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廣瀬神社 砂かけ祭 『春になって降りてきた山の神』 

奈良県北葛城郡河合町  廣瀬神社
砂かけ祭・・・2月11日 


危険ですので走らないでください!
危険ですので押し合わないでください!
危険ですので下がってください!
危険ですので立ち止まらないでください!

祭や展示会に出かけるとこんな風に連呼されることがあります。
「押し合わないでください」っていうけど、誰も他人を押したりしないで並んで歩いてるんですよ。
閉門間近でガラ空き状態であるにもかかわらず、「危険ですので立ち止まらないでください」って意味わからないし。
事故がおこったら大変だというのはわかりますが、むやみにがなりたてずともほかに方法はないのかな、と思ってしまいます。

廣瀬神社の砂かけ祭はそんなうるさい(すいません)指導などありません。
(結界の中に入って写真を撮らないようにと注意があっただけです。)
というか、走るな、押し合うな、なんて言ってると成立しないお祭りなんです。

太鼓の音が鳴って、田人が牛を牽いて登場。
何度も言っていますが、牛=丑=12月、田人=童子(八卦では童子は艮/丑寅を表す)=1年の変わり目(丑=12月、寅=1月なので)を表すものだと思います。
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広瀬神社 砂掛け祭 牛をひく田人  
田人がおもむろにスコップで砂をかけだしました! 参拝者も砂をつかんで田人に投げ返します。
カメラは透明のビニール袋などでくるんでおかないと大変なことになります。
私は使っていなかった古いカメラを持っていきました。
カメラはビニール袋でくるんでいましたが、それでも砂だらけに~。

廣瀬神社 砂掛け祭 田人  

牛役さんも牛の面をとって砂をかけます。
広瀬神社 砂掛け祭 牛役 

一般の参拝者も砂をかけあい、境内は黄色く煙ります。

広瀬神社 砂掛け祭 砂をかけあう人々 
広瀬神社 砂掛け祭 田人2 

●廣瀬神社は水神?

崇神天皇9年(紀元前89年)、広瀬の河合の里長・広瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地となり、橘が生えました。
それが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのが廣瀬神社の始まり
 だと伝わっています。

『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には 『風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀った』との記述があります。

龍田立野に祀った風神とは龍田大社のことでしょう。
広瀬河曲に祀った大忌神が廣瀬神社だと思います。

社伝によれば廣瀬神社の創祀は紀元前89年としていますが、実際に祀られたのは日本書紀の記述にあるように675年なのではないでしょうか。

廣瀬神社は、佐保川・初瀬川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川等、大和盆地を流れる全ての河川が一点に合流する地に祀られています。
ここから廣瀬神社の神は水神だと考えられ、砂かけ祭で田人がばらまく砂は雨を表現したものだとされています。

でも私はこれとは違う考えを持っています。

●田人の農夫らしからぬ装い

私は廣瀬神社の田人が農夫らしからぬ装いなのが気になりました。
田人は頭にすっぽりと頭巾を被っていましたが、あんな格好で農作業をする人は見たことがありません。

ネットで村下(むらげ/たたら操業の技師長)の衣装を見たことがあるのですが、顔をすっぽりと覆う頭巾を被っていました。
(残念ながら現在は掲載されていません。)
田人の装いは鉱山で働く人の装いなのではないでしょうか?

山の神は春になると里に下りてきて田の神となり、秋の収穫が終わった後は再び山へ帰るといわれています。
廣瀬神社の砂かけ祭に登場する田人とは春になって山から下りてきて田の神となった山の神の姿なのではないでしょうか。

●製鉄穴流し

たたら製鉄では主に砂鉄が用いられ、砂鉄の採取には『鉄穴流し』が用いられたそうです。

砂鉄を多く含む花崗岩などがある山の付近に水路を引き、切り崩した岩石を水路に流します。
さらに洗場から大池、中池、乙池、洗樋と下流に流していきます。
岩石は水路を流れるうちに破砕され、土砂と砂鉄に分離します。
土砂と砂鉄では砂鉄のほうが比重が重いので、池で水を加えてかき混ぜ、土砂と砂鉄を分別したとのこと。
(比重選鉱法)

鉄穴流しを行うと河川下流域に大量の土砂が流出し、下流域の農業灌漑用水に悪影響を与えるというデメリットがありました。
その一方で、土地が増えることによってそこに新たな田畑を作ることができるというメリットもありました。

廣瀬神社の創建説話を思い出してください。
水足池という沼地が一夜で陸地となって橘が生えたのでしたね。
この伝説は製鉄流しで土地が増えたことを表すもので、砂かけ祭は、『鉄穴流し』によって土砂がたまっていく様子を神事にしたものなのではないでしょうか。

さきほど、『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条に『風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀った』との記述があるとお話ししましたが、風はたたら製鉄にかかせないもので、ふいごを用いて風を送り高温で金属を燃しました。
(そもそも「たたら」とは「ふいご」のことです。)

広瀬神社 砂掛け祭 早乙女

最後は早乙女による田植が行われました。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!



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[2016/02/13 13:04] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)