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今宮戎神社 十日戎 宵宮祭『えべっさんの正体②』 

大阪市浪速区 今宮戎神社
宵宮祭・・・1月9日 
http://www.imamiya-ebisu.jp/%e5%b9%b3%e6%88%9028%e5%b9%b4%e5%ba%a6%e3%80%80%e3%80%8c%e5%8d%81%e6%97%a5%e6%88%8e%e3%80%8d%e8%a1%8c%e4%ba%8b%e4%b8%80%e8%a6%a7


今宮神社 十日戎 宝恵駕籠

去年、堀川戎神社 福娘 しころ 『えべっさんの正体』  という記事を書きました。

えべっさんは耳が悪いので、よく聞こえるように神殿の後ろをたたいて参拝するという習慣があります。
そして奈良・春日大社にある榎本神社も耳が悪いので、柱をたたいて参拝する習慣があります。
えべっさんと榎本の神は同一神ではないでしょうか?

そして堀川戎神社の境内には榎木稲荷神社があります。
榎木と榎本は横棒が一本あるかないかの違いしかありません。
榎木稲荷神社の神と、榎本神社の神は同一神ではないかと私は思います。

天満堀川の堀止めのそばに榎木の大木があり、その木の下に住む吉兵衛という老狸が住んでいたという伝説があります。
そこに本殿をたてたのが榎木神社だと言われています。
1839年、榎木神社と堀川戎神社末社の稲生神社の分霊が合祀され
明治40年に榎木神社と堀川戎神社が合併されて、榎木神社は現在地に遷宮しています。

全く関係のない神を合祀したりはしないんじゃないかと思うんですね。
戎神と榎木の神=吉兵衛が同一神だという認識を昔の人々は持っていたため、合祀したのではないかと思います。

今宮戎神社 十日戎 福娘2 
春日大社にある榎本神社の御祭神は猿田彦神です。
日本書紀には猿田彦は『高天原から葦原中国までを照らす神』だと記されていますが、これにぴったりな神名を持つ神がいます。。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)=ニギハヤヒです。
天照国照彦の天とは高天原、国とは葦原中國のことなので、「天照国照彦」とは『高天原から葦原中國までを照らす神』という意味となります。
猿田彦神とニギハヤヒは同一神なのでしょう。

ニギハヤヒは物部氏の祖神ですが、587年廃仏派の物部守屋は崇仏派の聖徳太子や蘇我氏戦った際、榎の上にいたところを矢で射られて死んでいます。
榎本神社とはこの物部守屋を祀る神社なのではないでしょうか。
そして榎木の大木の根本に住む狸の吉兵衛とは物部守屋の霊なのではないでしょうか。

今宮戎神社 十日戎 宝恵駕籠2 
587年、物部守屋は榎の上にいるところを矢で射られて死んだという伝説がありますが
この戦いの中で対する聖徳太子はやはり矢で射られそうになったのですが、椋の木の中に隠れて難を逃れたという伝説があります。
聖徳太子と物部守屋の伝説は対比しているようです。

聖徳太子は一度に10人の言うことを聞き分けたという伝説もあります。
これは聖徳太子が大変耳がよかった、ということでしょう。
聖徳太子と物部守屋の伝説が対比して作られたとするならば
物部守屋は耳が悪かった、ということになり、耳の悪いえべっさん(恵比寿神)の正体とは物部守屋だということになるのではないかと思うのです。

今宮戎神社 十日戎 宝恵駕籠3jpg

今宮戎神社は推古天皇代に聖徳太子が四天王寺を建立されたとき、西の鎮護として祀られたことに始まるそうです。
その四天王寺には物部守屋を祀る守屋祠があります。


四天王寺 守屋祠


四天王寺は聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢を没収して建てたお寺です。
守屋祠は四天王寺の鎮守の神なのではないでしょうか。

とすれば、西の鎮護として祀られた今宮戎神社の神も物部守屋なのではないか、と思ったりします。



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[2016/01/09 00:00] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

八坂神社 蛭子船巡行 『回文と一陽来復』 ※追記あり 

京都市東山区 八坂神社
蛭子船巡行 1月9日 http://www.yasaka-jinja.or.jp/photo/ebisu.html

八坂神社 蛭子船巡行

四条通を七福神を乗せた蛭子船が渡っていきます。
見に行ったのはずいぶん以前のことなので、記憶があいまいなのですが
蛭子船は四条通のお旅所(https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000429)あたりで折り返し、また四条通を八坂神社に向かって戻っていったように記憶しています。

八坂神社 蛭子船巡行2

この様子を見て私はなんだか回文みたいだなあ、と思いました。
回文とは上から読んでも下から読んでも同じになる文のことです。

八坂神社では蛭子船と呼んでいますが、一般に七福神の乗る船は宝船と言われます。
そして七福神の乗る宝船を描いた絵に「ながきよの とおのねふりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな(永き世の 遠の眠りの みな目ざめ 波乗り船の 音のよきかな)」という歌を記し、正月2日に枕の下に入れて寝るといい初夢を見ることができるなどと言われています。

「ながきよの とおのねふりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな」は回文になっています。

蛭子船は四条通を「ながきよの とおのねふりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな」と奏でながら渡り、
お旅所のあたりで折り返して、また「ながきよの とおのねふりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな」と奏でながら八坂神社へ戻っていくように思えたのです。

回文 ながきよの 

蛭子船巡行コース 
地球から見た太陽の動きも回文に似ていませんか。
冬至に太陽の南中高度は最も低くなりますが、徐々に南中高度をあげていき、夏至に最も南中高度が高くなります。
そして夏至のあとは徐々に南中高度が低くなり冬至に最も低くなります。
1年間の太陽の南中高度は、天球上を徐々に高度を変えながら行っては戻るを繰り返しているわけです。

太陽の南中高度の変化2 
↑ 上の図は私が作った図があまりにひどいのを見かねた友人が作ってくれました。(ありがとう~)

 冬至のことを一陽来復といいますが、来復とは「 一度去ったものが再びかえってくる」という意味です。
一陽来復のもともとの意味は「南中高度が低くなり勢いの衰えた太陽が再び南中高度をあげて勢いを増していく」という意味ではないかと思います。

そして古の日本には陰が極まれば陽に転じるという考え方もありました。
冬至は陰の極まった状態であり、その先は徐々に陽である夏至に向かいます。
そして陽の極まった状態である夏至が過ぎると徐々に陰である冬至に向かいます。
ここから、一陽来復は「悪いことが続いたあと、物事がよい方に向かう」という意味でも用いられます。

※追記 冬至正月という言葉があり、かつて冬至を1年の始点とする考え方もあったようです。
新年が来ることも一陽来復と言うのは、冬至を1年の始点とする考え方からくるのではないでしょうか。

室町時代には節分の夜または大晦日に床の下に船の絵を敷いて眠り、翌日流したり埋めたりする習慣があったそうで、これが宝船信仰の原型だと考えられています。
夏越の祓では人形に息を吹き替えて自らの穢れを人形に移して川や海に流すという神事が行われています。
また雛祭の日に人形を船に乗せて流す雛流しの行事が行われることもあります。

淡嶋神社 雛流し
淡嶋神社の雛流し

節分または大晦日に船の絵を敷いて眠り翌日流すという習慣も夏越の祓や雛流し同様、もともとは穢れを祓うおまじないのようなものだったのですね。
それが「いい夢を見ることができる」というふうに変化したのは、一陽来復という考え方と関係があるのではないでしょうか。

節分(立春の前日)または大晦日に流した穢れを乗せた船(陰)は、立春または正月に宝船(陽)として戻ってくると考えられ、そのため正月2日に宝船を書いた絵に回文を添えて枕の下に敷いて寝るという習慣が生じたのではないかと思ったりします。

※追記 回文は一陽来復を表現するものとして絵に書き入れられたのではないでしょうか。

八坂神社 蛭子船巡行 福娘

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[2016/01/08 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大和(おおやまと)神社 御弓始祭 『市磯長尾市はなぜ倭大国魂神の祟りを鎮めることができたのか』 

奈良県天理市 大和神社
御弓始祭 1月4日

大和神社 

『日本書紀』に次のような記述があります。

崇神天皇3年、崇神天皇は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に遷都しました。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死にました。
また人民の中には背くものがありました。
そのため天皇は天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)と一緒に生活するのが恐くなり、崇神天皇6年、天照大神と倭大国魂神を宮中の外で祀らせることにしました。
天照大神は豊鍬入姫命に託し、笠縫邑で祀らせました。
倭大国魂神は渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせました。
渟名城入媛命は髪が抜け落ち体がやせ細って倭大国魂神を祀ることができませんでした。
崇神天皇7年、崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り、次のように託宣しました。
「いま疫病が流行っているのは私の祟りである。 
私の子・大田田根子に私を祀せ、市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祭らせればる神主とすれば、疫病の流行はおさまるだろう。」
託宣のとおりにしたところ、疫病はおさまりました。

渟名城入媛命が倭大国魂神を祀ったのが大和神社で、当初は現在の桜井市穴師・箸中の付近、または現在の長岳寺付近にあったと考えられています。
その後、奈良県天理市新泉町星山の現在地に移りました。

大和神社 弓始め2

今日は「渟名城入媛命が祀ることができなかった倭大国魂神を、なぜ市磯長尾市が祀り祟りを鎮めることができたのか」について考えてみたいと思います。

初代神武天皇・10代崇神天皇・15代応神天皇は同一人物ではないかとする説があります。
その理由は次のようなものです。

①初代神武天皇と10代崇神天皇の和風諡号がどちらも「ハツクニシラス」である。
②神武天皇の東征ルートと、応神天皇の機内入り(応神天皇の母・神功皇后は三韓出兵ののち九州で応神天皇を産み、機内へ戻った。)ルートが重なる。
③諡号に『神』の文字があるのは神武・崇神・応神だけだが、3人が同じ『神』の文字を用いた諡号を持っているのは、3人が同一人物であることを表しているのではないか。
④初代神武天皇が即位したのは紀元前660年とされるが、これは弥生時代初期にあたり、この時期に大和朝廷が成立したとはとても考えられず、実在が疑問視されている。
神武天皇は大和朝廷の歴史を古く偽るために創作された人物ではないか。
ひとりの人物を神武・崇神・応神の3人にして歴史を古く偽ったのではないか。


神武天皇はもともと日向に住んでいたのですが、あまりに国の端であるというので、東征して機内入りしました。
そこではナガスネヒコという人物が待ち構えており、神武とナガスネヒコは激しく戦いました。
神武の兄が腕を負傷するなどしたため、神武はいったん退き、迂回して南から機内入りすることにしました。
そして再び、ナガスネヒコとの決戦を迎えます。
そのとき、なんとナガスネヒコが神と奉じていたニギハヤヒがナガスネヒコを殺し、神武は王として即位することになるのです。

ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前、機内には物部王朝があったという説があります。

10代崇神天皇は和風諡号をミマキイリビコイニエ、11代垂仁天皇はイクメイリビコイサチといいます。
どちらの諡号にも「イリ」とあるところから「イリ王朝」と呼ばれることがありますが、この「イリ」とは「入り婿」のことではないかとする説があります。

崇神天皇=神武天皇はもともと機内にあった物部王朝の入り婿になることで政権を掌握したのではないでしょうか。

崇神天皇は天照大神と倭大国魂神と一緒に生活するのが怖くなったとありますが、家の中にご先祖様を祀る仏壇が置いてあっても怖いと感じる人は少ないのではないでしょうか。
むしろご先祖様の霊を守護神のように感じる人の方が多いと思います。

私は天照大神と倭大国魂神は物部王朝の神ではないかと思います。
そして崇神天皇は物部王朝の入り婿となることで物部王朝をのっとったため、心の中にやましく感じる気持ちがあり、そのため二神と生活するのが怖くなったのではないでしょうか。

大和神社 弓始め3

天皇家の祖神は天照大神とされますが、崇神=神武が天照大神と結婚して物部王朝に入り婿に入ったのであれば、天皇家は天照大神の子孫を称しても間違いではありません。

日本では先祖の例は子孫が祭祀するべきとされています。
天照大神は崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命が祀っていますが、渟名城入媛命のように痩せ細ったり髪が抜け落ちるというような祟りはなかったようです。
それは豊鍬入姫命の母親が物部王朝の女性・天照大神で血のつながりがあったからではないでしょうか。

ところが、崇神天皇のもうひとりの皇女・渟名城入媛命は倭大国魂神を祀ることができませんでした。
渟名城入媛命の母親も物部王朝の天照大神であったかもしれませんが、倭大国魂神(物部王朝の男性。叔父?)とは血のつながりがなかったため、祀ることができなかったのではないでしょうか。

倭大国魂神を祀ることに成功した市磯長尾市は倭直(やまとのあたい)の先祖です。
倭直は椎根津彦の子孫ともされますが、椎根津彦は猿田彦と同一神ではないかと思います。
というのは猿田彦は天孫・ニニギを高天原から葦原中国まで道案内した神ですが
椎根津彦は神武天皇の東征において船路の先導者を務めているからです。

猿田彦は「高天原から葦原中国までを照らす神」であると記紀に記述があります。
そして物部氏の祖神ニギハヤヒは先代旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命となっています。
天とは高天原、国とは葦原中國のことなので、天照国照彦とは「高天原から葦原中国までを照らす神」という意味となり、
猿田彦とニギハヤヒは同一神で、市磯長尾市は物部氏の人物だと考えられます。

そのため物部氏の神と考えられる倭大国魂神とは血のつながりがあり、倭大国魂神を祀り、その祟りを鎮めることができたということではないでしょうか。

大和神社 弓始め4 


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[2016/01/06 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

八坂神社 かるた始め 『百人一首は10次魔方陣だった』 

京都市東山区 八坂神社
かるた始め 1月3日

八坂神社 かるた始め 
百人一首は鎌倉時代、藤原定家によって撰集されました。
百人一首かるたができたのは江戸時代です。
かるたはポルトガル語のcarta(カードゲームの総称)からくる外来語だったのですね~。
そのcartaと百人一首が結びつき、百人一首かるたができたと考えられています。

かるた始めに登場するかるた姫たちは平安装束を身に纏っていますが、平安時代に百人一首かるたはなかったのです。
「絢爛たる暗号」の著者・織田正吉さんは、「かるた始め」の光景について「平安時代の姫たちがタイムマシンに乗ってやってきたsf的光景」だというような意味のことをおっしゃっていました。

百人一首には同じような語句が多くてお手つきを誘いやすいですね。
そのゲーム性がかるたに合っていたのかも。
子供のころ、『いまひとたびのみゆきまたなむ』と『いまひとたびのあうこともがな』をよく取り間違えたことを思い出します。


八坂神社の御祭神・スサノオは我が国の最古の歌を詠んだとされます。
八坂神社の「かるた始め」はこれにちなむ行事なのだそうです。

八坂神社 かるた始め3 
織田正吉さんは著書『絢爛たる暗号』の中で百人一首はクロスワードパズルであると説かれました。
和歌に用いられた同一の言葉で、和歌と和歌がつながるというのですね~。
図書館で借りて読んだので手元に本がなく今確認することができないのですが
先ほどの和歌を例にとってみると、『いまひとたびのみゆきまたなむ』と『いまひとたびのあうこともがな』は『いまひとたびの』で繫がります。

そして『いまひとたびのみゆきまたなむ』の上の句は『小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば』です。
上の句にある『もみぢ』がまたほかの和歌と繋がるというようなことだったと思います。

『百人一首の魔方陣』の著者・太田明さんは百人一首の歌にふられた数字に着目し、『百人一首は10次魔方陣である』と説かれ、百人一首が10次魔方陣を形成するように並べることに成功されています。

魔方陣について、ウィキペディアには次のように説明があります。

魔方陣(まほうじん、英:Magic square)とは、正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・斜めのいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるもののことである。特に1から方陣のマスの総数までの数字を1つずつ過不足なく使ったものを言う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E6%96%B9%E9%99%A3 引用

百人一首とは藤原定家が100首の和歌を用いて作った10次魔方陣だったのです。

八坂神社 かるた始め4 
後鳥羽院は歌人としても優れた才能を持っていた人で、たびたび歌会を開いています。
藤原定家とも交流がありました。
1200年、定家は宮廷歌人となり、1201年には後鳥羽上皇から新古今和歌集の撰者に任命されています。
ところが、歌の選定をめぐって定家は後鳥羽上皇と喧嘩をしてしまうのです。
1220年、後鳥羽上皇は定家の歌会への参加を禁じました。
しかしこのことは定家にとって災い転じて福となりました。
なぜなら、1221年、後鳥羽上皇は承久の乱をおこして隠岐へ配流となってしまったからです。
承久の乱後、定家は後鳥羽院とは一切の連絡を絶ち、高い官位を得て歌壇の頂点に立ちました。

1239年、後鳥羽院は隠岐で崩御されました。
『平戸記』には北条時房の死は後鳥羽院の怨霊のしわざであると記されているそうです。

藤原定家は後鳥羽院の怨霊をそれは恐れていたことでしょう。
そして後鳥羽院の怨霊を封じるために10次魔方陣として百人一首を選んだのだと思いますが、今手元に本がないので
再読したのち、改めて記事を書きたいと思います。

八坂神社 かるた始め2


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[2016/01/04 09:57] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

あけましておめでとうございます/京都の四季 

あけましておめでとうございます。
皆さまにとって2016年がよい年になりますように、心よりお祈りもうしあげます。

北野天満宮 梅
北野天満宮 梅2

管大臣天満宮 梅
菅大臣神社 紅梅

金戒光明寺 梅
金戒光明寺 梅2

摩利支尊天堂 雪柳
摩利支尊天堂 雪柳

竜安寺 桜
龍安寺 枝垂れ桜

高台寺 しだれ桜
高台寺 枝垂れ桜 ライトアップ

仁和寺 御室桜
仁和寺 お多福桜

乙訓寺 牡丹
乙訓寺 牡丹

大原三千院 石楠花
三千院 石楠花

八条池 霧島躑躅
八条池 霧島躑躅

詩仙堂 皐月
詩仙堂 皐月

平安神宮 出猩々

平安神宮 楓 


三室戸寺 紫陽花
三室戸寺 紫陽花2 

善峯寺  紫陽花
善峯寺 紫陽花



岩船寺 紫陽花
岩船寺 紫陽花 



井手 源氏蛍
井出 源氏蛍

梅宮大社 花菖蒲
梅宮大社 花菖蒲2 
両足院 半夏生

両足院 半夏生2 


三室戸寺 蓮

三室戸寺 蓮 雨 


天龍寺 蓮

天龍寺 蓮 


大蓮寺 蓮
大蓮寺 蓮 雨

蘆山寺 桔梗
蘆山寺 桔梗

美山 茅葺の里 蕎麦
美山茅葺の里 蕎麦畑

水尾の里 藤袴 アサギマダラ
水尾 藤袴とアサギマダラ2


迎稱寺 蓮
迎稱寺-塀 萩

八坂の塔 月
八坂の塔 月2

伏見桃山城 夕景
伏見桃山城

即上院 紅葉
即成院 紅葉

渡月橋 紅葉
渡月橋 紅葉2

楊谷寺 紅葉
楊谷寺 紅葉

興聖寺 紅葉
興聖寺-紅葉2




神護寺 紅葉
神護寺 紅葉


浄瑠璃寺 紅葉

浄瑠璃寺 紅葉 

東福寺 紅葉
東福寺 通天橋 紅葉

西明寺 紅葉
西明寺 指月橋 紅葉


岩戸落葉神社  公孫樹
岩戸落葉神社 イチョウ 2

西本願寺 公孫樹
西本願寺 いちょう

神光院 柿
神光院 柿


法輪寺 嵐山花灯路
法輪寺 ライトアップ

金閣寺 雪

金閣寺 雪 


銀閣寺 雪銀閣寺 雪




愛宕念仏寺 雪
愛宕念仏寺 地蔵堂 


永観堂 雪
永観堂 雪   






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[2016/01/01 02:59] まとめ | トラックバック(-) | コメント(-)