奈良市般若寺町 般若寺
2016年1月中旬 撮影
↑ 般若寺 水仙奈良の興福寺から北へ、奈良坂を登っていくと北山十八間戸があります。

↑ 北山十八間(霊山寺境内にある文殊菩薩像を合成。)北山十八間戸は鎌倉時代に忍性によってつくられたハンセン病患者のための保護施設で
2畳ほどの部屋が十八室あります。
(隣にあるお好み焼き屋さんにお願いすると、フェンスの鍵をあけて見学させてもらえます。)
奈良坂をさらに登っていくと般若寺があります。
↑ 水仙が咲く般若寺般若寺の御本尊は獅子の乗ったお姿の文殊菩薩像です。
少年のような、美しいお顔の菩薩様です。
中世にはこのあたりには非人(夙)と呼ばれる人々が住んでいました。
奈良坂の非人たちは興福寺に隷属し、清掃・死体の処理・ハンセン病患者の看護・神事などに携わっていました。
ハンセン病患者は奈良坂のような非人が住む町に捨てられることが多かったと聞いたことがあります。
そしてハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられ、一般の非人よりも多くの喜捨を受けたということです。
般若寺の御本尊が文殊菩薩像であることと、非人が住む町であったこと、ハンセン病患者収容施設である北山十八間戸が作られたことには深い関係があったのですね~。
般若寺から奈良坂をさらに登っていったところに奈良豆比古神社があり、次のような伝説が伝わっています。
天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病を患い、奈良坂で療養していました。
春日王の子の浄人王と安貴王は熱心に父・春日王の看病をしました。
兄の浄人王が春日大社で神楽舞って父の病気平癒を祈ったところ春日王の病は治りました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。
しかし地元に伝わる伝承ではハンセン病を患ったのは春日王ではなく春日王の父親の志貴皇子であるとしています。

↑ 奈良豆比古神社 翁舞 そして10月8日に奈良豆比古神社で行われる翁舞の中央は志貴皇子、右(向かって左)は右大臣、左(向かって右)は左大臣であるというのです。
日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっています。
ここから志貴皇子は715年に暗殺されたが、その死が1年近く隠されていたとする説があります。
715年は元正天皇が即位した年です。
奈良豆比古神社が伝えるように志貴皇子は天皇に近い人物であったのに、元正天皇を皇位につけるために暗殺されたのかもしれません。
古には政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は死後怨霊になると考えられていました。
志貴皇子は死後怨霊になったと考えられたことでしょう。
地元に伝わる伝説ではハンセン病になったのは春日王ではなく志貴皇子だとしていますが
実際に志貴皇子がハンセン病になったというわけではないと思います。
貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で描かれることが多いです。
ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのではないでしょうか。
つまり、志貴皇子はハンセン病をもたらす神であったのではないかと思うのです。
志貴皇子が神?怨霊じゃなかったの?といわれるかもしれませんね。
かつて怨霊と神は同義語であったと言われています。
また祟り神を祀り上げることでご利益を与えて下さる神に転じさせることができるという信仰もあったようです。
(参照/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9F%E3%82%8A%E7%A5%9E)
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