器だった?


話は変わりますが、イザナギとイザナミが国産みをしたおのころ島の所在について、諸説ありますが、淡路島の南海上4.6kmほどのところにある沼島だとする説が有力です。

でも私はもっと鳴門の渦潮の近くにある飛島あたりではないかな、と思ったりします。
というのは、イザナミの女性器とは鳴門の渦潮のことじゃないかと思っているからです。



(動画お借りしました。ありがとうございます。)

イザナミは国産みで、淡路島・四国・隠岐島 ・九州 ・.伊伎島・.佐度島・本州・..児島半島・ .小豆島・周防大島・姫島・.五島列島 ・.男女群島と、次々に島を産んでいきます。

昔の日本に東北地方や沖縄地方は含まれていませんでした。
国産みの記述を見ると、日本の最も東は佐渡島、最も西は男女群島であるようです。
すると、鳴門の渦潮のあるあたりがちょうど昔の日本の中心ぐらいになると思うんです。
鳴門の渦潮は国産みにぴったりな場所だと思うんですが、どうでしょう?

そして赤ちゃんは右に回転しながらお母さんのお腹の中からでてくるのです。(左回転のケースもまれにあるとか。)
鳴門の渦潮もまれに左巻もあるそうですが、ほとんど右巻なのだそうです。

そういうわけで渦巻きが女性を表すものではないかと思うわけです。

男性は蓮のつぼみで、女性はうず巻きだなんて、なかなか洒落ていると思いませんか?

璉珹寺 石仏 茉莉花 

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[2016/05/15 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

三室戸寺 躑躅 石楠花 『地獄に堕ちたビーナス』 

京都府宇治市  三室戸寺
撮影 2013年5月12日

三室戸寺 本堂 躑躅 

●星の神を祀る寺


三室戸寺は山号を明星山といいます。
明星とは金星のことですね。
金星は太陽・月の次に明るく見える天体なので、明星というのだそうです。
金星は地球よりも太陽に近い内惑星であり、金星が天空にあるのは昼間です。
昼間は太陽の光が明るすぎて星を観測することができません。
太陽の光量が落ちる明け方と夕方にのみ金星を観測することができます。

●まつろわぬ民の神・天津甕星

以前にもお話ししましたが、日本の神話には星の神はたった一柱しか登場しません。
夜空には数えきれないほどの星々がきらめいているのに、たった一柱の神しか登場しないなんて不自然ですね?
日本にはかつて星の神を信仰する民がいたが、星の神は抹殺されたとする説もあります。

たった一柱のみ神話に登場する星の神は天津甕星(アマツミカボシ)、またの名を香香背男(カカセオ)といいます。
日本書紀によれば『天津甕星は葦原中国平定において、最後まで抵抗した荒々しく凄まじい神である』と記されています。
どうも日本では星の神は「まつろわぬ民」の神という扱いになっているようですね。
すると、明星山という山号を持つ三室戸寺って「まつろわぬ民」を祀る寺なんでしょうか?

三室戸寺 躑躅

●三室戸寺創建説話

三室戸寺は770年、光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建した寺で、次のような創建説話が伝えられています。

天智天皇の孫である白壁王(後の光仁天皇)は、右少弁・藤原犬養に毎夜輝いて見える金色の光の正体を確かめるように命じた。
犬養は光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着いた。
その滝壺の中に身の丈二丈ばかりの千手観音像があった。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じた。
その観音像を安置するために寺が創建され、当初は御室戸寺といった。
その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めた。


おそらく、滝壷の中の観音が光の正体で、それは空から堕ちた明星(北極星=金星)だったという話なのでしょう。

三室戸寺 本堂 石楠花


●地獄に落とされたビーナス


もちろんこれはたとえ話で、実際に明星(金星)が落ちたというわけではありません。

三室戸寺が創建された770年は光仁天皇が即位した年です。
三室戸寺の由緒では光仁天皇は即位する前の白壁王という名で登場しています。
ということは白壁王は金色の光の正体を突き止めたのちに即位したのでしょう。

白壁王は天智天皇の孫ですが、皇位継承には遠い場所にいました。
壬申の乱(672年)で大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の子)が皇位継承をめぐって争った結果、大海人皇子が勝利して天武天皇となりました。
それ以降、天武→持統→文武→元明→元正→聖武→孝謙→淳仁→称徳(孝謙と同一人物)と天武系の天皇が立っています。
そこへいきなり天智系の光仁天皇(白壁王)が即位したというのですから、光仁天皇はとんでもないウルトラⅭを決めたということになります。
770年に白壁王が見た金色の光は、白壁王にとって瑞兆だったといえるでしょう。

光仁天皇(白壁王)が即位した770年、地獄へと堕とされた女性がいます。
称徳天皇(孝謙天皇・阿倍内親王)です。
この称徳天皇こそ、ビーナス=明星というにふさわしいのではないかと私は思います。

称徳天皇は718年に聖武天皇と光明皇后(藤原氏出身で初めて人臣から皇后となった女性)の間に産まれた皇女でした。
同母弟に基王があり、基王は生後まもなく立太子しましたが、1歳になる前に夭逝してしまいました。
聖武天皇の皇子には安積親王もいましたが、安積親王の母親は県犬養広刀自で藤原氏ではありませんでした。
そのため、光明皇后を母親に持つ阿倍内親王(のちの孝謙天皇・称徳天皇)が立太子したと考えられています。
史上初の女性皇太子でした。

749年、聖武天皇の譲位を受けて阿倍内親王が即位して孝謙天皇(女帝)となりました。
その後758年に淳仁天皇に譲位します。

その後、孝謙上皇は道鏡を重用するようになります。
藤原仲麻呂が淳仁天皇を介して「道鏡との関係を絶つように」と進言させたところ、孝謙上皇の怒りが爆発。
孝謙上皇は出家して尼となり、道鏡と男女の関係ではないことをアピール。
また、『今の天皇は小事を行え。大事と賞罰は自分が行う!』と宣言し、天皇から政権を取り上げました。 

764年、藤原仲麻呂は反乱を計画するが、密告により発覚して処刑されました。(藤原仲麻呂の乱)

孝謙上皇は女性ですがなかなかの切れ者ですね。ほれぼれしてしまいます。

766年、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となりました。

769年、宇佐八幡宮で『道鏡を天皇にせよ』と託宣があり、称徳天皇は事の真偽を確かめるために、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ派遣しました。
清麻呂は『天の日継は必ず帝の氏を継が締めむ』と奏上し、称徳に怒りを買って大隅国へ配流されました(宇佐八幡宮神託事件)。

宇佐八幡神託事件の翌年の770年、称徳天皇は天然痘を患って病床につき、数日後に亡くなりました。

三室戸寺 石灯篭 石楠花2


このとき、称徳天皇は病床から統帥権を道鏡の弟の弓削清人から左大臣藤原永手と吉備真備に移す詔を出しています。
そして宮中を吉備真備の軍勢がを取り囲み、出入りが禁じられていました。
看病のため出入りが許されていたのは真備の娘の由利だけで、病気回復を願う祈祷も行われていません。

通常は行われるはずの病気回復を願う祈祷が行われていないので、称徳天皇は暗殺されたのではないかという説もあります。
また、統帥権を道鏡の弟の弓削清人から左大臣藤原永手と吉備真備に移す詔も偽造されたものではないかとする説もあります。

孝謙天皇崩御後、藤原永手や藤原百川の推挙を受けて白壁王が即位して光仁天皇となりました。
称徳天皇の死によって道鏡は失脚し、下野国へ左遷となり、772年死亡し庶民として葬られました。

白壁王が目にした金色に輝く光、それは称徳天皇が地獄へ墜ちていくときに放った光ではないかと思うのです。

いやらしい話ですが、称徳天皇の崩御がなかったら白壁王が皇位につくことはなかったのです。
そこで称徳天皇の霊を観音として祀ったのが三室戸寺ではないかと思うわけです。

三室戸寺 石灯篭 石楠花


●称徳天皇は蝦夷だった?

星は「まつろわぬ民の神だと書きましたが、古史古伝の『東日流外三郡誌』では称徳天皇は蝦夷の女王であったと記しています。古史古伝はその信憑性に疑いがもたれていますが、私は称徳天皇は蝦夷系の人物であったと思います。
というのは、称徳天皇の父親は阿部仲麻呂だと考えているからです。
(詳しくはこちらの記事をお読みください → 海龍王寺 雪柳 『光明皇后と阿倍仲麻呂のスキャンダル?』 

阿部氏も奥州安倍氏(蝦夷)もは孝元天皇の皇子・大彦命の後裔とする説があります。

三室戸寺 三重塔 石楠花 

塔百景85




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[2016/05/13 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

二荒山神社 弥生祭 『アヂスキタカヒコネとヒトコトヌシは同一神だった?』 ※追記 訂正あり 

弥生祭 並ぶ花家体 
栃木県日光市 二荒山神社
弥生祭 4月13日~17日


日光では屋台のことを家体と呼ぶのだそうです。
弥生祭では11台の家体が町を練り歩き宮入りします。

弥生祭 少女たち

あいにくの雨でしたが、傘をさす可愛らしい少女たちに胸キュン~♡

二荒山神社の御祭神・二荒山大神とは大巳貴命(オオナムヂ)・田心姫命(タギリヒメ)・味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)の総称です。
オオナムヂが父、タギリヒメが母、アヂスキタカヒコネが子です。

今日はこの三神のうち、アヂスキタカヒコネについてお話ししたいと思います。

弥生祭 花家体 観光客もひきます。

観光客も家体をひきます。外国からこられた方も大勢家体をひいておられました。
家体をひくと缶ビールをくださいました。(ありがとうございます!)

天照大神は葦原中国は自分の子孫が治めるべきだとし、葦原中国平定のためにアメノホヒを派遣しましたが3年たっても戻ってきませんでした。
そこでアメノワカヒコを葦原中国に派遣しました。
アメノワカヒコは葦原中国を治めていた大国主の娘シタテルヒメと結婚し、葦原中国を自分のものにしようと考えて8年たっても戻りませんでした。
タカミムスビは、「アメノワカヒコに邪心があるならば、矢よ、アメノワカヒコに当たれ」と言って矢を下界に投げたところ、矢はアメノワカヒコに刺さり、アメノワカヒコは死んでしまいました。
アヂスキタカヒコネがアメノワカヒコの葬儀に訪れると、アメノワカヒコの父・アマツクニタマが「アメノワカヒコは生きていた」と言って抱きつきました。
アヂスキタカヒコネの容姿があまりにもアメノワカヒコにそっくりだったので、アヂスキタカヒコネをアメノワカヒコだと勘違いしたのです。
アヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と間違えるな」と言い、喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしました。
喪屋は美濃(岐阜県南部)の藍見の喪山に飛ばされました。


アメノワカヒコの妻・シタテルヒメはアヂスキタカヒコネの同母妹です。

アヂスキタカヒコネは別名を 迦毛大御神(かものおおみかみ)といい、奈良県御所市の高鴨神社などでも祀られています。
高鴨神社は鴨社の総本社なので、アヂスキタカヒコネは鴨氏の神ということになりますね。

 弥生祭 少女たち2

797年に記された「続日本記」では、「高鴨神は天皇と獲物を争い、土佐国に流された」と記されています。
この高鴨神はヒトコトヌシのことであるとか、アヂスキタカヒコネのことであるとか言われています。

ヒトコトヌシとは一言主神社の御祭神です。
過去の記事、 一言主神社 一陽来復祭 『一言主大神は木霊(山彦)だった?』  の中でヒトコトヌシの伝説をご紹介しました。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 

弥生祭 花家体 門前にて 
ヒトコトヌシは雄略と全く同じいでたちをし、同じ言葉を返しています。
ここから私はヒトコトヌシとは木霊(山彦)であると考えました。

葛城山の南に金剛山がありますが、かつて葛城山と金剛山はどちらも葛城山と呼ばれていたそうです。
そして葛城山の山麓近くには一言主神社が、金剛山の山頂近くには葛木神社があってどちらも一言主大神を祀っています。

高校のときにワンダーフォーゲル部に所属していた友人に聞いたのですが、葛城山から金剛山へ至るダイヤモンドトレールと呼ばれる道では、よく山彦が聴こえるそうです。

弥生祭 少女たち3


昔の人は木霊を、声を発する人と同じ姿形をした神だと考えたのではないでしょうか。
とすれば、ヒトコトヌシと雄略は双子のようにそっくりだったということになります。
まるでアメノワカヒコとアヂスキタカヒコネのようですね。

弥生祭 花家体 境内にて


ヒトコトヌシは雄略を長谷まで送っていったとありますが、長谷は泊瀬ともいい、『隠国(こもりく)の』は泊瀬の枕詞でした。
『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで、『泊瀬』または『初瀬』『長谷』は死の国という意味の地名なのではないかと私は考えました。
(参照/長谷寺 紫陽花 『泊瀬は死の国?』 

ヒトコトヌシは雄略を死の国へ送っていったのではないでしょうか。

ヒトコトヌシは「私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。」と言っています。
昔は先に問われた人が名乗るというしきたりがあったんでしょうか。
その結果、木霊であったはずのヒトコトヌシが現実の人となって先に名乗ったのだと思います。
そして雄略が「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったとおり、名を名乗ったヒトコトヌシは矢を放ち
その矢は雄略にささって死に、雄略が木霊になってしまったということだと思います。

雄略はうっかり木霊に「名を名乗れ」と言ってしまったため、ヒトコトヌシと立場が入れ替わってしまい
ヒトコトヌシが人間に、雄略が木霊になってしまったのではないでしょうか。

こうして見てみると、ふたつの神話は似ていますね。
双子のように瓜二つの神がいて、一方は死に、一方は元気に生きています。

もしかして、アヂスキタカヒコネとヒトコトヌシ、アメノワカヒコと雄略天皇は同一神なのではないでしょうか?


 弥生祭 少女

↑ 家体に乗って笛を吹いていたお嬢さん。
関西では屋台に女性が乗っているのは見たことがないです。


追記/亀岡祭では女性が山鉾に乗って笛を吹いていましたね。忘れてました。すいません!



 
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[2016/05/11 00:00] 栃木県 | トラックバック(-) | コメント(-)

普門寺 藤 躑躅 「藤と『ジャックと豆の木』」 

京都府福知山市大江町 普門寺
撮影 2015年5月5日


普門寺 白藤

●藤は豆科の植物

藤の花って日本の固有種で、豆科の植物なんですよね。
さやの中に数個の実が入っているんだとか。
花にばかり気をとられて藤の実を見たことがなかったです。
藤の実が実るのって9月ぐらいですか?
そのときにじっくりと観察してみたいと思います。

●『ジャックと豆の木』豆の木は坑道の比喩だった?

豆といえば『ジャックと豆の木』というイギリスの童話がありますね。

ジャックは母親に命じられて牝牛を売りに行きましたが、途中であった男の豆と牛を交換してしまいました。
ジャックの母親は怒って豆を庭に捨ててしまいましたが、翌日豆は天に届く巨木になっていました。
ジャックは豆の木を登り、雲の上にある巨人の城にやってきました。
ジャックは巨人の金の卵を産む鶏、金と銀の入った袋、ハープを盗んで地上に降りました。
巨人がおいかけて豆の木を降りてきたのでジャックが豆の木を斧で切ると、巨人は地上に落ちて死んでしまいました。
裕福になったジャックは母親と幸せに暮らしましたとさ。


いや~、なんともひどい話ですね。
人のものを盗み、おまけに被害者である巨人を殺して自分は幸せになったというんですから。

普門寺 藤


それはさておき、ジャックが金の卵を産む鶏、金と銀の入った袋、ハーブを盗んでいるところに注意してください。

豆の木とは鉱山の坑道の比喩なのではないでしょうか。
坑道は日本では百足穴などと呼ばれていました。
百足のたくさんの足は、いくつもに分岐して伸びる坑道に喩えられたのです。
豆の木がたわわに実を実らせる様子も坑道ににています。

豆の木とは実は坑道のことであったからこそ、ジャックは金の卵を産む鶏や、金と銀の入った袋を盗むことができたのだと思います。
ハープも何かの比喩だと思いますが、わかりません。今後の宿題とさせていただきます。

●一富士・二鷹・三茄子の謎

以前の記事、玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』 で私は次のようなことを書きました。

①初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。
②私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。
③栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。
銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。
④鷹は鷹の爪ではないか。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
⑤富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。
富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。

●日本版「ジャックと豆の木」

茄子については、日本版「ジャックと豆の木」ともいうべき伝説が、琵琶湖に伝わっています。
(参照/比叡山より琵琶湖花火大会を望む 『茄子は銅の隠語?』 

源五郎が植えたナスビの苗は翌日には天まで届き、茄子(ナスビ)が鈴なりになっていました。
源五郎はつるを登って雲の上にいき、雷神の仕事を手伝って雲の上から水をまいて雨を降らせました。
ところがうっかり水が入った瓶をひっくりかえし、水は全部下界に落ちて琵琶湖になりました。
源五郎は湖で溺れている人を見て笑っていましたが、雲から落ちて湖にはまってしまいました。
源五郎は湖でもがいているうちに鮒になってしまいました。
これが琵琶湖の固有種の源五郎鮒です。


ゲンゴロウという昆虫もいますが、源五郎鮒もゲンゴロウも菱形をしています。
九州大学工学部(旧)採鉱学科 (現 地球資源システム工学部門)と(旧)冶金学科(現 材料工学部門)図書室 が所蔵していた(現在は総合研究博物館蔵) 「山相図・自然銅数種の図」には
キャラメルのような形をした銅が描かれていて、銅の上面や側面が菱型に見えます。
菱形は銅を表しているのではないかと思います。

探せば天に届く藤の民話なんかもあるかも?

普門寺 躑躅

躑躅の花もとてもきれいでしたが、ピーカンの晴れでガチガチに写ってしまった~。



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[2016/05/09 00:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

浅草寺 スカイツリー 鯉のぼり 『皆既日食と推古天皇崩御』 

東京都台東区 浅草寺
撮影 2016年5月



浅草寺 雷門
浅草寺 雷門

風神・雷神がいる門なんて初めて見たあーー。

628年、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網に聖観音像がかかりました。
この兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)は聖観音像を安置するため屋敷を寺に改めました。
これが浅草寺の始まりなのだとか。

この聖観音像は552年に 物部尾輿が難波の堀江に流した日本最古の仏像であるという説があります。
崇仏派の蘇我稲目が建てた向原寺で祀られていた仏像を、排仏派の物部尾輿が「疫病の流行は仏を祀ったのが原因である」として、仏像を難波の堀江より流してしまったのですね~。

ちょ、ちょ、ちょっとまった!

物部尾輿が難波の堀江に流した仏像は、のちに(602年?)本田善光が信濃に持ち帰り、善光寺の御本尊とされたんじゃなかったっけ。
(参照/善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 

ですが、難波の堀江の候補地は2か所あります。
ひとつは和光寺(大阪市西区北堀江3-7-27)の阿弥陀池、もうひとつは向原寺(豊浦寺/奈良県高市郡明日香村大字豊浦630)の近くにある難波池です。

和光寺 
和光寺の阿弥陀池



向源寺 難波池  
向原寺近くにある難波池

難波の堀江は2か所あり、物部尾輿は2つの仏像を2か所ある難波の堀江から流したのかもしれません。
とすると、浅草寺・善光寺ともに難波の堀江に流された仏像を祀っていてもおかしくはありませんね。

でも、浅草寺の御本尊は難波の堀江に流された仏像とは違うんじゃないかなあ~、という気がします。
物部尾輿が仏像を難波の堀江に流したのは552年です。
浅草に漂着したのが76年後の628年というのは、ちょっと時間がかかりすぎているような気がします。

浅草寺 五重塔 と スカイツリー 
浅草寺五重塔とスカイツリー(塔百景10)

浅草寺が創建された628年、4月10日(旧暦)に皆既日食がおこっています。
現在では誰もが皆既日食は月が太陽を覆い隠すために起きる現象だと知っていますから、イベントのように楽しんでいます。
しかし古の人は何か不吉な出来事の前触れだと考えたのではないでしょうか。

その5日後の628年4月15日(旧暦)に推古天皇が崩御されました。
皆既日食は推古天皇の崩御を暗示していたのだと人々は考えたことでしょう。

推古天皇は欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の間に生まれた皇女で、敏達天皇の皇后でした。
敏達天皇崩御後、同母弟の用明天皇が即位するも2年後に崩御。
その後崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋の戦いがあり、蘇我馬子が勝利。崇峻天皇が即位します。
ところが5年後に崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺され、推古天皇が即位しました。
推古天皇はわが子・竹田皇子を皇位につけるため、中継ぎの天皇として即位したと考えられていますが、竹田皇子は若くして亡くなってしまいました。

推古天皇崩御後、敏達天皇と広姫(息長真手王の娘)の間に生まれた舒明天皇が即位し、推古天皇の血をひく人物が皇位を継承することはありませんでした。

推古天皇は蘇我氏の血の濃い人物でしたが、推古天皇崩御後、蘇我氏の血を引く人物は全員政治の表舞台から姿を消していきました。
推古天皇が摂政としていた甥・聖徳太子(蘇我稲目の曾孫)の子孫は643年に蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害してしまいました。
その蘇我入鹿も645年に中大兄皇子に斬殺され、入鹿の父・蘇我蝦夷も自殺しました。

628年の皆既日食は蘇我氏滅亡の予兆だったのだと、人々は考えたのではないでしょうか。

浅草寺 鯉のぼり

浅草寺よりスカイツリーを望む 塔百景11


628年に檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像とは推古天皇の霊を封じ込めた仏像という意味ではないでしょうか。

檜前浜成・竹成兄弟とありますが、推古天皇の宮があった奈良の飛鳥に檜前という地名があり、かつて檜隈寺という寺がありました。
檜隈寺は渡来人の東漢氏の氏寺でした。
檜前浜成・竹成兄弟とは東漢氏の人物だったのかも?

また檜前浜成・竹成兄弟の主人の名前は土師中知でしたが
土師氏は古墳造営・葬送儀礼を専門にする氏族でした。



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[2016/05/07 15:00] 東京都 | トラックバック(-) | コメント(-)

備中国分寺 蓮華草 鯉のぼり 『梅雨時にあげていた昔の鯉のぼり』 

岡山県総社市 備中国分寺
撮影 2016年4月30日


ヤボ用で忙しくて(撮影ではない)なかなかブログを更新することができませんでした~。
今後もしばらくヤボ用が続く予定なので、頻繁にブログの更新をすることができないかもしれませんが、よろしくお願いします~。

備中国分寺 蓮華草2

ヤボ用で忙しいんですが、備中国分寺に行ってきました。(忙しいとかいいながら、ちゃっかり遊んでるやん~)

備中国分寺 鯉のぼり 
塔百景8


青空の下で泳ぐ鯉のぼりが気持ちよさそう~。

でも、梅雨の長雨にびっしょりと濡れているのが本来の鯉のぼりだったはずです。
旧暦の5月5日は新暦よりも約1か月遅れになりますから、梅雨入りしていたことが多かったでしょう。
「五月晴れ」という言葉は、現在では「5月のカラリと晴れた日」のことをいいますが
旧暦では「梅雨の合間の晴れ」のことを表す言葉でした。

梅雨の長雨に打たれて垂れ下がる鯉のぼりなんてあまり絵にならないような気がしますが
古の人々は、ぐっしょり濡れた鯉のぼりの姿に「鯉の滝登り」をイメージしたことでしょう。

中国の黄河の上流に竜門の滝と呼ばれる急流があり、これを登り切った鯉は竜になるという伝説があり、これを「鯉の滝登り」と言います。

備中国分寺 蓮華草 塔百景9

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[2016/05/06 19:29] 岡山県 | トラックバック(-) | コメント(-)