※追記
神殿造となっていましたが、正しくは寝殿造です。すいません~。(訂正しました 汗汗)参拝したのは9月末です。
円成寺の紅葉は早くも色づいていました。
毎年ここは紅葉が早いです。なんででしょうか?
本堂にあがってみてびっくり!
階段の左右に舞台のようなものがあります。
こんなお堂は初めてみました。
また須弥壇の周囲には小部屋が作られています。
お寺の奥様に尋ねてみました。上品で優しそうな御婦人でしたよ。
御婦人はにこにこと気さくな笑顔でいろいろなことを教えてくださいました。(ありがとうございます!)
左右に舞台があったり、小部屋があるのは寝殿造の形式なのだそうです。
寝殿造とは平安時代の貴族が住んでいた住宅の様式のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9D%E6%AE%BF%E9%80%A0#/media/File:Miniature_Model_of_HigashiSanjoDono.jpg↑ こちらはウィキペディアに掲載されているである東三条殿復元模型(京都文化博物館) です。
南の庭には池があって太鼓橋がかかっていますが、円城寺本堂前にも楼門をはさんだ向う側に池があります。
現在、太鼓橋はかかっていませんが、本堂に展示されていた江戸時代の円成寺境内図には太鼓橋が描かれていました。
東三条殿は藤原良房邸で、のちに藤原兼家がここに邸宅を新築し、天皇の里内裏とされました。
平安宮内裏が天皇の皇居ですが、なんらかの事情で他の邸宅を皇居として用いることがあり、これを里内裏といいました。
円成寺の御本尊・阿弥陀如来は高御座(たかみくら)に安置されています。
高御座とは天皇が即位する際、即位礼において天皇が座す玉座のことです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/Imperial_throne_of_Heijo_palace.jpgつまり円成寺の御本尊・阿弥陀如来は天皇であるということなのでしょう。
本堂は1466年に旧本堂と同じ規模と様式で再建されたものです。
もともとの本堂は後白河天皇が造られたそうです。
後白河天皇はさきほどお話しした東三条殿とたいへん関係の深い人なのです。
即位される前にはこの東三条殿に人を集めて40日間も音楽の遊びをされたこともありました。
1156年、このとき藤原頼長と崇徳院(後白河の同母兄)軍勢が東三条院に集まって謀反を計画していたといわれます。
藤原頼長が留守をしている間に後白河の軍が東三条殿を占拠し、これをきっかけに、後白河・藤原忠道vs崇徳院・藤原頼長の争いが勃発しました。(保元の乱)
1157年には後白河天皇が1月ほど東三条殿を里内裏として利用しています。
その後、後白河帝は守仁親王(二条天皇)に譲位したものの、後白河院政派と二条親政派が対立するようになり、1159年の平治の乱を経て、二頭政治が行われるようになります。
平滋子が後白河院の第七皇子憲仁親王(後の高倉天皇)を出産された後、院政派が憲仁を立太子させようとたくらんでいたことが発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが失脚します。
また後白河院もこれによって権力を失い、ついには院政を停止されます。
1165年、二条帝は順仁親王(六条天皇)に譲位し、まもなく崩御されました。
1177年、後白河院は清盛の協力を得て、憲仁親王を立太子させました。
この憲仁親王立太子の儀式が行われたのも東三条邸でした。
後白河は東三条邸のイメージを、ここ円成寺に再現しようとしたのかも?
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