奈良県天理市 大和神社
御弓始祭 1月4日
『日本書紀』に次のような記述があります。
崇神天皇3年、崇神天皇は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に遷都しました。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死にました。
また人民の中には背くものがありました。
そのため天皇は天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)と一緒に生活するのが恐くなり、崇神天皇6年、天照大神と倭大国魂神を宮中の外で祀らせることにしました。
天照大神は豊鍬入姫命に託し、笠縫邑で祀らせました。
倭大国魂神は渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせました。
渟名城入媛命は髪が抜け落ち体がやせ細って倭大国魂神を祀ることができませんでした。
崇神天皇7年、崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り、次のように託宣しました。
「いま疫病が流行っているのは私の祟りである。
私の子・大田田根子に私を祀せ、市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祭らせればる神主とすれば、疫病の流行はおさまるだろう。」
託宣のとおりにしたところ、疫病はおさまりました。
渟名城入媛命が倭大国魂神を祀ったのが大和神社で、当初は現在の桜井市穴師・箸中の付近、または現在の長岳寺付近にあったと考えられています。
その後、奈良県天理市新泉町星山の現在地に移りました。
今日は「渟名城入媛命が祀ることができなかった倭大国魂神を、なぜ市磯長尾市が祀り祟りを鎮めることができたのか」について考えてみたいと思います。
初代神武天皇・10代崇神天皇・15代応神天皇は同一人物ではないかとする説があります。
その理由は次のようなものです。
①初代神武天皇と10代崇神天皇の和風諡号がどちらも「ハツクニシラス」である。
②神武天皇の東征ルートと、応神天皇の機内入り(応神天皇の母・神功皇后は三韓出兵ののち九州で応神天皇を産み、機内へ戻った。)ルートが重なる。
③諡号に『神』の文字があるのは神武・崇神・応神だけだが、3人が同じ『神』の文字を用いた諡号を持っているのは、3人が同一人物であることを表しているのではないか。
④初代神武天皇が即位したのは紀元前660年とされるが、これは弥生時代初期にあたり、この時期に大和朝廷が成立したとはとても考えられず、実在が疑問視されている。
神武天皇は大和朝廷の歴史を古く偽るために創作された人物ではないか。
ひとりの人物を神武・崇神・応神の3人にして歴史を古く偽ったのではないか。神武天皇はもともと日向に住んでいたのですが、あまりに国の端であるというので、東征して機内入りしました。
そこではナガスネヒコという人物が待ち構えており、神武とナガスネヒコは激しく戦いました。
神武の兄が腕を負傷するなどしたため、神武はいったん退き、迂回して南から機内入りすることにしました。
そして再び、ナガスネヒコとの決戦を迎えます。
そのとき、なんとナガスネヒコが神と奉じていたニギハヤヒがナガスネヒコを殺し、神武は王として即位することになるのです。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、機内には物部王朝があったという説があります。
10代崇神天皇は和風諡号をミマキイリビコイニエ、11代垂仁天皇はイクメイリビコイサチといいます。
どちらの諡号にも「イリ」とあるところから「イリ王朝」と呼ばれることがありますが、この「イリ」とは「入り婿」のことではないかとする説があります。
崇神天皇=神武天皇はもともと機内にあった物部王朝の入り婿になることで政権を掌握したのではないでしょうか。
崇神天皇は天照大神と倭大国魂神と一緒に生活するのが怖くなったとありますが、家の中にご先祖様を祀る仏壇が置いてあっても怖いと感じる人は少ないのではないでしょうか。
むしろご先祖様の霊を守護神のように感じる人の方が多いと思います。
私は天照大神と倭大国魂神は物部王朝の神ではないかと思います。
そして崇神天皇は物部王朝の入り婿となることで物部王朝をのっとったため、心の中にやましく感じる気持ちがあり、そのため二神と生活するのが怖くなったのではないでしょうか。
天皇家の祖神は天照大神とされますが、崇神=神武が天照大神と結婚して物部王朝に入り婿に入ったのであれば、天皇家は天照大神の子孫を称しても間違いではありません。
日本では先祖の例は子孫が祭祀するべきとされています。
天照大神は崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命が祀っていますが、渟名城入媛命のように痩せ細ったり髪が抜け落ちるというような祟りはなかったようです。
それは豊鍬入姫命の母親が物部王朝の女性・天照大神で血のつながりがあったからではないでしょうか。
ところが、崇神天皇のもうひとりの皇女・渟名城入媛命は倭大国魂神を祀ることができませんでした。
渟名城入媛命の母親も物部王朝の天照大神であったかもしれませんが、倭大国魂神(物部王朝の男性。叔父?)とは血のつながりがなかったため、祀ることができなかったのではないでしょうか。
倭大国魂神を祀ることに成功した市磯長尾市は倭直(やまとのあたい)の先祖です。
倭直は椎根津彦の子孫ともされますが、椎根津彦は猿田彦と同一神ではないかと思います。
というのは猿田彦は天孫・ニニギを高天原から葦原中国まで道案内した神ですが
椎根津彦は神武天皇の東征において船路の先導者を務めているからです。
猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」であると記紀に記述があります。
そして物部氏の祖神ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命となっています。
天とは高天原、国とは葦原中國のことなので、天照国照彦とは「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味となり、
猿田彦とニギハヤヒは同一神で、市磯長尾市は物部氏の人物だと考えられます。
そのため物部氏の神と考えられる倭大国魂神とは血のつながりがあり、倭大国魂神を祀り、その祟りを鎮めることができたということではないでしょうか。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!
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