枚方市穂谷の休耕田にパステルカラーのコスモスが揺れていました。
穂谷では江戸時代よりそうめん作りが盛んで、現在でもは3件の家でそうめんが作られているそうです。
11月から3月ごろにかけて、庭先にそうめんを干す風景が見られるとのことです。
こちらもぜひ見に行ってみたいです。

↑ 上の写真は京都・下鴨神社の御手洗祭のお供えです。
御手洗団子とそうめんがお供えされています。
御手洗祭りは『土用の丑』の行事ですが、『土用の丑』とは何なのでしょうか。
陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水とされています。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいます。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。
陰陽五行説には『相生説』と『相克説』があります。
『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説です。
『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。
『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説のことです。
『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。
『土用の丑』の習慣については、様々な説がありますが、『水剋火』、すなわち夏の火性を冬の水性で緩和しようとするのが『土用の丑』の習慣だと考えてまず間違いないと思います。
『土用の丑』には鰻を食べる習慣がありますが、本来、鰻の旬は冬なのです。
そのため経営不振に陥った鰻屋に、平賀源内が『本日、土用の丑』と書いた紙を店先に貼るようにアドバイスしたというエピソードは有名ですね。
その結果、鰻は飛ぶように売れたということです。
本来、冬の食べ物である鰻を夏に食べるということは、夏の火性を冬の水性で緩和することだといえるでしょう。
平賀源内のキャッチコピーは当時の人々に陰陽五行説の『水剋火』を思い起こさせる効果があったということだと思います。
ということは、下鴨神社のみたらし祭も夏の火性を冬の水性で緩和する目的で行われるものなのでしょう。
私は神前に供えられたみたらし団子はみたらし星を模したものではないかと思います。
みたらし星とは冬の星座であるオリオン座の三ツ星のことです。
みたらし団子は5本串にさされていて、3つではありません。
しかし、オリオン座の三ツ星の傍には小さい星があって、本当は三つ星ではなく四つ星なのです。
大阪の住吉大社の社はこの三ツ星を模した配置になっていると言われています。
(参照/
住吉大社 住吉祭 『住吉大社とみたらし星』 )

みたらし団子にうついて、次のような伝説があります。
「 後醍醐天皇が、下鴨神社の境内の御手洗池で水をすくうと、泡が1つ浮き上がりました。
その後、しばらくして4つの泡が浮き上がってきました。
みたらし団子はこの水玉を模したもので、 一番上の団子は人間の頭を、他の四つは体を現しているといわれます。」
みたらし団子の伝説の、あとで浮き上がってきた四つの泡はみたらし星をあらわしているのではないかと思います。
先に浮き上がってきた泡が何を表しているのかについてはよくわかりません・・・(汗)
そしてこれが肝心なのですが、オリオン座は冬の星座で、陰陽五行説では水性になります。
このオリオン座の三つ星を模したみたらし団子を食べることで、夏の火性を緩和しようとするのが『みたらし祭』の意味だと思います。
足を水につけるのは、足と書いて『たらし』とよみ、『みたらし星』と音が通じるからではないかと思います。
みたらし団子がみたらし星を模したものであるならば、そうめんは天の川を模したものではないでしょうか。
http://ryutao.main.jp/film_fuyuno.html
そこで枚方市の穂谷の話に戻りますが、このあたりはかつて肩野物部氏の本拠地だったところです。
天の川伝説発祥の地ともいわれ、その名もずばり天野川と呼ばれる川が流れ、天野川をはさんで織女星(ベガ)を模した機物神社と牽牛星(アルタイル)を模した中山観音寺が対峙しています。
また星田、星が丘など星の字のつく地名が多く、交野市の磐船神社の御祭神で物部氏の祖神・ニギハヤヒは雲陽誌という書物に星の神だと記されています。
穂谷の人々がそうめん作りを始めたのは、そうめんに適した気候ということもあるでしょうが
近くを流れる天野川にちなんで、ということだったのかも?
穂谷では紅葉が始まっていました。
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