fc2ブログ














飛鳥座神社 おんだ祭 『おんだ祭はサルタヒコを鎮魂する儀式だった?』 

奈良県明日香村 飛鳥坐神社
おんだ祭・・・2月第1日曜日

●追儺式とおんだ祭


神社の鳥居前では天狗がささらを持って大暴れ~!
参拝者はお尻をささらでぴしりと叩かれます。
私もやられました~。
「,お尻をたたかれると安産になる」なんて言われています。

飛鳥坐神社 おんだ祭 
拝殿に天狗と翁が登場~。
飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 天狗と翁

天狗が牛をひいて田おこしをします。
牛は干支の丑ですね。天狗は八卦の艮(丑寅)の符・・・童子を表しているのでしょう。
童子に見えないって?でも真ん中にいる翁に比べると若いので~。
12か月を干支であらわすと丑は12月、寅は1月なので艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわします。
手向山八幡宮 御田植祭 『御田植祭と追儺式』 
↑ こちらの記事にも書きましたが、おんだ祭(御田植祭)とは目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものではないでしょうか?

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 田おこし 
節分(2月3日)とは立春の前日のことです。
立春は暦法・二十四節気の新年だといえます。
2月第一日曜日に行われている飛鳥坐神社のおんだ祭は節分の行事なのではないかと思います。
手向山八幡宮の御田植式は2月3日ですしね。手向山八幡宮 御田植祭 『御田植祭と追儺式』 
追儺式の鬼は、牛の角を生やし虎皮のパンツをはいています。
つまり鬼とは「丑寅」でやはり目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものだと思います。
おんだ祭で牛をひく天狗(童子)は追儺式の鬼と同じ意味を持つものなのではないでしょうか。

種籾撒き。
これは追儺式の豆まきと同じ意味を持つものだと思います。

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 種籾撒き

これは田植ですね。
松の葉を束ねたものを早苗に見立ててあるのでしょう。

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 早苗 
天狗・翁・牛が早苗を参拝者に撒きます。
飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 早苗をまく

●夫婦和合の呪術
 
お亀が登場しました。
京都の千本釈迦堂や北野天満宮の節分狂言でもおかめが登場します。
節分とおかめは関係が深いようです。

飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 天狗とおかめ

♡♡♡~!
飛鳥坐神社 おんだ祭 狂言 
和合水を拭き取った紙は「福の神(拭くの紙)」というありがたーい縁起物です(笑)。
飛鳥坐神社 おんだ祭 福の神 
この狂言は何を意味しているのでしょうか?
私は次のように考えます。

庶民的な顔をしていますが、天狗もおかめも神様です。
天狗は男神、おかめは女神ですね。

神はその現れ方で、御霊・和魂・荒魂に分けられるといわれます。
御霊・・・神の本質
和魂・・・神の和やかな側面
荒魂・・・神の荒々しい側面

そして女神は和魂、男神は荒魂であるとする説があります。
御霊・・・神の本質・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(おかめ)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(天狗)


つまり男神である天狗は荒魂、女神であるおかめは和魂ということです。
荒魂は怨霊と同様のものだと考えていいのではないでしょうか。
怨霊とは政治的に不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていました。
その怨霊=荒魂を鎮魂する方法が、夫婦和合なのだと思います。

というのは、仏教の神・大聖歓喜天にこんな話があるのです。

マラケイラレツ王は牛と大根が好物でした。
牛を食べつくしてしまうと死人の肉を、死人の肉を食べつくしてしまうと生きた人の肉を食べました。
人々はこれを憂い、マラケイラレツ王に対して挙兵しました。
するとマラケイラレツ王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
その後鬼王ビナヤキャの祟りで疫病が流行りました。
そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿を変えて鬼王ビナヤキャの前に現れました。
鬼王ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、妻になれと命じました。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うのならばあなたの妻になりましょう」と言いました。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓ってビナヤキャ女神を妻としました。


 ←こちらのサイトに歓喜天の絵が掲載されています。

歓喜天の話のテーマは、荒魂である鬼王・ビナヤキャが和魂であるビナヤキャ女神と和合することで、人々に祟るのをやめ、仏法守護の髪になったということだと思います。

つまり男女和合は怨霊を鎮魂し、よい神に転じさせるための呪術ではないかと思うわけです。

●天狗はサルタヒコ、おかめはアメノウズメだった?

ところで飛鳥坐神社の境内には ↓ こういう陰陽石がたくさんあります。

飛鳥坐神社 むすひの神石 

これは道祖神だといってもいいと思います。
道祖神は男女の神像のほか、このような陰陽石で表されることもあるのです。

男女の神像で表される道祖神は手を握り合う姿のものが多いです。http://www15.wind.ne.jp/~kurasho/history/history2.html
私は手を握り合っているのではなくて女神が男神の手を握って押さえつけているの図だと思っていますが~。
歓喜天は足を踏みつけていますが、道祖神は手、というわけです。
道祖神の中には歓喜天のように女神が男神の足を踏みつけていたり、和合する姿のものもあります。

道祖神は歓喜天と習合されているのではないでしょうか。

道祖神は中国から伝わった神ですが、日本ではサルタヒコとアメノウズメの男女双体の神だとされます。
サルタヒコは祭の行列などで先導役を担うことが多く、たいてい天狗の姿をしています。

重蔵神社 猿田彦 
↑ 石川県・重蔵神社のサルタヒコ


おかめの面の起源はアメノウズメだとされています。

おんだ祭に登場する天狗はサルタヒコ、おかめはアメノウズメで、
飛鳥坐神社では荒霊であるサルタヒコを鎮めるために夫婦和合の神事を毎年行っているのではないでしょうか?

サルタヒコは天孫ニニギを高天原から葦原中国まで道案内した神で、「高天原から葦原中国までを照らす神」と記紀には記されています。
これにぴったりな神名を持つ神がいます。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命=ニギハヤヒです。
高天原=天、葦原中国=国なので、天照国照彦とは「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味になります。
ニギハヤヒは初代神武天皇より早く畿内に天下っていたと記述があり、ここから神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。
ニギハヤヒ(=サルタヒコ)は神武との政権争いに負けた神であり、怨霊であったといえるでしょう。


いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2016/02/11 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

手向山八幡宮 御田植祭 『御田植祭と追儺式』 

奈良市雑司町 手向山八幡宮
御田植祭・・・2月3日

 
手向山八幡宮は東大寺の鎮守で三月堂の南にあります。
節分の日、手向山八幡宮では御田植式を行っています。

田向山八幡宮 御田植祭5  
舞殿に田主が登場して鍬で田おこしをします。

田向山八幡宮 御田植祭4 
田主は翁面をつけていました。
田主は丑役の子供をひきつれてさらに田を耕します。

田向山八幡宮 御田植祭 

↑ これは何なのか、ちょっとわかりません。わかる方、教えてくださいー。

田向山八幡宮 御田植祭2

翁が種籾を撒きました。

●御田植祭は節分の行事だった?

奈良では各地の神社で御田植祭が行われています。

手向け山八幡宮の御田植祭は2月3日。
大和神社のお田植祭は2月10日。
廣瀬神社の砂掛け祭は2月11日。 (牛が鋤を引き回し、早乙女が田植えをするのでお田植祭だといえるでしょう。)
飛鳥坐神社のおんだ祭は2月の第1日曜日。
鏡作神社のお田植祭は2月21日に近い日曜日。
葛木倭文坐天羽雷命神社のは4月15日です。

こうしてみると、奈良のお田植祭は2月に行われることが多いですね。
でも実際に奈良で田植が行われるのは6月ごろです。
京都の伏見稲荷大社の田植祭は6月10日です。

それなのになぜ2月に御田植祭が行われているのでしょうか?
それはもしかして、御田植祭が 節分の行事だからではないでしょうか?

私がそう考えたのは、御田植祭の神事が節分の追儺式にとてもよく似ていると思ったからです。

●丑役の子供=鬼?

追儺式に登場する鬼は牛の角を生やし、虎のパンツを履いていますね。
牛は干支の丑を、虎は干支の寅をあらわしているとする説があり、私はこの説を支持しています。

12か月を干支であらわすと、丑は12月、寅は1月です。
牛の角を生やし、虎のパンツを履いている鬼は干支の丑寅、すなわち1年の変わり目をあらわしているのだと思います。

節分とは二十四節気の立春の前日のことです。
立春は二十四節気における正月なので
節分は二十四節気の大晦日ということになります。

追儺式とは鬼=1年の変わり目を追払うことで、目には見えない1年の移り変わりを視覚化したものなのではないでしょうか。

平安時代の延喜式には『大寒の日に宮中の12の門に12組の童子が土牛を引くのを象った人形を立てる。これを立春の日の前夜(節分の夜)に撤去する』とあります。

ここに童子の像について記されていますが、八卦では童子は丑寅を表します。
つまり、牛は丑で12月、童子は艮(丑寅)で1年の変わり目を現すものだと考えられます。

門に土牛を引く童子を象った人形を立てるのは、この人形に冬の気を吸い込ませるためだと思います。
そして、人形が十分に冬の気を吸ったところで撤去するのだと考えられます。

手向山八幡宮のお田植祭では子供が牛の面を被っています。
牛は12月、子供(童子)は1年の変わり目を表しているのではないでしょうか。

また八瀬童子は鬼の子孫を称していますが、彼らは比叡山延暦寺に隷属する民で、大人になっても結髪しない童形であったため八瀬童子とよばれたとのことです。
ここから童子=鬼であると考えられます。

 
石清水八幡宮 鬼やらい神事 
石清水八幡宮 追儺式
鬼は牛の角を生やし、虎皮のパンツをはいています。牛=丑(12月)、虎=寅(1月)で1年の変わり目を表している?

田向山八幡宮 御田植祭4
手向山八幡宮 御田植式
牛=丑(12月)、童子=艮/丑寅(1年の変わり目をあらわす)?

●追儺式は陰、それを陽に転じさせたのがお田植祭?


また追儺式では鬼に豆をぶつけて鬼を退散させますが

石清水八幡宮 鬼やらい神事
石清水八幡宮 追儺式

御田植祭では種籾を撒いて発芽させます。

田向山八幡宮 御田植祭3
手向山八幡宮 御田植式

追儺式の豆まきと御田植祭の種籾撒きもとてもよく似ていますね。

追儺式と同様、御田植祭もまた節分の行事だったのではないでしょうか?



いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村


 
[2016/02/09 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大覚寺 大覚寺狂言 『琵琶法師と弁財天の関係』 

兵庫県尼崎市 大覚寺
大覚寺身振り狂言・・・2月3日


●なぜ六波羅蜜寺では弁才天を祭っているの?

前回、六波羅蜜寺の追儺式についての記事を書きましたが
六波羅蜜寺 追儺式 『六波羅蜜寺に表れた土蜘蛛の正体は平将門だった?』※書き直しました。 


六波羅蜜寺では弁才天をお祭りしていて、都七福神の一となっています。

六波羅蜜寺 六波羅蜜寺

ちなみに都七福神とは次の7つの寺社で、正月に7つの寺社をめぐる七福神めぐりをする習慣があります。

京都恵美須神社(恵比寿天)・松ヶ崎大黒天(大黒天)・東寺(毘沙門天)・六波羅蜜寺(弁才天)・赤山禅院(福禄寿)・革堂(寿老人)・萬福寺(布袋尊)

なぜ六波羅蜜寺で弁才天を祀っているのかなあ、と思っていましたが
尼崎の大覚寺に行ってわかりました。

●弁才天は琵琶法師の守護神だった。


大覚寺では節分の日に「大覚寺身振り狂言」を行っています。
セリフのないパントマイム劇です。
京都の壬生寺や千本閻魔堂でも節分の日に狂言(大念仏狂言)を行っていますね。
(壬生狂言にはセリフがありませんが、千本閻魔堂狂言にはセリフがあります。)

閻魔庁・湯立などの演目は京都の大念仏狂言にもあります。
しかし「十王堂」という演目は大覚寺だけのもので、他では見ることができません。

それもそのはず、大覚寺に伝わる伝説をテーマにした新作狂言なのです。

大覚寺 狂言 十王堂

大覚寺身振り狂言 十王堂

パントマイム劇でセリフがないもんで、ちょっと話の筋がわからないところもあったんですが~(すいません!)
「十王堂」は大覚寺に伝わる次のような伝説をベースに作られたものだそうです。

ひとりの盲人が京に戻る途中、酒を飲まされ、酔って寝てしまいました。
酒を飲ませた海賊夫婦は盲人の懐から多額の金銭を盗みました。
ところがその報いで夫婦はわが子を失い、償いのため、大覚寺に琵琶法師を祀る十王堂を建てました。


琵琶法師を祀る十王堂を建てたということは、海賊夫婦は琵琶法師を殺したんでしょうか?
また十王とは地獄でもう序の審判を行う十尊のことですが、なぜ十王堂に琵琶法師を祀ったのでしょうか?

それはともかく、狂言では琵琶法師が琵琶をひいていると弁才天が現れて一緒に琵琶を弾きだすという筋になっていました。

弁才天には 8臂像(腕が8本)と2臂像(腕が2本)があります。
8臂像は弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索を持ちます。
そして2臂像は琵琶を持っています。

大覚寺狂言に登場した弁才天は2臂像で、琵琶をもっていました。
弁才天は琵琶を持っているところから琵琶法師の守護神とされたようです。

大覚寺身振り狂言 十王堂2jpg 
大覚寺身振り狂言 十王堂
※向かって左、オレンジ色の着物を着ているのが弁才天です。

●平家ゆかりの地だった六波羅

六波羅蜜寺の話に戻りますが、かつて六波羅蜜寺の付近は平家の邸宅が立ち並んでいたところでした。
しかし平家滅亡のとき、平家は自ら火を放ち、邸宅は燃えて焼野原となってしまったのです。

平家物語は「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」という有名なフレーズで始まりますが
祇園精舎の鐘とは六波羅蜜寺の近くにある六道珍皇寺の迎え鐘のことだと私は考えています。
詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。↓
六波羅蜜寺 萬燈会 六道珍皇寺 迎鐘  『祇園精舎の鐘とは六道珍皇寺の迎鐘だった?』 

平家物語は盲目の琵琶法師によって語られました。
かつて六波羅蜜寺の付近では琵琶法師が平家物語を弾き語っていたのではないでしょうか。
なんといっても、六波羅は平家ゆかりの土地なので。

そして琵琶法師の守護神として六波羅蜜寺で弁財天を祀るようになったのではないでしょうか?


大覚寺 狂言 十王堂3
大覚寺身振り狂言 十王堂



いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2016/02/07 00:00] 兵庫の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

六波羅蜜寺 追儺式 『六波羅蜜寺に表れた土蜘蛛の正体は平将門だった?』※書き直しました。 

京都市東山区 六波羅蜜寺
追儺式・・・2月3日
 

①六波羅蜜寺の土蜘蛛伝説

六波羅蜜寺 節分 お化け
六波羅蜜寺の本堂に土蜘蛛が登場ーー!

六波羅蜜寺 追儺式 
土蜘蛛は糸を吐いて撒き散らします。

六波羅蜜寺 追儺式2

しかし住職が豆(?)を投げつけると、中堂寺六斎会の人々の太鼓の音に追いやられるようにして土蜘蛛は逃げていきました。

六波羅蜜寺 追儺式3 
江戸時代、六波羅蜜寺の住職であった慈舟和尚が本堂と仏像の修理を行いました。
しかし、その出来栄えが悪く、また土蜘蛛の精が現れては和尚を悩ませました。
このとき中堂寺六斎会の人々が鉦や太鼓を打って土蜘蛛を退散させました。


六波羅蜜寺の節分追儺式はこの伝説に基づくものです。

②六波羅蜜寺型灯篭は『土蜘蛛の塚』だった?


以前、六波羅蜜寺についての本を図書館で借りて読んだことがあります。
その本の中に『六波羅蜜寺型燈籠』の写真がありました。
笠の部分がお椀を伏せたように丸くなっているのが特徴で、境内にあると記されていました。

追儺式が終わったあと、境内を探してみましたが、『六波羅蜜寺型燈籠』は見つかりませんでした。
江戸時代に作られた燈籠なのだそうですが、たいして重要なものだとは考えられず、撤去されてしまったのかも?
うーん、残念です!
というのは、『六波羅蜜寺型燈籠』は『土蜘蛛の塚』ではないかと思ったからです。

なんでかって?

東向観音寺 土蜘蛛の塚

 
↑ 上は東向観音寺にある土蜘蛛の塚です。
笠の部分が丸い鉢状になっていますね。
六波羅蜜寺型灯篭の傘は、この土蜘蛛の塚の傘によく似ていました。

信貴山縁起絵巻に飛行する鉢の物語があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7#/media/File:Sigisanengi_tobikura.jpg

「鉢巻」「鉢が開く」などのように、頭のことを鉢ということがありますね。
そして蘇我入鹿や玄昉、平将門などの首が飛んだという伝説があります。
信貴山縁起絵巻に登場する「飛行する鉢」とは「飛行するドクロ(首)」の比喩なのではないかと私は考えました。

また土蜘蛛草子によれば、「空飛ぶ髑髏の跡をつけていったところ、土蜘蛛の巣があった」としていて、土蜘蛛と髑髏には関係が深いように思われます。

東向観音寺にある灯篭が「土蜘蛛の塚」とされているのは、その笠の部分が鉢状でドクロを思わせるからではないでしょうか?
すると、かつて六波羅蜜寺にあった六波羅蜜寺型灯篭もまた「土蜘蛛の塚」なのではないでしょうか?

③土蜘蛛とは頭部のない人間のこと?


昆虫の体は頭部、胸部、腹部の3つの部位からなりますが
蜘蛛は頭部と胸部の境がはっきりしておらず、頭胸部と腹部の2つの部位から形成されます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A2#/media/File:Archindae_characters.jpg

蜘蛛の体 

昔の人は蜘蛛を「頭部のない昆虫」だと考えたのではないでしょうか。
「土蜘蛛」とは記紀や風土記に登場する「まつろわぬ民」のことですが
謀反の罪で首を斬られたため、頭部がなく、そのため「土蜘蛛」と呼ばれたのではないでしょうか。

④飛行した将門の首と、将門の祟りを供養した空也

神田明神 

↑ 上は京都の膏薬図子にある神田神宮です。
古い写真で、現在の神田神宮とは景観がかなり異なりますがご容赦を。

図子とは次の通りにまで突き抜けた 家と家に挟まれた細い道のことです。
ちなみに通りに突き抜けず、コの字型になっている道のことは路地といいます。

平安時代、平将門は東国に独立国を作りましたが、朝廷が派遣した平貞盛、藤原秀郷の軍と戦い、流れ矢にあたって死亡しました。
将門の首は京に持ち帰られ、鴨川のほとりで晒されました。
将門の首はことあるごとに近隣住民に祟りました。
空也上人が将門の首が落ちた場所に念仏道場をたて、毎日念仏をあげたところ、首は祟らなくなったといわれています。
膏薬図子という地名は空也供養が訛って膏薬になったということです。

また将門の首は胴体を求めて飛び上がり、東へ向かって飛んでいったという伝説も残ります。

将門の首は「飛行するドクロ」であり、将門の体は「頭部のない体=土蜘蛛」であったと考えられます。
そして六波羅蜜寺の開基である空也は、祟る将門の首をを熱心に供養した人でした。
江戸時代に六波羅蜜寺に現れて、慈舟和尚を困らせた土蜘蛛の正体とは平将門の怨霊だったのではないでしょうか。

六波羅蜜寺 節分 豆まき 

節分には「お化け」といって変装して町を練り歩く習慣があります。
舞妓さんたちが美しすぐるお化けさんに変装して豆まきが行われました。

六波羅蜜寺 節分 豆まき


いつも応援ありがとうございます♪


にほんブログ村 写真ブログ 近畿風景写真へ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村



[2016/02/05 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)