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本満寺 しだれ桜 『七面大明神は北斗七星の神?』 

京都市上京区 本満寺
撮影 2016年3月29日

●七面大明神は北斗七星の神?


京都御苑の東北に日蓮宗のお寺・本満寺があります。

本満寺 しだれ桜4   

↑ 向かって左は妙見菩薩を祀るお堂です。

日蓮宗の開祖・日蓮は千葉神社(千葉妙見宮)への信仰が熱く、また日蓮宗を厚く信仰していた千葉氏が妙見菩薩を一族の守護神としていたため、妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多いとされています。

↓ 向かって右のお堂には「七面大明神」と記した提灯がつるされていました。

本満寺 しだれ桜3 

七面大明神はもともとは日蓮宗総本山・身延山久遠寺の守護神でしたが、しだいに法華経を守護する神として信仰されるようになり、日蓮宗の寺院でおまつりされるようになったそうです。

七面大明神は七面山山頂にある敬慎院に祀られている神と同じ神で、吉祥天または弁才天だとされています。
敬慎院の裏にある一ノ池の龍がという小さな池があり、ここに住んでいた竜が心を入れ替えて七面大明神になったとか
厳島の弁才天が七面山の池で入水して大蛇となり、法華経の霊山である身延山を護る七面天女となったと いう伝説が残ります。

日蓮宗寺院で祀られることが多い妙見菩薩は北極星を神格化した神とされています。
とすれば、七面大明神は北斗七星を神格化した神なのではないでしょうか?

若尾五雄さんも著書『黄金と百足』の中で七面大明神とは北斗七星の神であるとおっしゃているそうです。
(読んでいないのですが~)

本満寺 しだれ桜

● 六歌仙と北斗七星

高田祟史さんは、六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)は全員、藤原氏の他氏排斥の犠牲者=怨霊であると説かれました。

喜撰法師は紀名虎またはその息子の紀有常だとする説があります。
紀名虎の娘の静子は文徳天皇に入内し惟喬親王を産みました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子につけたいと考えていました。
しかし、源信に諌められて時の権力者・藤原良房の娘・明子が産んだ惟喬親王を皇太子としました。

在原業平は紀有常の娘を妻としていて、紀氏側の人間でした。

遍照は藤原良房にすすめられて出家しています。

文屋康秀の文屋は文室と記されることもあり、文室宮田麻呂の子孫と思われますが、文室宮田麿は無実の罪をきせられて流罪となっています。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、大伴家持とほとんど同じ内容の歌が残っています。
私は大友黒主とは大伴家持のことだと考えています。
大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとしてすでに死亡して埋葬されていたにもかかわらず、死体が掘り出されて流罪となっています。

残る小野小町について、井沢元彦さんは惟喬親王が小野宮と呼ばれていたことから、惟喬親王の乳母ではないかとおっしゃっていますが
私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことだと考えています。
小野小町は古今和歌集に登場する歌人ですが、古今和歌集には男の歌人が女の身になって詠んだ歌がたくさんあります。
また古今和歌集仮名序を書いた紀貫之は自らを女と偽って「土佐日記」を記しています。

そして高田祟史さんは六歌仙+惟喬親王は北斗七星の神とされ、永遠に北極星の周囲をまわり続けるという呪術をかけられているとも説かれました。

日蓮宗が開かれたのは六歌仙の時代の後の鎌倉時代のことです。

日蓮宗の寺院が妙見菩薩(北極星の神)と七面大明神(北斗七星の神?)を祀っているのが気になります。
日蓮宗とは六歌仙の怨霊を鎮魂するための宗教だったのかも?

↓ こちらに関連記事を書いています。よかったら読んでいただけると嬉しいです♪

渡月橋 法輪寺 ライトアップ 『小野小町は男だった?』 
祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 
松尾寺 百合 『六歌仙の正体は七福神だった?』 


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[2016/03/31 00:33] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

海龍王寺 雪柳 『光明皇后と阿倍仲麻呂のスキャンダル?』 

奈良市法華寺北町 海龍王寺

海龍王寺 雪柳2 

●光明皇后は怨霊だった?


http://www.kairyuouji.jp/treasure/index.html
↑ 海龍王寺の十一面観音像です。
切れ長の瞳に赤い唇が妖艶ですね。
頭髪や衣の深い緑色は、深海をイメージさせます。
光明皇后が自ら刻んだ十一面観音をもととして、鎌倉時代に慶派の仏師が造ったものだといわれています。

うーん、でも皇后という身分のお方が本当に仏像を刻んだとは思えないです。

仏師ではない人が刻んだと伝わる仏像が日本にはたくさんあります。
行基、空也、最澄、空海などの僧侶のほか、政治家では菅原道真・小野篁などが刻んだと伝わる仏像が残されています。

京都・北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の十一面観音は菅原道真が自ら刻んだという伝説が残されています。
そして門前には『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』と刻んだ石碑があります。

『天満宮』とは菅原道真のことだと思います。
『御本地仏』とはどういうことでしょうか。
『御本地仏』という言葉を説明するためには、まず『本地垂迹説』を説明せねばなりません。
 
日本では古より神仏は習合して信仰されてきました。
『本地垂迹説』はその神仏習合のベースとなったもので
日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮に姿を現したものであるとする考え方のことです。
日本の神のもともとの正体である仏教の神のことを本地(本地仏)、日本古来の神のことを化身、権現などといいました。

つまり『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』とは
『天満宮(菅原道真のこと)の本地仏は十一面観音である』
『天満宮(菅原道真)は十一面観音の生まれ変わりである』
というような意味になると思います。

海龍王寺 雪柳3

菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり、数年後失意のうちに亡くなりました。
その後、疫病の流行や天変地異によって、道真左遷にかかわった多くの人が亡くなりました。
そして、それらは菅原道真の怨霊の仕業であると考えられたのです。

『菅原道真が自ら仏像を刻んだ』というのは本当に道真が仏像を刻んだという意味ではなく、
『怨霊であった菅原道真が煩悩をすてて悟りを開き、十一面観音になった』
ということを比喩的に表現したものではないか、と私は考えています。

疫病の流行はウイルスによって引き起こされるもの、火山の爆発は地下のマグマによるもの、地震は断層のずれによるものと現在は考えられています。
死んだ道真にはそういうことを引き起こす力はないはずですね。

でも平安時代にはウィルスやマグマや断層の存在は知られておらず、こういったことは怨霊がひきおこすと考えていたのです。
道真の左遷に関った人たちは、疫病や天変地異を道真の怨霊の仕業であると考え、道真の怨霊に成仏して欲しいと願ったことでしょう。
でも成仏したかどうかは目には見えません。
そこで、昔の私たちの先祖は怨霊が成仏したことを視覚化するために、仏像を作ったのだと思います。

さらに、道真が自ら望んで成仏したということを表現するために、「道真が自ら十一面観音を刻んだ」という表現を用いたのではないかと思います。
実際に仏像を刻んだのは仏師でしょうが、古には著作権という考え方はなかったので。
あるいは当時の人は仏師に道真の霊がとりついて仏像を刻ませたと考えたのかもしれませんね。

すると「光明皇后が自ら刻んだものをもとにして慶派の仏師が刻んだ」との伝説が伝わる海龍王寺の十一面観音は、光明皇后が成仏したことを示す像?

菅原道真が怨霊であったように、光明皇后もまた怨霊であったのでしょうか?


●阿倍仲麻呂と光明皇后のスキャンダル?

浮見堂 三笠山 百日紅 
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山です。

浮見堂 三笠山 百日紅 『三笠の山に出でし月とは光明皇后のことだった?』※追記あり 

↑ こちらの記事にも書いたんですが

717年、第9次遣唐使が派遣されることになり
遣唐使に選ばれた阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らは春日大社の背後にある三笠山(御蓋山)の麓で航海の無事を神に祈り、唐へ向かって出発しました。

735年、吉備真備・玄昉らは帰国しましたが、阿倍仲麻呂は唐で役人になって帰ってきませんでした。

752年、孝謙天皇(光明皇后の娘)は第12次遣唐使を派遣しました。
その際、次のような歌を詠んでいます。

四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)

※しらか/麻やこうぞを細く裂いて幣帛としたもの
また、孝謙天皇の母親の光明皇太后(光明皇后)も入唐大使・藤原朝臣清川に次のような歌を贈っています。

大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)

※藤原清川は光明皇太后の甥で子ではありません。
光明皇太后は国家の皇太后という立場からが清河を『この吾子』と表現したと考えられています。

そして阿倍仲麻呂はこの第12次遣唐使船が帰国する際、乗船して日本に戻る予定でした。
帰国まぎわに阿倍仲麻呂は次のような歌を詠んでいます。

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/阿倍仲麻呂

(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)

仲麻呂が乗った船は暴風雨にあい、結局仲麻呂は日本には戻れず唐でなくなるのですが~。

ならるりえ 遣唐使船 
↑ なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船

光明皇后の「光明」とは「暗闇を照らす光」のことをいいます。
暗闇を照らす光とは月のことではないでしょうか。
そして三笠山は春日大社の背後にあって春日大社とは関係が深そうに思えますが、春日大社は藤原氏の氏神、
光明皇后は藤原不比等の娘です。
「みかさの山に いでし月」とは光明皇后のことだと思えて仕方がないんですね~。

そして孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の娘とされていますが、本当の父親は阿倍仲麻呂では?
孝謙天皇は阿倍内親王といい、阿部氏と関係がある女性のように思えるんですよね~。

阿倍内親王が生まれたのは阿倍仲麻呂が唐へ旅立った翌年なので、時期的にもあいますね。

また758年ごろ、孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していました。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対し、これによって新羅討伐は実現しませんでした。
孝謙上皇が新羅討伐に反対したのは、まだ帰国しない阿倍仲麻呂の身を案じたためではないでしょうか。

海龍王寺は遣唐使として阿倍仲麻呂とともに旅立った玄昉が、光明皇后の発願を受けて帰国後に創建した寺だと言うのも気になりますね。
阿倍仲麻呂は日本に帰国する玄昉に、「妻(光明皇后)と娘(阿倍内親王)をよろしく頼む」とお願いしたんじゃないかなあ?

そんなことを考えながら海龍王寺の境内を散策していると
海龍王寺の境内を埋め尽くす白い雪柳のしなる枝は大海にうねる波を、白い花は泡を表しているかのようで
遠くから遣唐使船がやってきそうな錯覚に陥りました~。

海龍王寺 雪柳  


年表をつけておきますね。

717年 第9次遣唐使が派遣される。
     阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉ら、三笠山の麓で航海の無事を祈って唐へ出発。
718年 阿倍内親王誕生(父/聖武天皇、母/光明皇后・・・ということになっている。)
735年 吉備真備・玄昉らは帰国。阿倍仲麻呂は唐で役人になって戻らず。
749年 阿倍内親王、即位して孝謙天皇となる。
752年 孝謙天皇(阿部内親王)は第12次遣唐使を派遣。「早く帰ってくるように」と歌を詠む。
     光明皇太后も「神よ、遣唐使船をお守りください」と歌を詠む。
     安倍仲麻呂、帰国にあたり三笠山に出る月を懐かしむ歌を詠む。
     帰国する遣唐使船に乗船するが暴風雨にあって日本にもどれず。
758年 孝謙天皇、淳仁天皇に譲位。
     孝謙上皇、藤原仲麻呂の新羅征伐に反対。
770年 阿倍仲麻呂、ベトナムで死亡。



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[2016/03/27 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

龍野 ひなまつり 『氷や刀に変身する手』 

龍野ひなまつり・・・2016年3月19日(土)~27日(日)10:00~16:00 http://harimarche.com/topics/46576_46576/

龍野 街並2 
 城下町・龍野の美しい町並を

 龍野 ひなまつり 江戸時代のお雛様 
ひなめぐりしつつ歩きます。
写真は江戸時代の雛人形なのだとか。表情の優しさにほっこりします。

●諏訪湖に表れた白狐


私が龍野を訪れたのは2008年で、このときは人形浄瑠璃の上演もありました。
 
龍野 ひなまつり 人形浄瑠璃 

「本朝廿四考 狐火の段」です♪

本朝廿四孝とは!
武田家と上杉家の確執を脚色した物語です。
脚色したものなので、実在しない人物も登場します。
上の写真は武田勝頼の許嫁の八重垣姫ですが、八重垣姫は架空の人物です。
中国に『二十四孝』(にじゅうしこう)という孝行に優れた24人を取り上げた書物があります。
「本朝」とは日本のことで、「本朝廿四考」とは「日本の孝行に優れた24人の孝行者の話」という意味です。
3段目に慈悲造という者が母に命じられて雪の中筍を掘るという話が出てきまして、それが孝行者の話だということでこういうタイトルになったようです。
うーん、でもあまり本筋に関係のないエピソードで、それがなぜタイトルになったんでしょうか?

それはさておき、ざっとあらすじを書いておきます。

武田家の家宝・諏訪法性の兜を上杉家が返さないので両家は仲たがいをしていましたが
和解のため、上杉の娘八重垣姫と、武田信玄の息子・武田勝頼の縁談が決まりました。
そんなとき、将軍足利義晴が暗殺されるという事件がおきました。
武田晴信が犯人ではないかと疑われ、3年の間に犯人を見つけることができなければ嫡子勝頼の首を差しだすようにと求められました。
しかし3年がたっても犯人を見つけ出すことができず、勝頼の首を差し出すことになりました。
武田家家老・板垣兵部はかつてこっそりと自分の子供と勝頼をすりかえていたのですが、自分の子供の首を差し出すのは嫌だと思い、身代わりとして蓑作という者を連れて帰ってきました。
実は蓑作こそが本当の勝頼だったのです。
信玄はこれを見破り、偽の勝頼(兵部の子)は切腹しました。

真の勝頼(箕作)は諏訪法性の兜を求めて甲斐から信濃へとやってきて、花作りに身をやつして上杉の屋敷に入りました。
花作りが勝頼であることを見抜いた謙信は、勝頼を使いに出し、その帰りに討ち取ろうと考え刺客を送りました。
謙信の娘・八重垣姫は蓑作の姿を見て「この方は勝頼にちがいない」と悟り、勝頼を助けるため、諏訪法性の兜に祈りました。
「諏訪湖は凍っていて舟を出すこともできないのですが、なんとしても勝頼様にお知らせしたいのです、お助けください!」
すると諏訪明神の使いとされる白狐が現れました。
八重垣姫が兜を頂くと、たくさんの狐火が燃えました。
狐が乗り移った八重垣姫は湖上を駆け抜けていきました。

龍野 街並

●諏訪湖に表れた白狐の正体は御神渡りだった。


諏訪湖では冬の寒い日に「御神渡り(おみわたり)」という現象が起こることがあります。



動画、お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

「御神渡り」とは 氷が盛り上がって、長い筋を作る現象のことです。
諏訪大社の御祭神・建御名方命(タケミナカタ)が下諏訪に住む八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)に会いにいくときにできた足跡だと言い伝わっています。。

「本朝二十四考 狐火の段」はこの伝説を元に作られたものだったのですね。
つまり武田勝頼はタケミナカタ、八重垣姫はサカトメノミコトのイメージと重ねられているのでしょう。
これにちなみ、諏訪湖には八重垣姫のブロンズ像がたてられているそうです。

この「御神渡り」ができるメカニズムは次のように考えられています。

①気温が下がると氷が収縮して裂け、そこに湖の水が入って結氷。
②気温が上昇すると氷が膨張し、裂け目の氷が持ち上げられる。
http://www.dotoinfo.com/naturecenter/omiwatari.htmより

冷凍室にビンに入ったジュースを入れて、翌朝見てみるとビンが割れていたということがあります。
なんでも、水は氷るときに膨張して体積が増えるんだそうですね。
だけどいったん凍ってしまった氷は、気温が下がると収縮し、気温があがると膨張するということでしょうか?

龍野 如来寺 
如来寺

タケミナカタは大国主神の次男です。

天照大神は葦原中国は自分の子孫が収めるべきだとし、葦原中国の大国主命のもとへタケミカヅチとフツヌシを派遣し、大国主神に「国を譲るように」と迫らせました。
大国主神は「自分の二人の息子に意見を聞いてくれ」と言いました。
そこでタケミカヅチは大国主神の長男のコトシロヌシと次男のタケミナカタに「国を譲るように」と言いました。
タケミカヅチは「承知した」と答えて海に入水しました。
タケミナカタはタケミカヅチに力くらべを挑みます。
タケミカヅチは手を氷に変え、さらに刀に変えて(ひえ~)、タケミナカタの手を潰して投げ飛ばしました。
タケミナカタは諏訪湖まで逃げましたが逃げきれなくなり、ここから出ないこと、葦原中国は天照大神の子孫に譲ることを誓いました。

タケミカヅチは手を氷に変え、さらに刀に変えたとあるところに注意してください。
そしてもう一度、上の御神渡りの動画を見てほしいのです。
御神渡りは神様が渡った跡のようにも見えますが、たくさんの氷の刀が並んでいるようにも見えませんか?

諏訪湖の御神渡りは、タケミカヅチがタケミナカタと闘った際に変身した氷の刀であるとも考えられていたのではないでしょうか。

    

龍野 ひなまつり 嫁入り人形 

ガラスケースをドールハウスのように見立て、ふすまや姿見、たんすを置いてあるんですね!
たんすの細工などすごく手がこんでいて見とれてしまいます。
姿見に花嫁さんの後ろ姿が写るのもいいですね♪


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[2016/03/25 00:00] 兵庫の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

秋篠寺 木蓮 『伎芸天は迦楼羅だった?』 

奈良市秋篠町 秋篠寺

秋篠寺 木蓮3 
かなり以前に撮影した写真です。
うちの近所では今木蓮が満開なんですが、奈良ではまだ早いかも?
白木蓮って大きな花を咲かせるのに清楚な感じがしませんか。
秋篠寺の本堂に安置されている技芸天に似ているような気がします。

●伎芸天と迦楼羅の共通点

日本に現存する伎芸天は秋篠寺のものだけです。

美しいみほとけは数多くありますが、秋篠寺の伎芸天ほど優しそうな表情のみほとけは他にはないと思います。
掘辰雄さんはこの像を『東洋のミューズ』と称讃しました。
ミューズとはギリシャ神話に登場する音楽・舞踏・学術・文芸などを司る女神です。

だけど、私はこの美しい伎芸天を見て、迦楼羅(かるら)だ!と思ってしまったんですね~。 
http://www.bell.jp/pancho/travel/nisinokyo/akisino_dera.htm (伎芸天)※真ん中あたりに写真があります。
技芸天の耳のあたりを見てください。
三面宝冠をつけているとのことですが、宝飾の真ん中あたりに小さな二重の円があります。

次に迦楼羅の伎楽面を見てください。
http://nohmask21.com/mask-v/karura.html
恐ろしい顔をしていて伎芸天にはちっとも似ていませんが、耳に伎芸天と同じような二重の円がありますね。

私は伎芸天と迦楼羅のこの二重の円は鳥の耳を表したものではないかと思うんです。
鳥の耳は羽毛で隠れていてわかり難いんですが、小さな穴があいているんですよ。
http://kids.gakken.co.jp/kagaku/110ban/text/1242.html

迦楼羅は鶏冠とくちばしを持ち、鳥を神格化した神です。
そして伎芸天は器楽の技芸に秀でた神・・・ということは音楽の神なので、やはり鳥を神格化した神なのではないでしょうか?

秋篠寺 木蓮

●蛇を食べる迦楼羅

秋篠寺の大元堂には大元帥明王像が安置されていますが、仏で年に1度、6月6日のみ開扉されます。
実物を拝んだことはないんですが、お堂の前に写真が貼ってありました。

 大元帥明王は炎髪に憤怒の表情をされ、腕や首には蛇が巻き付いていました。

 大元帥明王の写真を見て、私はやっぱり伎芸天は迦楼羅だと思いました。
というのは、迦楼羅は蛇を食べるとされているからです。

秋篠寺は恐ろしい蛇神を鎮魂する寺なのではないでしょうか。
蛇神はひどく祟る神だったのでしょう。
そこで蛇神=大元帥明王を秘仏として大元堂に閉じ込めて外に出られないようにし
本堂には蛇を食べて退治してくれる迦楼=伎芸天を祀ったのではないでしょうか。

その恐ろしい蛇神の正体についてはまた改めてお話ししたいと思います。

 



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[2016/03/23 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

大雲院 東山花灯路 『織田家と牛頭天皇』 


京都市東山区 大雲院
東山花灯路・・・3月12日~21日 
http://www.hanatouro.jp/higashiyama/


大雲院 ライトアップ
 

夜空に浮かびあがる金色の山鉾!
大雲院の祇園閣(銅閣)です。

祇園・八坂神社の南隣にあるので、祇園閣というのでしょう。(通常非公開)

八坂神社 本殿 舞殿 
八坂神社 本殿と舞殿

祇園閣は八坂神社の祭礼・祇園祭で巡行する山鉾を模したデザインになっています。

祇園祭 菊水鉾 

祇園祭 菊水鉾

●本能寺の変と大雲寺創建

1582年、本能寺の変が起りました。
織田信長の重臣として仕えていた明智光秀が、信長を裏切り、本能寺に宿泊していた織田信長の寝込みを襲ったのです。
信長を護る兵は100人足らず。
そこへ光秀は1万3000人の軍で包囲し、襲撃したのです。
信長は奮戦したそうですが、もはやこれまでと悟り、寺に火を放って自害しました。

信長の嫡子・信忠はこのとき妙覚寺に宿泊していました。
本能寺襲撃の知らせを聞いた信忠は、妙覚寺から二条新御所に移って籠城し光秀軍と戦いました。
しかし信長同様、自害して果てました。

このとき羽柴秀吉は備中高松城の戦いの最中でした。
しかし信長の死をきいた秀吉はすぐに京に引き返し、明智光秀の軍と戦いました。(山崎の戦い)
この戦いで明智光秀は死亡しました。

※明智光秀の子孫だという明智憲三郎さんによると、
信長は家康暗殺を計画していたとか、明智光秀は死んでおらず徳川家康の側近・南光坊天海と光秀が同一人物だと説いておられるそうです。
ぜひ本を読んでみたいと思います。


1586年、秀吉は正新町天皇より豊臣姓を賜ります。そして太政大臣に就任して天下人となりました。

1587年、正新町天皇の勅命により、信忠が自害した場所・二条御所跡に信忠の菩提を弔うため、大雲院が建てられました。

1590年、大雲院は秀吉の京都改造により四条寺町南に移転しました。

1972年、大雲院は八坂神社の南にあった大倉喜八郎(大倉財閥の設立者)の別邸「真葛荘」を購入して移転しました。

祇園閣はこの「真葛荘」に建てられていたものです。
大雲院が別名「銅閣寺」というのは、この「祇園閣」が金閣・銀閣に次ぐ銅閣を意図して作られたためです。
銅閣の名前にふさわしいよう、銅板葺にしてあります。

大雲院 ライトアップ

●大雲院はなぜ真葛荘に移転したのか。

大雲院が1972年に真葛荘に移転したのは、高島屋京都店増床に伴うものだということですが
なぜ移転場所として真葛荘を選んだのでしょうか。

それは真葛荘が八坂神社の南に隣接し、八坂神社の象徴ともいうべき祇園祭の山鉾を模した祇園閣があったからではないかと想像します。

織田家の家紋は織田木瓜(http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/mokkou.html)ですが、この紋は八坂神社の紋によく似ています。

祇園祭 宵山 
祇園祭 宵山 提灯や鉾を飾る布に八坂神社の社紋の木瓜紋があしらわれています。

織田家の家紋は愛知県津島市・津島神社の社紋なんです。
織田家は津島神社を氏神として信仰していたそうです。

津島神社の御祭神はスサノオですが、スサノオは牛頭天皇と習合されています。
八坂神社の御祭神もスサノオで、牛頭天皇と習合しておまつりしています。

そのため、織田信忠の菩提を弔うには八坂神社の隣にある真葛荘の土地は最適だと考えられたのではないでしょうか。

斉藤忠さんは「信長は自らを牛頭天皇に擬していたのではないか。」という旨のことをおっしゃっています。


東山花灯路 狐の嫁入り行列


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[2016/03/21 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

車折神社 桜 大酒神社 木漏れ日 『八つ裂きの刑神社と極刑神社?』 ※追記あり 


車折神社 寒緋桜

車折神社 寒緋桜 撮影2016年3月17日

京都市右京区 車折神社

車折神社は平安時代後期の儒学者・清原頼業を祀る神社です。
大外記の職を24年間務めた大変頭のいい方であったようで
九条兼実は「その才、神というべく尊ぶべし」と清原頼業をベタほめしたとか。

それにしても「車折神社」とはすごい名前です。
かつて中国で「車折」という残忍な処刑がありました。
罪人の四肢に馬車を繋ぎ、馬車をそれぞれ四方向に走らせて体を引き裂くというものです。
八つ裂きの刑ですね!
車折が行われたという記録は周のころよりあり、秦王・政(後の始皇帝)の母親の愛人・嫪毐(ろうあい)が車折で処刑されたという記録も残ります。

日本では車折に似たものとしては牛裂きがありました。
罪人の四肢に牛の角を繋ぎ、牛の背に載せた柴に火をつけて牛を暴れさせて体を引き裂くというものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E8%A3%82%E3%81%8D#/media/File:Ushizaki.JPG
なんか書いてて気分悪くなってきますが~。
ただ、この牛裂きが行われたのは戦国時代から江戸時代初期で、清原頼業の時代にはありませんでした。

車折神社 桜
車折神社 河津桜(たぶん)撮影2016年3月17日

車折神社という社名の由来については次のように言われています。

清原頼業は死後、現在の車折神社の地に葬られ、廟が作られました。
のちに後嵯峨天皇がその前を牛車で通ろうとしたところ、牛車の轅(ながえ/牛車の前方に長く 突き出ている2本の棒)が折れました。
そのため後嵯峨天皇は「車折大明神」の御神号を贈り、以後「車折神社」と呼ばれるようになりました。

うーん、そうは聞いても「本当かな?車折の刑」と関係があるんじゃないの?と思ってしまいます。

車折神社の西、広隆寺の北側に大酒神社があります。



大酒神社は地図向かって右の広隆寺霊宝殿の北あたり

大酒神社 
大酒神社

大酒という社名からか、お酒がたくさんお供えされていました。 
でも、もともとこの大酒神社は大酒ではなく大闢・大辟・大避・大裂・大荒などと記されていたようです。

処刑の車折は車裂とも記されることもあったそうで、大酒(大裂)神社と関係がありそうに思えます。

大酒神社は秦始皇帝・弓月王(ゆんずのきみ)・秦酒公(はたのさけのきみ)をおまつりしています。
弓月王とは渡来人・秦氏の首長で第15代応神天皇の御代に一族を率いて日本にやってきたとされる人物です。
弓月王は秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔とされます。
そのため秦氏は秦始皇帝の子孫を称しました。
それで秦始皇帝が御祭神になっているのですね。
秦酒公は第21代雄略天皇代の御代に秦氏の首長だった人です。

広隆寺 
広隆寺

秦氏の氏寺・広隆寺は別名を太秦寺といいますが、中国ではネストリウス派キリスト教(景教)の寺院のことを大秦寺といい、
秦氏は中央アジアにあった弓月王国というキリスト教国からやってきたのではないかともいわれています。
そして大闢とはダビデの漢語訳なのです。
大闢神社とはダビデ神社という意味なんでしょうか?

また「大辟」は「極刑」という意味だともいいます。
大辟=極刑と、車折=八つ裂きの刑。
似てるじゃないですかーー。
車折神社も秦氏と関係がある神社なのかも?

追記/始皇帝の母親の愛人だった嫪毐が車折で処刑されたというのを思い出してください。
始皇帝の子孫を称する秦氏は車折の刑について詳しかったことでしょう。


とすれば清原氏は秦氏とどういう関係があるんでしょうか?

これは今後の宿題とさせていただきます。 

車折神社 溪仙桜 
 車折神社 溪仙桜(たぶん) 撮影 2015年3月28日

車折神社境内にある芸能神社にはたくさんのお面が飾られていました。
そういえば飛鳥時代の秦氏の首長・秦河勝は能の金春流の始祖とされているんですよね~。

車折神社 面 
芸能神社 面
 
車折神社の境内には芸能人が奉納した玉垣がずらりと並んでいます。
あんまり芸能人を知らないので、玉垣に記された名前読んでもほとんどわからないんですが(汗)
大好きなフィギュアスケーターの本田武史さん、高橋大輔さんの名前をみつけて写真をパチリ~♪(ミーハーと呼んで!)

車折神社 玉垣 


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[2016/03/19 00:14] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

長徳寺 おかめ桜 『晒し首と茶の湯』 

京都市 左京区 長徳寺

長徳寺 おかめ桜2  
早咲きで知られる長徳寺のおかめ桜が見頃となっているようです。
(写真は2015年3月に撮影したものです。)

仁和寺の御室桜も別名を「おかめ桜」といいますが、これとば別の桜ですね。
イギリスのイングラムという桜研究家が作った桜だそうです。

長徳寺は1605年に長谷川宗仁が創建した寺で、当初は中京区裏寺町(阪急河原町駅北)にあったのですが
その後焼失して1672年に現在地に移転しました。

長谷川宗仁という人はやたらと晒し首に関係する仕事を行っています。
1573年には織田信長に命じられて朝倉義影の首を晒しています。
また1582年の信長の甲州征伐の際には、やはり信長に命じられて武田勝頼・武田信勝・武田信豊・仁科盛信らの首を一条通の辻に晒しています。

その一方で、長谷川宗仁は茶人としても知られています。
1578年に信長が豊臣秀吉、明智道秀ら12名の家臣を招いて行った茶会にも参加していますし
同年に行われた名物茶器の披露会にも訪れています。
茶器の名品「古瀬戸肩衝茶入」(長谷川肩衝)を所持していたことでも知られています。

長徳寺 おかめ桜3 

長谷川宗仁は晒し首と茶の湯のエキスパートであったということですね~。
血生臭さと、わびさびの粋を合わせ持っていた人なのか、とも思えますが
私は晒し首と茶の湯には切っても切れない深ーい関係があったのではないかと考えています。
それゆえ戦国武将はみな茶の湯をたしなんだのではないかと。

木地師の里 八重桜 出猩々『惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされた?』 
↑ こちらの記事にも書いたのですが
織田信長が浅井長政らの髑髏に漆を塗って杯にしたとか、江戸時代の漢詩人・高野 蘭亭、徳川光圀らが髑髏杯を持っていたなどといわれています。
髑髏杯とは人間の髑髏で作った杯のことで、世界中でこのようなものが作られていたようです。
髑髏杯は近親者の髑髏で作る場合もありましたが、敵対関係にあるライバルの髑髏で作るケースも多かったのです。

茶の湯に用いる茶碗はこの髑髏杯をイメージしたものではないかと思うわけです。

 東向観音寺 土蜘蛛の塚 
上の写真は東向観音寺にある土蜘蛛の塚です。
かつて清和院前に蜘蛛塚があり、発掘調査したところ出てきた灯篭の火袋です。
なぜ灯篭の火袋が土蜘蛛の塚なんでしょうか?

土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことです。
「土蜘蛛草紙」によれば空飛ぶ髑髏のあとをつけていったところ、土蜘蛛の巣があったとしています。
この記述から髑髏と土蜘蛛は関係が深いように思えます。

一般的な昆虫は頭部・胸部・腹部からなりますが、蜘蛛は頭部と胸部の境がはっきりしておらず、頭胸部と腹部からなります。
昔の人は蜘蛛を頭部のない昆虫だと考えたのではないか。
そして土蜘蛛とは斬首されて頭部のない人のことではないか。
そう私は思うのです。

そして信貴山縁起絵巻には「空飛ぶ鉢」の物語があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7#/media/File:Sigisanengi_tobikura.jpg

玄昉や平将門の首が飛んだという話があり、また「鉢巻」「鉢合わせ」などのように頭のことを鉢ということがあります。
「空飛ぶ鉢」とは「空飛ぶ髑髏」の比喩なのではないでしょうか。

そこでもう一度東向観音寺の土蜘蛛の塚を見てください。
火袋の上部が鉢のような形をしています。
(柵があってこの角度でしか撮れなかったので、すいません。)
鉢=頭(髑髏)=土蜘蛛 という発想から、この灯篭の火袋は土蜘蛛の塚だとされたのではないでしょうか?

六波羅蜜寺 追儺式3

↑ 六波羅蜜寺の追儺式に登場した土蜘蛛です。
六波羅蜜寺を創建した空也上人は平将門の霊を鎮魂する念仏道場を作ったと伝えられています。
六波羅蜜寺は平将門鎮魂の寺であり、追儺式に登場した土蜘蛛とは首が飛んだとの伝説が残る平将門の霊ではないでしょうか?

茶の湯の茶碗は鉢に似ています。

霊山寺 初福茶 
霊山寺(奈良) 初福茶

そして正月にはお屠蘇を飲む習慣がありますが、お屠蘇とは「蘇という悪鬼を屠る」という意味だとされます。
「飲む」という言葉には、液体を体内に摂取するという意味のほかに、相手を圧倒するという意味もあります。
友人が広島vsヤクルトの試合を見にいったとき、広島側の席では「のめ、のめ」といってヤクルトが配られたと言っていました。
これは乳酸菌飲料であるヤクルトを飲むことで、球団のヤクルトを圧倒するというおまじないなのでしょう。

これと同じように戦国武将たちは茶碗をライバルの髑髏に見立て、その茶碗で茶を飲み干すことでライバルを圧倒するというまじないを行っていたのかも?

長谷川宗仁が晒し首と茶の湯のエキスパートであったのは、晒し首と茶の湯に関係があったからだったりして?

 
長徳寺 おかめ桜

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[2016/03/17 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

京都御苑 梅 猿が辻 護王神社 『方角と干支』 


●猿と三番叟

京都御苑 梅 夕景 
黄昏時の京都御苑へやってきました.
京都御所の南にある建礼門が見えています。
へっこら歩いて京都御所の東北の角へ。
広いので結構時間がかかります~。

猿が辻 
ここに猿が辻と呼ばれる辻があります。
東北は鬼門の方角として忌まれていました。
そのため東北の角を作らないように塀を内側に凹ませてあります。

ここに猿の像があると聞いていたのですが、暗くてどこにあるのかわかりませんでした。
そこでストロボを焚いて数か所写真を撮ってみたところ、その中の1枚に猿の像が写っていました♪

猿が辻 猿の像 

金網がはってあるのでわかりにくいですが、猿の三番叟の像ですね。

千本閻魔堂狂言 靭猿 

たぶん、こんな感じで猿が(↑)烏帽子を被っているのだと思います。
(写真は千本閻魔堂狂言の演目『靭猿』に登場した猿)

今年は申年なので、三番叟を舞う猿を描いた絵馬などをよく見かけますね。

かつて能・翁(式三番)では父尉・翁・老人(叟)の順に舞を舞っていました。
(室町時代ごろにはこのうち父尉が省かれるようになりました。)
このうち老人の舞を三番叟といい、大変おめでたい舞とされていました。

米原子供歌舞伎 三番叟

↑ こちらは米原子供歌舞伎で演じられた三番叟です。

一番目の父尉、二番目の翁は聖職者の呪師が演じましたが、三番目の老人の舞・三番叟は猿楽師が舞いました。
それで三番叟の衣装を身に着けた猿の絵がよく描かれたのでしょう。

●東北に猿の像が置かれている理由

さて、なぜ東北の角に猿の像が置かれているのでしょうか。
東北の角といいましたが、鬼門の角を作らないように塀を内側に凹ませてあるのでしたね。
塀を内側に凹ませることで南西の角を作ってあるわけです。

東北(下の図では北東になっていますが)の方角は干支でいえば丑寅(うしとら)です。
そして南西は干支では未申(ひつじさる)です。
それで未申のうち申=猿の像を置いているのではないでしょうか。

 干支

↑ 上の図は友人に作ってもらいました。(ありがとうー) 

猿は干支の申をあらわすとともに、「災いが去る」という縁起担ぎでもあるのでしょう。

●未申の方角にあるのになぜ「いのしし神社」?

猿が辻からへっこらへっこらと歩き、京都御所の南西にある護王神社へとやってきました。




護王神社は別名を『いのしし神社』とも言い、狛犬ならぬ狛猪が置かれています。

 護王神社 狛猪 


護王神社は和気清麻呂を祀る神社です。

769年、宇佐八幡宮で「道鏡を天皇にせよ」という神託がおりました。
和気清麻呂は称徳天皇に命じられ確認のために宇佐へ行きました。
帰京した清麻呂は「道鏡は皇族でないので天皇にしてはいけないと神のお告げがありました」と奏上。
道鏡を次期天皇につけたいと考えていた称徳天皇はかんかんになって怒り、清麻呂を大隅国へ流罪としました。
しかし翌年、称徳天皇は急死して(暗殺説あり)道鏡は失脚。下野国へ流罪となりました。
光仁天皇が即位し、清麻呂は許されて都に呼び戻されました。
護王神社という神社名は和気清麻呂が王(天皇)を護ったところからつけられたのでしょう。

※私は道鏡は志貴皇子の子で皇族であったと考えています。
これについては次の記事をお読みいただけると嬉しいです。

護王神社 亥子祭 『道鏡は本当に悪人なのか?』 
奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

干支では南西はは未申(ひつじさる)、北西は戌亥です。
いのししは干支の亥で、方角では北北西のあたりをあらわすのに、なぜ御所の南西にある護王神社は
『ひつじ神社』や『さる神社』ではなく『いのしし神社』なのでしょうか?

和気清麻呂が流罪となって大隅国へ向かう途中、清麻呂は宇佐へ立ち寄ろうと考えました。
そのときたくさんの猪が現れて清麻呂を護ったという伝説があります。
それで『いのしし神』だというのですが、方角が全く関係ないとは思えないです。

護王神社はもともとは高雄山神護寺の境内にあったのですが、1886年に明治天皇によって現在地に遷宮されたそうです。



神護寺 和気公霊廟


そして平安京建都当時の御所は現在の京都御所から1.7キロ西の千本通り沿いにあったとされます。



上の地図では北野白梅町の文字があるあたりになります。
すると神護寺は京都御所の北西方面にあったということになります。
ということは神護寺は京都御所の戌亥の方角にあったということで、そのため『いのしし神社』として信仰され
御所の西南にある現在地に遷宮したのちも、『いのしし神社』と呼ばれているのかもしれません。

そうだとしても明治天皇はなぜ護王神社を御所の北西ではなく、南西に置いたのでしょうね?



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[2016/03/15 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

二月堂 お水取り 紫木蓮 『生身の観音とは?』 

奈良県奈良市雑司町 東大寺二月堂
修二会・・・3月1日~14日


二月堂 修二会 お松明 
●厨子に閉じ込められた小観音

二月堂の修二会について、次のような伝説があります。

751年、実忠和尚が笠置寺の竜穴を見つけ、中に入って歩いていくと兜率天がありました。
兜率天では菩薩たちが仏前に懺悔する悔過の行法を行っていました。
この様子に感激した実忠はこの行法を人間界でも行いたいと思いました。
しかし菩薩はこういって諦めるよう実忠を諭しました。
「兜率天の1日は人間世界の400年なので、この行法を人間世界で行うと数百年も掛かる。
また生身の観音が必要なんだよ。」と。
それでも実忠は諦めません。
「それなら走ってやるよ!それに心をこめて祈れば生身の観音もきっとあらわれるよ!」
人間世界に戻った実忠和尚は、摂津の難波津で補陀洛山にむかって閼伽折敷(四角い小さな器)を海に流しました。
すると100日目に生身の十一面観音様が折敷にのって難波津へ流れつきました。
その十一面観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かみがありました。
こうして752年2月1日に二月堂で修二会が行われました。


この生身の十一面観音が生身の観音で、二月堂の御本尊の小観音(こがんのん)だということなのでしょう。
二月堂の御本尊はこの小観音のほか、大観音(おおがんのん)もあります。

どちらも絶対秘仏なのでよくわからないのですが、
小観音は7寸ということなので、1寸=約3cmとすると21cmくらいじゃないかと思います。
小観音は扉のない厨子に納められているそうです。
つまり小観音は厨子を壊さない限り厨子の中から出すことはできないということですね。
小観音は扉のない厨子の中に閉じ込められているといってもいいでしょう。

●生身の観音

さてさて『生身の観音』とはどういう観音様のことでしょうか?
『生身(しょうじん)』とは仏教用語です。
諸仏菩薩には法身と生身の二身があり、所証(修行によって得られた悟り。証得した内容。)の理体(本体)を法身、
衆生を済度する為に、父母に胎を託して生じる肉身を生身というそうです。

もし仏教に詳しい方がおられましたら教えていただきたいのですが、『父母に胎を託して生じる肉身』というのは人間のことではないのでしょうか。


二月堂 修二会 お松明2

●菅原道真は生身の観音だった?

かつて北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前に『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』と刻まれた石碑がたてられています。
 『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』とはどういう意味なのでしょうか?

天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことをいっているのだと思います。
 
本地仏とは本地垂迹説から来る言葉です。
本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮にこの世に姿を現したものである。」とする考え方のことです。

神のもともとの正体である仏教の神のことを本地、仮にこの世に姿を現した日本の神のことを権現、化身などといいました。
垂迹とは仏教の神が仮の姿となってこの世にあらわれることをいいいます。

『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』とは『菅原道真のもともとの正体である十一面観音をお祀りしています』という意味だと思います。


つまり、東向観音寺の十一面観音は菅原道真だということで、菅原道真は『生身の観音』だといえるのではないかと思います。


●怨霊と生身の観音の関係

えーーっ、菅原道真が『生身の観音』? 菅原道真って怨霊じゃなかったの?

そんな声が聞こえてきそうです。

おっしゃるとおり、菅原道真は怨霊です。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、このような人は死後怨霊となって疫病や天災を引き起こすと考えられていたのです。

道真は藤原時平の讒言によって大宰府に左遷となり、失意のまま亡くなりました。
その後、道真左遷に関わった人が相次いで亡くなり、疫病が流行り、清涼殿に落雷が落ちるなどしました。
これらは全て道真の怨霊の仕業だと考えられたのです。

そして怨霊は祀り上げることで守護神に転じるという、何とも都合のいい信仰もありました。

怨霊となった道真が祟ることをやめて守護神となるよう、道真は祀り上げられ神とされたのです。

さらに日本では古くより神仏は習合されて信仰されていました。
そのベースとなった考え方が、さきほどお話しした本地垂迹説です。

菅原道真という神様は十一面観音の生まれ変わりである、昔の人々は考えたわけですね。


●実忠和尚は怨霊の出現を望んだ?

二月堂の本尊・小観音が生身の観音だということは、小観音は菅原道真と同様、人間なのではないかと思えます。
それも幸福な人生を送った人間ではなく、政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人だと思います。
そしてそういう人の怨霊が祟らないように神として祀り上げ、さらには十一面観音の生まれ変わりであると信仰したというわけでしょう。
実忠和尚は心をこめて祈り、怨霊の出現を望んだということでしょうか?

そうして観音になった人物の像を扉のない厨子にとじこめる・・・。
何やらぞっとしてしまいます。

二月堂 裏参道 紫木蓮

うちの近所の木蓮が満開になっていました。
今年は春の花の開花が早くてびっくりです。
二月堂裏参道の紫木蓮も咲いているかも?


 
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[2016/03/13 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

宝山寺 般若窟柴燈大護摩供 『生駒山は聖天さんの聖地だった?』 

宝山寺 柴燈護摩供4  

奈良県生駒市 宝山寺
般若窟柴燈大護摩供・・・3月第2日曜日


●聖天さんを祀る山

生駒山は655年に役行者が開いたとされる修行道場です。
1678年、湛海律師によって宝山寺が創建されました。
本尊は不動明王で、鎮守神として聖天さん(大聖歓喜天)を祀っています。
宝山寺が生駒聖天と呼ばれるのはそのためです。


宝山寺 柴燈護摩供3

●聖天さんと道祖神は習合されていた?

聖天さんについては過去に何度も記事にしていますが、改めてまとめておくことにします。

①男女双体の神・大聖歓喜天には次のような伝説があります。

鬼王ビナヤキャの祟りで疫病が流行りました。
そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿を変えて鬼王ビナヤキャの前に現れました。
鬼王ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、妻になれと命じました。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うのならばあなたの妻になりましょう」と言いました。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓ってビナヤキャ女神を妻としました。

聖天さんはビナヤキャ女神がビナヤキャの足をふみつける男女双体のお姿であらわされます。
 ←こちらのサイトの下の方に歓喜天の絵が掲載されています


宝山寺 柴燈護摩供6jpg


②日本の神はその現れ方で、御霊・和魂・荒魂に分けられるといわれています。
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面

③日本の女神は和魂、男神は荒魂であるとする説があります。
すると神の本質である御霊は男女双体の神なのではないでしょうか。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体の神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神


④明治まで神仏は習合されて信仰されていました。
日本神道は仏教の影響を受けているのではないでしょうか。
とすると、次のような関係がなりたちます。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体の神・・・大聖歓喜天
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・・・ビナヤキャ女神
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・・・ビナヤキャ

⑤怨霊とは政治的に不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていました。
ところが、怨霊=祟り神は、祀り上げることで守護神に転じるという何とも都合のいい信仰もあったのです。
男神(荒魂)と女神(和魂)を和合させることは、怨霊を鎮魂し、よい神に転じさせるための呪術ではないでしょうか。

⑥男女双体の神といえば道祖神があります。道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神だとされています。

御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体・・・大聖歓喜天・・・・・・道祖神
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・・・ビナヤキャ女神・・・・アメノウズメ
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・・・ビナヤキャ・・・・・・サルタヒコ


宝山寺 柴燈護摩供5   
⑦サルタヒコとアメノウズメには次のような伝説があります。
高天原から葦原中国までを照らすサルタヒコという神が天孫・ニニギを高天原から葦原中国まで道案内しました。
葦原中国についたニニギはアメノウズメに次のように命じました。
「サルタヒコを故郷の伊勢へ送り届け、サルタヒコに仕えて彼の名前をつたえよ。」
のちにサルタヒコはあざかの海で貝に手を挟まれて死にました。

「サルタヒコに仕えて彼の名前をつたえよ。」とは「サルタヒコと結婚してサルタヒコの名前を伝えよ」という意味ではないでしょうか。
また、サルタヒコは貝に手を挟まれて死んでいますが、貝とは女性器の喩えであり、サルタヒコはアメノウズメの性的魅力に溺れて死んだということではないでしょうか。
ちょうどビナヤキャがビナヤキャ女神の性的魅力に溺れて仏になったように。

⑧道祖神は男女の神像が手を握り合う姿のものが多いです。
http://www15.wind.ne.jp/~kurasho/history/history2.html
これはは手を握り合っているのではなく、女神が男神の手を握って押さえつけているの図ではないでしょうか。
歓喜天は女神が男神の足を踏みつけていますが、道祖神は脚のかわりに手を押さえつけているというわけです。

⑨道祖神の中には歓喜天のように女神が男神の足を踏みつけていたり、和合する姿のものもあります。
道祖神は歓喜天と習合されているのではないでしょうか。


宝山寺 柴燈護摩供  


サルタヒコと物部氏の祖神・ニギハヤヒは同一神だった?

⑪サルタヒコは高天原から葦原中国までを照らす神だとされますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。
(高天原は天、葦原中国は国なので)
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とは先代旧事本紀に記された名前で、日本書紀や古事記では単にニギハヤヒとなっています。

⑫ニギハヤヒは初代神武天皇が東征する以前に天の磐船を操って畿内に天下っていたとされます。
ここから初代神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

⑬天照大神が天岩戸に籠った際、アメノウズメのストリップダンスに興味を持って岩戸から出てきました。
女神のストリップに興味を持つのは男神だ、よって天照大神は男神だとする説があります。
そして天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒが本当の天照大神だとする説があります。

⑭ニニギがアメノウズメに「サルタヒコを故郷の伊勢へ送り届けよ」と命じたことを思いだしてください。
伊勢には天照大神を祀る伊勢神宮があります。
サルタヒコの故郷が伊勢だということは、サルタヒコが天照大神であったということではないでしょうか。

⑮私は天照大神とはアメノウズメとサルタヒコ=ニギハヤヒの男女双体の神だと思います。
それゆえ、女神として登場したり、ストリップに興味を持つ男神として登場したりするのではないでしょうか。

●生駒山が聖天さんの聖地となった理由


⑯平安時代、生駒山には都史陀山 大聖無動寺という寺があり、空海もここで修行を行ったといわれています。
大聖無動寺という寺名は聖天さん(大聖歓喜天)を思い出させます。
生駒山には古くより聖天さんに対する信仰があったのではないでしょうか。

⑰さきほど、サルタヒコとニギハヤヒは同一神ではないかと書きましたが、ニギハヤヒが天下ったとされる場所は生駒山系の哮峰(いかるがのみね)にある磐船神社付近とされます。
生駒山はニギハヤヒが天下った聖なる山だったのです。

⑱サルタヒコ(ニギハヤヒ)+アメノウズメ=道祖神=大聖歓喜天
というわけで、ニギハヤヒの聖地・生駒山は大聖歓喜天の聖地になったのではないかと思うのですが、どうでしょう?

宝山寺 柴燈護摩供2  



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[2016/03/12 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)