京都府宇治市 興聖寺
2015年12月3日 撮影
興聖寺は1229年ごろ、道元によって開かれたお寺です。
道元には次のような伝説があります。
道元は子供のころ、藤原氏の馬宿に捨てられて泣いていました。
その泣き声が、読経のように聞こえたため、神童として保護されました。馬宿に捨てられていたというのが気になります。
聖徳太子は馬宿で生まれ、厩戸皇子と名付けられたという伝説があるのです。
道元の伝説は、聖徳太子の伝説を元ネタとして作られたものだと思いますが、なぜこのような伝説が作られたのでしょうか。
道元(1200 - 1253年)は日本の曹洞宗の開祖です。
宋に渡り曹洞宗禅師の天童如浄に師事し、帰国後、日本の曹洞宗を開きました。
曹洞宗は禅宗のひとつですが、中国禅宗の祖は達磨(5C後半 - 6C前半)です。
そして以前の記事・
法輪寺 夕景 『人木の墓』 にも書いたのですが、聖徳太子には次のような伝説があります。
聖徳太子が片岡村を通りかかったとき、路傍に病気の老人が寝ていました。
太子は自分の着物を脱いで老人に与えましたが、帰りがけに見ると乞食に与えた衣が木の枝に掛けられており、乞食の姿はありませんでした。
太子はその衣を枝からとって着ました。
家来が『賎人が触って穢れた衣をなぜ着るのですか。』と尋ねると、太子は「お前の知らぬことだ」と答えました。
やがて、乞食が他の場所で死んでいるのが見つかり、太子は岡本村の法林寺の北東にあった守部山に墓を造って納め、人木の墓と名づけました。
後に太子の使いの者が墓の様子を見にいくと、墓の口は開いていないのに、乞食の遺体はなくなっていました。
使者は乞食を賎しいと見ましたが、聖徳太子は乞食が聖人であることを見抜いていたのです。(日本霊異記)
法輪寺 夕景 『人木の墓』
↑ こちらの記事で、「着物を共用することで、聖徳太子と老人は同一人物であるということを示しているようにも思えます。」と書きましたが、この老人とは実は達磨であるとされています。
また、聖徳太子がこの老人のために建てたと伝わる達磨寺(奈良県北葛城郡王子町)もあります。
道元と聖徳太子は達磨でつながっていたので、道元は聖徳太子と同一視された結果、同様の伝説が生じたのではないでしょうか。
達磨寺は臨済宗で道元が開いた曹洞宗とは別の宗派ですが、
日本達磨宗という宗派があり、興福寺の迫害を受けて道元のもとへ参じています。
このように道元と達磨とは関係が深いように思えます。
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[2015/12/10 10:47]
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京都市西京区 虚空蔵法輪寺
針供養・・・12月8日
美しい織姫さんたちがピンク色のこんにゃくに針をさしていきます。
針はいつも硬いものを刺しているので、やわらかいものに刺して供養するのだといいます。
針供養は関東では2月8日、関西では12月8日に行われることが多いようです。
法輪寺では2月8日と12月8日の両方行っています。)
なぜ針供養は2月8日と12月8日に行われているのでしょうか?
12月8日は『事納め』の日で、その年の農作業を終えます。
そして2月8日は『事始め』で、その年農作業を始めて行う日です。
12月8日と2月8日をまとめて『事八日(ことようか)』といいます。
事八日は魔物が家の中をうかがっていると考えられ、身をつつしむ日とされていました。
それで女性たちはこの日針仕事をしなかったそうです。
どうやら針供養が2月8日と12月8日なのは、「事八日」で針仕事をしない日であったためのようです。
だけど、なぜ身をつつしむべき事八日に針仕事をしてはいけないんでしょうね?
家で謹慎するには針仕事はもってこいだと思うんですが~。
私は身をつつしむべき事八日に針仕事をしてはいけなかったのは、針には穴があるからではないかと思います。
というのは、まち針は『小町針』がなまったものだと言われているのですね~。
髄心院の歌碑に描かれた小野小町像
小野小町は『穴のない体』だったという伝承があります。
つまり小野小町は性的に不能だったというのです。
それで穴のない針を『小町針』といい、それがなまって『まち針』になったと言われています。
私は小野小町が『穴のない体』だったというのは小野小町とは実は男だった、小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬(これたか)親王のことであるためではないかと考えていますが、
それについてはまた改めてお話しできればと思います。
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[2015/12/08 11:40]
京都の祭 |
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京都府山科区 毘沙門堂
2015年12月3日 撮影
毘沙門堂は文武天皇の勅願によって703年に行基が開いたお寺で、創建当初は護法山出雲寺といいました。
ご本尊の毘沙門天は、最澄が789年に刻んだものです。
333年に1度だけ開帳されるそうで、たしか10数年前に御開帳されたそうなので、残念ながら私たちはお姿を見ることができませんね~。
http://bishamon.or.jp/newpage1.html↑ こちらに御本尊の御前立の写真が掲載されています。
右手に三叉戟(さんさげき)を持っていますね。
けれど実際の御本尊はこのような姿ではないそうです。
毘沙門堂で求めた「毘沙門天王功徳経」には、次のような内容が記されていました。
金甲を身にまとい、左の手には宝塔、右の手には如意宝珠を持ち、左右の足で 羅刹毘闍邪鬼 (らせつびしゃじゃき)を踏む。
左に吉祥天女、右に禅尼子童子(ぜんにしどうじ)を配置する。
※「毘沙門天王功徳経」より引用吉祥天女は毘沙門天の后または妹、禅尼子童子は毘沙門天の息子だとされています。
如意宝珠とは玉ねぎのような形をした玉のことで、「意のままに様々な願いをかなえる宝」という意味です。
「毘沙門天王功徳経」には毘沙門堂の毘沙門天・吉祥天女・禅尼子童子の絵も描かれていました。
この絵から、次のようなことがわかります。
①三尊とも座像(禅尼子童子は右ひざを立てている。)
②毘沙門天は左手に宝塔、右手に細長い棒を持っている。
③吉祥天女は左手に如意宝珠を持っている。
④禅尼子童子は髪を角髪(みずら)に結い、右ひざをたてている。
とても味のある絵ですが、写実的に描いた絵ではないので、どのようなお姿をしておられるのか、詳しいことはわかりません。
http://senjyuin.or.jp/index.php/43-top/3-design-ideas↑ 上は奈良県の千手院の毘沙門三尊の像ですが、毘沙門天は手に如意宝珠のついた棒を持っておられます。
毘沙門堂の毘沙門天もこのように如意宝珠のついた棒を持っておられるのかもしれません。
この毘沙門天が刻まれた789年、征夷大使・紀古佐美らが蝦夷征伐を行い(巣伏の戦い)ましたが撃退されました。
その後、802年に蝦夷の阿弖流為(あてるい)と母礼(モレ)は降参し平安京に連れてこられ、河内国で処刑されました。
毘沙門堂の毘沙門天は「巣伏の戦い」における戦勝を祈願して刻まれたものではないかと思ったりします。
毎度、とんでも説におつきあいくださりありがとうございました!
[2015/12/06 00:00]
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京都府長岡京市 楊谷寺(ようこくじ)
2010年11月23日 撮影

楊谷寺は清水寺の開祖・延鎮が806年に開いたと伝わります。
延鎮が清水寺に戻ったあと、811年(大同元年)、乙訓寺の別当だった空海が揚谷寺を参詣しました。
親猿が子猿の目を洗うと子猿の目が開いたのを見て、空海は祈祷して眼病にご利益のある霊水(独鈷水)にしたという伝説が伝わります。
空海が乙訓寺の別当となった811年は、平城上皇が寵愛していた藤原薬子や薬子の兄・藤原仲成らとともに、同母弟の嵯峨天皇に対して挙兵した年です。(薬子の変)
しかし平城上皇は坂上田村麻呂にとらえられてしまいます。
藤原仲成は射殺され、薬子は服毒自殺しました。
平城上皇は空海より潅頂(かんじょう)を受けて出家しました。
潅頂とは頭頂に水を濯いで仏や曼荼羅と縁を結ぶ儀式のことです。
キリスト教の洗礼に似ていますね。
昔の人はものごとをそのまま話すのではなく、比喩的に話すことを好んだのではないかと思います。
空海が見た猿の親子とは、親猿が空海で、子猿が平城天皇を比喩したものではないかと思ったりします。
「親猿(空海?)が子猿(平城天皇?)の目を洗った」「子猿(平城天皇)の目が開いた。」とありますが、これは心の目のことを言っているのではないでしょうか。
つまり、平城天皇(子猿)はクーデターをおこしたことを反省し、仏門に入ることで心の目が開いたといういことを比喩的に表現したものではないかと思うのです。
[2015/12/02 09:12]
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