奈良市法華寺北町 海龍王寺
●光明皇后は怨霊だった?http://www.kairyuouji.jp/treasure/index.html↑ 海龍王寺の十一面観音像です。
切れ長の瞳に赤い唇が妖艶ですね。
頭髪や衣の深い緑色は、深海をイメージさせます。
光明皇后が自ら刻んだ十一面観音をもととして、鎌倉時代に慶派の仏師が造ったものだといわれています。
うーん、でも皇后という身分のお方が本当に仏像を刻んだとは思えないです。
仏師ではない人が刻んだと伝わる仏像が日本にはたくさんあります。
行基、空也、最澄、空海などの僧侶のほか、政治家では菅原道真・小野篁などが刻んだと伝わる仏像が残されています。
京都・北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の十一面観音は菅原道真が自ら刻んだという伝説が残されています。
そして門前には『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』と刻んだ石碑があります。
『天満宮』とは菅原道真のことだと思います。
『御本地仏』とはどういうことでしょうか。
『御本地仏』という言葉を説明するためには、まず『本地垂迹説』を説明せねばなりません。
日本では古より神仏は習合して信仰されてきました。
『本地垂迹説』はその神仏習合のベースとなったもので
日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うために仮に姿を現したものであるとする考え方のことです。
日本の神のもともとの正体である仏教の神のことを本地(本地仏)、日本古来の神のことを化身、権現などといいました。
つまり『天満宮御本地仏・十一面観世音菩薩』とは
『天満宮(菅原道真のこと)の本地仏は十一面観音である』
『天満宮(菅原道真)は十一面観音の生まれ変わりである』
というような意味になると思います。
菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり、数年後失意のうちに亡くなりました。
その後、疫病の流行や天変地異によって、道真左遷にかかわった多くの人が亡くなりました。
そして、それらは菅原道真の怨霊の仕業であると考えられたのです。
『菅原道真が自ら仏像を刻んだ』というのは本当に道真が仏像を刻んだという意味ではなく、
『怨霊であった菅原道真が煩悩をすてて悟りを開き、十一面観音になった』
ということを比喩的に表現したものではないか、と私は考えています。
疫病の流行はウイルスによって引き起こされるもの、火山の爆発は地下のマグマによるもの、地震は断層のずれによるものと現在は考えられています。
死んだ道真にはそういうことを引き起こす力はないはずですね。
でも平安時代にはウィルスやマグマや断層の存在は知られておらず、こういったことは怨霊がひきおこすと考えていたのです。
道真の左遷に関った人たちは、疫病や天変地異を道真の怨霊の仕業であると考え、道真の怨霊に成仏して欲しいと願ったことでしょう。
でも成仏したかどうかは目には見えません。
そこで、昔の私たちの先祖は怨霊が成仏したことを視覚化するために、仏像を作ったのだと思います。
さらに、道真が自ら望んで成仏したということを表現するために、「道真が自ら十一面観音を刻んだ」という表現を用いたのではないかと思います。
実際に仏像を刻んだのは仏師でしょうが、古には著作権という考え方はなかったので。
あるいは当時の人は仏師に道真の霊がとりついて仏像を刻ませたと考えたのかもしれませんね。
すると「光明皇后が自ら刻んだものをもとにして慶派の仏師が刻んだ」との伝説が伝わる海龍王寺の十一面観音は、光明皇后が成仏したことを示す像?
菅原道真が怨霊であったように、光明皇后もまた怨霊であったのでしょうか?
●阿倍仲麻呂と光明皇后のスキャンダル?
向かって右の濃い緑色に見える山が三笠山です。浮見堂 三笠山 百日紅 『三笠の山に出でし月とは光明皇后のことだった?』※追記あり ↑ こちらの記事にも書いたんですが
717年、第9次遣唐使が派遣されることになり
遣唐使に選ばれた阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らは春日大社の背後にある三笠山(御蓋山)の麓で航海の無事を神に祈り、唐へ向かって出発しました。
735年、吉備真備・玄昉らは帰国しましたが、阿倍仲麻呂は唐で役人になって帰ってきませんでした。
752年、孝謙天皇(光明皇后の娘)は第12次遣唐使を派遣しました。
その際、次のような歌を詠んでいます。
四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)※しらか/麻やこうぞを細く裂いて幣帛としたもの
また、孝謙天皇の母親の光明皇太后(光明皇后)も入唐大使・藤原朝臣清川に次のような歌を贈っています。
大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)
※藤原清川は光明皇太后の甥で子ではありません。
光明皇太后は国家の皇太后という立場からが清河を『この吾子』と表現したと考えられています。
そして阿倍仲麻呂はこの第12次遣唐使船が帰国する際、乗船して日本に戻る予定でした。
帰国まぎわに阿倍仲麻呂は次のような歌を詠んでいます。
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/阿倍仲麻呂(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)仲麻呂が乗った船は暴風雨にあい、結局仲麻呂は日本には戻れず唐でなくなるのですが~。
↑ なら瑠璃絵で展示されていた遣唐使船光明皇后の「光明」とは「暗闇を照らす光」のことをいいます。
暗闇を照らす光とは月のことではないでしょうか。
そして三笠山は春日大社の背後にあって春日大社とは関係が深そうに思えますが、春日大社は藤原氏の氏神、
光明皇后は藤原不比等の娘です。
「みかさの山に いでし月」とは光明皇后のことだと思えて仕方がないんですね~。
そして孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の娘とされていますが、本当の父親は阿倍仲麻呂では?
孝謙天皇は阿倍内親王といい、阿部氏と関係がある女性のように思えるんですよね~。
阿倍内親王が生まれたのは阿倍仲麻呂が唐へ旅立った翌年なので、時期的にもあいますね。
また758年ごろ、孝謙上皇(淳仁天皇に譲位していました。)は藤原仲麻呂の新羅の討伐に反対し、これによって新羅討伐は実現しませんでした。
孝謙上皇が新羅討伐に反対したのは、まだ帰国しない阿倍仲麻呂の身を案じたためではないでしょうか。
海龍王寺は遣唐使として阿倍仲麻呂とともに旅立った玄昉が、光明皇后の発願を受けて帰国後に創建した寺だと言うのも気になりますね。
阿倍仲麻呂は日本に帰国する玄昉に、「妻(光明皇后)と娘(阿倍内親王)をよろしく頼む」とお願いしたんじゃないかなあ?
そんなことを考えながら海龍王寺の境内を散策していると
海龍王寺の境内を埋め尽くす白い雪柳のしなる枝は大海にうねる波を、白い花は泡を表しているかのようで
遠くから遣唐使船がやってきそうな錯覚に陥りました~。