5月の風景 祭 まとめ 

乙訓寺 牡丹 『早良親王の霊を封じる牡丹』 
乙訓寺 牡丹  

千本閻魔堂 狂言 『土蜘蛛の正体』 
千本閻魔堂狂言 
千本閻魔堂狂言 土蜘蛛  

藤森神社 駆馬神事 流し撮り 『早良親王の蝦夷征伐?』 

藤森神社 駆馬神事 

興福寺 藤 夕景 『阿修羅は土蜘蛛だった?』 
興福寺 藤  

興福寺 夕景  

久安寺 躑躅 『妖怪・鵺と猪早太』 
久安寺 躑躅  
久安寺 杜若 『落語・池田の猪買い と 鬼八伝説』 
久安寺 杜若  

白川郷・五箇山 合掌造り集落 『流刑地だった五箇山 と ささら踊り』 
白川郷 桜 
五箇山

五箇山 相倉集落 
 

當麻寺 當麻のお練り 『中将姫は藤原豊成の和魂だった?』 
當麻のお練り

當麻寺 牡丹

葛城山 躑躅 『大和に横たわる巨大なクジラ』 
葛城山 つつじ 

霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』 
霊山寺 干支祭

立山黒部アルペンルート 雷鳥 『雷鳥はなぜ神の鳥と信仰されたのか』 
黒部ダム  
雷鳥 

山口家住宅(堺市) 『鯉のぼり と 鯉の滝のぼり』 
山口家住宅 鯉のぼり  
善光寺 門前町 ライトアップ 『善光寺は物部守屋を慰霊する寺だった?』 
善光寺 ライトアップ 
善光寺 門前町3  

向原寺 甘橿坐神社 木漏れ日 二上山夕景 『物部守屋と盟神探湯(くがたち)』 
向原寺
 
 二上山 夕景

堺泉北臨海工業地帯 夜景 『音に聞く 高師浜の あだ波は』 
堺泉北臨海工業地帯 夜景

 

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[2016/04/29 00:42] まとめ | トラックバック(-) | コメント(-)

室生寺 石楠花 『龍神の正体』 

奈良県宇陀市 室生寺
撮影・・・2009年4月26日


室生寺 石楠花2 

塔百景7


●室生寺は井上内親王を慰霊するためのお寺だった

結論から申し上げますと、室生寺は井上内親王を慰霊するためのお寺です!
いつも「~かも?」と曖昧な推論ばっかり書いておりますが、これは断言できます。(かな~?)
その理由をご説明します。

●龍になって藤原百川・山部王に祟った井上内親王

770年、藤原百川・藤原永手らに推されて白壁王が即位して光仁天皇となりました。
皇后には井上内親王がに立てられました。

771年、光仁天皇の皇太子として、光仁天皇と井上内親王との間にできた他戸親王が立てられました。

ところがその翌年の772年、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとして皇后の位を剥奪されたのです。
他戸親王も母・井上内親王に連座したとして廃太子となり、代わって山部王(のちの桓武天皇)が立太子しました。
 
『水鏡』には、『井上内親王は呪物を井戸に入れて、光仁天皇の早死を願い、他戸皇子を即位させようとした。』と記されています。

井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館、(奈良県五條市須恵あたり)に幽閉され、775年に二人は幽閉先で亡くなりました。


室生寺 石楠花 
 
●井上内親王の事件は藤原百川の策謀だった

公卿補任(くぎょうぶにん)によれば、この一連の事件は『藤原百川の策諜』とあります。
藤原百川が策謀をたて、高野新笠が生んだ山部王を皇太子にする為に、井上内親王と他戸親王に無実の罪を被せた、というのです。

●龍になって藤原百川を蹴り殺した井上内親王


その後、井上内親王は怨霊になったと考えられ、『本朝皇胤紹運録』には『二人は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。』とあります。

『愚管抄』には『井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。』と記されています。

また水鏡には
『(井上内親王の祟りによって)20日にわたって夜ごと瓦や石、土くれが降った。』
777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。12月、百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。』とあります。

室生寺 石楠花3


●龍神になった井上内親王

室生寺の栞には次のようなことが記されていました。

奈良時代の末期、山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の五人の僧によって行なわれ、これに卓効があったことから勅命によって創建された。
 
ここに山部親王とありますが、親王とは親王宣下(皇族の子女に親王、内親王の資格を与えること)された人物のことです。
山部王(山部親王)の母親は百済王族の末裔とされる高野新笠で、母親の身分が低かったのです。
そのため、立太子は望まれておらず、山部親王ではなく、山部王と呼ばれていたようです。

室生寺の栞には山部王のご病気平癒の祈願が行なわれたのはいつかについては記されていませんでした。
でもそれは、777年12月と778年3月に行われたものと考えられます。

というのは『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)に次のような内容が記されているからです。

777年12月と778年3月の2回に渡り、山部王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、興福寺の五人の僧が室生の地において延寿の法を修した』

藤原百川や山部王が悪夢に悩まされたのが777年冬だったことを思い出してください。
山部王の病は井上内親王の怨霊の祟りであると考えられ、そのため室生寺で僧たちが延寿の法を修したのはないでしょうか。


●竜神を封じ込めた宝瓶

室生寺の五重塔の九輪の上には、水煙のかわりに宝瓶(ほうびょう/壷状の飾り)がつけられています。
修円という僧が、この宝瓶に室生の龍神を封じ込めたと言い伝えられています。

すると修円が室生寺の五重塔の宝瓶に封じ込めた室生の龍神とは、井上内親王の霊なのではないでしょうか。

室生寺 五重塔 宝瓶


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[2016/04/27 11:24] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

春日神社 藤 淳和院 『散骨された天皇』 


京都市右京区 西院春日神社
撮影 2013年4月28日


●西院春日神社と淳和院跡

西院 春日神社 藤 

藤が咲き誇る西院春日神社。

西院春日神社の南西には高山寺があります。
門前には『淳和院跡』と刻まれた石碑が建てられてました。

高山寺 淳和院跡  

このあたりにはかつて淳和天皇が退位されたのちに住まわれた淳和院がありました。
春日神社は淳和院離宮の守護社として創建されました。

のちに淳和院は西院とも呼ばれるようになりました。
西院という地名はここからくると言われています。

●賽の河原地蔵和讃の舞台


西院は『さいん』『さい』などと読まれていました。
おそらくそのためでしょう、このあたりにあった河原は佐比河原(さいのかわら)と呼ばれ、『賽の河原地蔵和讃』の舞台だと考えられていたといいます。

『賽の河原地蔵和讃』は要約すると次のような内容です。

親よりも先に死んだ子供が賽の河原で親の供養ために石を積んで塔をつくっていると、鬼が現れて塔を壊してしまいます。
そこへ地蔵菩薩が現れて、「私を冥土の父母と思って頼りなさい」といい、子供を抱きかかえて守ってくださいます。


昔、親の供養は子供がするべき、という考え方があったようなんですね。
でも親より先に死んでしまった子供は親を供養することができません。
それで仕方なく冥土の賽の河原で石を積んで供養塔を作っているのでしょうか?

それはともかく、高山寺の御本尊は賽の河原で子供たちを救ってくれる地蔵菩薩だというわけです。
そして賽の河原地蔵には淳和院のイメージが重ねられているような気がします。

高山寺 石仏 
高山寺 本堂と地蔵菩薩

●承和の変

810年、嵯峨天皇と皇后・橘嘉智子の間には正良親王と正子内親王が生まれました。

余談となりますが、正良親王と正子内親王は同年の生まれなので双子だとも言われています。
しかし正良親王が生まれたときの年号は弘仁(810年10月20~824年2月8日)
  • 正子内親王が生まれたときの年号は大同(806年6月8日~810年10月20日)となっていて異なっています。
    また人の妊娠期間は十月十日と言われているので、
    例えば810年1月に正子内親王を出産したのち、810年12月に正良親王を出産ということもありえます。
    http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1387502.html

    823年、淳和天皇は異母兄・嵯峨天皇の譲位を受けて即位しました。
    淳和天皇は嵯峨天皇の皇女・正子内親王を皇后としました。

    833年、淳和天皇は嵯峨天皇の第二皇子の正良親王に譲位しました。(仁明天皇)
    正良親王は淳和天皇と正子内親王のあいだに生まれた恒貞親王を皇太子としました。

    840年、淳和天皇が崩御したのち、842年に承和の変が起りました。

    伴健岑と橘逸勢は藤原良房が仁明天皇と妹の藤原順子との間にできた道康親王を皇太子につけたいと考えているとの情報をキャッチしました。
    「このままでは恒貞親王の身があぶない!」
    そう考えた伴健岑と橘逸勢は、皇太子を東国へ移す計画をたて、それを阿保親王へ相談しました。
    「阿保親王ならこの計画にのってくれるはず」
    伴健岑と橘逸勢はそう考えて阿保親王に相談したのだと思いますが、阿保親王はこの計画を皇太后の橘嘉智子にばらしました。
    やめておけばいいのに、橘嘉智子はこれを藤原良房に相談。
    この結果、伴健岑と橘逸勢は捕らえられて流罪となってしまいました。
    そして恒貞親王は廃太子となり、仁明天皇と藤原順子(藤原冬嗣の娘・藤原良房の同母姉)の間にできた道康親王(のちの文徳天皇)が立太子しました。

    恒貞親王の母親である正子内親王は自分の母親・橘嘉智子を激しく恨んだといいます。


    ●子の不幸は親の不幸


    梅原猛さんは聖徳太子は怨霊であると説かれました。
    怨霊とは一般的には政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、天災や疫病の流行は怨霊のしわざで引き起こされるとされています。
    しかし、特に聖徳太子は政治的陰謀によって不幸な死を迎えたようには思えません。
    政治的陰謀によって不幸な死を迎えたのは、聖徳太子の子孫です。
    彼らは蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自害したのです。
    梅原猛さんは、古は現在のような個人主義ではなく、氏族が重んじられていた。聖徳太子の子孫は繁栄することはなく、そのため聖徳太子は怨霊になったというような旨のことをおっしゃっていました。

    正直、氏族を重んじていた時代に橘嘉智子は何をやってるんだ、という感じですね。
    彼女は自分の息子の子を皇太子につけたいと考えていたのだと思いますが、そのせいで娘の子は廃太子となって娘には恨まれたばかりか
    結果、藤原氏がますます権力を持つようになり、橘氏は没落していくのです。

    ●鬼になることを怖れて散骨を遺言した淳和天皇

    それはさておき、「子の不幸は親の不幸」ということであれば、我が子・恒貞親王を廃太子とされた淳和天皇は死後、怨霊になったと考えられたのではないかと思えますね。

    淳仁天皇は火葬されて、散骨されています。

    持統天皇は火葬されていますが、実は天皇を火葬する習慣はそんなに根付かなかったのです。
    その後4代、文武、元正、元明は火葬でしたが、聖武天皇以降土葬に戻っています。
    やはり火葬で骨が灰になってしまうことを嫌ったんでしょうね。
    私も火葬された遺骨を見て、「あんなに生き生きとしていた人がこんな風になってしまうなんて」ととてもむなしい気持ちになったことがあります。

    当時は土葬が当たり前だったのに、淳和天皇が火葬されたというのは尋常ではないものを感じてしまいます。

    一説によれば淳和天皇は「自分が死後鬼と化さぬよう、骨を砕き粉々にして山中に撒くよう遺言した」とも言われています。

    これは、言い換えると、火葬すると死後鬼にならないという信仰があったということだと思います。
    淳和天皇の遺言は真実ではなく、淳和天皇が鬼=怨霊になることを怖れた藤原氏が淳和天皇を火葬にして散骨したのかもしれませんが。

    ともあれ、火葬された淳和天皇は鬼にはならず、鬼から子供を救ってくれる地蔵菩薩になったと人々は考えたのではないでしょうか。

    さいいん かすがじんじゃ ふじ


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[2016/04/25 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

胡宮神社 桜 『胡という漢字を調べてみたら色んなことがわかった!』 


滋賀県犬上郡 多賀町 胡宮神社
撮影 2014年4月12日

胡宮神社 鳥居 桜

●胡宮神社と多賀大社の関係

多賀大社を参拝した帰りに通りかかったので、寄ってみました。
急いでいたので、写真は上の1枚だけなんですが~。(汗)
胡宮(このみや)神社はイザナギ・イザナミを祀り、延命にご利益があるとされています。
御祭神やご利益は前回の多賀大社と同じですね。(参照/多賀大社 桜 『お多賀杓子とミシャグジ』 

次のように記されたサイトがありました。
青龍山の山頂にある「胡宮の磐座」。山全体が神様という神体山であり、胡宮の奥宮、多賀大社の奥の院とも呼ばれている。
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kinki/shi_konomiya/konomiya.htm より引用

どうやら胡宮神社は多賀大社と関係のある神社のようです。

●磐座信仰とミシャグジ

前回の記事で、私は多賀杓子のルーツは、多賀大社にミシャグジ信仰があったためではないかと私は考えました。
ミシャグジ様は石神が転じたものともいわれ、奉納された杓子を持って帰って喉をなでると咳の病が治るといわれています。

なぜ杓子なのかというと、ミシャグジ様とシャクシの音が似ているからでしょう。

それでは、なぜミシャクジ様は咳の病にご利益があるとされたのでしょうか。
ミシャグジ様は石神なので、石→セキ(石の音読み)→咳という語呂合わせで咳の神へと神格を広げたのではないでしょうか。

そして多賀大社と関係が深いと思われる胡宮神社の御神体・青龍山には胡宮磐座があるというのです。
磐座とは信仰の対象となった岩のことを言います。
岩と石のちがいはその大きさだけですから、胡宮磐座は石神=ミシャグジ様だといえるのではないでしょうか。

胡宮磐座は多賀大社の奥の院であるともいわれているということなので
多賀大社の信仰はこの胡宮磐座と関係がありそうに思えます。
もしかしたら、この胡宮磐座がミシャグジ様として信仰され、そこから多賀杓子が作られるようになったのかも?

多賀大社 橋 
多賀大社

●胡という漢字を漢和辞典で調べてみたら、色んなことがわかった。


漢和辞書なんて学生のときは滅多にひきませんでしたが、歴史や民俗学の謎学(?)にはまってからは結構重宝してます。
ネットには書いてないようなことも書いてあるんで~。

さて胡という漢字を家にあった古い漢和辞典で調べてみると、次のように書いてありました。

獣のあご。垂れ下がった顎の肉。
②くび
③なんぞ。なに。いずくんぞ。
④いのちがながい。としより。おきな。
⑤とおい。はるか。
⑥えびす。北方の異民族の名。
⑦昔の中国で、外国から渡来したものをいう。
⑧祭器。
⑨でたらめのこと。
⑩ほこの首。ほこの先に曲がってわきに出たもの。
角川漢和中辞典(昭和51年 161版)より。



●胡宮神社は蝦夷の神?

⑥えびす。北方の異民族の名。
とある点に注意してください。。
胡宮神社という神社名は、北方の異民族の神、という意味ではないでしょうか?

ウィキペディアにも次のように記されています。
ミシャグジは日本古来の神。柳田國男によれば塞の神(サイノカミ)であり、もとは大和民族に対する先住民の信仰。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E3%81%AE%E7%A5%9E より引用

先住民と異民族は同じだと考えていいと思います。

東北地方にはまつろわぬ民・蝦夷が住んでいました。
蝦夷はエビスともいわれていました。
エビスは戎、夷のほか、胡とも記されました。
胡宮神社の胡宮とは蝦夷=エビスの宮という意味ではないでしょうか。

●なぜ多賀大社や胡宮神社は延命にご利益があるとされているのか。

胡には⑥えびす。北方の異民族の名。という意味があり、蝦夷(胡)の神の宮という意味で胡宮神社というのだと思いますが
胡には④いのちがながい。としより。おきな。という意味もあります。
そこから胡宮神社は延命にご利益があると考えられるようになったのではないでしょうか。
そして胡宮神社は多賀大社の奥宮なので、多賀大社にも延命の御利益があると考えられるようになったのではないかと思ったりします。

たがSLパーク跡  Ⅾ51  
多賀SLパーク跡

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[2016/04/23 15:46] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

多賀大社 桜 『お多賀杓子とミシャグジ』 

滋賀県犬上郡多賀町  多賀大社
撮影 2014年4月12日

枝垂桜の咲く春の多賀大社。

多賀大社 枝垂れ桜 
●お多賀杓子

おや? 橋の向うに大きな杓子が見えています。


多賀大社 橋 
 
杓子の形をした看板のようです。
多賀大社では「お多賀杓子(おたがじゃくし)」というお守りの杓子を授与しています。
これをモチーフとして杓子の看板を作ったのでしょう。

多賀や 看板


●宮島杓子の由来

杓子を授与したり奉納する習慣のある神社って結構多いですよね。
なぜ、こういうことをするのでしょうか?

杓子といえば広島の宮島杓子が思い出されます。
広島県宮島の厳島神社の御祭神は宗像三女神ですが、宗像三女神は弁才天と習合されていました。
この弁才天は琵琶を持つお姿にあらわされることが多く、この琵琶に似ているため宮島で杓子が作られるようになったと言われています。

大覚寺身振り狂言 十王堂2jpg


↑ 上は大覚寺(兵庫県尼崎市 大覚寺身振り狂言『十王堂』に登場した琵琶を持つ弁才天/向かって左)

しかし、多賀大社の御祭神はイザナギとイザナミで、弁才天はお祀りしていません。(ですよね?)
なので弁才天が持つ琵琶と多賀杓子は関係がなさそうです。

●ミシャグジと杓子

ほかに名古屋市南区の石神社などで、ミシャグジという神様に杓子が奉納されているケースがあるようです。

横浜市の社宮司社は「咳の神」「おしゃもじさま」と呼ばれ、この社に奉納されている杓子を持って帰り、のどを撫でると咳の病が治ると信仰されているとのこと。
治ったときには杓子を2本にして奉納します。

同様の信仰は各地にあるようです。

多賀大社 しだれ桜3


●ミシャグジはなぜ咳の神として信仰されているのか

なぜミシャグジは咳の神様として信仰されているのでしょうか?
ミシャグジは石神と書いて、シャクジ、サクジなどとも呼ばれていました。
石→せき→咳、という語呂合わせで、ミシャグジは咳の神に転じたのではないでしょうか。

●神は語呂合わせで神格を広げる


このように語呂合わせで神の神格を広げたケースは他にもたくさんあります。
たとえば和歌三神の一、柿本人麻呂は人丸とも記され、
ひとまる→火止まる→防火の神、ひとまる→人産まる→安産の神と神格を広げています。

●多賀大社は石神だった?

そして多賀大社には、寿命石と呼ばれる石があります。
桜の写真を撮るのに必死で、撮り忘れたんですが~(アホ~)

後白河上皇に東大寺再建を命じられた重源は、そのときすでに高齢でした。
東大寺再建が完了するまで生きていられるか心配になり、伊勢神宮に参拝しました。
すると天照大御神よりお告げがありました。
寿命を延ばしたいのなら、多賀の神を参拝しなさい。」
そこで
多賀大社を参拝したところ、落ちてきた柏葉の虫喰のあとが「莚」の字になっていました。
「莚」は「廿(二十)」「延」と書きます。つまり、二十延びる、二十年命が伸びるという意味だったのです。
こうして重源二十年の延命を得て無事東大寺を再建することができました。
再建を完了した重源は多賀大社にお礼まいりをし、石に座り込んでなくなりました。
この石が「延命石」です。

ミシャグジとは石神のことであり、多賀大社の延命石は石神として信仰されていたのではないでしょうか。
そして石神はミシャグジとして信仰され、その語呂合わせから杓子をお守りとして授与する習慣が生じたのではないかと思います。

多賀SLパーク跡 Ⅾ51

多賀SLパーク跡の桜も満開でした♪
D51が疾走するところを撮ってみたい!


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[2016/04/22 15:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

髄心院 八重桜 石楠花 『男神は井戸に姿を映して女神になった?」 

京都府山科区 随心院
撮影 2016年4月19日


小野小町の邸宅跡と伝わる髄心院。

髄心院 小野小町

ライトペインティングのジミー西村さんと織物会社が共同制作したタペストリーが展示されていました。
小野小町を描いたものですね。

●六歌仙は怨霊だった。

小野小町は六歌仙の一です。
六歌仙とは古今和歌集仮名序において名前があげられた六人の歌人(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)のことを言います。
ただし、古今和歌集仮名序には六歌仙という言葉は使われておらず、後世になってこの六人の歌人のことを六歌仙と言うようになったと考えられています。

抽象的でわかりにくいのですが、私にはこんな風に読めます。

遍照は真実が少ない。
在原業平は言葉足らず。
文屋康秀は商人がいい衣を着ているようなものだ。
喜撰法師は始めと終わりがはっきりしていない。
小野小町は強くない。
大友黒主はその様子が賎しい。


原文を読んでみたい方は、こちらをクリックしてください。→ http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm
ほめているというよりは、けなしているように思えます。
それなのになぜ彼らは後世、六歌仙と呼ばれるようになったのでしょうか。

高田祟史さんは六歌仙とは歌のうまい六人の歌人という意味ではなく、六人の怨霊になった歌人という意味ではないかとおっしゃっています。
かつて神と怨霊は同義語であったといいます。
それと同じく歌仙(歌の仙人)と怨霊も同義語ではないかというのですね~。

髄心院 石楠花

●六歌仙は藤原氏の他氏排斥の犠牲者だった。

そこで六歌仙ひとりひとりについて調べてみると、全員藤原氏と確執があることがわかります。

喜撰法師紀名虎または紀有常だという説があります。
紀名虎の娘で紀有常の妹の紀静子は文徳天皇に入内して惟喬親王を産みました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談しましたが、源信は藤原良房を憚ってこれを諌めたそうです。
藤原良房の娘の藤原明子もまた文徳天皇に入内して惟仁親王(のちの清和天皇)を産んでいました。
この惟仁親王が皇太子になりました。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、その中に遍照在原業平紀有常らの名前があります。
彼らは歌会と称し、惟喬親王をまつりあげてクーデターを計画していたのではないかという説もあります。

文屋は分室とも記され、文屋康秀は分室宮田麻呂と血のつながりがあると思われます。
分室宮田麻呂は謀反を企てたとして流罪となりましたが、死後冤罪であったことがわかりました。
分室宮田麻呂は藤原北家に暗殺されたのではないかとする説もあります。

大友黒主は大伴黒主とも記され、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残されています。
大友黒主とは大伴家持のことだと思います。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとしてすでに死亡していたのですが、死体が掘り起こされて流罪とされました。

詳しいことはこちらの記事に書きました。→ 祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 

残る小野小町について、井沢元彦さんは惟喬親王が「小野宮」と呼ばれていたことから、惟喬親王の乳母ではないかと説かれました。

髄心院 
↑ これは菊桃かな?間違っていたら教えてください!

●小野小町は男だった?


私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことだと考えています。
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌がたくさんあります。
また古今和歌集仮名序を書いたとされる紀貫之は「土佐日記」で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と自らを女と偽って日記を書いています。

●町は紀氏の女性を意味する?

また『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいます。
『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としています。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことです。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことです。
「町」とは紀氏の女性をさしているようにも思えます。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなります。
そういうことで小町というのではないでしょうか。

詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。→渡月橋 法輪寺 ライトアップ 『小野小町は男だった?』 


髄心院 八重桜 

●化粧井戸伝説のベースは天岩戸伝説?


さて、髄心院には小町化粧井戸と呼ばれる井戸があるはずで、案内板もあったのですが見当たりませんでした~。
今度行ったときにもっとじっくり探してみます・・・。

小町化粧井戸とは小町がその姿を井戸の水に映して化粧をした井戸ということなのでしょうが
奈良県曽爾高原のお亀ヶ池にも同じような伝説がありました。
曽爾高原 すすき 夕景 『お亀ヶ池伝説』 

お亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていました。
あるとき井戸の水に美しい男性の顔が映り「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といいました。
それ以来、お亀は夜になると出かけるようになりました。
お亀は男児を出産し、姿を消してしまいました。
夫はお亀を探して太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませました。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消しました。
夫は懲りずにまた太郎路池に行きました。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かりました。
夫はなんとか逃げ帰りましたが、すぐに亡くなってしまいました。

井戸の水に写っているのはお亀の顔のはずなのに、男性の顔が映ったというのです。

この話は天岩戸伝説をベースに作られたものだと思います。

天の岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味を持って外をのぞいたところ
外には八咫鏡がかけてあって自分の姿が鏡に映りました。
もっとよく見ようと身を乗り出したところ、アメノタヂカラオが天照大神を引っ張り出しました。


天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味を持ったというのですから、男神でしょう。
ところが記紀神話では天照大神は女神として誕生したということになっています。

本来の天岩戸伝説は次のようなものであったのではないかと思ったりします。
①天照大神、男神として誕生
②天照大神、天岩戸に籠る
③アメノウズメのストリップダンスに興味を持って外をのぞく。
④八咫鏡に反転した自分の姿が移り、性別も反転して女神となった。

天岩戸神話はこれを時系列を並べ替えて作られた物語なのではないでしょうか。

●鏡は神の性別を変える神具だった?


そして鏡は神の性別を変えるための神具ではないかと思えます。

神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒霊(神の荒々しい側面)・和霊(神の和やかな側面)に分けられ、荒霊は男神で和霊は女神とする説があります。
とすれば御霊は男女双体となります。

御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神

つまり鏡は男神(荒魂)を女神(和魂)に転じさせたり、
逆に女神(和魂)を男神(荒魂)に転じさせたりする力があると考えられていたのではないかと思います。

小野宮と呼ばれた惟喬親王の荒魂は、井戸に姿を移すことによって小野小町という和魂に転じたと
古の人々は考えたのではないでしょうか。

お亀の場合はこれと逆ですね。
お亀(和魂)は、井戸に姿を映すことによって、男神(荒魂)に転じたという話だと思います。




毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/04/21 15:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

鞍馬寺 八重桜 『鞍馬七福神は北斗七星の神?』 

京都市左京区 鞍馬寺
撮影 4月19日

鞍馬寺の普明殿はケーブルカーの駅になっていて、鞍馬山の多宝塔の前までケーブルカーで登ることができます。
ちなみにトイレは烏枢沙摩明王殿(うすさまみょうおうでん)と書いてありました。
今後、トイレは烏枢沙摩明王殿と言うことにしよう~。

ところが今工事中で、ケーブルカーは運休でした。
昔の人と同じように九十九折れの道を登っていきましょうー!
平安時代、清少納言が「枕草子」に「近 うて遠きもの、くらまのつづらおりといふ道」と記した道です。
登り道だけど1kmほどの道なので、大したことないです。

由岐神社 割拝殿 

↑ 途中、由岐神社があります。
芽吹きが赤い楓の葉が新緑の中に彩りを添えます。

由岐神社 三宝荒神社 
石楠花の花も咲いていました♪

●鞍馬七福神は北斗七星の神?

さらに歩いていくと双福苑(恵比寿天・大黒天)福寿星神を祀る社(福禄寿・寿老人)がありました。
途中、本殿金堂に向かう道と多宝塔へ向かう道に分かれます。

多宝塔へ向かう道を歩いていくと

鞍馬七福神 弥勒堂

↑ 山吹の咲く弥勒堂がありました。

鞍馬寺 多宝塔 八重桜

塔百景6

 
↑ 多宝塔では八重桜が満開でした。

多宝塔の前には開運毘沙門天を祀る小さな社がありました。
引き返して道の分岐点へ戻り、さらに登っていくと巽の弁才天を祀る社もありました。

双福苑(恵比寿天・大黒天)・福寿星神 社(福禄寿・寿老人)・巽の弁才天社(弁才天)・弥勒堂(布袋尊/布袋尊は弥勒菩薩の化身とされています。)開運毘沙門天社を合わせて鞍馬七福神と言います。

高田祟史さんが「七福神は北斗七星の神でもあり、永遠に北極星の周囲を回り続けることで、その祟る力が封じられている。」
という旨のことをおっしゃっていましたが、
鞍馬寺境内に鞍馬七福神があるということは、この高田祟史さんの説をうらづけると思います。
というのは鞍馬寺の御本尊の一、護法魔王尊は650万年前に金星からやってきた神とされており、鞍馬寺は星の神を祀る寺だと考えられるからです。

●鞍馬天狗は流星の神だった?

また鞍馬寺は鞍馬天狗で有名ですが、天狗とは流星の神のことだと思われます。
というのは、日本書紀の舒明天皇九年の記事に次のような記述があるからです。

大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がしました。
僧旻は 「あれは流星ではなく天狗(アマツキツネ)だ」 と言いました。


天狗は翼があって空を駆け回るとされますが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97#/media/File:Elephant_catching_a_flying_tengu.jpg
天狗が空を飛ぶのは天狗の正体が流星だからではないでしょうか。

●由岐神社はカシオペア座の神を祀る神社?

10月に行われる有名な鞍馬の火祭は由岐神社(写真1枚目)の祭礼ですが
鞍馬の火祭 『山中なのに船頭篭手(せんどうごて)?』 
鞍馬の火祭りではチョッペンという儀式が行われます。



去年、鞍馬の火祭を見に行ったのですが、ものすごい人でチョッペンの写真を撮ることができませんでした~(泣)
動画をお借りしました。
動画主さん、ありがとうございます。

チョッペンとは動画にあるように、二人の青年が逆さになって脚を開脚するというものです。
成人式の意味合いがあるなどと言われていますが、カシオペア座の形のようにも見えます。

カシオペア座

●藤原純友はカシオペア座の神だった?

私は由岐神社(写真1枚目)は藤原純友を祀る神社ではないかと考えています。
由岐神社は940年に大地震
や天慶の乱を鎮めるために朱雀天皇が宮中から鞍馬へ遷宮させた神社です。
天慶の乱とは、関東で起こった平将門の乱と、南海で起こった藤原純友の乱の総称です。
由岐神社を遷宮させたとき、平将門の乱は鎮圧されていましたが、藤原純友の乱はまだ鎮圧されていませんでした。
この藤原純友が本拠地としていたのが愛媛県の日振島です。



なんと、日振島ってカシオペア座の形(ω)をしているんですよーーー。

●平将門は北斗七星の神だった?

さきほど鞍馬七福神は北斗七星の神と書きましたが、平将門は北斗七星の神だと考えられます。
加門七海さんが、将門ゆかりの寺社をつなぐと北斗七星になると説かれているのです。
https://www.google.com/maps/d/viewer?msa=0&ie=UTF&mid=zXPnY2gZF9e8.k9Tpfq2PB4nI

また平将門の子孫を称する相馬家は陣幕や家紋に『繋ぎ馬』を使用していました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/soma_sim.html (繋ぎ馬の紋)
この繋ぎ馬は北斗七星を表しているようにも見えます。
顔から首にかけてが北斗七星の柄杓、背中が持ち手です

とすれば、鞍馬七福神は平将門をイメージしたものではないでしょうか。
朱雀天皇は鞍馬寺で藤原純友をカシオペアの神、平将門を北斗七星の神として祀ることで、世の中を安泰にさせようと考えたのではないかと思います。

鞍馬寺 金剛寿命院  
金剛寿命院の八重桜も満開でした。

鞍馬寺 金剛寿命院2 



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[2016/04/20 17:05] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

東寺 桜 『空海がBLのイメージを変えた?』 

 京都市南区 東寺
撮影 2014年4月8日 2015年4月2日


桜の花が咲き乱れる「お大師さま(空海)の寺」東寺。

東寺 桜

塔百景3

●日本にBLを持ち込んだ空海
 
かつての日本は世界に類を見ないBL(男色)大国でした。
BLは衆道と言われ、ほとんどの戦国武将はBLをたしなんでいたのです。

http://ddnavi.com/news/240699/a/
↑ こちらのサイトには次のように記されています。

江戸時代の儒者・貝原好古の『大和事古』には次のように記述される。
「我朝にて男色を愛する事、空海法師渡唐以来のもの也と云伝ふ」
つまり、男色の起源は、密教を日本に伝え真言宗を始めた空海にあるという。
805年に唐から帰国したときに、男色文化を日本に持ち込んだとか。
http://ddnavi.com/news/240699/a/より引用)

●大切なことは文献に残さない

うーん、だけど空海が日本にBLを持ちこんだことを示す文献などはないようですね?

ただ文献がないので、空海は日本にBLを持ち込んでいない、とも言えません。
本当に大切なことは、書き記したりせず、口伝するといったこともありました。
古今伝授などもそうですね。
古今伝授とは古今和歌集の解釈の奥義を伝えるもので、特定の人物に対し、口伝や切紙によって伝えられました。

またあまりに常識的なことはあえて文章に残さないものです。
空海がBLの元祖であるということは常識中の常識!ということで文献に残っていないのかもしれません。

東寺 亀 

●戦国時代のBLブームは自然に発生したものではないと思う。

  
http://ddnavi.com/news/240699/a/
↑ こちらのサイトには次のようにも記されています。

だが著者(※1)は、これに異を唱える。
男同士が愛し合うという感情は自然発生的に起こるものであって、誰かがどこかから持ち込んで成立するという類のものではないと主張する。
http://ddnavi.com/news/240699/a/より引用)
※1 著者とは。『日本男色物語 奈良時代の貴族から明治の文豪まで』(武光誠/カンゼン)の著者のことです。

たしかにBLは自然発生的に起こるケースもあります。
男性の中で、自然発生的にBLに走る人の割合はどれくらいなのかわかりませんが
ほとんどの戦国武将がBLをたしなんでいた、ということは言い換えれば、戦国武将の100パーセントに近い人がBLに走ったということです。
これが自然発生的に起こったことだとは私にはとても思えないです。
何らかの理由から戦国武将にBLが大流行したと考えられるのではないでしょうか。

●奈良時代以前、BLは禁忌だった。

http://ddnavi.com/news/240699/a/
↑ ↑こちらのサイトでは奈良時代の僧侶のBLを禁じる「淫戒」や、720年に成立した日本書紀に記された「阿豆那比(あずない)の罪」についても触れています。

「阿豆那比の罪」とは次のような物語です。

仲のいい二人の神主のうち、一人が亡くなりました。
残された神主は嘆き悲しんで後を追うように死んでしまいました。
二人を合葬したところ、昼なのに夜のように暗くなってしまいました。
別々に葬ったところ、昼の明るさが戻りました。


この「阿豆那比の罪」の物語は日本最古のBLの記事だとされています。

日本男色物語 奈良時代の貴族から明治の文豪まで』の著者は、「阿豆那比の罪」は「合葬」に問題があるのであって、BLそのものを非難したものではないと述べておられると、http://ddnavi.com/news/240699/a/では説明されています。

でも私には「淫戒」や「阿豆那比(あずない)の罪」は、奈良時代以前にBLを禁忌とする考え方があったことを示しているように思われます。

東寺 桜 ライトアップ

塔百景4


●空海がBLをプラスのイメージに変えた?


戦国時代には100パーセントに近い戦国大名が憚ることなくBLをたしなんでいます。
これは、奈良時代以前には禁忌とされていたBLが、奈良時代以降、よいものであるとする意識改革があったためではないでしょうか。
そしてその意識改革をもたらしたのが空海であり、
貝原好古が「我朝にて男色を愛する事、空海法師渡唐以来のもの也と云伝ふ」
と述べたのは、「空海が日本にBLを伝えた」という意味ではなく、「それまでBLは禁忌とされていたが、空海によってBLはよきものであると意識改革が行われた」という意味ではないかと思います。

●重陽の節句はBLの節句?

日本では重陽の節句(9月9日)は菊の節句ともいわれ、菊の花に真綿をかぶせ、この綿についた露を顔にあてると不老長寿になる
と言われていました。

菊はBLのシンボルとされています。
そして陰陽道では男は陽、女は陰なので、男と男が重なるBLはまさしく重陽ではありませんか。
つまりBLをたしなむことは不老長寿の呪術だったのではないかと思うのです。


こちらの記事もお読みいただけると嬉しいです。↓
OSAKA光のルネサンス 2015 『日本でBLがたしなみとされたのはなぜ?』 

東寺 五重塔 ライトアップ  

塔百景5


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[2016/04/19 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 花水木 『六本指の秀吉が指を切断しなかった理由』  

大阪市中央区 大阪城
撮影 2013年4月18日


大阪城 花水木 白

●秀吉は六本指だった

太閤さん(豊臣秀吉)の城として大坂人に愛されている大阪城。

以前の記事、大阪城 桜 『豊臣秀吉は六本指でバセドウ病だった?』  で豊臣秀吉は六本指(多指症)だったと書きました。
これはルイス・フロイスの『日本史』や前田利家の『国租遺言』に記されていることなので、たぶん事実ではないかと思います。
多指症は結構多く、秀吉の時代、多指症は幼いうちに切断していたようです。
しかし秀吉は指を切断することはせず、天下人になるまで六本指であることを隠しもしなかったということです。

●織田信長が秀吉を気に入っていた理由

そんな秀吉が仕えていたのが織田信長です。
秀吉は信長の草履を懐にいれて温めるなど、細やかな気配りができる人物であり信長は大変秀吉を気に入っていたようです。

ですが、信長が秀吉を気に入っていたのは気配りができるというほかに、秀吉が6本指だったこともあるのではないかと思ったりします。

ルイス・フロイスが書いた書簡の中に「織田信長は第六天魔王と称した。」と記されています。

第六天魔王とは仏教の修行を妨げる悪魔のことです。
なるほど、信長は多くの寺や仏像を破壊し、多くの僧侶を殺害した信長に、第六天魔はぴったりなニックネームだと思います。

第六天魔王について、もう少し詳しく調べてみました。

仏教には六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)や十界(六道の上に声聞界・緑覚界・菩薩界・仏界をくわえたもの)という世界観があります。


上から順に並べてみましょう。
仏界ー菩薩界ー緑覚界ー声聞界ー天上界ー人間界ー修羅界ー畜生界ー餓鬼界ー地獄界
ピンク色文字が六界、六界に青色文字を加えたものが十界

十界のうち、人間界から地獄界までを俗界といいます。


仏界ー菩薩界ー緑覚界ー声聞界ー天上界ー人間界ー修羅界ー畜生界ー餓鬼界ー地獄界
ピンク色文字が俗界

ですが、天上界はさらにいくつもの段階に分かれ、下部の六つの天(他下自在天・仏楽天・兜率天・忉利天・夜摩天・四天王衆天)は俗界に含まれます。


この六つの天の中の最上位、他下自在天のことを第六天といい、信長はその第六天に住む魔王であると称したわけです。

そういうわけで、信長は六という数字が気に入っており、六本の指を持つ秀吉を気に入ったのではないかと思います。
もしかすると、秀吉は信長が六という数字が好きだと察して、指を切断しなかったのかも?


大阪城 花水木 赤  
しかし天下人となった秀吉の肖像画は、右手の親指(秀吉は親指が2本あった)は隠すように描かれています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toyotomi_hideyoshi.jpg

天下人となった秀吉はなぜ急に六本指を隠すようになったのでしょうか。
もしかして、第六天魔王を称した信長より自分は上位の天の王である、ということを示したかったのかも?

造幣局 桜 

大阪城へ行った帰りは造幣局の通り抜けへ。




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[2016/04/18 00:00] 大阪 | トラックバック(-) | コメント(-)

観音寺 菜の花 桜 『息長氏と大海人皇子』 

京都府京田辺市 観音寺
撮影 2014年4月6日


 観音寺 菜の花 桜2

●義淵を育てたのは天智天皇?それとも天武天皇?


観音寺は白鳳年間に義淵僧正が創建したと伝えられています。
義淵についてはこちらの記事にも書きました。→ 飛鳥 光の回廊 岡寺 『龍を池に閉じ込める呪法』 

ウィキペディアによれば、義淵僧正は天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたとの旨が記されてます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%B7%B5

しかし岡寺のhpには、義淵僧正は天智天皇により草壁皇子とともに育てられたとあって
http://www.okadera3307.com/rekishi.html からページ左上部にある開祖義淵僧正とあるところをクリックしてください)
喰い違っています。
いったいどちらが本当なんでしょうか?


岡寺 義淵僧正 

龍と闘う義淵(岡寺のレリーフより)


●息長氏と大海人皇子

それはさておき、観音寺は山号を息長山といいますが、息長氏という氏族がいました。

息長氏は琵琶湖東岸・京都南部・奈良北部・大阪東部などに勢力をふるっていた豪族です。
神功皇后の父親は、息長宿禰王といい、第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子でした。

息長は「息が長い」の意で海人だったとか、ふいごで風を送る製鉄の民の意味ではないかとする説があります。
海人といえば、大海人皇子を思い出しますね!
大海人皇子とはそう、天武天皇のことです。

もしかして「息長山」という山号は天武天皇にちなむもので、観音寺は天武天皇と関係のあるお寺なのかも?
すると、義淵を育てたのは天武天皇なのではないかと思えます。
岡寺の由緒によれば、義淵は草壁皇子とともに養育されたとしていますが、草壁皇子は天武天皇の皇子ですし~。
そうだとすると、なんで岡寺は「義淵僧正は天智天皇により草壁皇子とともに育てられた」と伝えているのか気になりますね。

斎藤忠さんによれば、戦国時代、織田信長は多くの神社を破壊したそうですが
スサノオをまつっていると偽って破壊を免れたという伝承が伝わっているそうです。

これと同じように、天武天皇の名をかたることが憚られるような状況があり、それで天智天皇によって育てられたといい伝わっているのかもしれませんね。

観音寺 菜の花 桜4

 

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[2016/04/17 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)