石山寺 雪 『親指を隠すおまじない』 

滋賀県大津市 石山寺
2014年2月上旬 撮影

石山寺 多宝塔 
石山寺 多宝塔 塔百景73

↑ この写真はいまいちだなあ~。撮り直しに行きたいです。

月曜日は寒かったですね~。
各地で雪が降ったようです。
雪景色の写真を撮りに行こうと思っていたのですが、
あまりの寒さで風呂の給湯器が壊れ、ガス屋さんに来てもらうことになったので行けませんでした(涙)。
給湯器を点火して水栓をひねると、あれれ?水が出ない?
その後、大きな音がして給湯器の配管が破裂しましたーーーー。
http://www.eco-kyoto.net/blog/?p=143

石山寺 仁王門 
石山寺 仁王門

そんなわけで雪景色の写真を撮りに行けなかったので、昔撮った石山寺の写真を引っ張り出してきました。

●親指を隠すおまじない

石山寺の仁王門の近くに大黒天堂があります。

石山寺 大黒天 

石山寺 大黒天堂


御本尊の大黒天は1024年に3人の僧に夢のお告げがあり、湖水より出現したと言われています。
丈六の立像で秘仏とされており、子年の10月1日から7日の間のみ開扉されます。

大黒天は右手に打出の小槌を、左手に袋を持ち肩にかけているのが一般的なお姿です。
憤怒相では宝剣とか宝棒を持っていることもあるそうです。

でもそれは比較的新しい大黒天像のお姿で、鎌倉時代から室町にかけての大黒天像は打出の小槌を持っていませんでした。
そのかわりに親指を人差し指と中指の間から覗かせた女握りの拳印を結んでいます。
松尾寺(奈良県生駒郡)、興福寺納経所(奈良県奈良市)、光明寺(滋賀県蒲生郡)、修善寺(静岡県田方郡)、三輪神社(奈良県磯城郡)などに、女握りの拳印を持つ大黒天像があるそうです。

石山寺の大黒天は女握りではなく、親指を中に入れて拳を握っておられるので、拳印開運大黒天と呼ばれています。
大黒天堂の庭に置かれていた大黒天の石像も、親指を拳の中に入れて拳を握っておられました。

石山寺 大黒天2 


●一家立三后、未曾有なり

大黒天像が出現したとされる1024年は後一条天皇の御代でした。
後一条天皇の外祖父は藤原道長です。
藤原道長は長女・彰子を一条天皇(後一条天皇の父)に、次女妍子を三条天皇に、三女の威子を後一条天皇に入内させることで権力を掌握した人物でした。
藤原実資は『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり(一家で3人の后を出すのは前代未聞)」と記しています。

999年、道長は長女彰子を一条天皇のもとへ入内させました。
たいそう派手で豪華な入内であったそうです。
1000年、彰子は一条天皇の皇后になりました。
一条天皇の皇后にはすでに定子(藤原道隆の娘)が立っていたのですが、道長が無理矢理一帝二后を強行したのです。
定子はこの年産褥で薨去してしまい、一条天皇の皇后は彰子だけとなりました。

1011年、一条天皇は病が重症化して三条天皇に譲位し、まもなく崩御されました。
三条天皇は一条天皇の従兄弟で、道長の甥にあたります。
道長は次女妍子を三条天皇に入内させていましたが、三条天皇は藤原済時の娘・娍子を皇后としていました。
道長は立后の儀式に欠席しました。
また道長の権力をおそれて多くの公卿も欠席し、大変寂しい儀式だったそうです。

妍子を皇后にしなかったのがよほど気に入らなかったのでしょう、道長は立后の儀式に欠席したばかりか、三条天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫っています。
1016年、三条天皇はやむなく娍子所生の敦明親王の立太子を条件に後一条天皇に譲位しました。

後一条天皇の父親は一条天皇、母君は道長の長女・彰子で、道長にとって後一条天皇は外孫です。
『紫式部日記』に道長が後一条天皇誕生を大喜びする様子が記されているそうです。
さらに後一条天皇は道長の三女で自身にとっては叔母にあたる威子を妃としていて、道長との繋がりが深い天皇でした。
後一条天皇が即位したのは8歳だったので、道長がその後ろ盾となって政治を撮りました。
1017年、三条上皇が崩御すると、三条上皇の皇子・敦明親王は自ら東宮辞退を申し出ています。

 
石山寺 本堂 
石山寺 本堂

●なぜ三人の僧侶に夢告げがあったのか。

大黒天堂の大黒天像が造られたのは1024年ですが、道長は1019年に病を患って出家し、1027年に死亡しています。
私は拳印開運大黒天像は道長の病回復祈願のために作られたものではないかと思います。
3人の僧に夢のお告げがあったといいますが、それは道長の三人の娘、彰子・妍子・威子それぞれが信頼を寄せていた僧、という意味ではないでしょうか。
(※道長には長女彰子、次女妍子、四女威子の他にも三女寛子、五女尊子、六女嬉子などの娘があったが、天皇の后となったのはこの3人です。)

大黒天が拳の中に隠している親指は彰子・妍子・威子の父・道長を意味しているのではないかと思います。

『霊柩車を見ると親指を拳の中にかくさないと親が死ぬ』という俗信があり、
霊柩車を見て親指を拳の中に隠した経験がある方は多いのではないでしょうか。
親指を拳の中に隠すことで親を護るというおまじないは、平安時代の道長の時代からあったのかもしれませんね。


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[2016/01/28 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

若草山山焼き2016 『野槌は蛭(ひる)の妖怪だった?』 

奈良市 若草山
2016年 1月23日撮影(合成)


アングルを探してあちこちをウロウロするのが好きです。
今回は大仏殿を入れて若草山山焼きを撮れるスポットを探してウロウロ。
あった、あった!ありましたー!

でも山焼きの直前から雨が降りだし、山焼きの火は全然燃え広がりませんでした~(涙)。
仕方ないので燃えている風に加工してみました。(汗)
 
若草山山焼き5  
●野槌は蛭の妖怪だった?

先日、友人に妖怪野槌のことを話しました。
「妖怪野槌って頭のてっぺんに口があるだけで、目も鼻もないねんて。」
「へ~、蛭(ひる)みたいやん。」
「え?今なんて?」
「蛭みたいやんって。」
「えーっ!野槌が蛭!!」

家に帰るとすぐネットで蛭について調べてみました。
蛭って見たことなかったんですよ~。

ウィキペディア「ヒル」のページには次のように記されています。
口周辺と肛門の下側が吸盤になっており、捕食活動にも運動にもこれを用いる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB_(%E5%8B%95%E7%89%A9)#.E5.BD.A2.E6.85.8B より引用)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%93%E3%83%AB#/media/File:Yamabiru.jpg
↑ ウィキペディア「ヤマビル」のページに掲載されている写真です。ヤマビルが人の血を吸っているところです。
どちらが口でどちらが肛門なのかわかりませんが、体の両端が吸盤になっていますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%93%E3%83%AB#/media/File:Haemadipsa_zeylanica_japonica_in_Mount_Hanabusa_s2.JPG
↑ 
こちらもウィキペディアから。

ウィキペディア「ヒル」のページには次のようにも記されています。
外見的には感覚器は見えないが、体前方の背面に眼点(光の強弱を感じるセンサーで、電子顕微鏡で見える表面が凹んだ器官)があるものが多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB_(%E5%8B%95%E7%89%A9)#.E5.BD.A2.E6.85.8Bより引用)
つまりヒルには眼点と呼ばれる目のような機関があるにはあるのですが、電子顕微鏡で見てやっとわかるくらいの小さなものだということです。

確かに友人が言うとおり「頭のてっぺんに口があるだけで目も鼻もない妖怪・野槌」は蛭ににています。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%A7%8C#/media/File:SekienNodzuchi.jpg
↑ こちらは鳥山石燕が描いた妖怪・野槌です。やはり蛭によく似ていますね。
妖怪・野槌とは蛭の妖怪なのではないでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%A7%8C#/media/File:Harumachi_Noduchi.jpg

恋川春町が描いた野槌です。
もともと野槌とは鳥山石燕が描いたような妖怪であったのが、擬人化されて、このような姿になったのかも?


●草野姫(野槌)と蛭子はどちらも蛭の神だった?

今は禁止している自治体も多いですが、かつて野焼きという習慣がありました。
若草山山焼きは野焼きのひとつです。

野焼きをする目的は2つあります。
ひとつは若草の肥料とするため、もうひとつは害虫を焼き払うことでした。

以前の記事、若草山山焼き 『妖怪野槌の正体とは?』  の中で、私は次のように述べました。

①山焼きが行われる若草山の山麓に野上神社と石荒神社がある。
②野上神社・石荒神社は春日大社の境外社で、野上神社は草野姫(かやのひめ)を、石荒神社は火産霊(ほむすび)神をお祭りしている。
草の神様と火の神様の組み合わせは、若草山の山焼きをイメージさせる。
野上神社と石荒神社は山焼きに関係する神社なのではないか。
③野上神社の御祭神・草野姫はイザナギ・イザナミの間に生まれた神で、別名を野槌という。
④同名の妖怪・野槌は頭のてっぺんに口があるだけで、目も鼻もない。
⑤野槌には口しかないので耳もなかったと考えられる。
⑥春日大社境内にある榎本神社の神は耳が悪いとされ、柱をこぶしで叩いて参拝する。
⑦蛭子神は耳が悪いので神殿の後ろを叩いてお参りする。。
⑧野槌と榎本明神と蛭子神は同一神ではないか。(3神とも耳が悪い)
草野姫(野槌)=榎本明神=蛭子神


蛭子は「えびす」とも「ひるこ」とも読まれます。
蛭子という神名は、蛭子が3歳にたっても立つことができず、蛭(ひる)のように骨のない体であったというところからきます。
そしてどうやら野槌とは蛭の妖怪であるらしいことを私たちは見てきました。

草野姫の別名を野槌というのは、草野姫が野焼きによって焼き払われる蛭の神であるからでしょう。
蛭子と草野姫はどちらも蛭の神だと考えられます。
草野姫(野槌)=蛭子(2神とも蛭の神である)

このことは「⑧野槌と榎本明神と蛭子神は同一神ではないか。(3神とも耳が悪い)/草野姫(野槌)=榎本明神=蛭子神」
のうち半分だけ裏付けることになると思います。


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[2016/01/25 18:10] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

和歌山城 ライトアップ 『三年坂で転ぶと3年で死ぬ』 

和歌山市 和歌山城
2015年12月中旬 撮影

和歌山城 ライトアップ 

写真中央に映っているのは御橋廊下(おはしろうか)です。

●3年坂で転ぶと3年以内に死ぬ

和歌山城の南に三年坂と呼ばれるゆるやかな坂があります。
京都の清水寺の近くにも三年坂がありますね。
京都の三年坂で転ぶと三年以内に死ぬ、などと言われています。
瓢箪を身に着けていれば三年坂で転んでも死なないとも言われ、三年坂をおりたところには瓢箪を売る店があります。

私はこの三年坂で転んだことがあります。
着慣れない浴衣を着て、履きなれない下駄をはいてたもんで、つるっとすべって転んでしまいました。
瓢箪は買いませんでしたが、まだ元気に生きています。
転んでから七年くらいたちますが~。

同じような伝説が和歌山の三年坂にもあります。

江戸時代末ごろ、久左衛門が和歌山城の南にある三年坂で転びました。
弥蔵は久左衛門に「あと10回か20回、三年坂でころべばいい。1回こけたら3年目に死ぬ、2回こけたら6年目、こけるほどに命が伸びる。」といいました。


厳密にいうと、これ計算がおかしいですよね。
転ぶと3年以内に死ぬということは、死ぬのは明日かもしれないし、3年後かもしれない。
転ぶと3年後に死ぬのであれば、転ぶたびに3年寿命が伸びてもおかしくないですが、どう考えてもこけるほどに命が伸びるというふうにはならないです。

でもポジティブで楽しい話ですね。

●坂はあの世とこの世をつなぐ場所だった?


三年坂と呼ばれる坂は東京にもいくつかあり、やはり転ぶと3年以内に死ぬと言い伝えられているそうです。
また二年坂、百日坂という坂もあり、二年坂は転ぶと2年以内に、百日坂は百日以内に死ぬと言われているとのこと。
なぜ坂で転ぶと死ぬなどと言われるようになったのでしょうか?

私は黄泉比良坂(よもつひらさか)と関係があるのではないかと思ったりします。
黄泉比良坂とは記紀神話に登場する「あの世とこの世の境目にある坂」のことです。

イザナギは死んで黄泉の国へ行ってしまったイザナミをもとの世界に連れ戻すために黄泉の国へ行きました。
ところがイザナギは腐り、蛆がわいたイザナミの姿を見ておそろしくなり、逃げ出してしまいます。
怒ったイザナミは黄泉醜女(よもつしこめ)たちにイザナギを追いかけさせました。
イザナギは命からがら黄泉比良坂まで逃げ、大きな石を置いて道を塞ぎました。


もしも 黄泉比良坂で転んでいたらイザナギは黄泉醜女たちにつかまって、死の世界=黄泉の国から戻ってこれなかったことでしょう。

昔の人は坂はあの世とこの世をつなぐ場所であると考えており、そのため坂で転ぶと死ぬなどと言われたのかも?

和歌山城

MIND-TRAVEL のロゴの右にあるでっぱりは石落と呼ばれていますが、鉄砲を撃つために使われたなど、使用方法については諸説あるとのことです。



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[2016/01/24 00:06] 和歌山 | トラックバック(-) | コメント(-)

若草山山焼き 『妖怪野槌の正体とは?』 

奈良市 若草山
若草山山焼き・・・平成28年1月23日 http://narashikanko.or.jp/yamayaki/

若草山山焼き4 

塔百景72 
 
かなり以前にフィルムで撮影したものです。
このときは火がよく燃えたのでよかったですが、全然火が燃えずに煙ばかりがもうもうとたつ年もあるんですよ。
そうなると、とてもじゃないけど人にお見せできるような写真にはなりません~。
今年の山焼きはどうかな、とこの時期はいつも心がソワソワしてしまいますー。

若草山の手前に写っているのは薬師寺の東塔・西塔・金堂です。
写真向かって右の東塔は天平時代に建てられたものですが、現在解体修理中です。
修理完成は平成31年春の予定だそうです。


●野上神社と石荒神社

山焼きが行われる若草山の山麓に野上神社と石荒神社があります。
以前、写真を撮ろうと思って野上神社・石荒神社に行ってみたことがあるのですが、残念ながら修理中でした。
今度行ったときには写真を撮ってこようと思います。(すいません!)

野上神社・石荒神社は春日大社の境外社で、野上神社は草野姫(かやのひめ)を、石荒神社は火産霊(ほむすび)神をお祭りしています。
草の神様と火の神様がペアになっているわけです。
草の神様と火の神様の組み合わせは、若草山の山焼きをイメージさせます。
野上神社では若草山山焼きの祭典が行われますし、野上神社と石荒神社は山焼きに関係する神社なのではないでしょうか?

●野槌、榎本明神、蛭子神は同一神?

野上神社の御祭神・草野姫はイザナギ・イザナミの間に生まれた神で、別名を野槌ともいいます。
野槌とは『野つ霊』、すなわち『野の精霊』という意味で、同名の妖怪が存在しています。
妖怪・野槌は頭のてっぺんに口があるだけで、目も鼻もないとされます。
柄のない槌のような姿なので野槌と言われているのだとか。

私は草野姫=野槌とは春日神社境内にある榎本神社の神(榎本明神)や蛭子神と同一神ではないかと考えています。
その理由を説明しますね。

①野槌には口しかなかった、ということは耳もなかったということである。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Harumachi_Noduchi.jpg
↑ 上記は恋皮春町が描いた野槌だが、目・鼻のほか耳もない。
春日大社境内にある榎本神社の神は耳が悪いとされ、柱をこぶしで叩いて参拝するしきたりになっている。

野槌=榎本明神(どちらも耳が悪い)

榎本神社 
榎本神社

②京都恵美須神社や今宮戎神社では、蛭子神は耳が悪いので神殿の後ろを叩いてお参りする習慣がある。

野槌=榎本明神=蛭子神(三神とも耳が悪い)

③鎌倉時代の『沙石集』に『徳のない僧侶は野槌に生まれかわる。口だけが達者で智慧の眼も信の手も戒めの足もなかったためとある。
一方、恋皮春町が描いた野槌には手足がある。(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Harumachi_Noduchi.jpg


現在、蛭子神は商売繁盛の神として信仰されているが、蛭子神が商売繁盛の神様になったのは、えべっさんは足が悪くて歩けなかったため「お足がでない」」の語呂合わせからとされる。
『沙石集』に「手も足もない」とあるが、これは本当に手足がないのではなく、手足が不自由だという意味ではないか。
野槌=蛭子神(どちらも足が不自由である)

長田神社 蛭子と大黒 
↑長田神社の蛭子神(向かって左)と大黒天(むかって右)

草野姫(野槌)はイザナギ・イザナミの子だが、蛭子神もイザナギ・イザナミの子なので、草野姫(野槌)と蛭子神が同一神であると考えても辻褄があう。

●蛭子神とは物部守屋だった?

さらに、今宮戎神社 十日戎 宵宮祭『えべっさんの正体②』 に書いたように、えべっさんとは物部守屋のことではないかと私は考えています。

そう考える理由は次のようなものです。

①587年、蘇我馬子・聖徳太子(崇仏派)物部守屋(廃仏派)の戦争があり、守屋は榎木に上って指揮をとっているところを弓で射られて死んだ。
榎本明神とは物部守屋のことではないか。
とすると、榎本明神=えべっさんだと考えられるので(どちらも耳が悪い)えべっさんは物部守屋だということになる。

②587年の戦争で、物部守屋は榎木の上にいるところを射られて死んだ。
一方、聖徳太子は弓で射られたとき椋の木の中に隠れて難を逃れている。
物部守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられているのではないか。
聖徳太子は1度に10人の言うことを聞き分けられるほど耳がよかったとされる。
物部守屋と聖徳太子が陰陽に描き分けられているとすれば、守屋は耳が悪かったということになる。

草野姫(野槌)=榎本明神=えべっさん=物部守屋

●タケミカヅチ、榎本明神を騙す。

榎本神社には次のような伝説が伝わっています。

タケミカヅチ(春日大社の御祭神の一)は春日野の地主の榎本の神に『この土地を三尺(約一米)譲って貰えないか』と頼んだ。
榎本の神は『三尺位なら』とこれを承諾しました。
ところがタケミカヅチは広大な土地に神社を建て始めました。
榎本の神が抗議すると、タケミカヅチは『私は、地下三尺と言ったのですが、耳の遠いあなたには聞えなかったのでしょうか。』と言いました。
しかし住むところがないと困るだろうと、タケミカヅチは小さな社を作って榎本の神を住まわせました。


春日大社は藤原氏の氏神ですが、もともとこの土地は藤原氏の土地ではなく榎本明神の土地であったようです。
榎本明神が物部守屋のことだとすると、春日大社の土地はもともとは物部守屋の土地だったということになります。
土地を奪われた物部守屋は死後怨霊になったと藤原氏は畏れたことでしょう。

そこで年に1度山焼きをして、草野姫(野槌)=榎本明神=えべっさん=物部守屋の霊を、火の神・石荒神社の火産霊(ほむすび)神の火によって焼き払うという神事を行っているのではないでしょうか。

●女神は和魂、男神は荒魂

草野姫は女神ですが、物部守屋は男です。
それなのになぜ草野姫と物部守屋が同一神なのだ、と言われるかもしれませんね。

どうも日本では神様の性別にルーズなようで、聖徳太子が「女性に生まれ変わって親鸞の妻になりましょう」と夢告をしたという話もあります。

神はその表れ方で御霊(神の本質)和魂(神の和やかな側面)・荒魂(神の荒々しい側面)に分けられるとされます。
そして女神は和魂を、男神は荒魂を表しているとする説があります。

草野姫は物部守屋の和霊であると考えると辻褄があうと思います。



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[2016/01/22 09:40] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

般若寺 水仙 『志貴皇子はハンセン病をもたらす怨霊だった?』 

奈良市般若寺町 般若寺
2016年1月中旬 撮影


 般若寺 水仙2

↑ 般若寺 水仙


奈良の興福寺から北へ、奈良坂を登っていくと北山十八間戸があります。

北山十八間戸

↑ 北山十八間(霊山寺境内にある文殊菩薩像を合成。)



北山十八間戸は鎌倉時代に忍性によってつくられたハンセン病患者のための保護施設で
2畳ほどの部屋が十八室あります。
(隣にあるお好み焼き屋さんにお願いすると、フェンスの鍵をあけて見学させてもらえます。)

奈良坂をさらに登っていくと般若寺があります。

般若寺 水仙 
↑ 水仙が咲く般若寺


般若寺の御本尊は獅子の乗ったお姿の文殊菩薩像です。
少年のような、美しいお顔の菩薩様です。

中世にはこのあたりには非人(夙)と呼ばれる人々が住んでいました。
奈良坂の非人たちは興福寺に隷属し、清掃・死体の処理・ハンセン病患者の看護・神事などに携わっていました。

ハンセン病患者は奈良坂のような非人が住む町に捨てられることが多かったと聞いたことがあります。
そしてハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられ、一般の非人よりも多くの喜捨を受けたということです。

般若寺の御本尊が文殊菩薩像であることと、非人が住む町であったこと、ハンセン病患者収容施設である北山十八間戸が作られたことには深い関係があったのですね~。

般若寺から奈良坂をさらに登っていったところに奈良豆比古神社があり、次のような伝説が伝わっています。

天智天皇の孫で志貴皇子の子である春日王がハンセン病を患い、奈良坂で療養していました。
春日
王の子の浄人王と安貴王は熱心に父・春日王の看病をしました。
兄の浄人王が春日大社で神楽舞って父の病気平癒を祈ったところ春日王の病は治りました。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主としました。


しかし地元に伝わる伝承ではハンセン病を患ったのは春日王ではなく春日王の父親の志貴皇子であるとしています。

奈良豆比古神社 翁舞

↑ 奈良豆比古神社 翁舞

 
そして10月8日に奈良豆比古神社で行われる翁舞の中央は志貴皇子、右(向かって左)は右大臣、左(向かって右)は左大臣であるというのです。


日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとありますが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっています。
ここから志貴皇子は715年に暗殺されたが、その死が1年近く隠されていたとする説があります。

715年は元正天皇が即位した年です。
奈良豆比古神社が伝えるように志貴皇子は天皇に近い人物であったのに、元正天皇を皇位につけるために暗殺されたのかもしれません。


古には政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は死後怨霊になると考えられていました。
志貴皇子は死後怨霊になったと考えられたことでしょう。

地元に伝わる伝説ではハンセン病になったのは春日王ではなく志貴皇子だとしていますが
実際に志貴皇子がハンセン病になったというわけではないと思います。

貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で描かれることが多いです。
ハンセン病をもたらす神はハンセン病を患った姿をしていると考えられたのではないでしょうか。

つまり、志貴皇子はハンセン病をもたらす神であったのではないかと思うのです。

志貴皇子が神?怨霊じゃなかったの?といわれるかもしれませんね。
かつて怨霊と神は同義語であったと言われています。
また祟り神を祀り上げることでご利益を与えて下さる神に転じさせることができるという信仰もあったようです。
(参照/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9F%E3%82%8A%E7%A5%9E


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[2016/01/21 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

第一なぎさ公園 菜の花 夕日 『お考はなぜ左目をくりぬいたのか?』 

滋賀県守山市 第一なぎさ公園
2016年1月中旬 撮影


なぎさ公園で菜の花が咲いていると聞いたので行ってみました。
ところがーーー!
菜の花なんてどこにも咲いていない?
調べてみたらなぎさ公園ってあちこちにあるんですね!
菜の花が咲いてるなぎさ公園は守山市ですが、私は浜大津のなぎさ公園に行っていたのですーー。(汗)
まったく、このおっちょこちょいをどうにかしたいーーー。

浜大津から守山市へ向かい、無事第一なぎさ公園に到着。

第一なぎさ公園 菜の花 
菜の花畑の向う側に見えているのは比良山系の山々です。
例年であればこの時期冠雪するそうですが、雪は少ししか積もっていませんでした。
写真は小細工をして、冠雪のように加工したものです。
うーん、でもわざとらしいなあーー。
ぜひ本物の冠雪した比良山と菜の花を撮りたいです・・・。

さて、この比良山系の蓬莱山に小女郎ヶ池があり、次のような伝説が残されています。

比良山麓の南船路の集落に、九右衛門とお考という夫婦が住んでいました。
あるときからお考は乳飲み子を残して夜な夜な池に通うようになりました。
お考は池の主である大蛇と逢引をしていたのです。
九右衛門はお考のあとをつけ、池の中に入ろうとしているお考を見つけます。
お考は九右衛門に「私はこの池に住む大蛇に見初められてしまったのです。赤ん坊には乳のかわりに私の目玉をしゃぶらせてください。」と言い
左目をくりぬいて九右衛門に渡し、池の中に姿を消しました。


うーん、どこかで聞いたような話だなあ?
そうそう、曽爾村のお亀ヶ池伝説です。あれに似ていますね!
曽爾高原 すすき 夕景 『お亀ヶ池伝説』 


伊勢国・太郎生村出身のお亀は曽爾村の男の嫁になり、毎日、太郎路池の水を溜めた井戸の水を鏡替わりにして化粧をしていました。
あるとき井戸の水に美しい男性の顔が映り「今夜、太郎路池のほとりに来て欲しい」といいました。
それ以来、お亀は夜な夜な太郎路池の男神のもとへ出かけるようになりました。
そして男児を出産したあと、姿を消してしまいました。
夫がお亀を探して太郎路池のほとりへやってくるとお亀が現れて子供に乳を飲ませました。
そして「二度と私を探さないでください」と言って姿を消しました。
夫は懲りずにまた太郎路池に行きました。
するお亀が蛇となってあらわれ「二度とくるなと言ったのに、なぜ来た?」と言って夫に襲い掛かりました。
夫はなんとか逃げ帰りましたが、すぐに亡くなってしまいました。
お亀は野火から山火事になった時、焼けて死にました。

どちらの伝説にも蛇神が登場しますが、蛇神とは天照大神だと思います。
「伊勢内宮の神は男神で蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」と言われているからです。

記紀には天照大神は女神だと記されていますが、本当は天照大神は男神であるとする説があります。
天岩戸に隠れた天照大神はアメノウズメのストリップに興味を持って天岩戸から出てきました。
女神のストリップに興味を持つのは男だ、よって天照大神は男神だというのですね。

物部氏の祖神のニギハヤヒは、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまの ほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されていて、この神が本当の天照大神ではないかとも言われています。
そして初代神武天皇が東征して畿内入りするより早く畿内にニギハヤヒが天下っていたとする記述が日本書紀にあり、畿内には神武以前に物部王朝があったのではないかとも言われています。
どうも、日本書紀や古事記の記述は改竄されているように思われます。

私は天照大神とは歓喜天や道祖神のように男女双体の神なのではないかと考えています。

神はその現れ方で御霊(神の本質)・荒霊(神の荒々しい側面)・和霊(神の和やかな側面)に分けられ、荒霊は男神で和霊は女神とする説があります。
とすれば御霊は男女双体となります。

天照大神に仕える伊勢斎宮は男神である天照大神と和合して御霊にさせる存在なのではないでしょうか。

伊勢内宮の神は男神で蛇神で、内宮に仕える斎宮のもとへ通っていた」というのは、荒魂(男神・蛇神)と和魂(女神)が和合して御霊になるということを物語的に表現したものではないかと思います。

そして蛇神は男神、お亀やお考は女神ということなのではないでしょうか。



御霊・・・神の本質・・・・・・・男女双体
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神 ・・・伊勢斎宮(天照大神の女神)/お亀/お考
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・天照大神の男神/蛇
第一なぎさ公園 菜の花2


曽爾のお亀ヶ池伝説では、お亀が蛇になって夫に襲い掛かったとありますが、蛇とは井戸の水に映った美しい男のことだと思います。
井戸の水に映った美しい男とありますが、井戸の水に映っていたのは毎日井戸の水に姿を映して化粧をしていたお亀だったはずです。

つまり、井戸の水に映った美しい男とは、井戸に反転して映ったお亀の姿であると考えられると思います。
お亀は女性なので女神で和魂なのですが、鏡に反転させることで、男神である荒魂に転じたということではないでしょうか。
そうであれば、男神と考えられる蛇をお亀だと表現することもありえるでしょう。

そういえば天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味を持っただけでなく、鏡に映った自分の姿を見て不思議に思ったこともあって天の岩戸から出てきたのでしたね。

天岩戸の中に籠っていた天照大神はストリップに興味を持つ男神であり、鏡に映ったのはそれを反転させた女神であったということなのかもしれませんね。


詳しくはこちらの記事をお読みください → 飛鳥 勧請綱と田植え 『道祖神と大聖歓喜天は習合されている?』

小女郎ヶ池の伝説では、お考は左の目をくりぬいたとあります。
お考はなぜ右の目ではなく、左の目をくりぬいたのでしょうか。

記紀に次のような記述があります。

黄泉の国から戻ったイザナギが禊をし、左の目を洗ったところ天照大神が、右の目を洗ったところ月読尊が、鼻を洗ったところスサノオが生まれました。

左は太陽神、天照大神が鎮座する位置なのです。

小女郎ヶ池の主である蛇とお考の男女双体の神が天照大神であり、天照大神は左に鎮座する神であるところから
お考は左目をくりぬいたとする話が創作されたのではないでしょうか。

琵琶湖 夕陽 



第一なぎさ公園の対岸付近から夕陽を撮りました。
なんだか旭日旗みたい?
 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



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[2016/01/19 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 どやどや 『歯ブラシと牛玉宝印の関係』 

大阪市天王寺区 四天王寺
どやどや・・・1月14日

四天王寺 どやどや 

1月に行われる法会のことを修正会(しゅしょうえ)といい、その結願には様々な行事が行われます。
追儺式を行うところもありますが、「どやどや」のような裸祭も修正会の結願に行われることが多いようです。

同日、京都の法界寺では「裸踊り」が行われています。

法界寺 裸踊り 

上の写真は法界寺の裸踊りです。

四天王寺の「どやどや」は天井から撒かれる牛玉宝印を取り合う行事です。
一方、法界寺の裸踊では牛玉宝印が撒かれることはなく、頂礼頂礼(ちょうらいちょうらい)と言いながら、手を上にあげ、おしくらまんじゅうのように体を押し付け合います。

牛玉宝印を撒く撒かないの違いはありますが、法界寺裸踊りと「どやどや」はしぐさがそっくりです。

私は法界寺裸踊りもかつて牛玉宝印のようなものを天井から撒いていたのではないかと考えています。
それがいつのことが牛玉宝印が撒かれなくなり、牛玉宝印を奪い合うしぐさだけが「裸踊り」として残ったのではないでしょうか。

四天王寺 どやどや 

牛玉宝印を奪い合う少年たちに柄杓で水がかけられます。
おそらくこれは水垢離の名残ではないかと思います。

やはり「どやどや」に似た行事に岡山県西大寺の「会陽」がありますが、「会陽」では垢離取場で水垢離を行います。
http://www.saidaiji.jp/website/eyou-activity
また法界寺裸踊りでも水垢離を行っています。
「どやどや」では牛玉宝印争奪戦と浄めの水垢離がいっしょくたにされているのではないでしょうか。

現在の「どやどや」では天井から「牛玉宝印」を投下していますが、
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kenmin/eyo/eyo-jisya-osaka01.htm
↑ こちらのサイトによれば、戦前の「どやどや」では数百本の楊枝とよばれるコリヤナギの枝を投下していたと書いてあります。
そしてその楊枝の先端に牛玉宝印が結び付けられていたようです。

おそらく、枝の投下は危険であるとして牛玉宝印のみ投下するようになったのではないでしょうか。

楊枝とは総楊枝(ふさようじ)、つまり昔の歯ブラシのことだと思います。
日本で現在のような歯ブラシが用いられるようになったのは大正時代のころからで、それまでは総楊枝が用いられていました。
総楊枝は細い木の枝で、この枝の片端をブラシのように噛み裂いて用いていたようです。
釈迦が楊枝を用いていたと記した文献もあり、ずいぶん昔からあったようです。

四天王寺 どやどや2


それにしても、なぜ楊枝に牛玉宝印を結び付けて投下していたのでしょうか?

牛玉宝印とは護符の一種ですが、もともとは漢方薬の五黄を水で溶いて文字を書いていたようです。
皇室には『牛玉宝印は水に溶かして飲む』と伝わっているそうです。
牛玉宝印は薬だったのです。

そして四天王寺で戦前のどやどやに用いられていた楊枝はコリヤナギでできていました。
柳の樹皮には痛みどめの効果があるサルチル酸が含まれています。
この楊枝で歯を磨くと歯痛が抑えられたのかもしれませんね。

つまり、牛玉宝印もコリヤナギで作られた楊枝も薬であったのです。



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[2016/01/17 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

神津神社 十三戎(とみえびす) 『トミヒコと土左衛門と戎の関係』 

大阪市淀川区 神津神社
十三戎(とみえびす)祭・・・http://kamitsujinja.ec-net.jp/tomiebisu.html

十三戎 獅子舞 道中 

大阪のえべっさんといえば今宮戎ですね。
昭和31年、神津神社はこの今宮戎神社の神を勧請し、十三戎(とみえびす)祭を行うようになったそうです。
十三戎というのは、神津神社が十三(じゅうそう)の地に鎮座しているところから命名したのでしょう。

残り福の1月11日に行ってきました。
今宮戎のように大勢の参拝者があるというわけではありませんが、獅子舞の奉納などがあり、とても楽しかったです。
えべっさんの穴場的スポットだと思います~♪

 十三戎 獅子舞 道中3


さてさて十三(じゅうそう)とは変わった地名ですが、神津神社のhphttp://kamitsujinja.ec-net.jp/jusonoyurai.html に「十三の由来」について6つの説が紹介されています。

①十三の渡しが淀川の上流から数えて十三番目だった。
②重蔵(じゅうぞう)という長者が加島へ遊びに行くとき十三の渡し付近に舟をつないでいたため、「重蔵の舟つなぎ場」から「十三」に転じた。
③十三塚があった。
④条里制の十三条だった。
⑤十は「つつ」三は「み」で「つつみ(堤)」の意味である。
⑥淀川の南浜にかつて富島の庄があり、今も富島神社がある。富島の富(とみ)が十三(とみ)に転じたのではないか。

この中で私が注目しているのが②重蔵説と⑥富島説です。

十三戎 獅子舞 蝶 

読み方は違いますが十三と記す地名にに十三湖(じゅうさんこ/青森県津軽半島西岸)という湖があります。
中世、十三湖のほとりには十三湊(とさみなと)があり、安部氏・安藤氏の拠点として栄えました。

安部氏はナガスネヒコの兄・アビヒコを祖とする氏族です。

ナガスネヒコとは古事記や日本書紀に登場する人物で、現在の大阪あたりに住んでいました。
ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていました。

ニギハヤヒは物部氏の祖神であり、初代神武天皇より早く畿内に天下っていました。
ここから機内には神武天皇以前に物部王朝があったとする説があります。
ナガスネヒコもまた物部氏だった可能性が高いと思います。

神武天皇は九州から東征して機内入りし、ニギハヤヒは神武に服してしまいます。
一方ナガスネヒコは神武に抵抗を続けるのですが、なんと自分が神とあがめていたニギハヤヒによって殺されてしまうのです。
 
安倍氏の祖・アビヒコはそのナガスネヒコの兄だとされています。
 
安倍氏とともに十三湊を拠点としていた安藤氏は、安倍氏の安倍貞任の子孫を称しています。
なので遡れば安藤氏もアビヒコにまで繋がります。

アビヒコは神武が東征して機内を征服した際、ナガスネヒコとともに津軽に逃れたとか、単独で津軽に流罪になったなどと言い伝えられています。
ナガスネヒコが物部氏だったとすると兄のアビヒコも物部氏でしょう。

十三戎 獅子舞 

そしてナガスネヒコは別名をトミヒコともいいました。
トミヒコのトミは十三戎の十三(トミ)と同音です。

大阪の十三(じゅうそう)や十三湊(とさみなと)という地名はアビヒコの弟・トミヒコ(ナガスネヒコ)のトミが語源なのかもしれませんね。
つまり、トミヒコのトミに十三という漢字をあて、さらに十三を「じゅうそう」とか「とさ」と読み替えたのではないかということです。
また淀川の南浜にあった富島という地名もまた、トミヒコからくる地名なのではないでしょうか。

そして石川県には重蔵神社があります。
十三(じゅうそう)の地の由来に②重蔵説があったのを思い出してください。
石川のあたりもナガスネヒコ(トミヒコ)と関係する土地であり、神社名が語呂合わせでトミ→十三→重蔵となったのではないでしょうか。
トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう(十三)/とさ(十三)→じゅうぞう(重蔵)

さらに水死体のことを土左衛門といいます。
その語源は享保年間の力士「成瀬川土左衛門」が、大変な肥満体で体の膨れ上がった水死体ににていたためであるなどと言われています。
しかし、この説が絶対正しいとはいいきれません。
語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/to/dozaemon.html)にも、「正確な語源は未詳」と記されています。
私は水死体のことを土左衛門というのは、やはりトミヒコからくるのではないかと思います。
トミヒコ→トミ→十三→じゅうそう/とさ→どざえもん(水死体)

つまりトミヒコとは土左衛門(水死体)ではないか、ということです。

 十三戎 お神酒を飲む獅子


と、ここまでは過去記事にすでに書きました。
詳しくは下記記事をお読みいただけると嬉しいです。
能登の旅③ 輪島大祭(重蔵神社)  『トミヒコ→十三(とみ)→十三(じゅうそう)→重蔵(じゅうぞう)』 
能登の旅④ 御陣乗太鼓 『水死体→土左衛門(どざえもん)→どざ→十三→じゅうぞう→重蔵』 

さて、続きにいきましょう~!
長くなってしまいますが、ご容赦を!

水死体のことをエビスという地域があります。
エビスとはイザナギ・イザナミ夫婦が最初に産んだ子供のことです。
ところがエビスは3歳になっても立つことができない身体障害児であったので、イザナギとイザナミはエビスを海に流してしまうのです。

西宮神社の社伝では海に流されたエビスは海神のいる竜宮へ流れ着いたとしていますが、3歳で身体障害児のエビスがたどり着いた竜宮とは死の世界のことでしょう。
エビスは水死体だったのです。
それで水死体のことをエビスという地域があるのでしょう。

そしてえべっさん(エビス)は足が悪いだけでなく、耳も悪いとされ、よく聞こえるように神殿の後ろを叩いてお参りするという習慣があります。

また奈良の春日大社にある榎本明神も耳が悪いので、柱をたたいて参拝する習慣があります。
えべっさんと榎本明神は同一神なのではないでしょうか。

堀川戎神社境内には榎本神社とは一字違いの榎木神社があります。
榎木神社は榎木の大木の下に住む吉兵衛という狸を祀る神社です。

私は吉兵衛とは物部守屋のことではないかと考えています。
というのは物部守屋は蘇我馬子や聖徳太子と戦って、榎木の上で戦の指揮をとっていたところを弓で射落とされて死んだからです。
エビス=物部守屋
(参照/堀川戎神社 福娘 しころ 『えべっさんの正体』 

えびすは海で溺れて死んだんやろ、物部守屋は榎木にいるところを弓で射られて死んでるやん。
死に方が違うやん、えびすと物部守屋は同一神とは言えないやん、と言われるかもしれませんね。

私は昔の人は根の国(黄泉の国と同じ死の世界だと考えられています)と竜宮はどちらも死の国だと考えていたのではないかと思います。
記紀には根の国にスサノオが住んでいたという記述がありますが、イザナギがスサノオに「大海原をおさめよ」と命じているところから竜宮に住む海神とスサノオは同一神だと考えられているからです。
根の国(黄泉の国)には暗いイメージがあるのに対し、竜宮には明るいイメージがありますが。
竜宮とは天国のようなところであると考えられていたのだと思います。
つまり、水死体とは死後、竜宮(天国)に行った人のことを、比喩的に言ったものではないでしょうか。

ここで、トミヒコが物部氏だった可能性が高いことを思い出してください。
トミヒコと物部守屋はどちらも物部氏であり、どちらも天皇家と闘って負けているところから、両者のイメージは重ねられているのではないでしょうか。

エビス=物部守屋=トミヒコ=土左衛門=水死体=エビス

神津神社が昭和31年に今宮戎を勧請して十三戎祭を行うようになった背景には
十三がトミヒコにちなむ地名であり、トミヒコとエビスが同一神であるという認識があったのかも?

 

 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



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[2016/01/15 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』 

滋賀県大津市 近江神宮
かるた祭 ・かるた開きの儀・・・平成28年1月10日 http://oumijingu.org/publics/index/127/

近江神宮には少し早く着きすぎてしまい、かるた祭が始まるまでにはかなり時間があったのですが
神職さんが神座殿まで案内してくださり、暖房も入れてくださったので待ち時間を暖かく過ごすことができました。
ありがとうございました!

近江神宮 かるた祭

近江神宮の御祭神は天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)です。
天命開別大神というのは中大兄皇子(第38代天智天皇)のことです。

鎌倉時代に藤原定家が選集した小倉百人一首には百首の歌にそれぞれ1~100までの番号が振られています。
小倉百人一首の1番の歌は天智天皇が詠まれた「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」という歌です。

そういったところから、近江神宮では1月にかるた祭が行われています。

采女装束の姫たちはスローモーションのようにゆっくりと、そして優雅に腕を伸ばして札をとっていきます。

近江神宮 かるた祭2

天智天皇は飛鳥時代の人物で、万葉集に4首の歌が残されています。
でも「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は万葉集にはありません。
この歌は958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されています。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられています。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないのですが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

なぜ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」という歌は、天智天皇の心を表す歌であると考えられてたのでしょうか?

一般には次のように考えられています。
心優しい天智天皇が、農民の気持ちになってそのつらさを読んだと考えるにふさわしい歌であるためだと。

近江神宮 かるた祭3

でも私の考えはこれとは違います。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
後撰和歌集の撰者たちはこの歌を「死んだ天智天皇の霊が、埋葬されないわが身を嘆く歌」であると考えたのではないでしょうか。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこりました。
天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の同母弟の大海人皇子が皇位をめぐって争ったのです。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられています。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年なのです。

古事記によると、大国主神が国譲りして、「八十青柴垣(ヤソクマデ)に隠りましき」とあります。
これは大国主神が風葬された様子を記したもので、古には柴を沢山立てた中に死体を葬る風葬の習慣があったと考えられています。

また万葉集に次のような歌があります。

荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き浜辺を しきたえの 枕になして 荒床に 自伏す君が(柿本人麻呂)
(荒磯の上に仮小屋を作ってみると、波の音が頻繁に聞こえる浜辺を枕として荒々しい岩の床に伏している人がいる)

荒床とは、風葬するときに死体の下に敷くむしろのことなのだそうです。
すると「荒磯の上につくったいほり(仮小屋)」とは風葬するときに死体を安置する建物のことなのではないでしょうか。

天智天皇の時代、天皇は一定期間、殯宮に安置されるのが一般的でした。
でも壬申の乱がおこったために、天智天皇には殯宮さえ作られなかったのかもしれません。
天智天皇の死体は一般庶民が風葬されるのと同じような状態になっていたのではないでしょうか。

つまり
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」
この歌の「かりほの庵」とは風葬するときに死体を安置する粗末な建物であり、あまりに粗末であるため雨漏りがして死体がぐっしょりと濡れていると、死んだ天智天皇の霊が嘆いている歌であると
後撰集の撰者たちは考えたのではないかと私は思います。

壬申の乱では、大海人皇子が勝利して即位し(天武天皇)、追い詰められた大友皇子は自害して果てました。
そのため大友皇子の父・天智天皇は反逆者の父であるとして長年埋葬されることもなく、放置されていたのかも?


こちらの記事も読みいただけると嬉しいです♪→ 藤原京跡 コスモス 蓮 『持統天皇の歌の謎が解けた!』 



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[2016/01/13 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

法隆寺 夕景と柿 『法隆寺の七不思議② 因可の池の蛙とは』 

奈良県斑鳩町 法隆寺
?年12月or1月 撮影

法隆寺 柿

塔百景 70 

随分昔にフィルムで撮影したものです。

以前の記事、法隆寺 夕景 『法隆寺の七不思議①』 で法隆寺七不思議についてご紹介しました。

①五重の塔の大鎌。
②大湯屋表門前、金堂内陣、経蔵内の三箇所に伏蔵がある。
③鯛石
④法隆寺の夢殿の礼盤の下は、いつも汗をかいている。
⑤雨だれの穴がない。
⑥蜘蛛の巣を作らない。雀が糞をしない。
⑦因可(よるか)の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。


今回は「⑦因可の池の蛙がうるさいので、聖徳太子が筆の先で片目をついたところ、すべての池の蛙が片目になった。」について考えてみたいと思います。

法隆寺・夢殿の南西に聖徳会館があります。
その南側の湿地が因可の池の跡だといわれています。

643年、聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下全員法隆寺で首をくくって自殺しました。

因可(よるか)と入鹿(いるか)は音が似ています。
因可の池とは蘇我入鹿の池という意味なのではないでしょうか?


また、『因可の池の蛙』とありますが、飛鳥の亀石は亀ではなくて蛙だとする説があります。


亀石 
亀石


そして飛鳥の亀石は、妖怪ぬらりひょんの頭部にそっくりです。
眉間に半月形の皴があるところまで同じ!
亀石とは頭蓋骨を模した石のことなのではないでしょうか。

ぬらりひょん 
 ぬらりひょん(大将軍商店街)

平将門の首塚にはたくさんの蝦蟇(蛙)の置物が置かれています。
一般には京で晒されていた将門の首が空中にまいあがり無事生まれ故郷に戻ってきたので「無事帰る」の語呂合わせで蝦蟇の置物が奉納されるようになったと言われています。

でも私は蛙とは頭蓋骨を表すものであり、将門の首(頭蓋骨)を埋めたと伝わる塚であるところから、蝦蟇(蛙)の置物が奉納されるようになったのではないかと考えています。
詳しくはこちらの記事をお読みいただけると嬉しいです。→ 金峯山寺 蔵王堂 蓮華会 蛙飛行事 『蛙と空飛ぶドクロ』 


そして、多武峯縁起絵巻には、中大兄皇子にはねられた蘇我入鹿の首が飛んでいき、皇極天皇の御簾に喰らいつく様子が描かれています。
飛距離は違いますが、蘇我入鹿の首も平将門の首同様飛んだのですね~。


因可の池の蛙とは、入鹿の髑髏を比喩したものではないでしょうか。


多武峯縁起絵巻 
多武峯縁起絵巻 複製 (談山神社




斑鳩の 因可の池の よろしくも 君を言はねば 思ひぞ 我(あ)がする

(斑鳩の因可の池は、よい池だと言われているのに、世間の人はあなたのことをよい人だと言ってくれない。それを私は悩んでいます。)

という読み人知らずの歌が万葉集にあります。
ここに登場する世間で評判の悪い君とは蘇我入鹿のことではないかと思ったりします。

聖徳太子は日本で最も尊敬されている人物です。
その聖徳太子の子孫を蘇我入鹿は自殺に追い込んだのですから、世間の人は蘇我入鹿をよい人だとは言わなかったことでしょう。

法隆寺 夕日

塔百景 71


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



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[2016/01/11 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)