渡月橋 紅葉 『ツクヨミの物語と朝鮮語の語呂合わせ』 

京都市右京区 渡月橋 
2007年 12月2日 撮影


渡月橋 紅葉2 

渡月橋という名前は亀山上皇(1249-1305)が橋の上を動いていく月を見て「くまなき月の渡るに似る」とおっしゃられたところから名付けられたそうです。
「くまなき(隈無き)」とは「かげりのない」という意味で、満月のようすを表す言葉でもあります。
現代語訳すると「陰りのない満月が橋を渡っているようだ」というような意味でしょうか。

 

渡月橋にちなみ、今日は日本の月の神・ツキヨミが登場する神話についてお話ししたいと思います。


ツキヨミは天照大神に命じられて保食神(うけもちのかみ)を訪ねました。
保食神は口からもどしたものをツクヨミに出してもてなしたので、ツクヨミは「汚らわしい」と怒り、保食神を切り殺してしまいました。
天照大神は月読命が保食神を殺したことを聞いて怒り、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになりました。


保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれ、天熊人が天照大神のもとに届けました。
天照大神は喜んでこれらを田畑の種にしました。(日本書紀)

記紀神話にはいろいろな物語が描かれていますが、月の神・ツクヨミが登場する物語はこの話だけです。

渡月橋 紅葉6

金沢庄三郎氏・田蒙秀氏は、保食神の屍体の各部位とそこから生じたものは朝鮮語で語呂合わせになっていると説かれました。

頭(マラ)→馬(マル)
額(チャ)→栗(チョ)
眼(ヌン)→稗(ヌイ)
腹(ペ)→稲(ピョ)
女陰(ポーティ)→小豆(パト)


友人にこの話をしたところ、次のようなことを言われました。

「頭(マラ)・馬(マル)・額(チャ)・栗(チョ)などは現代朝鮮語。
日本書紀は奈良時代に記されたものなので、現代朝鮮語で語呂合わせになっていると言ってもしかたがない。
古代朝鮮語で語呂合わせになっていなくては意味がない。
しかし古代朝鮮語は文献があまり残っていないためよくわかっていないはずだ。」

なるほど~。友人の言うことには一理あります。

この点、専門家の方々はどのように考えておられるのでしょう?(この説は広く受け入れられて定説となっています。トンデモ説の類ではありません。)

私は「古代朝鮮語の基本的な言葉は、現代の朝鮮語の基本的な言葉とそんなに違っていなかったのではないか」と思います。
(私は朝鮮語はまったくわからないのですが~・・・汗)

たとえば平安時代の和歌などを読んでみると、言葉が昔と今でそんなに変化していないことがわかります。
(奈良時代は万葉仮名を使っており読み方がよくわからない点もあるので、平安時代の和歌と現代語を比較します。)

これやこの 行くも帰るも 分かれては  知るも知らぬも 逢坂の関 (蝉丸)



「これ」「この」「行く」「帰る」「分かれ」「知る」「知らぬ」「関」・・・これらの言葉は今でも使いますね。
「逢坂」は地名です。地名は変わることがありますが、「逢坂」の地名は今も残っています。

記紀が編纂された奈良時代には大勢の渡来人が日本にやってきていましたので、このような人々が記紀編纂にかかわっていたのかもしれませんし
朝鮮語のわかる日本人が記紀編纂にかかわっていたのかもしれませんね。

 
渡月橋 紅葉3 

 


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[2015/11/30 09:39] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

九品寺 紅葉 『大和武士の思いを伝える千体石仏』 

奈良県御所市 九品寺
撮影 ?年11月 

九品寺 紅葉2

九品寺は奈良時代に行基が創建したと伝わります。
中世には楢原氏の菩提所でした。

楢原氏は大和武士(やまとぶし)のひとつです。

鎌倉時代、大和国の興福寺は大きな力を持ち、大和を支配するようになっていました。
そして大和武士と呼ばれる人々を使役していたのです。
南北朝時代以降、大和武士たちは土地を獲得して支配するようになりました。

大和武士たちは春日大社の春日若宮おん祭で流鏑馬を奉納していたようです。

現在の春日若宮おん祭では、12月16日の宵宮祭で大和士(やまとさむらい)宵宮詣が行われています。

春日若宮おん祭 大和士宵宮詣 

これは大和士が流鏑馬児と共に若宮社前へ御幣を奉り拝礼を行うという行事です。
大和士宵宮詣は、かつて大和武士たちがおん祭に参加していたこともちなむ行事なのだと思います。

12月17日には競馬や稚児流鏑馬が行われますが、これらも大和武士にちなむ行事なのかもしれませんね。

12月17日の行事を3回見にいったことがあるのですが、いずれも雨や雪でほとんどの行事が中止に・・・・。(泣)
いつか17日の行事をちゃんと見たいです!

九品寺 紅葉 

九品寺の本堂の裏山に千体石仏があります。
南北朝時代、楢原氏は南朝方について北朝側と戦ったとき、身代わりとして石仏を奉納したと伝わっています。
(あるとき集落内にあった石仏を九品寺に集めたと記した史書も存在しているそうです。)


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[2015/11/28 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

西本願寺 イチョウ『西本願寺獅子口と蘇利子』 

京都市下京区 西本願寺
2009年12月7日 撮影

西本願寺 いちょう 
西本願寺 獅子口 

西本願寺の獅子口です。

獅子口とは鬼瓦に相当するところに据える箱型の屋根の装飾で、頂上に「経の巻」と呼ばれる円筒形の巴瓦を3~5本のせたものだとのこと。
本来は桧皮葺きや柿葺きの屋根のおもしとして用いられていたものが、鬼瓦と同じように瓦葺き屋根にも獅子口が使われるようになったそうです。

この獅子口を見て、私は四天王寺の聖霊会で見た蘇利子という舞を思い出しました。

四天王寺 聖霊会 蘇利子 

この舞では雑面という紙で作った面をつけますが、への字形の綾筋と三つ巴の模様など似てるような気が~。

蘇利子は聖徳太子の目覚めを慰める舞だと言われています。
もしかしてこの雑面は聖徳太子の顔?

西本願寺の獅子口も聖徳太子の顔をデザインしたものだったりして。

西本願寺 獅子口2

西本願寺は親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗本願寺派の本山 ですが、親鸞の夢の中に聖徳太子が現れて
「私が女に生まれ変わってあなたの妻になりましょう」と言ったという話があります。
西本願寺は聖徳太子と関係があるお寺ですが、やっぱりトンデモですかね~?

西本願寺 いちょう2 


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[2015/11/26 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

海住山寺 紅葉 『天然痘と大仏建立』 

京都府木津川市 海住山寺
2015年11月22日 撮影

海住山寺 本堂 紅葉


海住山寺にはこんな伝説が伝わっています。

聖武天皇は夢の中で次のような声を聴きました。
「平城京の鬼門にあたる土地に寺を建立すれば東大寺大仏が無事完成するだろう。」と。
そこで聖武天皇は735年に東大寺別当の良弁に命じて藤尾山観音寺を創建しました。

観音寺は1137年に焼失し、その後1208年、貞慶が中興して海住山寺と寺名を改めたそうです。

上の伝説にはおかしな点があります。
観音寺の創建は735年で大仏の完成祈願を目的としたものとされますが
日本続紀によれば、聖武天皇が大仏をつくろうと決意したのは740年、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝して自分も作りたいと思ったためだとあるのですね~。

海住山寺 五重塔 紅葉

たぶん海住山寺の伝説はのちに創作されたものでしょう。

けれど、観音寺が創建された735年と、大仏建立には関係があると思います。

735年から737年にかけて天然痘が大流行していました。
737年、藤原四兄弟(藤原不比等の子。武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が相次いで天然痘にかかって亡くなり
長屋王の怨霊の仕業であると噂されました。

729年、長屋王が呪詛して国家を傾けようとしているという密告があり、舎人親王と新田部親王が厳しい取り調べを行った結果、長屋王は自殺してしまったのです。(長屋王の変)

当時、長屋王は政界トップの左大臣という地位にあり、また長屋王の子の膳夫王は次期天皇候補ナンバーワンでした。
「長屋王の変」は、これを妬んだ藤原四兄弟が長屋王を排斥するために仕組んだ陰謀だったと考えられています。
長屋王の没後、藤原四兄弟は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立て、藤原四子政権を樹立しました。

735年には新田部親王と舎人親王が亡くなっています。
死因はわかりませんが、やはり天然痘にかかって亡くなったのではないでしょうか。
すると新田部親王と舎人親王の死も長屋王の怨霊の仕業だと畏れられたことでしょう。

そして聖武天皇が大仏をつくったのは長屋王の怨霊を鎮めるためだという説があります。
聖武天皇の皇后は藤原四兄弟の姉妹の光明子ですし、母親もの藤原四兄弟の姉妹の藤原宮子です。
(つまり聖武天皇の皇后・光明子は聖武天皇の叔母にあたる。)
聖武天皇は藤原の血の濃い天皇ですし、聖武天皇自身が長屋王の変に関与していた可能性もあります。
聖武天皇は長屋王の怨霊をそれはおそれたことでしょう。

観音寺の創建年の735年は長屋王の怨霊の祟りで天然痘が流行した年、大仏は長屋王の怨霊の祟りを鎮めるために作られた仏像、ということから観音寺の創建説話は作られたのではないでしょうか。

海住山寺 紅葉 
塔百景63



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[2015/11/24 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

叡山電車 紅葉 ライトアップ 『二ノ瀬 は 丹の瀬?』 

貴船もみじ灯篭 http://momiji-tourou.xii.jp/
2015年11月21日 撮影

貴船駅 紅葉 ライトアップ
↑ 貴船駅。
貴船神社もライトアップしているのですが、貴船神社の紅葉は見頃過ぎということなので今回は行きませんでした。

貴船駅 紅葉 ライトアップ2 
以前ISO800で撮影して大失敗したので、今回はISO3200で撮ってみた。

叡山電鉄 二ノ瀬 紅葉 ライトアップ
  
↑ 二ノ瀬駅
鞍馬駅から二つ目の駅です。(鞍馬駅⇔貴船駅⇔二ノ瀬駅)



二ノ瀬(二瀬)という地名はもしかして『丹の瀬』からくるのかも?

竹伐会式

二ノ瀬から二つ目の鞍馬で下車すると鞍馬寺があります。
上の写真は鞍馬寺の竹伐会式です。(2014年6月20日 撮影)


鞍馬寺の御本尊は尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)ですが、もともとは毘沙門天を御本尊としていました。
毘沙門天はもともとはインドの神で、クベーラという地下に埋蔵されている財宝の守護神でした。
地下に埋蔵されている財宝の守護神ということは、毘沙門天は鉱山の神だと言うことだと思います。

ずっと前のことですが、鞍馬寺で百足を描いた茶碗や護符が展示されていたのを見たことがあります。
百足は毘沙門天の使いとされていますが、坑道のことを百足穴ともいいます。
百足のたくさんの脚が地中にのびる坑道に喩えられたのでしょう。

鞍馬は昔鉱山だったのでしょうか?
史料にはそのようなことは記されていないようですし、坑道のあともありません。

ただ水銀(丹・辰砂)の鉱脈は地表近くにあるため、露天掘りすることが多かったようです。
露天掘りしたあと、草木が生えればそこが露天掘りのあとだということはわからなくなってしまうのでは、と思います。

そういうわけで二ノ瀬はもともとは丹の瀬という地名だったのではないかなと思ったわけです。

叡山電鉄 きらら 紅葉のトンネル 
↑ 電車の中から撮った「もみじのトンネル」
うーん、いまいちな写真だなあーーー!
また来年再チャレンジしたいです~。


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[2015/11/22 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

日吉大社 紅葉 『大己貴神は女神だった?』 

滋賀県大津市坂本 日吉大社
2010年11月20日 撮影

日吉大社 早尾地蔵堂 紅葉 
早尾地蔵堂


日吉大社の御祭神は西本宮が大己貴神、東本宮が大山咋神です。
今日はこの大己貴神についてお話ししたいと思います。


私は大己貴神という神様は女神ではないかと考えています。
大己貴神とは大国主命の別名です。

えーーっ、大国主命ってすごく女好きの神様やん!
スセリヒメ・ヤガミヒメ・ヌナカワヒメ・タキリビメとたくさんの女神を奥さんにしてるやん!
出雲大社にある銅像、鬚はやしてるしどう見たって男やん!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB#/media/File:%C5%8Ckuninushi_Bronze_Statue.jpg

確かにその通りなんですが~。

走井堂 紅葉求法寺走井堂

記紀神話を読みますと、イザナギとイザナミは同腹の兄妹で結婚し、共に国造りをしたとあります。
(古には血の純潔を守るために他氏族の血が入ることを嫌い同腹の兄妹や姉弟で結婚するのは当たり前だったとする説があります。)
ところがイザナミは死んで黄泉の国へ行ってしまったので、イザナギは黄泉の国へイザナミを迎えに行きました。
そしてイザナミにこういいました。
「愛しい妻よ、帰ってきておくれ。まだ国つくりは終わっていない。」

一方、大国主命と少彦名神は兄弟の契りを交わしてともに国つくりをしたとあります。
ところが少彦名神は国つくりが終わる前に粟にはじかれて常世の国へ行ってしまいました。

黄泉の国と常世の国はどちらも死後の世界です。
二つの物語はとてもよく似ていますね。
すると大国主命、少彦名神のどちらかが女神ではないかとも思われるんですが
彦というのは男性につける名前なので、少彦名神は男神ではないかと思われます。

日吉大社 鳥居 紅葉 
日吉大社 山王鳥居

大国主命にはたくさんの別名があります。
日吉大社の御祭神・大己貴神(おおなむち)もそうですが、そのほかに大穴持命(おおあなもち)という別名もあります。

神の名前は神の神格を表すと言われます。
たとえば天照大神は「天を照らす大神」、天目一箇神は「天の一つ目の神」という意味でしょう。
すると大穴持命とは「大きな穴を持つ神」という意味になるので女神ではないかと思ったわけです。
(下ネタですいません~。)

日本の神様は性別にルーズだったようです。
たとえば親鸞の夢の中に聖徳太子が表れて「私が女性に生まれ変わってあなたの妻になりましょう」と言ったという話もあります。

また奈良県桜井市大神神社の御祭神・大物主神は大国主神の幸魂(さきみた ま)奇魂(くしみたま)とされていますが
謡曲・三輪では三輪明神(大神神社の神様のことなので、大物主神のことだと思われます。)は女神として登場します。

日吉大社 イチョウ
日吉大社 東本宮 イチョウ


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[2015/11/20 00:00] 滋賀 | トラックバック(-) | コメント(-)

但馬安國寺 どうだんつつじ 紅葉 『足利尊氏はなぜ六十八もの安國寺を建てたのか』 

豊岡市但東町相田 但馬安國寺
2011年11月23日 撮影

まるでドウダンツツジを拝むために造られたかのような本堂。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉3


南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏、直義兄弟は北朝・光厳院の院旨を得て、六十六国と二島に安國寺と利生塔を建設しました。
その目的は、後醍醐天皇や鎌倉幕府滅亡に至る戦の戦没者の菩提を弔うためで、臨済宗・夢窓疎石の提案を受け入れたものでした。

但馬安國寺はそうして設けられた安國寺のひとつです。
但馬の利生塔は豊岡市の金剛寺に造られたそうですが、現存していないそうです。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉2

鎌倉時代末期、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)が交互に即位するということが行われていました。(両統迭立)

1318年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位しました。
1331年、後醍醐天皇は鎌倉幕府に対して挙兵しました。
しかし、後醍醐天皇は幕府が派遣した大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞ら討伐軍に捕られ、1332年に隠岐島へ流罪となりました。
幕府は持明院統の光厳天皇を即位させました。

しかし後醍醐天皇はこれくらいのことで倒幕計画をあきらめるような人ではありませんでした。
1333年、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山で再び挙兵したのです。
はじめは幕府方についていた足利高氏ですが、このときは幕府を裏切って後醍醐天皇側につき、六波羅探題を攻め落としました。
幕府の北条仲時、北条時益らは近江国の番場蓮華寺で自害しました。
光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられました。
新田義貞によって鎌倉へ追い詰められた幕府勢・北条高時以下800余人は自害して果てました。

こうして後醍醐天皇は京都に戻って建武の新政を開始します。
足利高氏は後醍醐天皇から高く評価され、天皇の諱「尊治」から尊の一字をもらって尊氏と改名しました。

ところが恩賞に対する不満などから、建武の親政はうまくいきませんでした。
足利尊氏は鎌倉で独自に恩賞を与えるなど後醍醐政権に離反します。
後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じます。
尊氏は新田軍を破り、京都へ進軍を始めるとともに、持明院統の光厳上皇と手を結びます。
いったんは劣勢となり九州へのがれた尊氏でしたが、再び勢力を盛り返して1336年には京都を手中にしました。
尊氏は、建武式目十七条を定めて室町幕府を成立させました
後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝をつくり、南朝と北朝のふたつの朝廷が並立するようになります。
そして1339年、後醍醐天皇は崩御されました。

六十八もの安国寺をつくるというのはすごいことです。
足利尊氏は信仰心の厚い人だったともいえますが
それだけの寺を作らなければ安心できないほど、後醍醐天皇や北条氏らの怨霊を恐れていたということなのかもしれませんね。

安国寺 ドウダンツツジ 紅葉 

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[2015/11/18 00:00] 兵庫 | トラックバック(-) | コメント(-)

養源院 紅葉 『血のついた床を天井にしたのはなぜ?』 


養源院 紅葉
撮影 2009年11月15日

養源院 桜紅葉

前回、法住寺の身代わり不動明王大祭について書きましたが、養源院はその隣(北)にあります。

養源院は1594年に豊臣秀吉の側室・淀殿の父・浅井長政と、祖父・浅井久政の二十一回忌を供養するために豊臣秀吉が建てたお寺でした。

ところが1619年に焼失し、淀殿の妹で徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願いによって再興されました。
徳川秀忠は江戸幕府第2代征夷大将軍だった人です。
以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られています。

本堂は伏見城の殿舎を移築したものとされます。

伏見桃山城 月

↑ 伏見城の復興天守です。

伏見城は豊臣秀吉が築城した城ですが、秀吉の死後、豊臣秀頼は大坂城に移ってしまいました。

そして五大老(末期豊臣政権の政務にあたった有力五大名)の一人だった徳川家康が留守役として伏見城に残りました。

1600年、徳川家康は会津征伐に出征しました。
このとき、徳川家康は鳥居元忠を伏見城の城代としていましたが、家康の留守を狙って宇喜多秀家、小早川秀秋らが4万の兵で伏見城を攻めました。
これに対して鳥居元忠は1800の兵で対抗しましたが、伏見城は炎上、落城してしまいました。

1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は伏見城を再建しましたが、1619年に廃城が決定し、1623年には完全に廃城となりました。
このとき、伏見殿の殿舎を養源院に移築したとされます。

養源院の廊下の天井にはなにやらしみのようなものがついていました。
これは伏見城の戦いで床についた鳥居元忠以下大勢が自刃した際の血痕だといわれています。

なんと鳥居元忠らの供養のために床を天井にしたというのです。
なんで床を天井にすることが供養になるんでしょうか?

無念の死を迎えた鳥居元忠らは死後怨霊になったと考えらえたことでしょう。
怨霊とは荒魂といってもいいと思いますが
陰陽道では荒魂は十分に祀れば人々にご利益を与えて下さる和魂に転じると考えるそうです。
これは床に用いていたものを天井に用いることで陰陽を逆転させるという呪術なのかもしれませんね。

養源院 紅葉

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[2015/11/16 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

法住寺 身代わり不動尊大祭 『後白河法皇の身代わりになった明雲』 

京都府東山区 法住寺 身代わり不動尊大祭 http://hojyuji.jp/news/742/
2009年11月15日 撮影

法住寺 身代わり不動尊大祭 天狗 
法住寺には円仁(794-864/第3代天台座主)が造立したと伝わる不動明王像があります。
この不動明王像は人々から「身代わりさん」と呼ばれています。
身代わり不動尊大祭はこの不動明王のお祭りということなのでしょう。

法住寺は通し矢で知られる三十三間堂の向かいにあります。
平安時代には後白河法皇が法住寺に住んでおられました。
三十三間堂はこの法住寺の仏堂のひとつでした。

1184年、源(木曾)義仲が法住寺を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉するというクーデターが起きました。(法住寺合戦)
後白河法皇が命を落とされそうになったとき、第57代天台座主の明雲(※第55代天台座主も明雲)が義仲側の楯親忠敵の矢を受けて落馬し、親忠の郎党に首を斬られて亡くなりました。

法住寺では「このとき後白河は『お不動さまが明雲となって我が身代りとなってくれた』とお泣きになられた。」と伝えています。

後白河にあたるはずだった矢を、命運が身代わりになって受けたということでしょうか。

法住寺 身代わり不動尊大祭 鬼  

明雲(1115-1184)は天台座主で、もとは平家の護持僧でした。
しかし1183年の平家の都落ちの際にはついていきませんでした。

『愚管抄』には『高位の僧侶のくせに戦場で殺生を行い戦死するとはけしからん』というような意味のことが記されているそうです。

ということは明雲は平家は見捨てて後白河につき、僧侶の身でありながら義仲の軍と戦ったということでしょうか?

法住寺 身代わり不動尊大祭

不動明王にはもともとは造立したと伝わる第3代天台座主・円仁のイメージが重ねられていたことでしょう。
ところが法住寺合戦で第57代天台座主の明雲が死亡したことで、不動明王には明雲のイメージが新たに重ねられたのではないでしょうか。

法住寺 身代わり不動尊大祭 青鬼

つまり法住寺の不動明王は、明雲の魂を宿す不動明王であるともいえると思います。

命運の魂、と書きましたが、命運の怨霊と言い換えてもいいと思います。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことです。

そんなことを考えながら、登場した鬼を見ていると、命雲の怨霊が鬼となって暴れているように見えてきました。

それにしても、なぜ明雲は天台座主という身分でありながら戦ったのでしょうか?

法住寺 身代わり不動尊大祭 護摩


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[2015/11/14 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

岩戸落葉神社 紅葉 『冬至に関係する神社』 

京都府北区小野中ノ町 岩戸落葉神社
撮影 2015年11月8日

岩戸落葉神社 イチョウ 2

見事なイチョウの巨木!黄色い絨毯をしきつめたかのような境内のなんて美しいこと!
さらに岩戸落葉神社という神社名にも「おおーー」とうなってしまいました。
なんでかって?


岩戸落葉神社がある場所にはもともとは落葉社があり、近世になって岩戸社がこの地に遷宮してきて岩戸落葉神社となったそうです。
そのため境内には岩戸社・落葉社のふたつの本殿があります。
この岩戸社と落葉社はどちらも冬至に関係する神社だと思うのです。

岩戸落葉神社 イチョウ 

岩戸社の御祭神は彌都波能賣神(みづはのめのかみ)、稚日女神(わかひめのかみ)、瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)です。
このうちの稚日女神は、スサノオが馬の逆剥ぎを高天原の斎服殿(いみはたどの)に投げ込んだとき、これに驚いて持っていた梭(ひ)で身体を刺して亡くなった女神です。
これにショックを受けた天照大神は天岩戸に隠れてしまいます。

稚日女神という神名は「若く瑞々しい日の女神」という意味で、天照大神は別名を大日女(おおひるめ)というので、稚日女とは天照大神自身、または天照大神の幼名とする説があります。

そして天照大神が天岩戸にこもったという伝説が何を表すのかについて、ふたつの説があります。
①日食をあらわしているという説。
②冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしているという説。

大阪の枚岡神社では12月25日に「お笑い神事」を行ってます。
新しくかけなおした注連縄の前で、神職さん、巫女さん、氏子さん、一般の参拝者も並んで「わっはっは」と笑うという神事です。

枚岡神社 お笑い神事


天照大神が天岩戸にこもったとき、アメノウズメがストリップダンスをし、
それを見ていた神々が笑いました。
天照大神はその笑い声を聞いて「何を笑っているんだろう」と思い、少し天岩戸をあけたところを引っ張り出され、再び世の中に太陽の光がさすようになったという 日本神話があります。
「お笑い神事」はこれを表したものといわれています。

この神事はもともとは冬至の日におこなっていたそうです。
この神事を見ると、天照大神が天岩戸にこもったという神話は②の冬至になって勢いが衰えた太陽をあらわしているのではないかと思えます。


岩戸落葉神社のイチョウは樹齢はわからないそうですが、巨木なので古くから落葉社の御神木として植えられていたのではないでしょうか。
私はイチョウという名前は『一陽来復』の『一陽(イチヨウ)』からくるのではないかと考えています。
『一陽来復』とは『冬が終わり春が来ること』や『冬至』を意味する言葉です。
『一陽』とは『たったひとつの太陽』という意味でしょうか?
(陽は太陽のことで間違いないと思いますが、一は別の意味かも?)
つまりイチョウとは『太陽の木』という意味だと思うのです。

日本では太陽はなぜか赤で描かれることが多いですが、
http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/magnitude_scale.html ←こちらのサイトの図に示されているように、太陽の色は本当は黄色なのです。

イチョウの黄色い葉は太陽の光に見立てられているのだと思うんですね。
この黄色い葉っぱは最初はたくさん木についているのですが、徐々に散っていき、木についた葉の数はどんどん減っていきます。
これは冬に向かって衰えていく太陽のようではないでしょうか。
そして最も太陽の光が衰える冬至のころにはすっかり落葉してしまっているというわけです。


落葉社は朱雀天皇の第二皇女「落葉の宮」を御祭神としていますが、この落葉の宮は冬至に向かって衰えていく太陽に喩えられたのではないでしょうか。

小野郷 橋 紅葉

小野郷は紅葉の美しい郷でした。

小野郷 紅葉


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[2015/11/12 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)