京都市 光明寺
撮影 2016年4月1日
●若武者の首をとるのは武士として当たり前。それなのになぜ直実は出家するほど悔いたのか。光明寺は法然の弟子の蓮生が1198年に念仏三昧堂を建てたことに始まります。
光明寺のhpにある境内図を見てみましたが、現在は念仏三昧堂はないようですね。
蓮生とは源氏方の武将の熊谷直実のことです。
熊谷直実のことは以前の記事・
金戒光明寺 紅梅 直実鎧掛けの松 『敦盛殺害を悔い仏門に入った直実』 にも書きました。
熊谷直実は1184年の一の谷の戦いで平家の若武者の首をとろうとしましたが、顔を見ると自分の息子と同じくらいの年齢でした。
直実は若武者を逃がそうとしましたが、周囲には他の源氏の兵が大勢います。
他の者に殺されるくらいならばと直実は泣く泣く若武者の首を斬りました。
首実験したところこの若武者は平敦盛17歳とわかり、直実は出家して敦盛の供養をしました。
(平家物語 敦盛最後)1193年ごろ、直実は法然の弟子となって出家しています。
それは自分が敦盛を殺したことを悔やんでも悔やみきれなかったためでしょう。
法然にすすめられて敦盛の七回忌の供養も行っています。
けれど私は疑問に思うのです。
戦で相手方の武者の首をとるのは当たり前のことですし、若い武者は敦盛だけでなく他にもいたことでしょう。
自分の息子と同じくらいの年齢の武者の首をとったからといって自責の念にかられているようでは武士なんてやってられないと思うんですね~。
直実が出家するほど敦盛の首をとったことを悔いたのは、単に敦盛が自分の子供と同じくらいの年齢だからというだけではないのではないでしょうか。
堀五郎さんの「
BL新日本史 」の表紙に描かれたイラストは熊谷直実が敦盛の首をとろうとして顔を覗き込み、敦盛の美しさに胸キュンになっているシーンですね。
堀五郎さんは熊谷直実と敦盛の関係に精神的なBL
を感じられたようです。
私はBL好きの変態ですが(笑)、熊谷直実は敦盛が美少年で一目ぼれしてしまったため、敦盛を殺害したことを悔いたのではないような気がします。
●一谷嫩軍記歌舞伎の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』ではこの話は脚色されて次のような筋になっています。
直実の陣屋前の桜の木に「一枝を伐らば、一指を剪るべし」の制札がかけてあります。
そこへ一谷合戦で敦盛を討った熊谷直美が戻ってきます。
直実の陣屋では直実の主君の源義経が待っていました。
直実は源頼朝に首桶をさしだしましたが、首桶に入っていたのは敦盛ではなく、直実の子・小次郎の首でした。
しかし義経は首実験をして「敦盛に間違いない」と断言しました。
敦盛の本当の父親は後白河法皇であったため、義経は敦盛の命を助けよと、直実に命じていたのです。
桜の木に「一枝を伐らば、一指を剪るべし」の制札がかけてあったのは、それはそういう意味だったのです。
そのため直実は同じ年頃の小次郎を身代わりにしたのでした。
子を失った直実は出家しました。
これは脚色されたもので、直実の子・小次郎(熊谷直家)は敦盛と同年の生まれですが、実際には熊谷氏の当主となって52歳まで生きています。
●平将門と空也は同一人物だった?
私は熊谷直家の通称が小次郎であったことが気になります。
直家は直実の長男なのになぜ小次郎という通称だったのでしょうか?
直実は熊谷直貞の次男で、通称が次郎でした。
直家は次郎と呼ばれた直実の息子ということで小次郎と呼ばれていたのでしょうか?
平将門も小次郎と呼ばれていました。
しかし将門には兄が二人いたので三男です。
それなのになぜ小次郎と呼ばれていたのでしょうか?
実は私は平将門と空也は同一人物ではないかと考えています。
その理由は次の通りです。
①どちらも生年が903年で同じ。
②空也堂は殺生を悔いた平貞盛が空也上人を開基といて建てた寺とされています。
平貞盛は平将門を討伐するために派遣された人物で、貞盛は平将門を殺したことを悔いたのだと思われます。
つまり空也堂は平将門を慰霊するための寺だと思われますが、御本尊は空也像です。
これは平将門と空也が同一人物であるということではないでしょうか。
③空也堂で行われている空也忌は空也がなくなった日ではなく、空也が東国に旅立った日です。
将門の首は京の鴨川のほとりで晒されていましたが、あるとき飛び上がって東国へ向かったという伝承があります。
将門の首が東国へ旅立った日が空也忌とされているのではないでしょうか。
④西光寺に空也塔がありますが、首桶の形をしています。
またその蓋は蓮の葉をデザインしたもので、蓮阿弥陀仏という法名を持つ平将門を思わせます。
↑ 西光寺 空也塔 下記リンク先の首桶の写真と見比べてみてください。http://gensun.org/?img=23%2Epro%2Etok2%2Ecom%2F%7Efreehand2%2Frekishi%2Fimg2%2Fkubioke%2D01%2Ejpg※詳しくはこちらの記事「土蜘蛛の謎」をお読みください。→
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-9.html●空也は醍醐天皇の第二皇子だというけれど、醍醐天皇の第二皇子は保明親王なんですが?さらに空也を開基とする六波羅光寺では、空也は醍醐天皇の第二皇子と伝えています。
うーん、でも醍醐天皇の第二皇子って醍醐天皇の皇太子だった保明親王なんですよ。
保明親王の生年は空也や平将門と同じ903年ですが、923年、20歳で早世しています。
空也が醍醐天皇の第二皇子ということは、空也とはこの保明親王と同一人物で、さらに平将門とも同一人物ということでしょうか?
そうではなく平将門(=空也?)は保明親王の双子だったのではないでしょうか?
とすれば、空也(=平将門?)と保明親王がどちらも醍醐天皇の第二皇子であるといってもおかしくありません。
●小次郎とは双子の片割れであることを示す名前?もしも平将門(=空也?)が保明親王の双子だったとすると、平将門は双子の片割れであったため、小次郎と呼ばれていたのではないかとの推測がなりたちます。
すると、熊谷直美の長男で小次郎と呼ばれた直家も双子の片割れだったのではないか。
そして双子のもうひとりは同年の生まれで直美が首をとった敦盛だったのではないか、と思ったりするのです。
かつて双子は畜生腹として忌まれ、双子の片割れは殺されたり、里子に出されたりしたといいます。
三笠宮様も双子で、奈良の円照寺門跡・山本静山尼が双子の妹宮ではないかという説もあります。
http://www.geocities.jp/nanamaru28/syo/jk/kawahara.htmlつまり双子は忌むべき存在であったため、双子であることを隠す必要があり、双子の兄弟は引き離されたわけです。
平敦盛と熊谷直家(小次郎)が双子であったとすると、いくつかのケースが考えられます。
①藤の方(敦盛の母親)は直実の子を宿したまま平経盛の妻となり、双子の敦盛と直家(小次郎)を産み、敦盛は平経盛の子、直家(小次郎)は直実の子とした。
②敦盛と熊谷直美の子・直家(小次郎)は双子で父親は後白河法皇だった。
敦盛は平経盛の子として、直家は熊谷直美の子として育てられた。
③敦盛と直家(小次郎)はどちらも平経盛の子であったが、直家(小次郎)を熊谷直実の養子とした。
熊谷直実は最初は平家の武士で、途中から源氏方の武士になっています。
なので平経盛の子を養子にもらうなんてこともありえたかも。
こういう事情があったとすれば、直実が敦盛殺生を悔いて出家していまった心情が理解できるんですが~
やっぱりトンデモですか?
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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