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興正寺 梅 『浄土真宗と真言立川流』 

京都市下京区 興正寺

興正寺 梅4

興正寺は西願寺の南隣にあり、まるで西本願寺の一部のように見えます。
それもそのはず、興正寺はかつては西本願寺の脇門跡だったそうです。
門跡とは皇族や貴族が住職を務める寺院のことです。
脇門跡というのは、よくわからないのですが(汗)、准門跡ともいい、
江戸時代に門跡と同等の扱いを受けるべきと定められた寺院だということだと思います。
明治時代に西本願寺と対立して独立したとのことです。

興正寺の寺伝では、浄土真宗の開祖である親鸞が1212年に流刑地の越後から京都にもどって興正寺を創建し、
そのあと弟子の真仏上人(第2世)に寺をまかせて東国に旅立ったとしています。
(専修念仏は弾圧を受け、1207年に法然や親鸞は流罪となっていました。)
親鸞は流刑地の越後から直接東国に向かったという説が有力ですが。

興正寺という寺名は、順徳天皇から「興隆正法」の勅願を賜ったところからつけられたそうです。
「興隆正法」とは「正しい法を興し栄えさす」という意味で、聖徳太子にちなむものだとされます。
聖徳太子は仏教を厚く保護し、四天王寺など多くの寺院を建てたことで知られていますね。

六角堂 桜 
六角堂

京都の六角堂も聖徳太子が建てたとされていますが
比叡山を下山した親鸞がこの六角堂に籠った際、夢の中に聖徳太子が現れて
「私が女性となってあなたの妻になり、命が終わるときは極楽へ導きましょう」と言ったという話があり
親鸞と聖徳太子は関係が深いため、順徳天皇は興正寺に「興隆正法」の勅額をおくったのでしょう。

興正寺 梅3 

●妻帯した親鸞

それにしても信者さんには申し訳ないのですが、聖徳太子が「女に生まれ変わってあなたの妻になる」なんて言うかなあ~?
親鸞は恵信尼という女性と結婚していますが、恵信尼は聖徳太子の生まれ変わりだと言いたいわけでしょ。

もしも今の時代に「ぼくちんの奥さんは聖徳太子の生まれ変わりなんだよー。」なんていう坊さんがいたら
白い眼で見られること間違いなしですよね~。

奈良時代に唐より鑑真がやってきて日本に戒律を伝えました。
戒律では僧侶が女性と関係を持つことを禁じていました。
空海や最澄の子孫はいないはずです。
ところが、開祖の親鸞が妻帯していたため、浄土真宗では肉食・妻帯・有髪が認められていました。
他の宗派の妻帯が許さるようになったのは明治5年です。

興正寺 梅 

●親鸞はなぜ妻帯したのか?

私は浄土真宗は真言立川流の影響を受けているのではないかと思います。

真言立川流は邪教として江戸時代に迫害を受けて消滅したとされる宗派で
ドクロに漆を塗って髑髏本尊を作り、その前で性行為を繰り返すという儀式を行ったりしていたようです。
これは性交によって男女が真言宗の本尊である大日如来と一体になることをめざす儀式だとされています。

なぜこのような儀式を行っていたのか、私の考えを書きます。

明治まで神仏は習合されて信仰されていました。
神道では神はその現れ方で御霊(神の本質)・和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)にわけられるとします。
そして男神が荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
すると神の本質=御霊とは男女双体となります。

男女が和合することは、男神である荒魂を女神である和魂と和合させることによって、御霊とし、神の怒りを鎮めて守護神に転じさせようとする儀式なのではないでしょうか。

立川流は仁寛(?―1114年)によって鎌倉時代に開かれ、南北朝時代に文観(1278-1357年)によって大成されたとされます。
『受法用心集』という書物には「真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒」と記されており、大変人気のあった宗派だったといえるでしょう。

親鸞の生没年は1173年~1263年なので、親鸞は当時人気のあった立川流を知っていたはずです。
実際に浄土真宗を開いたのは親鸞の子供たちだともいわれますが、彼らももちろん立川流を知っていたでしょう。

親鸞が妻帯したのは、立川流の影響を受けていたためではないでしょうか。

興正寺 梅2 


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[2016/02/28 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

醍醐寺 五大力さん 『醍醐天皇の望みを叶えてくれなかった五大力菩薩』 

五大力尊仁王会(五大力さん)・・・2月23日

醍醐寺の五大力尊仁王会(五大力さん)では餅上げ力奉納が行われます。
女性は90kg、男性は150kg (台を含む) の鏡餅を持ち上げ、どれだけ長い時間持ち上げることができたかを競います。

醍醐寺 五大力さん8

●五大明王と五大力菩薩

醍醐寺の境内は広く、下醍醐と上醍醐に分けられます。
http://www.daigoji.or.jp/garan/index.html

平地にある下醍醐から1時間ほど山を登っていったところが上醍醐で開山堂・如意輪堂などがあります。(上醍醐には行ったことがないんですが~)
この上醍醐には五大堂もあり、五大明王をおまつりしています。

五大明王とは仏教の尊像・不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王(または烏枢沙摩明王)のことをいいます。
どの明王も憤怒相です。
五大力菩薩というみほとけもあります。
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/know/bodhi/godai/g_001.htm
金剛吼・竜王吼・無畏十力吼・雷電吼・無量力吼の五菩薩のことで、やはり忿怒相をしています。

『仁王般若波羅蜜経』には『五大力菩薩は 三宝(仏・法・僧)を護持する国王に、自ら赴いてその国を守護する仏』と記されているそうです。
奈良時代より五大力菩薩に鎮護国家を祈祷する 「仁王会(にんのうえ)」が盛んに行われていたそうです。
醍醐寺の五大力尊仁王会(五大力さん)はそうした仁王会のひとつなのでしょう。

醍醐寺のhpによれば、「五大力菩薩は五大明王の化身である」との旨が記されています。
https://www.daigoji.or.jp/events/events_detail1.html

醍醐寺 五大力さん 

●醍醐天皇はなぜ五大力尊仁王会を行ったのか。

また上記に、「醍醐寺の五大力尊仁王会は醍醐天皇の時代、西暦907年まで遡る」との旨も記されています。

五大力菩薩は 「国王に、自ら赴いてその国を守護する仏」です。
日本の国王といえば天皇ですから、醍醐天皇は五大力菩薩や五大明王を厚く信仰していたことでしょう。
907年の五大力尊仁王会は醍醐天皇の意思で行われたものだと考えるのが自然だと思います。

醍醐寺で五大力尊仁王会が行われた907年、醍醐天皇は大きな不安を抱えていました。

901年、醍醐天皇は左大臣の藤原時平にこんな話を聞かされます。

時平「右大臣・菅原道真の娘の寧子は斉世(ときよ)親王の妃でっしゃろ。」
醍醐天皇「うん。斉世親王はぼくちんの異母弟でもあるよん。」
時平「道真はあなた様を廃して、斉世親王を天皇にしようと計画してまっせ。」
醍醐天皇「うむむ、道真め、そんなことを考えていたとは~!大宰府に左遷してやるわ!」

道真が斉世親王を天皇にしようとしている、というのは時平の讒言だと考えられています。

こうして道真は大宰府に左遷となり、903年、大宰府で亡くなってしまいました。

醍醐天皇「邪魔者の道真は死んでぼくちんの天皇の座は安泰になった。だけど、恨みを持って死んだ人は怨霊になると聞くので心配だなあ~。ここはひとつ五大力菩薩のお力にすがるとするか~。」

907年の醍醐寺の五大力尊仁王会はこうして行われたのではないかと想像します。

醍醐寺 五大力さん7  
●醍醐天皇の望みをかなえてくれなかった五大力菩薩

ところが、五大力菩薩が醍醐天皇の望みをかなえてくれることはなかったのです。
というのは、この後、菅原道真の怨霊が大暴れしたからです。

909年、醍醐天皇に讒言をした藤原時平が39歳で死亡。
923年には醍醐天皇の皇子で皇太子だった保明親王が21歳で薨去。
醍醐天皇は保明親王の子の慶頼(やすより)王を皇太子にしましたが、925年、慶頼王は5歳で夭折。

「藤原時平、保明親王、慶頼王が相次いで亡くなったのは、菅原道真の怨霊の仕業なんですって~。」

そんな噂が飛び交う中、925年には清涼殿に落雷が落ち、多くの人がなくなりました。

「清涼殿に落雷があって道真左遷に関わった方々が大勢亡くなりましたわね~。
あれも道真の怨霊のしわざにちがいありませんわ~。」

「そのとおりですわ~。道真の怨霊が雷神になったにちがいありませんわ~。」

醍醐天皇は清涼殿落雷事件の3か月後に崩御されましたが、道真の怨霊を恐れるあまり、醍醐天皇がノイローゼになったのが原因であるともいわれています。

五大力明王や五大力菩薩のご加護は、醍醐天皇にはあまりなかったようです。

醍醐寺 五重塔 五大力さん 

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[2016/02/26 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

下鴨神社 光琳の梅 『八咫烏はなぜ三本脚なのか?』 

京都市左京区 下鴨神社


miniさん のブログ(写真がとてもきれいで素敵なブログです♡)で下鴨神社の光琳の梅を見て、行ってきました。(ありがとうございます!)

下鴨神社 光琳の梅  


この梅は尾形光琳が代表作・紅白梅図屏風に描いた梅だとされています。
すると絵に描かれた小川はみたらし池から流れ出る小川なのでしょう。
現在、白梅はありませんが当時はあったんでしょうか?
また絵には太鼓橋は描かれていませんが、当時ここには太鼓橋はなかったのでしょうか?

光琳の梅についての好奇心もつきることはありませんが、今回は下鴨神社の御祭神・鴨建角身命(かもたけつぬのみこと)=八咫烏がなぜ三本脚なのか、について考えてみたいと思います。

●八咫烏=サルタヒコ=ニギハヤヒ


八咫烏の正体についての私の考えは、以前の記事・城北公園 花菖蒲 鴨 『八咫烏(鴨建角身命)の正体』 に書きました。

まとめておきましょう。

①初代神武天皇は日向より東征し、機内入りをめざした。
神武は河内国へ上陸し、地元の豪族・ナガスネヒコの軍と戦って敗れ、南に迂回して紀州から上陸する作戦をとる。
神武が熊野を北上する際、八咫烏が現れ、神武天皇を道案内した。

②神武の先祖・ニニギが高天原から葦原中国へ天下る際、サルタヒコという神が道案内している。
八咫烏とサルタヒコはどちらも道案内する神なので、同一神なのではないか。
八咫烏=サルタヒコ

③サルタヒコは「高天原から葦原中国までを照らす神」だと記述がある。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ)という神がいるが、天は高天原、国は葦原中國のことなので、「天照国照彦」とはまさしく「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味である。
サルタヒコ=ニギハヤヒ

④天照大神はストリップダンスに興味を持って天岩戸から出てきたので男神だとする説がある。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ)が本当の天照大神ではないか。

⑤ニギハヤヒは神武が機内入りする前に天下っていたとされるところから、畿内には神武以前に物部王朝があったとする説がある。

⑥梅原武さんは「八は復活を意味する数字」とする。
八角墳・・・死者の復活を願って作った古墳
八咫鏡・・・天岩戸にこもった天照大神を復活させた鏡

⑦八咫烏は中国や朝鮮では太陽の中に描かれることが多い。
八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒなのではないか。
サルタヒコ=ニギハヤヒ=八咫烏

⑧怨霊は祀り上げると守護神になると考えられていた。

下鴨神社 光琳の梅3

●『歓喜天』と『伏羲&女媧』は習合されていた?

次に八咫烏はなぜ三本脚なのか、について考えてみましょう。

以前の記事、飛鳥座神社 おんだ祭 『おんだ祭はサルタヒコを鎮魂する儀式だった?』 で私はこんなことを書きました。

①神はその現れ方で、御霊・和魂・荒魂に分けられるといわれる。
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面

②女神は和魂、男神は荒魂であるとする説がある。
御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(おかめ)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(天狗)


③明治まで神仏は習合されて信仰されていた。

④仏教の神・大聖歓喜天にこんな伝説がある。
鬼王ビナヤキャの祟りで疫病が流行った。
そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿を変えて鬼王ビナヤキャの前に現れた。
鬼王ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、妻になれと命じた。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うのならばあなたの妻になりましょう」と言った。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓ってビナヤキャ女神を妻とした。

この話から、夫婦和合は怨霊=荒魂=男神を、和魂=女神と和合させることによって鎮魂する儀式であると考えられる。

下鴨神社 光琳の梅4

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kannki.htm ←こちらのサイトに歓喜天の絵が掲載されています。
歓喜天はビナヤキャ女神がビナヤキャの足を踏みつける姿であらわされます。

次に、中国の神・伏羲&女媧のお姿を見てください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E7%BE%B2#/media/File:Anonymous-Fuxi_and_N%C3%BCwa3.jpg

腕がつながっているので、腕が3本に見えますね。
私は伏羲&女媧は歓喜天(ビナヤキャ&ビナヤキャ女神)の影響を受けて創作された神ではないかと思います。

歓喜天はビナヤキャ女神がビナヤキャの足を踏みつけていますが
伏羲&女媧はもともとは女媧が伏羲の手を押さえつけていたのではないでしょうか。
それが簡略化されてこのように手がつながったお姿になったのではないかと思います。
ビナヤキャは足を踏みつけられていますが、伏羲は足のかわりに手を押さえつけられているのではないかということです。

下鴨神社 光琳の梅2

●『歓喜天』と『伏羲&女媧』と『道祖神(サルタヒコ&アメノウズメ)は習合されていた?

道祖神は中国から日本に伝わった神ですが、日本では道祖神はサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神とされています。
そして道祖神は手を握り合う男女の神像で表されることが多いです。 http://www15.wind.ne.jp/~kurasho/history/img/03saruyas.jpg
 
これは手を握りあっているのではなくて、サルタヒコがアメノウズメに手を押さえつけられているの図だと思います。
というのは、サルタヒコは「貝に手を挟まれて死んだ」とされているからです。
貝とはアメノウズメの女性器の喩えだと考えられます。
またアメノウズメはニニギに「サルタヒコにつかえよ」と命じられていますが、これは「性的につかえよ」という意味だと思われます。

道祖神が手を握りあうお姿で現されるのは、性的に結合していることのサインなのだと考えられます。
伏羲&女媧の手がつながっていたり、ビナヤキャ女神がビナヤキャの足を踏みつけているのも同様のサインだといえるでしょう。

そしてすでに述べたように、八咫烏とサルタヒコは同一神だと考えられます。
いや、正確にいえば、八咫烏とは荒魂であるサルタヒコが和魂であるアメノウズメと結合して、守護神となったもののことだといえるでしょう。

比翼の鳥は、雌雄それぞれが目と翼を一つずつ持っているとされます。
この比翼の鳥をベースにし、手または足がつながっている(押さえつけられている)ことを示すために、八咫烏の脚は3本に描かれるのではないかと思ったりします。



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[2016/02/24 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

橿原神宮 紀元祭 神武天皇陵 『ミサンザイ古墳の語源』 ※追記あり 

奈良県橿原市 橿原神宮
紀元祭・・・2月11日


勅使の行列
橿原神宮 紀元祭-行列 
●ミサンザイの語源はミソサザイだった?

橿原神宮は1890年(明治23年)に明治天皇によって創建された神社で、初代神武天皇をお祭りしています。
橿原神宮は神武天皇の畝傍橿原宮があった場所だと考えられています。
また神社の北側には四条ミサンザイ古墳があって神武天皇陵に比定されています。

神武天皇陵(四条ミサンザイ古墳)

「ミサンザイ古墳」または「ニサンザイ古墳」と呼ばれる古墳は大阪府堺市・藤井寺市・岬町などにもあり「ミササギ」が訛ったものだと考えられています。

橿原神宮 紀元祭 行列2

でも私は「ミソサザイ」という鳥の名前からくる言葉ではないかと考えています。
「ミソサザイ」は古くは「ササキ」といっていました。
「ササキ」に「御(ミ)」をつけると「ミササキ」となります。
この「キ」が濁音に変化したのが、そもそも「ミササギ(陵)」という言葉の由来ではないでしょうか。
そして「ミソサザイ」が訛って陵を「ミサンザイ」「ニサンザイ」と言ったのではないかと思います。

●鳥たちが行ったアメノワカヒコの葬儀


なんで鳥の名前が墓や古墳を意味する言葉になったのかって?

記紀神話にアメノワカヒコという神様の葬儀のようすが記されています。
それによると、カワカリが食べ物を運び、サギはほうきを持ち、カワセミは神饌を用意し、スズメは米をつき、キジは泣き女をつとめたとあるのです。

●ほうきは祓い浄めるための道具だった?

サギがほうきを持っていたので、サギを掃除係だとしているサイトもありましたが、
ほうきは祓い浄めるための神具であって、掃除をするために持っているのではないと思います。

京都では早く帰ってほしい客人があるときは、ほうきを逆さにして立てておくそうです。
これなども、帰ってほしい客人を穢れとみなし、ほうきで祓い浄めるという意味があるのではないかと思ったりします。

追記/同様の習慣は関東にもあるとcarrotさんに教えてもらいました。carrotさん、ありがとう~。

橿原神宮 紀元祭 行列3 

●巨大古墳は鳥の視線を意識してつくられた?


それはさておき、鳥は人の死と関係が深いものであったように思われます。

世界一の敷地面積を誇る仁徳天皇陵は、あまりに大きすぎて地上から見たとき、その形を認識することはできません。

仁徳天皇陵 

↑ 堺市役所21階展望ロビーから見た仁徳天皇陵です。(木が茂っているところ)
全然形がわかりませんね。
地上から見るともっとわかりません。



↑ 空高く飛ぶ鳥にはこんな風に見えるのではないでしょうか。
仁徳天皇陵が前方後円墳であることも容易に確認できるでしょう。

昔の人は死者の魂は鳥になって天に昇ると考えたのではないでしょうか。
死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び去ったという伝説もありますね。

そして鳥の視点を意識して、巨大な前方後円墳は築かれたのではないかと思います。
ナスカの地上絵なども同様でしょう。

銃剣 かっこよかったです。
橿原神宮 紀元祭 銃剣 

●ミソサザイはスクナヒコナ神

鳥の種類はたくさんありますが、ミソサザイはスクナヒコナ神と関係が深い鳥です。
というのは日本書紀によると、スクナヒコナ神はミソサザイの皮をきていた、と記されているからです。
昔の人は死んだ人の魂は鳥になると考えていたのではないかと私は考えています。
スクナヒコナ神は死んだ貴人の魂が神になったものではないでしょうか。
そういうことで、鳥の中でもミソサザイは特別な鳥であったため、陵の名前にも用いられたのではないかと思ったりします。


これは剣舞かな?とてもすばらしい舞でした♪
橿原神宮 紀元祭 剣の舞 

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[2016/02/22 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

野里住吉神社 一夜官女祭 『岩見重太郎の狒狒退治伝説』 

大阪市西淀川区 野里住吉神社
一夜官女祭・・・2月20日 


●岩見重太郎の狒々(ヒヒ)退治伝説


 野里住吉神社 一夜官女祭

ピンクの着物に冠をかぶったかわいいお稚児さん.たち。
でもこのこのお稚児さんたち、人身御供なんです。

こんな伝説があります。

かつて野里村は風水害と疫病の流行が相次ぎ、『泣き村』と呼ばれていました。
こういったことがおこるのは神様が怒っているからに違いない。
村人たちはそう考え、毎年一人の女性を生贄として神にささげていました。
ある時、この町に岩見重太郎という武士がやってきてこういいました。
「神は人を救うもので人間を犠牲にしたりしない。」
そして乙女の代わりに自分が唐櫃に入りました。
翌朝、村人たちが神社に行くと、武士の姿はなく、境内は血まみれになっていました。
血痕は隣の申村まで続いており、大きな狒々狒々(ひひ)が死んでいました。


野里住吉神社 一夜官女祭 行列2 
●薄田隼人正兼相が犬に喩えられた理由

この話に出てくる岩見重太郎とは桃山時代の武将で、薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)と同一人物とされています。
薄田(すすきだ)は姓で、隼人正(はやとのしょう)はよくわからないんですが、ググってみると官位だとか、通称だと出てきます。(御存じの方、教えてください)
そして名前が兼相(かねすけ)です。

岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男ですが、叔父の薄田七左衛門の養子となって全国へ武者修行に出ました。
武者修行を終えたのち、薄田隼人と名乗るようになりました。

小早川隆景の死後浪人となり、のちに豊臣氏に仕官しました。
大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて陣頭指揮を取りましたが戦死しました。

岩見重太郎が狒々退治をしたという話は野里住吉神社だけでなく、各地に伝わっています。
狒々とは大きな猿のような姿をした妖怪で、人間の女性を襲うとされています。

また、早太郎(はやたろう)とか疾風太郎とかいう名前の犬が狒々退治をしたという伝説もあります。

犬の早太郎とは薄田隼人正兼相(岩見重太郎)のことではないか、という説があります。
薄田隼人正兼相(岩見重太郎) の隼人正を語呂合わせで『早』として、『太郎』をつけたのではないかというのですね。

野里住吉神社 一夜官女祭 行列 

薄田隼人正兼相(岩見重太郎) =早太郎、というのはなるほど、と思いますが、なぜ早太郎は犬にされているのでしょうか?

隼人とは南九州の民のことです。
奈良時代、隼人は強制的に都につれてこられて宮門の警備をさせられていましたが、
警備をするにあたり、犬の鳴き声をまねていたそうです。

そのため薄田隼人正兼相は犬の早太郎にされたのではないでしょうか。
謎々だったんですね。

●犬猿の仲?

秀吉はその容貌から「猿」と呼ばれていましたし、たいへん女好きでした。
狒々とは大きな猿の姿をした妖怪で、人間の女性を襲うのでしたね。
狒々とは秀吉のことなのかも?

狒々が秀吉のことだとすると薄田隼人正兼相が秀吉を退治したということになるけど
薄田隼人正兼相は秀吉の臣下で、薄田隼人正兼相が秀吉に逆らったなんて話もない。
おかしいじゃん、とか言われそうですね。

たしかに、薄田隼人正兼相が秀吉に逆らったという話はありません。

犬の早太郎とは薄田隼人正兼相のことだという説があるのでしたね。
犬猿の仲、というように、犬と猿は仲が悪いとされます。

薄田隼人正兼相=犬   豊臣秀吉=猿

それで田隼人正兼相(犬)が狒々(豊臣秀吉)を退治したなどという話ができたのかなあ?などと思ったりします。





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[2016/02/20 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪城3Ⅾマッピング 『秀吉はなぜ跡継に恵まれなかったのか?』 


大阪市中央区 大阪城


去年の今頃、大阪城の3Ⅾマッピングを見に行きました。
残念ながら今年は中止だそうです・・・
http://www.asahi.com/articles/ASH9B5DJMH9BPTIL01G.html

大阪城 3Ⅾマッピング 1 

長いことgifアニメの位置合わせのやり方がわからなかったんですが、こちらの記事にやり方が書いてありました。http://pselements12.blogspot.jp/2013/10/gif_30.html
私が使っているのはフォトショップエレメンツ13ですが、同じやり方でできました♪

ただ微妙にずれることもあるので、やはり1枚1枚調節する方法を見つけたいです。

大坂城3dマッピング 5  

●子宝に恵まれなかった豊臣秀吉

大阪城は豊臣秀吉が築いた城で、地元では『太閤さん(秀吉のこと)の城』と言われているそうです。
(1959年の調査で城跡に現存する櫓や石垣は江戸幕府によって建てられたものであることが明らかになったのですが~)

豊臣秀吉はたいへんな女好きで、多くの側室を持っていました。
ところが正室ねねとの間に子供はできず。
側室・南殿との間に秀勝をもうけたともいいますが、秀勝は幼くして亡くなっています。(実在していなかったという説も)
側室・茶々との間に鶴松と秀頼をもうけていますが、鶴松も幼くして死亡。
秀吉亡きあと、秀頼が跡をついで大阪城に住んでいましたが、大坂の陣で江戸幕府軍に攻められ自殺して果てました。
23歳という若さでした。
こうして豊臣家は滅亡してしまいました。

秀吉が多くの側室を持っていたにもかかわらず子宝に恵まれなかったのは、秀吉が男性不妊症であったからではないかとも言われています。
「秀頼も秀吉の子ではない」とする説もあります。

単なる可能性としての話ですが(汗)、秀吉は肥後ずいきを愛用していたため子供ができなかったなんてこともあるのではないか、と思ったりします。

大阪城 3Ⅾマッピング2

●すいき神輿は秀吉の霊が乗る御神輿だった?

秀吉と肥後ずいきの話はこちらの記事に書きました。 北野天満宮 瑞饋祭 『瑞饋祭は肥後ずいき祭?』 
記事の内容をまとめておきます。
 
①秀吉は1587年に北野天満宮で北野大茶会を行ったが、10日間の予定がたった一日で茶会は中止になった。
中止になった理由は、初日の夕方に肥後国一揆がおこったためという説が有力。

②秀吉は肥後を朝鮮や明国への出兵の基地にしようと考え、佐々成政を肥後の領主に任命して『太閤検地』を実施させていた。
その佐々成政に対して肥後北東部の国衆(土地を所有し、民政・軍政を担当していた戦国領主)が一揆をおこした。
秀吉は肥後国に約二万人の軍勢を送り込み、ほとんどの国衆たちは殺された。

③秀吉は1592年に朝鮮出兵を行うが失敗。

④1598年、秀吉は死亡し豊国大明神の神号を与えられる。

⑤1607年、秀吉の後継者の秀頼が秀吉の遺志をついで北野天満宮の本殿をたてる。
この年、北野天満宮の祭礼で初めてずいき神輿(ずいきなどの乾物で作った神輿)が作られた。
ずいき神輿に乗っている神は天神さん(菅原道真)ではなく、豊国大明神=豊臣秀吉ではないか。

北野天満宮 ずいき神輿


⑥秀吉が軍勢を送った肥後の国には『肥後ずいき』という名物がある。
誰かが肥後すいきを女好きの秀吉のおみやげに持ち帰ったのではないか。

大坂城3dマッピング 4  

●アルカロイドとサポニン


肥後ずいきとはハスイモを干して干瓢のように細長くしたものです。
(何に用いるものなのかは、各自で調べてください~笑。)
原材料であるハスイモにはサポニンという成分が含まれています。

http://マカ効能.com/seibun/entry26.html
↑ 上記サイトはマカに含まれるサポニンついての説明文ですが、次のように記されています。


サポニンはアルカロイドによく似た成分の1つです。多くの植物に含まれていることも、効能がある代わりに時には毒性があることも同じです。 
http://マカ効能.com/seibun/entry26.html より引用)

江戸時代には堕胎薬としてほおずきが用いられていたそうです。
陰干ししたほおずきを水でふやかし膣内に入れると、ほおずきに含まれるアルカロイドの成分によって胎児が腐るのだとか。

サポニンにアルカロイドに似た成分があるのであれば、サポニンを含む肥後ずいきにはある程度の避妊効果があったのではないかと思ったりするのですが、どうでしょう?

医薬品の知識にたけた方、教えてください~!

マカであればサポニンなどの有効成分の効能によって精子そのものの量を増やすので・・・・
http://マカ効能.com/seibun/entry26.html より引用)
とありますが、これは服用した場合のことですね。

大阪城 3Ⅾマッピング 2

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[2016/02/18 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

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直接サイトにメールを送ろうと思ったのですが 「架空のメールアドレスです」とメッセージが出て送ることができませんでした。
早急にまとめサイトに転載した当ブログの記事をすべて削除してください。






[2016/02/17 09:10] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

長谷寺 だだおし 『閻浮壇金(えんぶだごん)とオリハルコン』 

 長谷寺・・・奈良県桜井市初瀬731-1
だだおし・・・2月14日 


日没後、法螺貝の音とともに鬼が登場!
鬼のあとには長さ3mはありそうな大きな松明をかかえた一団が続きます。

長谷寺 ただおし 赤鬼2


●『だだおし』という言葉の意味

『だだおし』とは、閻魔大王が悪人の罪を罰し穢れを祓う杖のことだとか、厄病神を駆逐する『難押し(だおし)』がなまったものだとか、様々な説があります。

長谷寺には次のような伝説があります。

717年、長谷寺の開山・徳道上人が病で仮死状態となり、冥土に行きました。
そのとき、閻魔大王は徳道上人に言いました。
「お前はまだ死んではいけない。もと世界に戻って西国三十三カ所観音霊場を開きなさい。」
徳道上人は閻魔大王の閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印(壇ダ印)をもらってもとの世界に戻りました。
そして修二会結願の日、閻浮壇金の黄金印を参拝者の額に押し当てて『悪魔退散』『無病息災』の加持祈祷をしました。
その時、長谷寺の乾(西北)の方、白山に棲んでいた悪鬼が出没しました。
徳道上人はこの鬼を修二会の法力で追い祓いました。

閻浮壇金宝印が額にあると極楽浄土が保証されると言われています。

『だだおし』では参拝者の額や牛玉札に宝印を押します。
ここから考えて『だだおし』とは閻浮壇金(えんぶだごん)の黄金印である「壇ダ印を押す」からくる言葉なのではないかと思ったりするのですが、どうでしょうか?

長谷寺 ただおし 青鬼 

●観音浄土とアトランティス、閻浮壇金とオリハルコン

長谷寺の舞台から本堂を見ると、礼堂(本尊を安置する場所)の上部は高窓のようになっていて、そこから像高三丈三尺六寸(1018.0cm)の巨大な十一面観音像のお姿を拝することができます。
御本尊の写真撮影は禁止だと思うので写真は撮ってないのですが~

私は長谷寺の舞台から十一面観音を拝むたびに、萩尾 望都さんのSF漫画・『百億の昼と千億の夜』を思い出します。

時ははるか古代、場所はアトランティス。
アトランティスは海神・ポセイドンが支配する国でした。
ポセイドンは長谷寺の観音様のように巨大で、祭の日に高窓から民衆に姿を見せる姿は長谷寺の十一面観音とイメージがだぶります。
(秋田文庫『百億の昼と千億の夜』p38、p48をごらん下さい。)

長谷寺 だだおし 緑鬼

観音浄土は南方海上にあるといいます。
観音様とは東洋における海神・ポセイドンだといえるかもしれません。

海神・ポセイドンが支配する国・アトランティスにはオリハルコンという金属があったとされています。
そして竜宮には閻浮壇金があった・・・・。
竜宮とは日本神道における、海神が住むとされる海の中にある宮のことです。
そして明治まで神道と仏教は習合されていました。
竜宮は神道、観音浄土は仏教の概念ですが、同一視されていたことでしょう。

観音信仰とアトランティス伝説は関係があるかも?ないかも?

 長谷寺 ただおし 赤鬼


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[2016/02/16 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

しあわせ回廊 なら瑠璃会 『抹殺された星の神』 

奈良市 奈良公園
なら瑠璃会・・・
http://rurie.jp/

東大寺大仏殿前にある鏡池の噴水をスクリーンにして、色とりどりの花が咲きます。

東大寺鏡池 アートプロジェクション2  

光の中に表れたのは大仏さまかな?

東大寺鏡池 アートプロジェクション

大仏殿の観相窓から大仏さまのお顔が見えます。

大仏殿 万灯供養会

興福寺。
なら瑠璃会 興福寺 
春日大社参道のミラーボーラ―。

なら瑠璃会 春日大社 ミラーボーラ― 

おとぎの国に迷い込んだかのよう。
なら瑠璃会 春日大社 ミラーボーラ―2 

星をちりばめたような冬七夕ロード。

なら瑠璃会 冬七夕

●日本には星の神は一柱しかいない?

 
ということで、今日は星の神についての話をしたいと思います。

ギリシャ神話にはたくさんの星の神が登場しますね。
でも記紀神話には日本の星の神はたった一柱しか登場しません。
天津甕星(あまつみかぼし)またの名をカカセオといいます。

この天津甕星は天照大神の葦原中国平定に最後まで抵抗した荒々しい神だといいます。
どうやら日本の星の神は「まつろわぬ民」の神であるようです。

それにしても、なぜ記紀神話には星の神がたった一柱しか登場しないのでしょうか。
これについて、星の神はもともとは大勢いたが、抹殺されたとする説があります。

『上記(うえつふみ)』という歴史書があります。
後世に記された偽書だとされていますが、この中に星の神がたくさん登場します。
トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などです。
上記が偽書であるとしても、全ての記述が偽りであるとも言い切れず、古にはトムツツ・アカユツツ・イユキツツと呼ばれる星の神が存在していたのでは、と思ってしまいます。

また大阪の住吉大社の神・底筒男命・中筒男命 ・表筒男命はオリオン座の三ツ星を神格化した神ではないかと言われています。
上記に登場する星の神の名はすべて「~ツツ」なっています。
住吉大社の神の名にある「筒(ツツ)」は星の神であることを示しているのではないかというのです。

●大きな石は空から降ってきた星であると考えられていた?

大阪府交野市にある磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは『雲陽誌』という書物の中で星の神であるとして、次のような内容が記されています。

延宝7年、島根県松江市の松崎神社で石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒの石として宝物にしたと。

磐船神社 天の磐船

磐船神社 御神体 『天の磐船』


どうも昔の人は大きな石は空から降ってきた星だと考えたようですね。
ニギハヤヒが乗ってきた「天の磐船」は落ちた流星が固まって石になったものだと信仰されたのでしょう。

ニギハヤヒとは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向から東征して機内入りする以前に天の磐船を操って天下っていたと記紀には記述があります。
ここから初代神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

この物部氏は星を神と崇める民であり、あとからやってきた天皇家が物部氏が崇めていた星の神を抹殺し、日本書紀にたった一柱の星の神のみ記述したのではないかと思ったりします。


なら瑠璃会 春日大社 夜神楽 

春日大社 夜神楽 



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[2016/02/14 01:23] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

廣瀬神社 砂かけ祭 『春になって降りてきた山の神』 

奈良県北葛城郡河合町  廣瀬神社
砂かけ祭・・・2月11日 


危険ですので走らないでください!
危険ですので押し合わないでください!
危険ですので下がってください!
危険ですので立ち止まらないでください!

祭や展示会に出かけるとこんな風に連呼されることがあります。
「押し合わないでください」っていうけど、誰も他人を押したりしないで並んで歩いてるんですよ。
閉門間近でガラ空き状態であるにもかかわらず、「危険ですので立ち止まらないでください」って意味わからないし。
事故がおこったら大変だというのはわかりますが、むやみにがなりたてずともほかに方法はないのかな、と思ってしまいます。

廣瀬神社の砂かけ祭はそんなうるさい(すいません)指導などありません。
(結界の中に入って写真を撮らないようにと注意があっただけです。)
というか、走るな、押し合うな、なんて言ってると成立しないお祭りなんです。

太鼓の音が鳴って、田人が牛を牽いて登場。
何度も言っていますが、牛=丑=12月、田人=童子(八卦では童子は艮/丑寅を表す)=1年の変わり目(丑=12月、寅=1月なので)を表すものだと思います。
手向山八幡宮 御田植祭 『御田植祭と追儺式』 
飛鳥座神社 おんだ祭 『おんだ祭はサルタヒコを鎮魂する儀式だった?』 

広瀬神社 砂掛け祭 牛をひく田人  
田人がおもむろにスコップで砂をかけだしました! 参拝者も砂をつかんで田人に投げ返します。
カメラは透明のビニール袋などでくるんでおかないと大変なことになります。
私は使っていなかった古いカメラを持っていきました。
カメラはビニール袋でくるんでいましたが、それでも砂だらけに~。

廣瀬神社 砂掛け祭 田人  

牛役さんも牛の面をとって砂をかけます。
広瀬神社 砂掛け祭 牛役 

一般の参拝者も砂をかけあい、境内は黄色く煙ります。

広瀬神社 砂掛け祭 砂をかけあう人々 
広瀬神社 砂掛け祭 田人2 

●廣瀬神社は水神?

崇神天皇9年(紀元前89年)、広瀬の河合の里長・広瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地となり、橘が生えました。
それが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのが廣瀬神社の始まり
 だと伝わっています。

『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には 『風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀った』との記述があります。

龍田立野に祀った風神とは龍田大社のことでしょう。
広瀬河曲に祀った大忌神が廣瀬神社だと思います。

社伝によれば廣瀬神社の創祀は紀元前89年としていますが、実際に祀られたのは日本書紀の記述にあるように675年なのではないでしょうか。

廣瀬神社は、佐保川・初瀬川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川等、大和盆地を流れる全ての河川が一点に合流する地に祀られています。
ここから廣瀬神社の神は水神だと考えられ、砂かけ祭で田人がばらまく砂は雨を表現したものだとされています。

でも私はこれとは違う考えを持っています。

●田人の農夫らしからぬ装い

私は廣瀬神社の田人が農夫らしからぬ装いなのが気になりました。
田人は頭にすっぽりと頭巾を被っていましたが、あんな格好で農作業をする人は見たことがありません。

ネットで村下(むらげ/たたら操業の技師長)の衣装を見たことがあるのですが、顔をすっぽりと覆う頭巾を被っていました。
(残念ながら現在は掲載されていません。)
田人の装いは鉱山で働く人の装いなのではないでしょうか?

山の神は春になると里に下りてきて田の神となり、秋の収穫が終わった後は再び山へ帰るといわれています。
廣瀬神社の砂かけ祭に登場する田人とは春になって山から下りてきて田の神となった山の神の姿なのではないでしょうか。

●製鉄穴流し

たたら製鉄では主に砂鉄が用いられ、砂鉄の採取には『鉄穴流し』が用いられたそうです。

砂鉄を多く含む花崗岩などがある山の付近に水路を引き、切り崩した岩石を水路に流します。
さらに洗場から大池、中池、乙池、洗樋と下流に流していきます。
岩石は水路を流れるうちに破砕され、土砂と砂鉄に分離します。
土砂と砂鉄では砂鉄のほうが比重が重いので、池で水を加えてかき混ぜ、土砂と砂鉄を分別したとのこと。
(比重選鉱法)

鉄穴流しを行うと河川下流域に大量の土砂が流出し、下流域の農業灌漑用水に悪影響を与えるというデメリットがありました。
その一方で、土地が増えることによってそこに新たな田畑を作ることができるというメリットもありました。

廣瀬神社の創建説話を思い出してください。
水足池という沼地が一夜で陸地となって橘が生えたのでしたね。
この伝説は製鉄流しで土地が増えたことを表すもので、砂かけ祭は、『鉄穴流し』によって土砂がたまっていく様子を神事にしたものなのではないでしょうか。

さきほど、『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条に『風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀った』との記述があるとお話ししましたが、風はたたら製鉄にかかせないもので、ふいごを用いて風を送り高温で金属を燃しました。
(そもそも「たたら」とは「ふいご」のことです。)

広瀬神社 砂掛け祭 早乙女

最後は早乙女による田植が行われました。

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[2016/02/13 13:04] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)