京都市上京区 水火天満宮
撮影 2016年4月5日地下鉄鞍馬口付近って桜の名所がてんこもり~♪
それなのに人が少なくてゆったり撮影できました。(平日だったせいもあるけど)
前回、ご紹介した妙顕寺の近くに、水火天満宮があります。
水火天満宮って「すいかてんまんぐう」と読むんですね。
西瓜と関係ある?ない?
狭い境内いっぱいにしだれ桜が枝を伸ばし、まるでピンク色の傘をさしているかのよう。
923年、醍醐天皇は都の水害・火災を鎮めるため、菅原道真の師・延暦寺の尊意に菅原道真を祀る神社創建せよと命じました。
923年6月25日、尊意は醍醐天皇より『水火の社天満自在天神宮』という神号を賜り、菅原道真の心霊を勧請したとのことです。
●若武者を殺したくらいで出家してたら、武士なんてやってられない。さて、この水火天満宮さんの神宝物に野太刀がありまして、あの熊谷直実が霊夢を見て寄附したものだそうです。
熊谷直実については、以前の記事にも書いています。
光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』 金戒光明寺 紅梅 直実鎧掛けの松 『敦盛殺害を悔い仏門に入った直実』 そう、美少年・平敦盛殺害を悔いて出家された方ですね。
水火天満宮の神宝物・野太刀とは敦盛の首を斬った刀なのかもしれませんね。
一般には、敦盛が我が子・小次郎(熊谷直家)と同じくらいの若武者だったため、熊谷直実は自責の念にとらわれ出家したとされています。
でも若武者を殺したくらいで自責の念にとらわれていたら、武士なんてやってられないと思うんですよ。
直実の出家にはもう少し深い事情があったのではないでしょうか。
●小次郎は双子の片割れの通称名?熊谷直実の長男・直家は小次郎という通称名でした。
父の直実が次男で通称名が次郎であったので、その息子ということで小次郎なのでしょうか。
平将門の通称も小次郎でしたが、平将門は三男です。
私は平将門と空也は同一人物だと考えています。
いや、空也とは平将門の首のことだと言ったほうがいいかもしれません。
平将門と空也は同じ903年の生まれです。
そして
平将門を討伐した平貞盛が殺生を悔い空也堂をたてています。
空也堂は平将門を慰霊するための寺で、御本尊は平将門をイメージしたものだと考えられます。
しかし、空也堂の御本尊は空也像なのです。
空也堂 空也忌そして空也堂で行われている空也忌は空也の命日ではなく、空也が東国へ旅立った日に行われています。
将門の首は京の鴨川のほとりで晒されていましたが、あるとき飛び上がって東国に向かったという伝説があります。
空也が東国に旅立った日とは、将門の首が東国へ旅立った日なのではないでしょうか?
西光寺 空也塔西光寺にある空也塔は首桶の形をしていますし。
http://gensun.org/?img=23%2Epro%2Etok2%2Ecom%2F%7Efreehand2%2Frekishi%2Fimg2%2Fkubioke%2D01%2Ejpg↑ こちらは阿弖流為の首桶
そして空也は醍醐天皇の第二皇子と伝わっていますが、醍醐天皇の第二皇子は保明親王です。
保明親王は空也と同じ903年の生まれですが、923年に早世しています。
空也の生没年は903-972年です。
(空也=平将門だと思うので、実際の没年は将門と同じ940年ではないかと思いますが。)
保明親王と空也が双子だったとしたら、どちらも醍醐天皇の第二皇子といっても間違いではないでしょう。
さらに、空也と平将門は同一人物だと考えられるので、保明親王と平将門は双子ではないか、平将門の通称・小次郎とは双子の片割れを意味しているのではないかと思うのです。
すると熊谷直実の子・直家が小次郎という通称名なのは、やはり彼が双子の片割れなのではないか。
同年の生まれの敦盛は直家の双子の兄弟なのではないか。
直実は敦盛を見て、息子・直家(小次郎)と同じくらいの年頃なので、直家(小次郎)の双子の兄弟かもしれないと思い、首をとるのを躊躇したのではないか、と思えるのです。
詳しくはこちらの記事をお読みください。→
光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』
●鳥羽院ゆかりの笛・小枝を敦盛が譲り受けていたことの意味もしも、この推理が正しいとすると、熊谷直実・熊谷直家・平敦盛はいったいどういう関係なのでしょうか。
光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』 で、3つの可能性をあげておきました。
①藤の方(敦盛の母親)は直実の子を宿したまま平経盛の妻となり、双子の敦盛と直家(小次郎)を産み、敦盛は平経盛の子、直家(小次郎)は直実の子とした。
②敦盛と熊谷直美の子・直家(小次郎)は双子で父親は後白河法皇だった。
敦盛は平経盛の子として、直家は熊谷直美の子として育てられた。
(かつて双子は忌むべき存在とされており、双子の存在を隠すため)
③敦盛と直家(小次郎)はどちらも平経盛の子であったが、直家(小次郎)を熊谷直実の養子とした。
私は②ではないかと思います。
というのは敦盛は祖父の平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』という笛を譲りうけており、大変笛を吹くのがうまかったというのです。
笛の名前が『小枝』というのが意味深ですね。『一枝を伐らば、一指を剪るべし』を思わせます。
『一枝を伐らば、一指を剪るべし』は、直実と敦盛の話を脚色した
歌舞伎の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』で直実の陣屋前の桜にかけてあった制札の文言です。
「天皇家の血を引く者を殺したならば、自分の子孫を殺さなければならない」みたいな意味でしょうか。
『一枝』は敦盛、『一指』は直家(小次郎)の比喩でしょう。
そしてその笛が鳥羽院から賜ったものであるというのは、敦盛が皇統であることを示しているのではないでしょうか。
敦盛の父親は鳥羽院なのかな、とも考えましたが第74代・鳥羽院は1156年に崩御されており、敦盛が生まれたのは1169年ですからありえません。
第75代の崇徳天皇も崩御年が1164年、第76代の近衛天皇も崩御年は1155年で敦盛が生まれる前に崩御されています。
第77代の後白河天皇の生没年は1127年ー1192年です。
敦盛が誕生したとき、42歳ですから、後白河が敦盛の父親というのはありえます。
平貞盛が殺生を悔いて空也堂をたてたという話をしましたが、平貞盛も熊谷直実も、天皇の子を殺害した罪悪感から出家の道を選んだのかもしれませんね。
また水火天満宮が創建された
923年に醍醐天皇の皇太子だった保明親王が早世されていることにも注意してください。
醍醐天皇は保明親王の死を道真の怨霊の仕業だと考え、それで水火天満宮を創建したのでしょう。