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福智院 桜 頭塔 『玄昉死亡事件の真相』 


奈良市福智院町 福智院
撮影 2015年4月4日

福智院 桜2  
 ●藤原広嗣の乱

福智院を創建したと伝わる玄昉は、奈良時代に橘諸兄政権で重用された人物でした。
当時の権力者といえば藤原氏ですが、藤原不比等の四人の息子(藤原四兄弟)が相次いで天然痘にかかって死亡してしまいました。
そのため、一時的に藤原氏の勢力は衰えて、738年に橘諸兄が右大臣となったのですね。
橘諸兄は吉備真備・玄昉を重用し、藤原宇合の長男・藤原広嗣(式家)は大宰府に左遷されてしまいました。
藤原氏と橘氏の政権争いと見ていいでしょう。
そして玄昉は吉備真備とともに橘氏側の人物だったということです。

左遷された藤原広嗣は黙ってはいませんでした。
740年、藤原広嗣は「天地による災厄の元凶は吉備真備と僧正・玄昉であるので、二人を処分するべきである。」という上奏文を朝廷におくったのです。

『今昔物語集』や『源平盛衰記』には、玄昉が光明皇后と密通し、これを広嗣が咎めたとの旨が記されています。
『元亨釈書』『興福寺流記』『七大寺年表』『扶桑略記』には玄昉が藤原宮子(聖武天皇の母親)と密通したとあります。

藤原広嗣は玄昉が密通しているので天地に厄災が起きたと訴えたのかもしれませんね。
しかし訴えは聞き入れられず、藤原広嗣は大宰府で挙兵しますが破れて、処刑されました。 (藤原広嗣の乱)

福智院 桜 


●藤原広嗣を祀る神社をなぜ鏡神社というのか

奈良の新薬師寺の隣に藤原広嗣を祀る鏡神社があるんですが、藤原広嗣を祀る神社をなぜ鏡神社というのでしょうか。

氷室神社 枝垂れ桜 南都鏡神社 『鷹乃井と鏡池の謎』  ← こちらの記事にも書いたのですが~

額田王が大海人皇子に送った次の歌を鑑賞してみてください。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る/額田王
(紫草の生えた野で、野守に見られてしまうではないですか。あなたが私に袖を振っているのを。)


天智天皇・大海人皇子(のちの天武天皇)・額田王は三角関係だったとする説があります。
すると野守とは「いけない男女関係を見張る人」の比喩であるように思われます。

そして能に「野守」という演目があり、春日野の鬼が持っている鏡のことを「野守の鏡」というとあります。
玄昉と藤原宮子の密通を咎めた藤原広嗣はまさしく野守だといえるでしょう。
そして野守の鏡とは「いけない男女関係」を映し出す鏡なのではないでしょうか。

そういうわけで藤原広嗣を祀る神社を鏡神社というのではないかなあ、と推理しています。

ただ、本当に玄昉と光明皇后や藤原宮子が関係を持っていたかどうかはわかりません。
奈良時代や平安時代の藤原氏には平気で嘘をついて他人を貶めた人物が大勢います。
藤原氏の家訓として「他人は騙してナンボである」というのがあるのではないかと思うくらいです。
なので玄昉と光明皇后や藤原宮子が関係を持っていたというのは広嗣の嘘なのでは、と思ったりはしますが~。

鏡神社


●玄昉、藤原広嗣の怨霊に殺される?

745年、藤原仲麻呂が権力をもつようになり、今度は玄昉が筑紫の観世音寺に左遷されました。
746年、玄昉は筑紫で亡くなりました。

玄昉の死は藤原広嗣の怨霊の仕業であると考えられたようです。
『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄昉を連れ去り、後日、頭のみが興福寺に落ちていたが、これは藤原広嗣の怨霊の仕業であるとの旨が記されています。

去年の春、福智院を訪れたとき、午後5時を回っていて、門は閉められていました。
そんなわけでこのときは参拝はできなかったんですが、以前に参拝をしたことがあります。
お寺の方がお寺の由緒や仏像について丁寧に説明してくださり、おさがりのパインアメをくださいました。(ありがとうございました!)

御本尊は大きな地蔵菩薩座像(像高2.73m、台座から光背までの高さは6.76m)で、その膝元に写真が置かれていました。
どなたの写真なのかと寺の方に伺ったところ、玄昉の写真だということでした。

そして次のようなことを教えてくださいました。

玄昉は大変すぐれた僧侶でしたが、当時権勢を振るっていた藤原氏にねたまれて大宰府の観世音寺に左遷になりました。
その観世音寺で藤原氏に寝込みを襲われて亡くなりました。

玄昉は体がバラバラに切り離されて落ちたところに供養塔をたてたのが頭塔だと伝わっています。
玄昉の命日である6月18日には今でも福智院と頭塔で玄昉忌を行ってます。


頭塔 

↑ 頭塔はこんなピラミッド形の構造物です。奈良時代につくられたものです。
奈良市高畑にありますよ~。



なんと、福智院には玄昉は藤原広嗣の怨霊に殺されたのではなく、藤原氏に殺されたと伝わっているのです!

怨霊に殺されたというのは信じがたいですし、藤原氏に殺されたと考えたほうが理に適っているように思えます。
橘諸兄政権ののち権力を掌握した藤原仲麻呂が、橘諸兄政権の重臣だった玄昉を暗殺したのかも?

頭塔 石仏 

頭塔の石仏



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[2016/04/14 14:57] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 桜 『蠣貝に足踏ますな』  

奈良県桜井市 長谷寺
撮影 2015年4月4日


長谷寺 桜2 

●伯瀬は死の国?


以前の記事、長谷寺 紫陽花 『泊瀬は死の国?』  に衣通姫伝説について書きました。

第19代允恭天皇(376?-453)には木梨軽皇子と軽大娘皇女という同母兄妹があり、
二人は禁忌とされていた近親相姦に陥り、周囲にも二人の関係がばれてしまいます。
群臣たちの多くは木梨軽皇子を次期天皇に立てたいと思っていましたが、
この一件で群臣たちは木梨軽皇子・弟の穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)を支持するようになりました。
允恭天皇崩御後、木梨軽皇子は大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)と共謀して穴穂皇子を討とうとしました。
しかし大前小前宿禰が裏切ったため木梨軽皇子は捕えられ伊予へ流罪となりました。
軽大娘皇女は兄が帰ってくるのを待っていましたが、待ちきれなくなって兄に会いにいきました。
軽大娘皇女を迎えた木梨軽皇子は次のような歌を詠み、ふたりは自害して果てました。

こもりくの 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち 下つ瀬に 真杙(まぐい)を打ち
斎杙には 鏡をかけ 真杙には 真玉をかけ 真玉如(な)す 我が思う妹(いも)
鏡如す 我が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲ばめ

(泊瀬の河の上流に斎杙を打ち、下流には真杙を打ち、斎杙には鏡をかけ、真杙には真玉をかけ、その鏡のように我が思う妹、その真玉のように我が思う妻、おまえがいるからこそ家に帰りたいと思い、国を偲ぶのだよ。) 

ここに出てくる伯瀬とは長谷寺付近の地名です。
「こもりくの」という枕詞は、『伯瀬』または『志多備』の枕詞ですが、『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
黄泉の国とは死後の国のことです。
同じ「こもりくの」という枕詞を用いるところから、『伯瀬』もまた『死後の国』を意味する地名ではないかと私は推理しました。

長谷寺 桜


蠣貝に足踏ますな 

木梨軽皇子が流罪となって伊予に旅立つとき、衣通姫はこんな歌を木梨軽皇子に贈っています。

夏草の あいねの浜の 蠣貝(かきがい)に 足踏ますな 明かして通れ

(逢って寝るという名の「あいね」の浜の、牡蠣の貝を足で踏まないように、夜が明けてからお通り下さいね。)

「あいねの浜」ってどこにあるんでしょうね。調べてみたけどわかりませんでした。
それはともかく、衣通姫が「あいね」という地名に「逢って寝る」という意味をかけているのが気になります。

古には「逢う」「見る」などの言葉は男女関係を持つことを意味していました。
一般的にこの歌は「貝殻で足を傷つけないように」と衣通姫が木梨軽皇子を気使った歌とされていますが
「あいねの浜」と詠んでいるところを見ると、そういう意味ではなく、もっとセクシーな意味の歌ではないかと思えて仕方ありません。

長谷寺 階段 桜  


歓喜天(聖天さん)は鬼王ビナヤキャがビナヤキャ女神に足を踏みつけられるお姿をしておられます。
なぜこのようなお姿をされているのでしょうか。

伝説によると、鬼王ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれして、「妻になれ」と命じています。
ビナヤキャ女神は鬼王ビナヤキャに「仏法守護を誓うならあなたと結婚する」といい、鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓ってビナヤキャ女神と結婚しました。
この伝説から考えて、女神が男神の足を踏みつけるというのは、女神と男神の和合を表しているのだと思います

おそらく衣通姫はこの歓喜天の伝説を踏まえて「貝に足を踏まれないように」と言ったのだと思います。
そして昔から貝は女性のシンボルの喩えとして用いられてきました。
つまり歌はこういう意味ではないかと思います。

逢って寝るという名の「あいねの浜」で他の女性と浮気なんてしちゃいやよ。
夜「あいねの浜」を通るとあなたは他の女性に逢ってその人と寝るかもしれないわ。だから夜があけてから通ってちょうだいよ!

長谷寺 五重塔 桜 

塔百景2

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[2016/04/13 10:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城 桜 『豊臣秀吉は六本指でバセドウ病だった?』 

大阪市中央区 大阪城
撮影 2013年4月3日

桜ほど美しい花はないけど、桜ほど撮るのがむつかしい花はないね~(とほほ~)

大阪城 しだれ桜 

●豊臣秀吉は六本指だった

太閤さんの寺として大阪市民に親しまれている大阪城です。
(とはいうものの、現在の遺構はほとんど徳川氏によるものなんですが)

今、井上慶雪さんの「本能寺の変 88の謎/祥伝社黄金文庫)を読んでいます。
それで知ったのですが豊臣秀吉って右手が六本指だったそうですね。
ウィキペディアにも記されていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89#.E5.AE.B9.E5.A7.BF

これはトンデモ説でもなんでもなく、フロイスの『日本史』や前田利家の『国租遺言』に記されているとのことです。
親指が2本あって織田信長には「六ツめ」と呼ばれていたそうですが、天下人になるまで隠しもしなかったそうです。

秀吉のことは別に好きでも嫌いでもありませんが、六本指を隠さず堂々としている点はいいですね。

私も生まれつき手の指が曲がっています。
幼いころはじゃんけんでチョキとかパーを出すと驚かれるので嫌でしたが、いつのころからか気にならなくなりました(笑)。

調べてみたら結構、多指症の人って多いんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%8C%87%E7%97%87
http://matome.naver.jp/odai/2141934471676391101
http://jp.reuters.com/article/brazil-6-finger-family-idJPKBN0EY0FW20140623
みなさん、堂々としていてかっこいいです!

大阪城 桜


●豊臣秀吉はバセドウ病だった?


さてフロイスの「日本史」には豊臣秀吉の容姿について、次のようなことも書かれているそうです。
「目が飛び出しており、シナ人のようにヒゲが少なかった。」

目が飛び出すというのは、バセドウ病の症状ですが・・・・。

秀吉はヒゲが少なかったそうですが、こんな風に記されたサイトがありました。

一部の男性では、精子数の減少が起こり、そのため不妊となる場合もあります。若い思春期の男性が甲状腺機能亢進症になった場合、正常な思春期の発達が遅れることがあります。ひげや恥毛が生えてこなかったり、性器が大きくならないこともあります。
http://www.j-tajiri.or.jp/book/c/c08/より引用

ウィキペディア「甲状腺機能亢進症」には次のように記されています。

甲状腺機能亢進症(こうじょうせんきのうこうしんしょう)とは、甲状腺内組織の活動が異常に活発になることにより、トリヨードサイロニン(T3)又はサイロキシン(T4)、或いは両方の甲状腺ホルモンの分泌量(活性)が過剰になる疾患である。

甲状腺機能亢進症の原因として多いのはバセドウ病である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%8A%B6%E8%85%BA%E6%A9%9F%E8%83%BD%E4%BA%A2%E9%80%B2%E7%97%87より引用

そういえば秀吉は女好きだったのに、子宝に恵まれませんでした。
茶々が鶴松・秀頼という子供を産んでいますが、服部英雄氏は「秀頼受胎時、秀吉は名護屋にいたので秀頼の父親は秀吉ではない」との説を説いておられるそうです。

大阪城 大川より 桜

秀吉はバセドウ病だったのかも?



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[2016/04/12 00:44] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

安楽寿院 桜 『鬼王ビナヤキャはなぜ大根が好物なのか』 

京都市伏見区 安楽寿院
撮影 2016年4月5日


この日、安楽寿院に行く予定はしてなかったんですが、近鉄電車の車窓から安楽寿院の桜が見えた!
慌てて竹田駅で降り、安楽寿院へ向かいました。

安楽寿院 桜

ああ~、来てよかった~。

●院政の地・鳥羽離宮

このあたりは平安末期、鳥羽離宮があったところです。
鳥羽離宮には白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇が住み、院政が行われていました。

鳥羽離宮跡 説明板 イラスト(部分) 
↑ 案内板に描かれていた鳥羽離宮の絵(部分)です。
杉山信三さんの復元案に基づき、中西立太さんが描いたものだそうです。
ラブホが林立する現在の町並からは想像もつかない~。

安楽寿院は鳥羽離宮の東殿に造られた仏堂でした。

●鳥羽天皇と三人の皇子


安楽寿院 多宝塔

近衛天皇安楽寿院南陵

鳥羽天皇陵 
鳥羽天皇安楽寿院陵


近くには鳥羽天皇安楽寿院陵と近衛天皇安楽寿院南陵があります。
近衛天皇は鳥羽天皇の第九皇子で16歳という若さで崩御されました。
崇徳天皇・後白河天皇も鳥羽天皇の子ですが、崇徳天皇の本当の父親は白河院(鳥羽天皇の祖父)だとも言われ、鳥羽天皇は崇徳天皇のことを叔父子(叔父にして子であるという意味)と呼んで嫌っていたと言われます。(かわいそう~)
また後白河天皇は大変今様が好きで毎日歌っていたそうです。
後白河が現代に生まれていたら、毎日カラオケに入り浸り、マイクを離さず歌いまくっていたでしょう。
そのため鳥羽天皇は後白河を「天皇の器ではない」と考えていたとか。
鳥羽天皇は早世した近衛天皇を最も愛しており、それで陵も近くにあるのかもしれませんね。

●鬼王ビナヤキャはなぜ大根が好物だったのか


安楽寿院 太子堂 桜

↑ 太子堂です。

1596年の大地震で安楽寿院の新御塔(三重塔)が倒壊しました。
その倒壊した建物の材料を用いてとりあえずみほとけを安置するために建てたそうです。
現在は弘法大師(空海)像を本尊としているそうです。

太子堂の正面に回ってお参りしましょう~♪

安楽寿院 太子堂 桜2 
あれ?

安楽寿院 太子堂 

大根かな?

安楽寿院 太子堂 紋 

大根は聖天さん(歓喜天)のシンボルです。(下は双林院の提灯に描かれた大根)

双林院 提灯

調べてみたところ、やはりこの大師堂には大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王などとともに、歓喜天が祀られているそうです。

これらのみほとけは、旧塔頭で祀られていたものとのことですが、あたかも大師堂のトレードマークであるかのごとく扉に透かし彫りしてあります。

歓喜天とは象頭の男女(鬼王ビナヤキャ&ビナヤキャ女神)が抱きあうお姿の神です。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kannki.htm
↑ こちらのサイトに歓喜天の絵が掲載されています。

安楽寿院 書院・庫裏 桜

なぜ大根が歓喜天のシンボルなのかというと、歓喜天は鬼王ビナヤキャとビナヤキャ女神の男女双体の神なのですが
鬼王ビナヤキャの好物が大根とされているのです。

大根は直根の先端にある生長点が石ころなどにあたると、側根が肥大して二股になってしまうことがよくあるそうです。

東京の待乳山聖天の境内にはいたるところに交差する二股大根のモチーフがあります。
http://matome.naver.jp/odai/2142587345229219301
そして待乳山聖天の二股大根はヒトの下半身を表しているとも言われます。

歓喜天の男神・鬼王ビナヤキャの好物は大根とされますが、それは女性の下半身が好きだと、そういう意味なのではないでしょうか。

安楽寿院 薬師堂 桜 

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[2016/04/10 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

本法寺 桜 『日蓮宗の神々』 

京都市上京区 本法寺
撮影 2016年4月5日


桜満開ですごくきれいだったんですが、夕方に行ったもんで
逆光でフレア入りまくるわ、桜に強い影が落ちてるわ・・・であんまりいい写真が撮れなかった~。

本法寺 多宝塔 桜3 

多宝塔 塔百景1

この日、地下鉄鞍馬口駅で降りて、妙顕寺・本法寺・妙蓮寺・立本寺などへお参りしました。
全て日蓮宗のお寺ですね。
3月29日にお参りした京都御所の東北にある本満寺も日蓮宗のお寺でした。 
日蓮宗ってあんまり知らなかったんですが、桜の名所が多いせいでこの春はいろいろと勉強することができました。

本法寺 摩利支天堂 桜 
↑ 境内には摩利支天堂がありました。
摩利支天堂の右には北辰殿があり、妙見大菩薩、鬼子母神、七面大天女、大黒天を祀っています。

七面大天女とは七面大明神のことだと思います。
本満寺の境内にも妙見菩薩、七面大明神を祀るお堂がありましたし、
妙顕寺境内にも妙見菩薩を祀る小さな社がありました。
また、妙顕寺・本法寺には刹堂(鬼子母神堂)がありました。

本法寺では妙見菩薩、鬼子母神、七面大明神のほかに、大黒天と摩利支天を祀っているのですね。

大黒天と鬼子母神は日蓮宗の脇侍なのだそうです。
日蓮宗の仏壇にも飾られるそうです。
http://www.memoriarubutsudan.com/item14_butuzou/h2044-h2046.html
上のサイトに日蓮宗の仏壇の写真があります。

大黒天は男性のシンボルを象ったものであるとよく言われます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9#.E6.B0.91.E9.96.93.E4.BF.A1.E4.BB.B0

そして鬼子母神は子供を抱く女神像で表されます。
つまり大黒天と鬼子母神は夫婦の神、生殖の神ということなのでしょう。
なぜ、日蓮宗ではこのような夫婦の神を祀っているのでしょうか。
男女双体の神、大聖歓喜天や道祖神、陰陽道などと関係ありそうですが、これは今後の宿題としてじっくり考えてみたいと思います。

本法寺 本堂 桜
 
本堂

次に摩利支天についてですが、この神も日蓮宗でよく祀られる神だそうです。

摩利支天は陽炎を神格化した神で、男神像もありますが、女神像もあります。
そしてどうやら道教の神・斗母元君(とぼげんくん)と習合されているようです。
斗母元君とは「陽炎」「日の光」という意味です。
中国の伝説に登場する龍漢・周御王の妃・紫光夫人が斗母元君だとも言われています。
紫光夫人は天皇大帝、北極紫微大帝、北斗七星(貪狼星・巨門・禄在・文曲・廉貞・武曲・破軍)を産んだとされます。
天皇大帝とは北辰(天の北極)を神格化した神、北極紫微大帝(ほっきょくしびたいてい)は北極星を神格化した神です。

日蓮宗では妙見菩薩と七面大明神を祀ることが多いということを思い出してください。
妙見菩薩は北極星を神格化した神です。
そして七面大明神は北斗七星を神格化した神だとする説があります。
妙見菩薩は北極紫微大帝と習合されていると考えられます。

そして斗母元君は北極紫微大帝(=妙見菩薩)と北斗七星(=七面大明神)の母親で、さらに摩利支天と同じ陽炎を神格化した神です。

日蓮宗の寺院に摩利支天が祀られているのは、妙見菩薩と七面大明神の母神だからではないでしょうか。



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[2016/04/09 10:33] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

水火天満宮 しだれ桜 『平敦盛は皇統だった?』 

京都市上京区 水火天満宮
撮影 2016年4月5日


地下鉄鞍馬口付近って桜の名所がてんこもり~♪
それなのに人が少なくてゆったり撮影できました。(平日だったせいもあるけど)

前回、ご紹介した妙顕寺の近くに、水火天満宮があります。
水火天満宮って「すいかてんまんぐう」と読むんですね。
西瓜と関係ある?ない?

狭い境内いっぱいにしだれ桜が枝を伸ばし、まるでピンク色の傘をさしているかのよう。

水火天満宮 しだれ桜 
923年、醍醐天皇は都の水害・火災を鎮めるため、菅原道真の師・延暦寺の尊意に菅原道真を祀る神社創建せよと命じました。
923年6月25日、尊意は醍醐天皇より『水火の社天満自在天神宮』という神号を賜り、菅原道真の心霊を勧請したとのことです。

●若武者を殺したくらいで出家してたら、武士なんてやってられない。

さて、この水火天満宮さんの神宝物に野太刀がありまして、あの熊谷直実が霊夢を見て寄附したものだそうです。

熊谷直実については、以前の記事にも書いています。
光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』 
金戒光明寺 紅梅 直実鎧掛けの松 『敦盛殺害を悔い仏門に入った直実』 

そう、美少年・平敦盛殺害を悔いて出家された方ですね。
水火天満宮の神宝物・野太刀とは敦盛の首を斬った刀なのかもしれませんね。

一般には、敦盛が我が子・小次郎(熊谷直家)と同じくらいの若武者だったため、熊谷直実は自責の念にとらわれ出家したとされています。
でも若武者を殺したくらいで自責の念にとらわれていたら、武士なんてやってられないと思うんですよ。
直実の出家にはもう少し深い事情があったのではないでしょうか。

●小次郎は双子の片割れの通称名?

熊谷直実の長男・直家は小次郎という通称名でした。
父の直実が次男で通称名が次郎であったので、その息子ということで小次郎なのでしょうか。
平将門の通称も小次郎でしたが、平将門は三男です。

私は平将門と空也は同一人物だと考えています。
いや、空也とは平将門の首のことだと言ったほうがいいかもしれません。

平将門と空也は同じ903年の生まれです。
そして平将門を討伐した平貞盛が殺生を悔い空也堂をたてています
空也堂は平将門を慰霊するための寺で、御本尊は平将門をイメージしたものだと考えられます。
しかし、空也堂の御本尊は空也像なのです。

空也堂 空也踊躍念仏  
空也堂 空也忌

そして空也堂で行われている空也忌は空也の命日ではなく、空也が東国へ旅立った日に行われています。
将門の首は京の鴨川のほとりで晒されていましたが、あるとき飛び上がって東国に向かったという伝説があります。
空也が東国に旅立った日とは、将門の首が東国へ旅立った日なのではないでしょうか?

西光寺 空也塔 

西光寺 空也塔

西光寺にある空也塔は首桶の形をしていますし。
http://gensun.org/?img=23%2Epro%2Etok2%2Ecom%2F%7Efreehand2%2Frekishi%2Fimg2%2Fkubioke%2D01%2Ejpg
↑ こちらは阿弖流為の首桶

そして空也は醍醐天皇の第二皇子と伝わっていますが、醍醐天皇の第二皇子は保明親王です。
保明親王は空也と同じ903年の生まれですが、923年に早世しています。
空也の生没年は903-972年です。
(空也=平将門だと思うので、実際の没年は将門と同じ940年ではないかと思いますが。)
保明親王と空也が双子だったとしたら、どちらも醍醐天皇の第二皇子といっても間違いではないでしょう。
さらに、空也と平将門は同一人物だと考えられるので、保明親王と平将門は双子ではないか、平将門の通称・小次郎とは双子の片割れを意味しているのではないかと思うのです。

すると熊谷直実の子・直家が小次郎という通称名なのは、やはり彼が双子の片割れなのではないか。
同年の生まれの敦盛は直家の双子の兄弟なのではないか。
直実は敦盛を見て、息子・直家(小次郎)と同じくらいの年頃なので、直家(小次郎)の双子の兄弟かもしれないと思い、首をとるのを躊躇したのではないか、と思えるのです。

詳しくはこちらの記事をお読みください。→ 光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』 

●鳥羽院ゆかりの笛・小枝を敦盛が譲り受けていたことの意味


もしも、この推理が正しいとすると、熊谷直実・熊谷直家・平敦盛はいったいどういう関係なのでしょうか。
光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』  で、3つの可能性をあげておきました。

①藤の方(敦盛の母親)は直実の子を宿したまま平経盛の妻となり、双子の敦盛と直家(小次郎)を産み、敦盛は平経盛の子、直家(小次郎)は直実の子とした。

②敦盛と熊谷直美の子・直家(小次郎)は双子で父親は後白河法皇だった。
敦盛は平経盛の子として、直家は熊谷直美の子として育てられた。
(かつて双子は忌むべき存在とされており、双子の存在を隠すため)

③敦盛と直家(小次郎)はどちらも平経盛の子であったが、直家(小次郎)を熊谷直実の養子とした。

私は②ではないかと思います。

というのは敦盛は祖父の平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』という笛を譲りうけており、大変笛を吹くのがうまかったというのです。

笛の名前が『小枝』というのが意味深ですね。『一枝を伐らば、一指を剪るべし』を思わせます。
『一枝を伐らば、一指を剪るべし』は、直実と敦盛の話を脚色した歌舞伎の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』で
直実の陣屋前の桜にかけてあった制札の文言です。
「天皇家の血を引く者を殺したならば、自分の子孫を殺さなければならない」みたいな意味でしょうか。
『一枝』は敦盛、『一指』は直家(小次郎)の比喩でしょう。

そしてその笛が鳥羽院から賜ったものであるというのは、敦盛が皇統であることを示しているのではないでしょうか。

敦盛の父親は鳥羽院なのかな、とも考えましたが第74代・鳥羽院は1156年に崩御されており、敦盛が生まれたのは1169年ですからありえません。
第75代の崇徳天皇も崩御年が1164年、第76代の近衛天皇も崩御年は1155年で敦盛が生まれる前に崩御されています。
第77代の後白河天皇の生没年は1127年ー1192年です。
敦盛が誕生したとき、42歳ですから、後白河が敦盛の父親というのはありえます。

平貞盛が殺生を悔いて空也堂をたてたという話をしました
が、平貞盛も熊谷直実も、天皇の子を殺害した罪悪感から出家の道を選んだのかもしれませんね。

また水火天満宮が創建された923年に醍醐天皇の皇太子だった保明親王が早世されていることにも注意してください。
醍醐天皇は保明親王の死を道真の怨霊の仕業だと考え、それで水火天満宮を創建したのでしょう。



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[2016/04/08 10:46] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

立本寺 しだれ桜 妙顕寺 桜 『ここにもあった、幽霊子育飴伝説。』 

京都府上京区 立本寺 妙顕寺
撮影 立本寺/2016年3月29日 妙顕寺/2016年4月5日


立本寺 しだれ桜3

立本寺 本堂  3月29日

立本寺って「りゅうほんじ」と読むんですね。
勝手に「りっぽんじ」だと思いこんでて(アホ)、フィギュアスケートのアダム・リッポンと同じ名前だあ~、思ってました(バカ)。
世界選手権のアダム・リッポン、素晴らしかったですね!
四回転ルッツ着氷! 両手を上げてのジャンプ、高いバレーシャンプ、すごい角度のイーグル!美しいーー!
動画はここ→https://www.youtube.com/watch?v=oYMR4x75azU

4月5日にも立本寺に行きました。↑ 写真のしだれ桜は終わっていましたが、ソメイヨシノが満開でした。
が!
すっかり日が暮れて境内は真っ暗。とても撮影できる状態ではなく、泣く泣く撮らずに帰ってきました・・・(大バカ)。

妙顕寺 桜2 
妙顕寺 4月5日

●立本寺と妙顕寺

さてさて、この立本寺は妙顕寺というお寺と深ーい関係があります。

1321年、日蓮の弟子・日像が妙顕寺を創建したのですが、2度に渡り延暦寺の襲撃を受けて壊されてしまいました。
その後、日実と月明がそれぞれ寺を再興し、日実が再興した本応寺と、月明が再興した妙本寺は対立するようになります。
この本応寺が寺号を改めて立本寺となりました。
そして妙本寺は寺号をもとの妙顕寺に戻したのです。

妙顕寺-桜3 
妙顕寺 4月5日

●立本寺の幽霊子育飴

立本寺では幽霊子育飴を授与しています。
幽霊子育て飴って、どこかで聞いた名前ですね?
そうそう、以前の記事 幽霊子育飴 『四十九日に人間界に生まれ変わった話』 にも幽霊子育飴の話を書きました。
京都市東山区には六道の辻と呼ばれる辻があり、かつての鳥辺野の風葬地の入り口に位置していました。
このあたりは六原と呼ばれていますが、髑髏がごろごろと転がっていたため、髑髏原が転じて六原になったともいわれています。

幽霊子育て飴

↑ 上の写真は六道の辻にある『みなとや』さんで買った幽霊子育飴です。
添加物は使っておらず、すごく優しい味!
おみやげにおススメですよっ。

幽霊子育飴の由来は次のようなものです。

慶長4年(1600年)、江村氏の妻が亡くなって土葬にしましたが、土の中から鳴き声が聞こえるので掘り返してみると、亡くなった妻が産んだ子がいました。
そういえば、夜な夜な飴を買いに来る女性がいましたが、土の中から幼児が発見されてからはやってきません。
幼児は8歳で出家して高僧となり、68歳で亡くなりました。


http://honzan-ryuhonji.com/yureiame.html
↑ リンク先は立本寺で授与している幽霊子育飴です。
立本寺のロゴが入っている以外は、ほとんど同じですね。

その由来も、死んだ女が幽霊になって飴を買いにきて、飴で子供を育てるというものでほとんど同じです。
ただ幽霊の子供が生んだ赤ん坊が立本寺第二十世・霊鷲院日審上人となっています。

立本寺の近くには昔、付喪神たちが百鬼夜行したと伝わる一条通がありますし、蓮台野の風葬地にも近いです。
それで幽霊子育飴伝説があるのかなあ、と思っていたんですが、
もしかしたら、それだけではないかも?

立本寺 しだれ桜2 
立本寺  刹堂(鬼子母神堂) 3月29日

●子煩悩な神・鬼子母神

立本寺は日蓮宗の寺院で、刹堂(鬼子母神堂)で鬼子母神を祀っています。
鬼子母神は、法華経の守護神とされ、日蓮宗や法華宗の寺院で祀られることが多いのです。

鬼子母神は500人の子を持つ母で、子を育てるための栄養をつけるために人間の子を食べていました。
お釈迦さまは彼女の子のピンガラを鉢に隠しました。
鬼子母神は必死になって探しましたがピンガラは見つかりませんでした。
釈迦は鬼子母神に言いました。
「500人もの子を持っているのに、一人の子を失っただけでそんなに辛いのだ。
ただ一人の子を失う親の辛さがわかっただろう。
今後は人間の子を食べないようにしなさい。」
そういって釈迦はピンガラを鉢の中から出しました。


日蓮宗では鬼子母神を鬼形に表すこともあります。
また中国では鬼とは死者の霊魂のことをいいます。
つまり鬼とは幽霊だといってもいいでしょう。
そして鬼子母神はたいへん子煩悩な神なので、幽霊子育飴伝説と結び付けられたのではないでしょうか。

日審上人は鬼子母神の子、というわけです。

妙顕寺-桜

妙顕寺 たぶん鬼子母神堂 4月5日

妙顕寺には子育飴伝説は伝わっていないんですかね?



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[2016/04/07 15:25] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』 

京都市 光明寺
撮影 2016年4月1日


光明寺 桜4 
●若武者の首をとるのは武士として当たり前。それなのになぜ直実は出家するほど悔いたのか。

光明寺は法然の弟子の蓮生が1198年に念仏三昧堂を建てたことに始まります。
光明寺のhpにある境内図を見てみましたが、現在は念仏三昧堂はないようですね。

蓮生とは源氏方の武将の熊谷直実のことです。
熊谷直実のことは以前の記事・金戒光明寺 紅梅 直実鎧掛けの松 『敦盛殺害を悔い仏門に入った直実』 にも書きました。

熊谷直実は1184年の一の谷の戦いで平家の若武者の首をとろうとしましたが、顔を見ると自分の息子と同じくらいの年齢でした。
直実は若武者を逃がそうとしましたが、周囲には他の源氏の兵が大勢います。
他の者に殺されるくらいならばと直実は泣く泣く若武者の首を斬りました。
首実験したところこの若武者は平敦盛17歳とわかり、直実は出家して敦盛の供養をしました。
(平家物語 敦盛最後)


1193年ごろ、直実は法然の弟子となって出家しています。
それは自分が敦盛を殺したことを悔やんでも悔やみきれなかったためでしょう。
法然にすすめられて敦盛の七回忌の供養も行っています。

 けれど私は疑問に思うのです。
戦で相手方の武者の首をとるのは当たり前のことですし、若い武者は敦盛だけでなく他にもいたことでしょう。
自分の息子と同じくらいの年齢の武者の首をとったからといって自責の念にかられているようでは武士なんてやってられないと思うんですね~。
直実が出家するほど敦盛の首をとったことを悔いたのは、単に敦盛が自分の子供と同じくらいの年齢だからというだけではないのではないでしょうか。

堀五郎さんの「BL新日本史 」の表紙に描かれたイラストは熊谷直実が敦盛の首をとろうとして顔を覗き込み、敦盛の美しさに胸キュンになっているシーンですね。
堀五郎さんは熊谷直実と敦盛の関係に精神的なBL を感じられたようです。

私はBL好きの変態ですが(笑)、熊谷直実は敦盛が美少年で一目ぼれしてしまったため、敦盛を殺害したことを悔いたのではないような気がします。

光明寺 桜2  

●一谷嫩軍記

歌舞伎の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』ではこの話は脚色されて次のような筋になっています。

直実の陣屋前の桜の木に「一枝を伐らば、一指を剪るべし」の制札がかけてあります。
そこへ一谷合戦で敦盛を討った熊谷直美が戻ってきます。
直実の陣屋では直実の主君の源義経が待っていました。
直実は源頼朝に首桶をさしだしましたが、首桶に入っていたのは敦盛ではなく、直実の子・小次郎の首でした。
しかし義経は首実験をして「敦盛に間違いない」と断言しました。
敦盛の本当の父親は後白河法皇であったため、義経は敦盛の命を助けよと、直実に命じていたのです。
桜の木に「一枝を伐らば、一指を剪るべし」の制札がかけてあったのは、それはそういう意味だったのです。
そのため直実は同じ年頃の小次郎を身代わりにしたのでした。
子を失った直実は出家しました。


これは脚色されたもので、直実の子・小次郎(熊谷直家)は敦盛と同年の生まれですが、実際には熊谷氏の当主となって52歳まで生きています。


光明寺 桜3

●平将門と空也は同一人物だった?

私は熊谷直家の通称が小次郎であったことが気になります。
直家は直実の長男なのになぜ小次郎という通称だったのでしょうか?
直実は熊谷直貞の次男で、通称が次郎でした。
直家は次郎と呼ばれた直実の息子ということで小次郎と呼ばれていたのでしょうか?

平将門も小次郎と呼ばれていました。
しかし将門には兄が二人いたので三男です。
それなのになぜ小次郎と呼ばれていたのでしょうか?

実は私は平将門と空也は同一人物ではないかと考えています。
その理由は次の通りです。
①どちらも生年が903年で同じ。
②空也堂は殺生を悔いた平貞盛が空也上人を開基といて建てた寺とされています。
平貞盛は平将門を討伐するために派遣された人物で、貞盛は平将門を殺したことを悔いたのだと思われます。
つまり空也堂は平将門を慰霊するための寺だと思われますが、御本尊は空也像です。
これは平将門と空也が同一人物であるということではないでしょうか。
③空也堂で行われている空也忌は空也がなくなった日ではなく、空也が東国に旅立った日です。
将門の首は京の鴨川のほとりで晒されていましたが、あるとき飛び上がって東国へ向かったという伝承があります。
将門の首が東国へ旅立った日が空也忌とされているのではないでしょうか。
④西光寺に空也塔がありますが、首桶の形をしています。
またその蓋は蓮の葉をデザインしたもので、蓮阿弥陀仏という法名を持つ平将門を思わせます。

西光寺 空也塔 

↑ 西光寺 空也塔 下記リンク先の首桶の写真と見比べてみてください。

http://gensun.org/?img=23%2Epro%2Etok2%2Ecom%2F%7Efreehand2%2Frekishi%2Fimg2%2Fkubioke%2D01%2Ejpg

※詳しくはこちらの記事「土蜘蛛の謎」をお読みください。→ http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-9.html

●空也は醍醐天皇の第二皇子だというけれど、醍醐天皇の第二皇子は保明親王なんですが?

さらに空也を開基とする六波羅光寺では、空也は醍醐天皇の第二皇子と伝えています。
うーん、でも醍醐天皇の第二皇子って醍醐天皇の皇太子だった保明親王なんですよ。
保明親王の生年は空也や平将門と同じ903年ですが、923年、20歳で早世しています。
空也が醍醐天皇の第二皇子ということは、空也とはこの保明親王と同一人物で、さらに平将門とも同一人物ということでしょうか?
そうではなく平将門(=空也?)は保明親王の双子だったのではないでしょうか?
とすれば、空也(=平将門?)と保明親王がどちらも醍醐天皇の第二皇子であるといってもおかしくありません。

光明寺 桜

●小次郎とは双子の片割れであることを示す名前?

もしも平将門(=空也?)が保明親王の双子だったとすると、平将門は双子の片割れであったため、小次郎と呼ばれていたのではないかとの推測がなりたちます。

すると、熊谷直美の長男で小次郎と呼ばれた直家も双子の片割れだったのではないか。
そして双子のもうひとりは同年の生まれで直美が首をとった敦盛だったのではないか、と思ったりするのです。

かつて双子は畜生腹として忌まれ、双子の片割れは殺されたり、里子に出されたりしたといいます。
三笠宮様も双子で、奈良の円照寺門跡・山本静山尼が双子の妹宮ではないかという説もあります。
http://www.geocities.jp/nanamaru28/syo/jk/kawahara.html
つまり双子は忌むべき存在であったため、双子であることを隠す必要があり、双子の兄弟は引き離されたわけです。

平敦盛と熊谷直家(小次郎)が双子であったとすると、いくつかのケースが考えられます。

①藤の方(敦盛の母親)は直実の子を宿したまま平経盛の妻となり、双子の敦盛と直家(小次郎)を産み、敦盛は平経盛の子、直家(小次郎)は直実の子とした。
②敦盛と熊谷直美の子・直家(小次郎)は双子で父親は後白河法皇だった。
敦盛は平経盛の子として、直家は熊谷直美の子として育てられた。
③敦盛と直家(小次郎)はどちらも平経盛の子であったが、直家(小次郎)を熊谷直実の養子とした。

熊谷直実は最初は平家の武士で、途中から源氏方の武士になっています。
なので平経盛の子を養子にもらうなんてこともありえたかも。

こういう事情があったとすれば、直実が敦盛殺生を悔いて出家していまった心情が理解できるんですが~
やっぱりトンデモですか?

光明寺 みつばつつじ 

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[2016/04/06 00:06] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

伏見の春 長建寺 『遊女たちの守護神を祀る寺』 


京都市伏見区 長建寺
撮影 3月25日、4月1日


松本酒造 菜の花 撮影 3月25日

↑ 住吉酒造さん・・・じゃなかった、松本酒造さんです。
菜の花はあまり咲いていませんでしたが、素敵な建物なのでパチリ。
創業1791年、この建物は大正11年に建てられたもので近代化産業遺産に認定されています。

坂本龍馬 避難の材木小屋跡 

↑ 松本酒造さんから大手筋通を東に歩いていくと「坂本龍馬 避難の材木小屋跡」と記された石碑がありました。

寺田屋 椿 
撮影 3月25日

石碑の東南に寺田屋さんがあります。
1866年、ここで宿泊していた坂本龍馬が幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに襲撃されるという事件がおきました。
龍馬はさきほどの材木小屋に逃れ、薩摩藩邸にいた大山彦八に救出されて助かりました。

伏見酒蔵 
撮影 4月1日


伏見はかつて伏水と記されていたそうで、豊かに湧き出る地下水を利用して昔から酒造りが盛んでした。
今でもたくさんの酒蔵が軒を連ねていますよ。

伏見 十石舟 
撮影 4月1日


1950年ごろまで、宇治川のほとりに伏見港があり三十石舟が伏見↔大阪間を行き来していました。
伏見濠川をいく観光用の十石舟が当時の賑わいを偲ばせます。

長建寺 桜2 
撮影 4月1日

伏見濠川のほとりにある長建寺はもうひとつの伏見の歴史を物語ります。
伏見中書島界隈はかつて遊郭だったそうです。
昭和33年の売春防止法で遊郭は廃止となったのですが。

かつて長建寺は遊郭が立ち並ぶ中にあり
御本尊の八臂弁財天は、技芸上達の神として遊女たちの信仰を集めていたそうです。

長建寺では宝貝守というお守りを授与しているそうです。
残念ながら買いそびれたので、今度行ったときにはぜひ買いたいです(笑)。

宝貝守の説明書には「貝は開運に通じ、貝は古代通貨の始まり、生命の根源である。」と記されているそうです。
「貝’(かい)は開運(かいうん)に通じ、貝は古代通貨の始まり」というのはわかります。
「貝が生命の根源である」とはどういうことでしょうか。

このお守り、片面は穴の開いた5円玉のようなコイン型のデザインなんですが
もう片面は女性のシンボルを象ってあるんですね~。

こちらのサイトの下のほうに写真が掲載されています。↓
http://www.cyzowoman.com/2012/05/post_5529.html

昔から貝は女性のシンボルに喩えられることが多かったようです。
それで「貝は生命の根源」であり、宝貝守と名付けられているのでしょう。

こういうお守りを授与しているのは、かつてこの付近が遊郭で遊女たちの信仰を集めていたことに関係するんでしょうね。

長建寺 桜 

撮影 4月1日

大聖歓喜天という仏教の神がいます。
大聖歓喜天は鬼王・ビナヤキャと十一面観音の化身・ビナヤキャ女神の男女双体の神で
二神が抱きあい、ビナヤキャ女神がビナヤキャの足を踏みつける姿で現されます。

鬼王ビナヤキャは大変祟る神であったのですが、ビナヤキャ女神にひとめぼれし、仏法守護の神になることを条件にビナヤキャ女神は鬼王ビナヤキャの妻となったのです。
また男神は荒魂で女神は和魂とする説もあります。
長建寺の御本尊は女神の弁才天ですが、ビナヤキャ女神と習合されているのではないでしょうか。

そして中書島の遊女たちはビナヤキャ女神や弁才天の化身だと考えられていたのではないかと思ったりします。

伏見 酒蔵 雪柳 
撮影 3月25日

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[2016/04/04 13:55] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

十輪寺 なりひら桜 渚の院 淡墨桜 『世の中に たえて桜の なかりせば』 

京都市西京区 十輪寺
大阪府枚方市 渚の院
撮影日 2016年4月1日

十輪寺 しだれ桜

●文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願するはずがない。

十輪寺は文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願した場所と伝わります。
ですが、これは事実とは思われないです。

文徳天皇には紀静子との間に長子の惟喬親王(これたかしんのう)、藤原良房の娘・藤原明子との間に惟仁親王(これひとしんのう/のちの清和天皇)がありました。
そして文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと源信に相談しています。
文徳天皇が世継ぎにしたいと考えていたのは藤原明子所生の惟仁親王ではなく、紀静子所生の惟喬親王だったのです。
源信は当時の権力者・藤原良房を憚って文徳天皇を諌め、惟仁親王が皇太子になったのですが。

十輪寺は文徳天皇の勅願所から藤原北家の菩提寺になったということなので
「文徳天皇が藤原明子の世継ぎ誕生を祈願した」というのは藤原氏がでっちあげた嘘だと思います。

●在原業平と紀氏、藤原氏の関係

十輪寺が別名を「なりひら寺」というのは、晩年の在原業平がここに隠棲していたためであるとの伝説も伝わっています。

業平は惟喬親王の寵臣で、また紀静子の兄・紀有常の娘を妻としていて完全に紀氏側の人間でした。
また世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、歌会と称してクーデターを計画していたのではないかとも言われています。
在原業平は惟喬親王の歌会のメンバーであり、クーデターの首謀者だったのではないかとする説もあります。
在原業平はなぜか「色好み」ばかりがクローズアップされていますが、政治的に不遇で、反骨精神にあふれた人物であったのです。

十輪寺は藤原北家の菩提寺だったということを思い出してください。
藤原氏と仲の悪い在原業平が藤原北家の菩提寺に隠棲したりするでしょうか。
もしかすると、十輪寺はもともとは紀氏の寺であったのが、のちに藤原氏に奪われたのかもしれません。

藤原氏が紀氏の土地を奪ったと思われる例として、山背国紀郡深草里(京都市伏見区)があります。
紀郡とは紀氏の本拠地であったところからつけられた地名とされますが、のちに勢力を増した秦氏や藤原氏の土地になったと考えられています。

花に喩えられた藤原明子

十輪寺の回廊で囲まれた中庭には美しいしだれ桜があり、なりひら桜と呼ばれています。

十輪寺 しだれ桜2 
しかし江戸時代後期に描かれた都名所図会 旧十輪寺風景には桜は描かれていません。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_332.html
この桜は推定樹齢200年ということですが、それ以前には桜はなかったのでしょう。
この桜がなりひら桜と呼ばれているのは十輪寺が別名をなりひら寺というところからくるものだと思います。

でも、私にはこの桜はなりひらのイメージというよりは、藤原良房の娘・藤原明子のイメージが感じられます。

というのは藤原良房がこんな歌を詠んでいるからです。

染殿の后のおまへに花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房

染殿の后とは藤原良房の娘、明子のことです。
その明子の前にいけた桜の花を見て、「自分は年をとったが、美しい花を見れば悩みなどない」と良房は歌を詠んだのです。
桜は娘・明子の喩えでしょう。
美しい明子が文徳天皇に入内して清和天皇を産んだので、自分は天皇の外祖父となって政治の実権を握ることができた、というわけです。

そして在原業平は惟喬親王のお伴をして大阪の渚の院で花見をした際、次のような歌を詠んでいます。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

世の中に桜というものがなかったならば、もっとのどかな気持ちで春を迎えられるのに、というのですね。
一般には、桜が美しすぎるため、見る人の心をそわそわさせるという意味だとされていますが
業平は良房の歌をうけてこの歌を詠んだのではないかと私は考えています。
つまり、桜とは藤原明子のことで、「明子がいなかったなら、清和天皇が生まれることはなく、私がお仕えする惟喬親王が天皇になっていたのに。明子など消えてしまえ。」という意味ではないかと思うのです。

また鐘楼から少し離れたところに業平紅葉と呼ばれる楓の木があります。
都名所図会(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_332.html)を見ると鐘楼から少し離れた向かって右あたりに楓のような木があります。
都名所図会が描かれた江戸末期、十輪寺になりひら桜はなかったようですが、業平紅葉はあったのかもしれません。

十輪寺 業平紅葉 

業平紅葉はなりひら桜(私は藤原明子桜だと思っていますが)が植えられている中庭の外にあります。
桜=藤原明子は、周囲の回廊によって業平紅葉から守られているように見えました。

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[2016/04/02 16:33] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)