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八坂神社 かるた始め 『百人一首は10次魔方陣だった』 

京都市東山区 八坂神社
かるた始め 1月3日

八坂神社 かるた始め 
百人一首は鎌倉時代、藤原定家によって撰集されました。
百人一首かるたができたのは江戸時代です。
かるたはポルトガル語のcarta(カードゲームの総称)からくる外来語だったのですね~。
そのcartaと百人一首が結びつき、百人一首かるたができたと考えられています。

かるた始めに登場するかるた姫たちは平安装束を身に纏っていますが、平安時代に百人一首かるたはなかったのです。
「絢爛たる暗号」の著者・織田正吉さんは、「かるた始め」の光景について「平安時代の姫たちがタイムマシンに乗ってやってきたsf的光景」だというような意味のことをおっしゃっていました。

百人一首には同じような語句が多くてお手つきを誘いやすいですね。
そのゲーム性がかるたに合っていたのかも。
子供のころ、『いまひとたびのみゆきまたなむ』と『いまひとたびのあうこともがな』をよく取り間違えたことを思い出します。


八坂神社の御祭神・スサノオは我が国の最古の歌を詠んだとされます。
八坂神社の「かるた始め」はこれにちなむ行事なのだそうです。

八坂神社 かるた始め3 
織田正吉さんは著書『絢爛たる暗号』の中で百人一首はクロスワードパズルであると説かれました。
和歌に用いられた同一の言葉で、和歌と和歌がつながるというのですね~。
図書館で借りて読んだので手元に本がなく今確認することができないのですが
先ほどの和歌を例にとってみると、『いまひとたびのみゆきまたなむ』と『いまひとたびのあうこともがな』は『いまひとたびの』で繫がります。

そして『いまひとたびのみゆきまたなむ』の上の句は『小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば』です。
上の句にある『もみぢ』がまたほかの和歌と繋がるというようなことだったと思います。

『百人一首の魔方陣』の著者・太田明さんは百人一首の歌にふられた数字に着目し、『百人一首は10次魔方陣である』と説かれ、百人一首が10次魔方陣を形成するように並べることに成功されています。

魔方陣について、ウィキペディアには次のように説明があります。

魔方陣(まほうじん、英:Magic square)とは、正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・斜めのいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるもののことである。特に1から方陣のマスの総数までの数字を1つずつ過不足なく使ったものを言う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E6%96%B9%E9%99%A3 引用

百人一首とは藤原定家が100首の和歌を用いて作った10次魔方陣だったのです。

八坂神社 かるた始め4 
後鳥羽院は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いています。
藤原定家とも交流がありました。
1200年、定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命されています。
ところが、歌の選定をめぐって定家は後鳥羽上皇と喧嘩をしてしまうのです。
1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じました。
しかしこのことは定家にとって災い転じて福となりました。
なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となってしまったからです。
承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ち、高い官位を得て歌壇の頂点に立ちました。

1239年、後鳥羽院は隠岐で崩御されました。
『平戸記』には北条時房の死は後鳥羽院の怨霊のしわざであると記されているそうです。

藤原定家は後鳥羽院の怨霊をそれは恐れていたことでしょう。
そして後鳥羽院の怨霊を封じるために10次魔方陣として百人一首を選んだのだと思いますが、今手元に本がないので
再読したのち、改めて記事を書きたいと思います。

八坂神社 かるた始め2


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[2016/01/04 09:57] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)