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六角堂 しだれ桜 『六角堂参篭と透明人間』 

京都市中京区 六角堂(頂法寺)
2016年3月29日 撮影


六角堂 しだれ桜 
●透明人間は親鸞?

「今昔物語集」に透明人間の話があります。

大晦日の夜、若侍が一条堀川の戻り橋を渡っていると百鬼夜行に遭遇しました。
一つ目の者、角を生やした者、一つ脚の者など恐ろしい形相をした鬼が行進していたのです。
男は身を隠していましたが、鬼たちに見つかって唾をかけられました。
男は家に戻りましたが、妻も子供も男がいることに気がつきません。
鬼に唾をかけられて男は透明人間になっていたのです。
男は六角堂に籠り観音様に「もとの姿に戻してください」とお願いしました。
すると高貴な僧が夢枕に立ち、「朝になったらここを出て初めに出会った人の言うことに従うとよい」と告げました。

朝になって男が堂を出ると、牛飼に出会いました。
牛飼には男の姿が見えるようで「ついてこい」と言いました。
男が牛飼についていくと、大きな門がありました。
門はしまっていましたが、牛飼と男は細い隙間から中に入りました。

屋敷の中には病に臥せる姫君がいました。
しばらくすると修験者がやってきて姫君の傍らで般若心経を上げました。
牛飼は修験者の姿を見ると逃げていってしまいました。(牛飼は疫病神の使いだったようです。)
僧が不動明王の火界の呪文を唱えると、男の着物に火が付きました。
男が叫ぶと、男の姿はすっかり見えるようになっていました。
また姫君の病も治ってしまいました。
男は無事家に帰りました。


私はこの話は親鸞がモデルになっているのではないかと思いました。

親鸞は9歳で出家して比叡山で修行をしていました。
1201年、親鸞は比叡山を降りて六角堂で百日参籠を行いました。
95日目の夜、夢の中に聖徳太子が現れ「私が女性となってあなたの妻になり、命が終わるときには極楽に導きましょう。」と告げました。

その後親鸞は法然に弟子入りしますが、法然が唱える専修念仏は危険思想であるとされ、法然は土佐に、親鸞は越後に流罪となりました。
しかし1211年に許されて帰京し、1262年に入滅しています。

六角堂に籠っていた期間、親鸞は世間から姿を消しており、100日後に六角堂を出て世間に姿を現したので
姿を消していた期間、親鸞は透明人間になっていたと表現したのではないかなあ、と。

 六角堂 龍

●今昔物語集の成立時期

「今昔物語集」には、前九年の役(1051~1062年)、後三年の役(1083~1087年)に関する説話を収録しようとした形跡があるとのことです。
また今昔物語集が他の史料に登場するのは1449年以降です。
ここから、「今昔物語集」が成立したのは1087年~1449年の間と考えられます。

しかし保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)、治承・寿永の乱(1180~1185年)の説話が記されていないので、
「今昔物語集」の成立はこれらの乱より早い時期だとみられています。
つまり、1087~1156年の間に成立したのではないか、ということですね。

親鸞の六角堂参篭は1201年なので、「今昔物語集」の成立の後ということになって、透明人間のモデルが親鸞であるとはいえないですね。
今昔物語集は治承・寿永の乱(1180~1185年)以降の成立で、何らかの事情から保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱に関する説話を記さなかったという可能性もありますが
親鸞の六角堂夢告の伝説以前に、同様の伝説があったとも考えられますね。

日本の伝説は似通った話が多いです。
後白河法皇の前世の髑髏に柳が生えていたため風が吹くたびに柳が揺れて法皇が頭痛に悩んだという伝説がありますが
小野小町の髑髏にススキが生えて風がふくたびに髑髏が「あなめ、あなめ(痛い、痛い)」と言ったという伝説もあります。
後白河法皇と小野小町の伝説はとてもよく似ています。

六角堂 しだれ桜2 
↑ 上の写真は2010年3月撮影

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/04/01 00:40] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)