奈良県宇陀市 室生寺
撮影・・・2009年4月26日
塔百景7
●室生寺は井上内親王を慰霊するためのお寺だった
結論から申し上げますと、室生寺は井上内親王を慰霊するためのお寺です!
いつも「~かも?」と曖昧な推論ばっかり書いておりますが、これは断言できます。(かな~?)
その理由をご説明します。
●龍になって藤原百川・山部王に祟った井上内親王
770年、藤原百川・藤原永手らに推されて白壁王が即位して光仁天皇となりました。
皇后には井上内親王がに立てられました。
771年、光仁天皇の皇太子として、光仁天皇と井上内親王との間にできた他戸親王が立てられました。
ところがその翌年の772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪されたのです。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わって山部王(のちの桓武天皇)が立太子しました。
『水鏡』には、『井上内親王は呪物を井戸に入れて、光仁天皇の早死を願い、他戸皇子を即位させようとした。』と記されています。
井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、(奈良県五條市須恵あたり)に幽閉され、775年に二人は幽閉先で亡くなりました。
●井上内親王の事件は藤原百川の策謀だった公卿補任(くぎょうぶにん)によれば、この一連の事件は『藤原百川の策諜』とあります。
藤原百川が策謀をたて、高野新笠が生んだ山部王を皇太子にする為に、井上内親王と他戸親王に無実の罪を被せた、というのです。
●龍になって藤原百川を蹴り殺した井上内親王その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあります。
『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されています。
また水鏡には
『(井上内親王の祟りによって)20日にわたって夜ごと瓦や石、土くれが降った。』
『
777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』とあります。
●龍神になった井上内親王
室生寺の栞には次のようなことが記されていました。
奈良時代の末期、山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の五人の僧によって行なわれ、これに卓効があったことから勅命によって創建された。 ここに山部親王とありますが、親王とは親王宣下(皇族の子女に親王、内親王の資格を与えること)された人物のことです。
山部王(山部親王)の母親は百済王族の末裔とされる高野新笠で、母親の身分が低かったのです。
そのため、立太子は望まれておらず、山部親王ではなく、山部王と呼ばれていたようです。
室生寺の栞には山部王のご病気平癒の祈願が行なわれたのはいつかについては記されていませんでした。
でもそれは、777年12月と778年3月に行われたものと考えられます。
というのは『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)に次のような内容が記されているからです。
『
777年12月と778年3月の2回に渡り、山部王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、興福寺の五人の僧が室生の地において延寿の法を修した』
藤原百川や山部王が悪夢に悩まされたのが777年冬だったことを思い出してください。
山部王の病は井上内親王の怨霊の祟りであると考えられ、そのため室生寺で僧たちが延寿の法を修したのはないでしょうか。
●竜神を封じ込めた宝瓶室生寺の五重塔の九輪の上には、水煙のかわりに宝瓶(ほうびょう/壷状の飾り)がつけられています。
修円という僧が、この宝瓶に室生の龍神を封じ込めたと言い伝えられています。
すると修円が室生寺の五重塔の宝瓶に封じ込めた室生の龍神とは、井上内親王の霊なのではないでしょうか。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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