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神光院 柿 『きゅうりとスサノオの関係』  

京都市北区 神光院
2014年12月17日 撮影

神光院にしか咲かない珍しい山茶花があると聞いたので行ってみたのですが、咲いていませんでした~。
そのかわり、門前の柿の実がきれいでした。

神光院 柿

神光院では7月21日と土用の丑の日に弘法大師’(空海)が中国から伝えた「きゅうり封じ」の行事が行われているそうです。

 病名を書いた紙できゅうりを包み、そのきゅうりで 身体の悪い 所を撫でて地中に埋めると病気が治るといわれています 

神光院の本尊は空海像ですが、弘法大師(空海)が入寂したとされるのは3月21日なので、21日は弘法大師の縁日とされています。
「きゅうり封じ」が7月21日に行われているのは、21日が弘法大師の縁日だからでしょう。

「きゅうり封じ」は7月21日のほか、土用の丑の日にも行われていますが、土用の丑とは何でしょうか?

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水とされています。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいます。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

陰陽五行説には『相生説』と『相克説』があります。

『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説です。

『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。


『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説のことです。

『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。


『土用の丑』の習慣については、様々な説がありますが、『水剋火』、すなわち夏の火性を冬の水性で緩和しようとするのが『土用の丑』の習慣だと考えてまず間違いないと思います。

『土用の丑』には鰻を食べる習慣がありますが、本来、鰻の旬は冬なのです。
そのため経営不振に陥った鰻屋に、平賀源内が『本日、土用の丑』と書いた紙を店先に貼るようにアドバイスしたというエピソードは有名ですね。
その結果、鰻は飛ぶように売れたということです。
本来、冬の食べ物である鰻を夏に食べるということは、夏の火性を冬の水性で緩和することだといえるでしょう。
平賀源内のキャッチコピーは当時の人々に陰陽五行説の『水剋火』を思い起こさせる効果があったということだと思います。 

夏の火性を冬の水性で緩和しようとするのが『土用の丑』の習慣だと言うけど、きゅうりは夏の野菜じゃないか。
そう言われるかもしれませんね。
確かにきゅうりは夏の野菜です。

きゅうりといえば輪切りにしたキュウリの形が八坂神社の社紋に似ているので、山鉾町の氏子さんたちは祇園祭(八坂神社の祭礼)の期間はきゅうりを食べない習慣があるそうです。

祇園祭 宵山 船鉾 

八坂神社の御祭神はスサノオですが、スサノオは牛頭天王と習合されています。
牛頭天王という神名は「牛の頭を持った神」という意味だと思います。
牛は干支の丑を表すものだと思います。
丑は季節では12月を表しますが、12月は冬です。

つまり
きゅうり→八坂神社の神紋→スサノオ→牛頭天皇→牛→丑→12月(冬)
となり、きゅうりは夏の野菜ではありますが、きゅうり封じのきゅうりは冬を表しているのではないかと思います。



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[2015/12/31 01:18] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

OSAKA光のルネサンス 2015 『日本でBLがたしなみとされたのはなぜ?』 

OSAKA光のルネサンス2015
 
中の島図書館 ウォールタペストリー3

↑ 中の島図書館で行われるウォールタペストリーを見るために45分も行列に並びました~。
でもそのかいあって、素晴らしい映像を見ることができましたよ。
三脚は禁止の上、動きが早いのでISO12800で~。 ↓

中の島図書館 ウォールタペストリー2 

中の島図書館 ウォールタペストリー 

↓ 中央公会堂ではプロジェクションマッピングが行われていました。

中央公会堂 光のルネサンス 
歌舞伎の見得(みえ)ですね。オモシロイ♪

中央公会堂 光のルネサンス 歌舞伎 

歌舞伎のルーツは出雲阿国(1572年~?)が行った「かぶき踊り」だとされます。
その後、遊女歌舞伎が全国で行われるようになったそうです。
現在では歌舞伎役者さんは男性ばかりですが、もともとは女性が演じるものだったのですね~。
また、若衆が演じる若衆歌舞伎なども行われていたそうです。
若衆とは衆道(男色のこと)で受け手の側の少年のことです。

これらの歌舞伎はエロチックな内容のものであったそうで、遊女や若衆をめぐる喧嘩や刃傷沙汰が絶えず、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は江戸幕府によって禁止とされてしまいました。
そして野郎頭の青年男子を役者とする野郎歌舞伎が行われるようになったそうです。
野郎頭とは前髪を落として月代(さやかき・・・頭頂部の髪を剃ったもの)を剃った髪型のことで、江戸時代には元服のときにさやかきを剃る習慣がありました。

それにしても、遊女をめぐる喧嘩というのはわかりますが、若衆をめぐる喧嘩が絶えないとは・・・
戦国武将にとって衆道はたしなみであったなどともいいますし、古の日本の殿方たちはなぜこんなにもBLに走ってしまったのでしょうか?

日本のBLは僧が稚児を寵愛する習慣があったことから広まったと考えられています。

でも、私はそれだけではなく、重陽の節句が関係しているのではないか、と思ったりするのです。

古には奇数は陽の数字、偶数は陰の数字だと考えられていました。
そして月と日が同じ一けたの陽の数字になる日(1月7日/1月1日は元旦なので7日とされたのかも?・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)は節句としてお祝いする習慣がありました。
中でも9月9日は、一けたの陽の数字としては最大の数字となるため、重陽の節句として盛大に祝われたそうです。

京都の法輪寺では重陽の節句に菊のしずくを飲んで700歳の長寿を得た菊滋童の舞が行われます。
また菊の花に真綿をかぶせ、この綿についた露を顔にあてると不老長寿になるなどとも信仰されていました。
重陽の節句は不老長寿を願う日であったようです。

どうもこの菊滋童ってBLの匂いがするんですよね~。
菊自体がBLのシンボルですし、菊滋童は帝より法華経の句を書いた枕を賜っているんですね。
帝から枕をもらうというのは、帝の菊滋童がBLの関係であったということなのではないでしょうか?

さきほど奇数は陽の数字、偶数は陰の数字だといいましたが
陰陽道では男は陽、女は陰です。
男と男が重なるBLはまさしく重陽ではありませんか。
つまりBLをたしなむことは不老長寿の呪術だったのではないかと思うのです。


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[2015/12/29 00:38] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

イルミナイト万博-Xmas- 『岡本太郎さんの芸術論を斬らせていただきます。』 

miniさん に「イルミナイト万博-Xmas-」を教えてもらったので行ってきました♪(ありがとうございます!)
イルミナイト万博-Xmas-は今日(12月27日)までです。

イルミナイト万博 Xmas

太陽の塔は、1970年のEXPO'70・大阪万博)のシンボルとして建てられました。
「芸術は爆発だ!」で知られる岡本太郎さんの代表作ですね。

イルミナイト万博 xmas2 

塔百景69


岡本太郎さんの芸術論「日本の伝統(知恵の森文庫)」を読みました。
岡本さんは素晴らしい芸術家だと思います。
ですが申し訳ないのですが、この芸術論は同意しかねました。

この本の中で岡本さんは『古都遍歴』を著した竹山道雄さんの文章を批判しておられます。
岡本さんが批判したのは法隆寺の中門について記した竹山さんの次のような文章です。

「この路をまっすぐに行けば、あの中央の柱につきあたってしまう。
行く手の門は、なかば人を通すようでもあり、通さぬようでもある。
門でありながら塞いでいる。
招じ入れる入り口でありながら拒否している。
・・・・さながらこういっているかのようである。
ここは門である。しかし、なんじがこれを入ることはできぬ。」
(竹山道雄『古都遍歴』より引用)


岡本太郎さんはこれを次のように批判されています。

いったいこの先生は、どんな仕かけの門をほかに知っているというのだろうか。
ただの開放的な通路にはふつう門はつけないものです。
だからとうぜんあらゆる門が閉鎖をも暗示している。
どんな門だって、招くと拒否するという二重の機能をそなえています。
それが門というものなのです。
(こんなバカバカしい説明をしなければならないとは!)
(岡本太郎『日本の伝統(知恵の森文庫)p48より引用)

一般的な門は奇数間に造られます。
しかし法隆寺の中門は一般的なものとは違い、偶数間で作られています。
そのため、門の中央に柱があるという珍しい構造になっています。

法隆寺 中門 五重塔法隆寺 中門
 
竹山さんは法隆寺中門の特殊性に着目したわけですが、
岡本さんは門の中央に柱があろうとなかろうと、柱ごときに意味などないと思っておられるのかもしれません。

しかし、私は竹山さんの観察眼と感性のほうを支持します。

梅原武さんは著書『隠された十字架』において、『門に柱を立てれば閂である』として、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じ込めの寺であるとされました。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって自殺し、聖徳太子の血は絶えてしまいました。
そのため聖徳太子は怨霊になったのではないかというのですね~。

イルミナイト万博 xmas 3

法隆寺西院の本堂には日本最古の四天王寺像が、東院・夢殿には聖徳太子等身大の像とされる救世観音像があります。

仏像の光背は足元に立てた棒にとりつけるのが一般的ですが、法隆寺の四天王像や救世観音は光背が頭に直接打ちつけられています。
梅原武氏は四天王像や救世観音は怨霊封じのために光背が頭に打ちつけられてるのではないかとおっしゃっています。
丑の刻参りで藁人形の頭に釘を打ち込むのとおんなじではないか、というのです。

また、救世観音は長い間秘仏とされとって、救世観音を安置する夢殿はあけると大地震がくると怖れられて長年開扉されたことがありませんでした。
明治になってフェノロサが夢殿を開いたとき、法隆寺の僧侶たちは大地震がくると怖れて逃げていったそうです。

竹山氏は法隆寺の門に『参拝者の拒否』を感じておられますが、梅原氏の説によれば法隆寺の門は『聖徳太子の怨霊が外に出ることを拒否』する門だということになります。

そうではありますが、法隆寺の門の呪術的仕掛けに気づいた竹山氏の感性はたいしたものだと思うのです。


ガンダム 

ららぽーとエキスポシティにはガンダムとシャア専用ザク(あってます?ガンダム見たことないんで~)がいました。
かっこいいですね~♡


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[2015/12/27 13:12] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

大阪光のルネサンス 『一言主大神は日本版イエス・キリストだった?』 

『OSAKA 光のルネサンス2015』についてはこちらをご覧ください。→ http://www.hikari-kyoen.com/renaissance/index.html 
写真は今年のものではなく、過去に撮影したものです。

中央公会堂 光のルネサンス
中央公会堂

前回の記事、京都駅ビル クリスマスイルミネーション2015 『双子のトリック』 で次のようなことをお話ししました。
①イエス・キリストには双子の弟がいた。
②十字架に磔になって死んだのはキリストの双子の弟だったとする説がある。
③キリストが死の直前に叫んだ、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか)』と訳されている。。
『エリ』とはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈された。
この『エリ』(『高い』『より上にある』)とは『神』ではなく、『兄』のことではないかとする説がある。
④キリストは死後3日後に生き返ったとされるが、死んだのは双子の弟であった。キリストの復活は双子のトリックだった。

去年の記事、京都駅ビル クリスマスイルミネーション 2014 『イエス・キリストは太陽神だった。』 では次のようにお話ししました。

①聖書にはキリストの誕生日についての記述はない。
②クリスマスはミトラ教の冬至祭を、キリスト教が取り入れたものだといわれている。
③古代ローマ人が信仰していたミトラ教では、冬至から3日目の12月25日に冬至祭を行う習慣があった。
④冬至とは太陽の南中高度が最も低くなる日のことである。
その後3日間、太陽は低い位置にとどまったままだが、3日後から再び南中高度をあげていく。
⑤ミトラ教では太陽が南中高度をあげていく25日に太陽の復活を祝って冬至祭を行っていたのではないか。
⑥地球の自転軸が約25800年の周期でコマが首を振るように回転している(歳差運動)ので、古代ローマでは南十字星が見えていた。
とはいえ、古代の地中海沿岸地方で観測される南十字星の南中高度は低かったはずである。
冬至のころの太陽は南中高度が低くなり、南十字星の高度に近づく。
⑦イエスは太陽、イエスが磔になった十字架は南十字星、イエスが死後3日目に復活したのは冬至から3日目に太陽が再び上昇を始めることを比喩したものだとする説がある。

中の島図書館 光のルネサンス
 中の島図書館


日本でも各地で冬至祭が行われています。
一言主神社 一陽来復祭 『一言主大神は木霊(山彦)だった?』 
↑ この記事は奈良の一言主神社の一陽来復祭について記したものです。
一陽来復とは冬至のことです。

一言主神社 一陽来復祭 一言主神社 一陽来復祭


この記事の中で次のような伝説をご紹介しました。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、向かいの山の方から、全く同じ返答が返ってきました。
雄略やお供の者が怒って矢を弓につがえると、向こうの人たちも矢をつがえました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 


私一言主大神とは木霊(山彦)のことだと考えていますが、雄略天皇の双子の兄弟であるともいえます。
雄略天皇と同じいでたちをし、同じ言葉を返してくるのですから。

中の島薔薇園 光のルネサンス 
中の島薔薇園


一言主大神は雄略天皇を長谷まで送っています。
これは一般に、一言主大神と雄略天皇が仲良くなったことを表すものととらえられているようです。
でも、私はそういうことではないと思うんですね。

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。

つまり、一言主大神は雄略天皇を殺し、死の国へ送っていったということではないかと思うのです。

一言主神社は冬至と関係の深い神社であることをふまえると、次のように考えることができるのではないでしょうか。
雄略天皇・・・・キリストの双子の弟・・・冬至に向かって衰えていく太陽
一言主大神・・・キリスト・・・・・・・・冬至から3日後より勢いを増していく太陽


中央公会堂 光のルネサンス2
中央公会堂

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[2015/12/24 12:06] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

京都駅ビル クリスマスイルミネーション2015 『双子のトリック』 

京都駅ビル クリスマスイルミネーション2015

京都駅ビル クリスマスイルミネーション3  

ここのイルミネーションはいつも楽しいです。
夏の祇園祭イルミネーションは感動的でした! 京都駅ビル 祇園祭イルミネーション 『祇園祭とノアの方舟2』 

京都駅ビル クリスマスイルミネーション 

gifアニメを作ってみましたが、位置あわせがうまくいかず~。
よさそうなフリーソフトを見つけたので、時間があるときにやり直します。
(今、大掃除で忙しいので~)

さてさて、もうすぐクリスマスですね。
クリスマスはイエス・キリストの誕生日とされているので、今日はキリストの話をしたいと思いまーす。

青森県三戸郡新郷村大字戸来(旧・戸来村)にキリストの墓(十来塚)がありますね。
戸来という地名はヘブライからくるものであるとか
祭で歌われる「ナニヤドヤラー」という謎の歌詞はヘブライ語で「主をほめたたえよ」という意味であるとか
子供の額に十字を描く習慣があることなどで有名ですねー。
一度行ってみたいです。

さらに、磔になったのはキリストではなくキリストの双子の弟のイスキリで、磔刑を免れたキリストが日本にやってきたという伝承まであるそうです。
十来塚の隣にある「十代塚」はイスキリの墓だとされています。

京都駅ビル クリスマスイルミネーション2

イスキリという人物は聖書には登場しないそうですが、キリストが双子であったという説はあります。
十字架に磔にされたイエスは死ぬ直前、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫んでいます。
『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は、『わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか』と訳されています。
『エリ』とはヘブル語で『高い』『より上にある』の意で、そこから神をさすと解釈されたようです。

この『エリ』(『高い』『より上にある』)とは『神』ではなく、『兄』のことではないかとする説があります。
イエスのかわりに磔になった双子の弟が、『兄さん、兄さん、どうして私を見捨てるのですか』と言ったのではないかというのですね~。

キリストは死後3日目に生き返ったとされますが
それは双子のトリックであったと考えたほうが合理的な説明がつくのではないかと思います。



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[2015/12/23 01:39] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

渡月橋 法輪寺 ライトアップ 『小野小町は男だった?』 

法輪寺・・・京都市西京区
嵐山花灯路・・・12月11日~12月20日

渡月橋 ライトアップ  
ライトアップされた渡月橋。とても幻想的でした。
橋の向う側には法輪寺の多宝塔が見えています。

渡月橋 法輪寺 ライトアップ  

「デジタル掛け軸」というそうで、照明の模様がゆっくりと変化していきます。
同じ模様になることはなく、毎回違った模様になるのだとか。

法輪寺 ライトアップ 
虚空蔵法輪寺 針供養 『針供養と事八日』 
↑ こちらの記事で、法輪寺の針供養をご紹介しました。
平安時代、清和天皇(850-881)が法輪寺に針供養のお堂をたてたことから、針供養が行われるようになったとされます。

私は「清和天皇が法輪寺に針供養のお堂を建てた」というのは「小野小町供養のお堂をたてた」ということではないかと考えています。
清和天皇ゆかりの寺、奈良の帯解寺にも小町の宮という小さな祠があり、清和天皇と小野小町は関係が深そうに思えます。
そして小野小町は「穴のない体」だといわれ、穴のない「待ち針」は「小町針」が訛ったものだと言われています。

小野小町は六歌仙(遍照・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)の一ですが、六歌仙とは紀貫之が書いたといわれる古今和歌集仮名序(古今和歌集の仮名で記された序文)の中で名前を挙げられた六人の歌人のことを言います。
ただし、古今和歌集仮名序の中に六歌仙という言葉は登場しません。
後の世になって6人の歌人のことを六歌仙と言うようになったと考えられています。

古今和歌集仮名序は抽象的で意味がよくわからないのですが、私にはこんな風に読めます。
(読んでみたい方はこちらを参照してください。→ http://bluewind.oops.jp/kokin/kana1.htm

遍照はリアリティがない。
在原業平は言葉が足りない。
文屋康秀はいい着物を着た商人のようだ。
喜撰法師ははじめとおわりがはっきりしていない。
小野小町は強くない。
大友黒主は賎しい。


一般的には六歌仙とは歌のうまい6人の歌人だと捉えられていますが、仮名序の文章は決してほめているようには思えません。

高田祟史さんは六歌仙とは「怨霊である」とおっしゃっています。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。
六歌仙は全員藤原氏と敵対関係にあった人物で政治的に不幸だったといえます。

喜撰法師は紀名虎またはその息子の有常だという説があります。
紀名虎の娘の静子は文徳天皇に入内して惟喬親王(844-897)を生みました。
文徳天皇は惟喬親王の立太子を望んでいましたが、藤原良房の娘・明子が生んだ惟仁親王が生まれたばかりで皇太子となりました。

在原業平は紀有常の娘を妻としており紀氏よりの人間だったため藤原氏から敵対視されていました。

遍照は藤原良房に出家をすすめられたとされます。

文屋康秀と同族と思われる文室(文屋と記すこともある。)宮田麻呂は謀反の罪で流罪となりましたが死後ちに無実であったとして神泉苑の御霊会で慰霊されています。

大友黒主は大伴黒主と記されることがあります。
私は大伴黒主とは大伴家持のことだと思います。
(その理由については、こちらの記事をお読みください。→ 祇園祭 後祭 山鉾巡行 『大友黒主の正体は大伴家持だった?』 

大伴家持は藤原種継暗殺事件に関与したとして、すでに死亡していたにも関わらず死体が掘り出されて流刑とされています。

小野小町という歌人については数種の歌が残っているだけで、どのような人物であったのかよくわかっていません。

井沢元彦さんは高田祟史さんの説を受けて「惟喬親王の乳母ではないか」とおっしゃっています。
惟喬親王は小野宮と呼ばれる広大な宮に住み、自身も「小野宮」と呼ばれていました。
ここから惟喬親王は小野氏と関係が深いと思われること。
「小町が孫」なる歌人がおり、小野小町には子供があったことなどを理由として挙げておられます。

でも私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王自身のことではないかと思います。
もちろん惟喬親王は男性です。
「小野小町は穴のない体であった」というのは、「性的に不能であった」という意味ではなく、「男だった」という意味なのではないでしょうか?

古今和歌集をには男の歌人が「女の身になって」詠んだ歌というのがたくさんあるのです。
古今和歌集仮名序を書いたとされる紀貫之自身も「土佐日記」において「男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり」と自身を女と偽って日記を書いています。

また『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいます。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられていますが、『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としています。
紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことです。
また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことなんです。
三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになります。
「町」とは紀氏の女性を刺しているようにも思えます。

そして紀静子は惟喬親王の母親です。
惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなります。
そういうことで小町というのではないでしょうか。

清和天皇は針供養のお堂を建てたといいますが、法輪寺には惟喬親王の伝説も伝わっています。
それは「惟喬親王が法輪寺にこもり虚空蔵菩薩より漆の製法を授けられた。」というものです。
法輪寺は惟喬親王ゆかりの寺だったのですね~。

惟喬親王は死後御霊(怨霊が祟らないように慰霊されたもののこと)として惟喬神社や玄武神社などに祀られています。

清和天皇が針供養のお堂を建てたといいますが、実際にはもう少し後の時代に藤原氏が惟喬親王の怨霊を鎮めるためにお堂を建てたことを世の人々は「清和天皇の魂が針供養(小町針/惟喬親王のこと)のお堂を建てた」などと噂したのではないかと思います。
(古の人々は生きている人と死んでいる人の区別をはっきりとつけていなかったと言われます。)

法輪寺 ライトアップ 
塔百景68


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[2015/12/20 15:42] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

法輪寺 法起寺 紅葉 『聖徳太子は星の神だった。』 

奈良県斑鳩町 法輪寺・法起寺
2013年12月8日 撮影

斑鳩の里を歩くと、法輪寺・法起寺・法隆寺の3つの塔が次々に表れます。

↓ 法輪寺
法輪寺 紅葉

塔百景66

 
法輪寺には木造虚空蔵菩薩立像があり、妙見護摩祈祷・星祭り・妙見会式などの行事を行っています。

この虚空蔵菩薩について、ウィキペディアは次のように記しています。
「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9 より引用。

明星とは金星、妙見(妙見菩薩)とは北極星や北斗七星の神です。

また法輪寺の御本尊の薬師如来もまた星の神ではないかと思います。

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左(向かって右)に日光菩薩、薬師如来の右(向かって左)に月光菩薩を配置します。
そして、記紀神話ではイザナミの左目から天照大神が、右目から月読尊が、鼻からスサノオが生まれたとしています。

薬師三尊像の配置や、記紀神話の記述は陰陽道の宇宙観に基づくものだと思います。
陰陽道の宇宙観では東が太陽の定位置、西が月の定位置、中央を星とするそうです。

すると薬師三尊像の中央の薬師如来や、顔の中心にある鼻から生まれたスサノオは星の神だということになります。

左・・・東・・・太陽・・・日光菩薩・・・天照大神
右・・・西・・・月・・・・月光菩薩・・・月読尊
中央・・・・・・星・・・・薬師如来・・・スサノオ

船場俊昭さんは次のようにおっしゃています。
スサノオを漢字で書くと素戔鳴尊となりますが、これは輝ける(素)ものを失って(戔)ああ(鳴)と嘆き悲しむ神(尊)という意味で、スサノオはもともとは星の神だったのが、のちに星の神という神格を奪われたのてはないかと。

法輪寺は聖徳太子の子の山背大兄王が、聖徳太子の病気平癒を祈って建てたといわれます。
聖徳太子は法輪寺の虚空蔵菩薩や薬師如来とイメージが重ねられているのだと思います。
ということは、聖徳太子とは星の神だったのかも?

↓ 法起寺
法起寺 紅葉

塔百景67


↓ 法隆寺
法隆寺 夕景 

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[2015/12/19 01:08] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

願昭寺 紅葉 『目白不動と五色不動』 

大阪府富田林市 願昭寺
2015年12月14日 撮影

願昭寺 紅葉 
ずっとこの塔は滝谷不動の塔だろう、と勝手に思い込んでいたのですが~
滝谷不動のHPを見ると多宝塔はあっても五重塔または三重塔はありませんでした~!
(おっちょこちょいにも程がある~)
どうやら、この塔は願昭寺の五重塔のようです。

願昭寺は真言宗系の新宗教・八宗兼学真修教(はっしゅうけんがくしんしゅうきょう)の大本山なのだそうです。
昭和27年に開山したそうですよ。

ウィキペディアには次のように記されています。

八宗兼学とは、特定の宗旨宗派に偏しない教えで、釈迦如来の教えを八宗の教義を基として兼修することを意味する。八宗とは、わが国古代仏教諸宗の南都六宗と天台宗・真言宗の八宗のことを指す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%98%E6%98%AD%E5%AF%BA#.E6.A6.82.E8.A6.81より引用
※南都六宗・・・三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗・律宗

願昭寺は別名を目白不動といい、目白不動尊を御本尊としています。

東京には目白のほか、目黒・目黄・目赤・目青不動もあって五色不動と総称されています。
江戸幕府三代将軍・家光が天海僧正のアイデアをとりいれ、江戸城の周囲に五か所の不動尊をおいたのが、五色不動とされます。

ウィキペディアには次のように記されています。
「5色となっているのは五行思想の五色(ごしき)からと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E4%B8%8D%E5%8B%95#.E4.BC.9D.E8.AA.AC
五行説では万物は木火土金水よりなると考え、木は青、火は赤、土は黄、金は白、水は黒であらわされます。

しかし、http://www.tokyo-kurenaidan.com/gosgiki.htm←こちらのページには次のように説明されています。
「宇宙のすべての現象は、地、水、火、風、空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれます。」
http://www.tokyo-kurenaidan.com/gosgiki.htmより引用。

こちらの五色は仏教で万物を形成するとされる五つの元素・地水火風空のことでしょう。

五行説の五色なのか、仏教の五色なのか、どちらなんでしょうか?

また五行説では木(青)は東、火(赤)は南、土(黄)は中央、金(白)は西、水(黒)は北を表すとされます。
仏教(真言密教・不空伝)の五色では、青が東、赤が南、黄が中央、白が西、黒が北で五行説と同じです。
仏教(真言密教・善無畏伝)では黄が東、赤が南、青が中央、白が西、黒が北で、黄と青が入れ替わっています。

http://www.tokyo-kurenaidan.com/gosgiki.htm
上記サイトの下のほうに五不動の位置を示した地図が掲載されています。
『東京』という文字のあるあたりが江戸城(皇居)です。
目黒が南、目赤が北にあるなど、五色に基づいた配置にはなっていないようです?

それはさておき、願昭寺はなぜ目白不動を御本尊としたのでしょうか?
関西にある寺なので西=白、ということなんでしょうか?
目黒・目黄・目赤・目青不動もあるのでしょうか?

今回は遠くから伽藍を眺めただけなので、近いうちに参拝したいと思います。
そうするとなにかわかるかも。

願昭寺 紅葉2 
塔百景65

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[2015/12/17 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

石津太神社 やっさいほっさい 『やっさいほっさいの意味』 

大阪府堺市 石津太(いわつた)神社
やっさいほっさい 12月14日 

石津太神社 やっさいほっさい 獅子舞

今年は獅子舞の奉納もありました。
 

石津太神社 やっさいほっさい 火渡 
火渡りが始まりました!

『日本最古の戎社』を称する石津太神社には次のような伝説があります。

蛭子がここに到着した際、漁師たちが108束の薪を燃やして、蛭子を暖め、手当をしました。


『やっさいほっさい』はこれを再現したものとされ、蛭子役の氏子さんを担いで火の中を走り抜けるという神事です。
火はかなり鎮まっているのですが、氏子さんたちが走り抜けるとものすごい火の粉が舞い上がります。

石津太神社 やっさいほっさい 火渡3 
『やっさいほっさい』という言葉は108束が訛ったものだと言われています。

千葉県木更津市では8月14日に『やっさいもっさい踊り』というイベントが行われているそうです。
『やっさいもっさい』は『やっさいほっさい』に似ています。
『やっさいもっさい』とは『そこのけ、そこのけ』という意味なのだそうです。

『やっさいほっさい』は『やっさいもっさい』と同じく、『そこのけ、そこのけ』という意味なのかも?

蛭子神社の総本社の西宮神社(兵庫県西宮神社)付近ではかつて1月9日夜には蛭子神が市中を廻られるので、忌篭りをする習慣があったそうです。
住民たちが忌篭りをするのは、蛭子神が『そこのけ、そこのけ』と言いながら市中を廻られるからだったりして?

そして12月14日の石津太神社の神事はまさに蛭子神がお渡りになる様子を表したものです。
蛭子神は火の中を渡りながら『そこのけ、そこのけ』とおっしゃっているのかも。

石津太神社 やっさいほっさい 火渡2 
↑ 上の写真はずいぶん前にフィルムで撮ったものです。



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました~!



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[2015/12/15 15:19] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

根来寺 紅葉 『根来寺炎上と根来衆』 

和歌山県岩出市 根来寺
2015年12月12日 撮影

根来寺 紅葉3

根来寺の前身は、1130年に覚鑁が高野山に建てた伝法院でした。
1132年、鳥羽上皇の保護を得て、覚鑁はさらに高野山に大伝法院と密厳院を建立しました。
1134年、覚鑁は金剛峯寺座主になっています。
当時の高野山は非常に堕落した状態であり、覚鑁はこれを建て直そうとしました。
しかし反対派と対立し、1140年には密厳院などを焼き討ちにされてしまいます。
そこで覚鑁らは高野山を下りて、根来に移りました。

 
室町時代末ごろには坊舎450、寺領72万石を数えるまでとなり、1万余の僧兵を持つようになっていました。
この僧兵たちは根来衆と呼ばれ、火縄銃で武装していました。
根来衆
 
↑ 根来寺の写真に堺祭の根来鉄砲隊の写真を合成してみた~。

16世紀ごろ、紀州では高野山・粉河寺・根来寺などの寺院勢力が力を持ち自治を行っていたようです。
朝廷や幕府は寺領において警察権や徴税権を行使することもできなかったといいます。

天下人はこのような宗教勢力に脅威を感じ、紀州征伐を行うようになります。

天正十三(1585)年、秀吉は大軍を率いて紀州征伐に向かい、根来寺を落としました。
根来寺は炎上し3日に渡って燃え続けたそうです。

根来寺 紅葉 
塔百景64

大塔(多宝塔)はこのとき焼け残ったものです。

近くで見るととても大きいのに驚きました~!
高さ40メートル、幅15メートルで、日本最大の多宝塔です。
オレンジ色の紅葉と立ち上る煙が、根来寺炎上を思い出させる風景でした。

それにしても、なぜ中世には大寺院が大きな権力を持つようになったのでしょうか?
私は寺が大規模な荘園を持つことによって、経済力を持ちえたことによるのではないかと思いますが、みなさまはどうお考えになりますか?

1580年以降、羽柴秀吉が太閤検地をおこなったことによって、荘園は消滅したとされます。

※根来寺でお会いしたカメラマンさん、撮影場所を教えてくださってありがとうございました!


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[2015/12/13 13:09] 和歌山 | トラックバック(-) | コメント(-)