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再び円成寺 紅葉 『ドラキュラはなぜニンニクが苦手なのか』 

9月末にも円成寺を参拝したのですが(その時の記事はこちら→円成寺 紅葉 『後白河天皇はなぜ寝殿造の寺を建てたのか』※追記あり 
さらに紅葉がすすんだかなと気になって、10月末に再度行ってきました。

円成寺 多宝塔 紅葉 塔百景61

円成寺は山号を忍辱(にんにく)山といいます。
忍辱というと香辛料のニンニクを思い出します。

ニンニクの語源は仏教用語の忍辱からくると言われます。
忍辱とは侮辱や苦しみに耐え忍ぶことを言うそうです。

僧侶はニンニクのように匂いの強いものは食べるものを禁じられていたのですが、精力がつくとこっそり食べる僧侶がおり、隠語として忍辱という言葉が用いられたのだといわれます。

うーん? なぜ匂いの強い香辛料を食べることが仏教用語の忍辱と結びついたのか、この説明ではいまいち理解できませんね~?

円成寺 春日堂 白山堂 紅葉

これについてはいったん置いておくことにして、今回は西洋の吸血鬼がなぜニンニクが苦手とされたのかについて考えてみたいと思います。

吸血鬼とは死後に蘇り、年をとらず、人の血を吸う妖怪のことです。
吸血鬼は十字架・太陽・ニンニクが苦手とされます。

七福神の一、布袋は亡くなったあと、姿を見かけられています。
これは布袋が死後に生き返ったということでしょう。
布袋は東洋版吸血鬼?
もっとも布袋は仏教で禁じられていた肉食はしていましたが、人の血を吸っていたという話は聞きませんが。

円成寺 不動堂 紅葉 
布袋は大きな袋を持っていますが、西洋にも大きな袋を持った神様がいます。
サンタクロースです。
サンタクロースのモデルは聖ニコラオという人物ですが、この聖ニコラオは肉屋が殺して樽につけこんだ子供を生き返らせたという伝説があります。

布袋は自らが生き返り、サンタクロースは死んだ子供を生き返らせた・・・。
ということは布袋やサンタクロースの袋の中には不老不死の薬が入っているのではないでしょうか。

関連する記事を過去にも書いていますので、よかったらお読みいただけると嬉しいです。
伏見桃山城 夕景と月 『不老不死の城』 
清凉寺 お松明式 『摩耶夫人が投じた薬袋には何が入っている?』 


ニンニクの実は薄皮の中に複数の実が入っていて、薄皮は袋のようにも見えます。

交野天神社 国栄石 

上の写真は大阪の交野天神社境内に置かれていた国栄石です。
国栄石がどのようなものなのかわかりませんが、似たような袋が聖天さんを祀る寺の幕などに描かれていたりしますね。
それはともかく、この国栄石、なんとなくニンニクに似ていませんか?

ニンニクは不老不死の薬?

そういえばタジマモリが常世の国から持ち帰った不老不死の薬・非時香木実(時じくの香の木の実)は橘とされていますね。
タチバナの実をむいてみたことはないんですが、ミカン科なので、ミカンのように果皮の中に複数個の実が入っているのでしょう。
薄い皮の中に複数個の球根が入っているという点で、ニンニクは不老不死の薬・橘と似ています。(橘は球根ではなく実ですが)

だったら死んで蘇ったドラキュラがニンニクが苦手なはずがありません。

「おっ、不老不死の薬見っけ~」

ところがドラキュラが不老不死の薬だと思ってニンニクを手にとると、強烈な臭いが!

「うへっ、腐ってるじゃん~!」

きっとドラキュラはそう思ったに違いありません。

円成寺 庭園 紅葉  
橘のほかにも不老不死の薬と信じられていたものがあります。水銀です。
水銀は水俣病の原因になるなど不老不死どころか健康に悪いのですが、なぜ水銀が不老不死の薬であるなどと考えられたのでしょうか。
それは水銀の防腐作用によるものだと私は思います。
かつて即身仏になろうとした人が大勢いましたが、彼らの目的は56億7000万年後に弥勒菩薩があらわれたとき、生き返ってその聖業に参加するためだったといわれます。
生き返るためには魂の容れ物である肉体が必要だと考えられていたのでしょう。

即身仏となるためには木食といって五穀を絶ち、木の実や草、木の皮のみを食べる木食という修行を行いました。
脂肪を落とし、死後腐りにくい体にするために木食を行ったのですが
水銀土壌の湯殿山に多くの即身仏が残されています。
これは水銀土壌で育った木の実や草や木の皮を食べることで体内に水銀が蓄積し、水銀の防腐作用で死後腐りにくい体になったためだといわれています。

昔の人は、死後腐らない肉体を持つことが不老不死であると考えていたのだと思います。

ニンニクは一見すると不老不死の薬のように見えますが、腐ったような臭いがします。
「腐った薬なんか飲むと、体が腐っちゃうよ!」

そういうわけでドラキュラはニンニクが苦手なのではないかと思うのですが、どうでしょう?

同じように袋の中に複数個の実が入っている橘(ニンニクは球根ですが)が不老不死の薬とされたのは、橘のほうはいい香りがするためではないでしょうか。


毎度、私のとんでも説にお付き合い下さり、ありがとうございました!



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[2015/10/30 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

斑鳩三塔 コスモス 紅葉 夕景 『斑鳩の語源は井光だった?』 

斑鳩の里を歩いていると田園風景の中に斑鳩三塔(法起寺・法輪寺・法隆寺)の3基の塔が次々に表れます。

法起寺 コスモス

↑ 法起寺ではコスモスが咲いていましたが、なぜか花が全部あっち向いてたので、昔撮った写真を引っ張り出してきました。 

法輪寺 コスモス

↑ 法輪寺。塔百景59
先日撮った写真ですが、電柱を2本ほどコピースタンプで消しました(汗)。

法輪寺は別名を三井寺といいます。
聖徳太子が飛鳥から三つの井戸をこの地に移したといわれ、そのうちの一基は「赤染井」という井戸で現存しているそうです。

「井戸を移す」ってどういうことなんでしょうね?
井戸というのは地下水をくみ上げるために地面を掘った取水施設のことで、建物のように簡単に移築できるものではないはずですが~。

http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm
↑ こちらのサイトに次のような内容が記されています。

①赤土とは辰砂(水銀)である。
②井戸神は罔象女神(みずはのめの神)だが、この神は丹生川上神社中社の御祭神でもある。
井戸の神なので水神とされているが、丹生川上の井戸は中が光っていたとか、出て来た人の身体が光っていた。
罔象女神は水銀採掘の井戸の神なのではないか。
③「丹」という漢字は「井」+「丶」で、井戸枠の中から現れ出たもの(=丹砂)を表す。

①赤土=辰砂(水銀)ということは、赤染井とは水銀採掘の井戸だったのではないか、と思えてきます。

また日本書紀にこんな話があります。

神武天皇は宇陀で体が光り輝き、尾が生えた人が井戸から出てくるのを見ました。
神武天皇が名前を訪ねると「国津神で、名は井光と申します。」と答えました。
 

奈良県吉野郡川上村井光に井光神社があり、井光神をお祭りしていますが、井光神社は「イカリ神社」と読みます。
地名の井光もイカリと読むようです。

法隆寺 紅葉

↑ 法隆寺。塔百景60
miniさん の写真がとても素敵だったので、まねっこをして撮りました。(すいません~!)

法隆寺はその地名から斑鳩(いかるが)寺とも呼ばれています。
斑鳩という地名の由来については、まだら模様の鳩が多いからだとか、イカルという鳥が多いからだなどと言われていますが
案外、聖徳太子が飛鳥から移した井戸というのが水銀採掘穴のことで、井光(イカリ)から転じてイカルガとなったのだったりして。

法起寺 夕日 

↑ 法起寺に戻って夕日をパチリ。

法隆寺 夕景  

↑ 大急ぎで法隆寺へ向かい、ぎりぎりで法隆寺の夕景にも間に合いました。

毎度、私のとんでも説にお付き合い下さいまして、ありがとうございました!


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[2015/10/28 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

伏見桃山城 夕景と月 『不老不死の城』 

伏見桃山城の夕暮れ

伏見桃山城 
昭和39年に伏見桃山城キャッスルランドという遊園地に造られた鉄筋コンクリート造の模擬天守です。
キャッスルランドは2001年に閉園しましたが、模擬天守は伏見のシンボルとしてここに残されています。

伏見桃山城 月 
なんと二基の天守閣があります!
こんな天守閣は見たことがありません。

模擬天守を作る際、洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にしたとのことです。
ウィキペディアの洛中洛外図に描かれた伏見城を見てみました。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/52/Fushimi_momoyaja_jyou_40.jpg

あれれーーー?天守閣は一基しかありませんね?

http://fushimimonogatari.web.fc2.com/momoyama/momoyamajyo.htm
こちらのサイトの中ほどには指月城と木幡城のイラストが掲載されています。

指月(しげつ)城、木幡城とはどちらも伏見城の別名です。

1594年2月、指月山(京都市伏見区 桃山町泰長老付近)で築城工事が始まり、8月には豊臣秀吉がここに移り住んでいます。
この城のことを指月城といいます。
ところが1596年の慶長伏見地震で倒壊してしまったのです。
その後すぐに場所を木幡山に変えて城は再度作り直されました。この城が木幡城です。

キャッスルランドはこの指月城と木幡城のふたつの模擬天守を作ったんじゃないかと思いますがどうでしょうか。

しかし伏見城の模擬天守が建っている場所は木幡城天守があった場所ではないんですね~。
木幡城天守はここから南東500mほどのところにあったとされますが、現在は明治天皇陵となっており立ち入り禁止です。



さて最初に建てられた指月城についてですが、指月といえば、指月布袋画賛とい禅画を思い出します。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/sengai/sengai01.html
布袋さんが空指さしています。絵には記されていませんが、指のずっと先には月があるのでしょう。

解説には次のように記されています。

子供達と戯れる布袋さんのほのぼのとした情景のようだが、「月」を暗示する賛文「を月様幾ツ、十三七ツ」の存在から、禅の根本を説いた教訓「指月布袋」の図であることがわかる。月は円満な悟りの境地を、指し示す指は経典を象徴しているが、月が指の遙か彼方、天空にあるように、「不立文字」を説く禅の悟りは経典学習などでは容易に到達できず、厳しい修行を通して獲得するものであることを説いている。http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/sengai/sengai01.html より引用

でも私は指月布袋にはこれとは異なる意味があるのではないかと考えています。

月は欠けてもまた満ちていきます。
古の人々はそんな月に不老不死のイメージを抱いたのではないかと思います。

中国では月にはヒキガエルまたは兎が住んでいると考えられていました。
ゲイという若者が西王母から不老不死の薬をもらいますが、ゲイの妻コウがその薬を盗んで月に逃げ、コウはヒキガエルに変身したという伝説があります。
また中国では兎は杵臼で不老不死の薬をつくと考えられていたそうです。

布袋は弥勒菩薩の化身とされますが、弥勒菩薩は56億7000万年後に復活するとされます。
そして布袋は死後に姿を見かけられていますが、これは死んだ布袋が生き返った(復活した)ということでしょう。

指月布袋とは不老不死を意味するものではないでしょうか。

西福寺 お精霊迎え
↑ 西福寺の布袋像

指月城の名前どおり、地震で倒壊した指月城は木幡城として蘇りました。
その後1600年の伏見城の戦いで落城しましたが、その後徳川家康によって再建されました。
伏見城は2度蘇ったものの1623年に廃城となりました。

御香宮 神幸祭 花笠 

御香宮の表門は伏見城大手門を移築したものと伝わっています。


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[2015/10/26 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)

枚方市穂谷 コスモス 『そうめんは天の川を模したものだった?』 

穂谷 稲穂 

枚方市穂谷の休耕田にパステルカラーのコスモスが揺れていました。

穂谷 コスモス

穂谷では江戸時代よりそうめん作りが盛んで、現在でもは3件の家でそうめんが作られているそうです。
11月から3月ごろにかけて、庭先にそうめんを干す風景が見られるとのことです。
こちらもぜひ見に行ってみたいです。

しもがもじんじゃ みたらしまつり おそなえ

↑ 上の写真は京都・下鴨神社の御手洗祭のお供えです。
御手洗団子とそうめんがお供えされています。

御手洗祭りは『土用の丑』の行事ですが、『土用の丑』とは何なのでしょうか。

陰陽五行説では世の中全てのものは、木火土金水の5つの組み合わせで成り立つと考えます。
季節では、春=木、夏=火、秋=金、冬=水とされています。
季節は4つなので、木火土金水のうち土が余ってしまいます。
土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割り振られました。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にあるのです。

陰陽五行説には『相生説』と『相克説』があります。

『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説です。

『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説のことです。

『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

『土用の丑』の習慣については、様々な説がありますが、『水剋火』、すなわち夏の火性を冬の水性で緩和しようとするのが『土用の丑』の習慣だと考えてまず間違いないと思います。

『土用の丑』には鰻を食べる習慣がありますが、本来、鰻の旬は冬なのです。
そのため経営不振に陥った鰻屋に、平賀源内が『本日、土用の丑』と書いた紙を店先に貼るようにアドバイスしたというエピソードは有名ですね。
その結果、鰻は飛ぶように売れたということです。
本来、冬の食べ物である鰻を夏に食べるということは、夏の火性を冬の水性で緩和することだといえるでしょう。
平賀源内のキャッチコピーは当時の人々に陰陽五行説の『水剋火』を思い起こさせる効果があったということだと思います。 

ということは、下鴨神社のみたらし祭も夏の火性を冬の水性で緩和する目的で行われるものなのでしょう。
私は神前に供えられたみたらし団子はみたらし星を模したものではないかと思います。

みたらし星とは冬の星座であるオリオン座の三ツ星のことです。
みたらし団子は5本串にさされていて、3つではありません。
しかし、オリオン座の三ツ星の傍には小さい星があって、本当は三つ星ではなく四つ星なのです。
大阪の住吉大社の社はこの三ツ星を模した配置になっていると言われています。
(参照/住吉大社 住吉祭 『住吉大社とみたらし星』 


 みたらし団子にうついて、次のような伝説があります。

「 後醍醐天皇が、下鴨神社の境内の御手洗池で水をすくうと、泡が1つ浮き上がりました。
その後、しばらくして4つの泡が浮き上がってきました。
みたらし団子はこの水玉を模したもので、 一番上の団子は人間の頭を、他の四つは体を現しているといわれます。」

みたらし団子の伝説の、あとで浮き上がってきた四つの泡はみたらし星をあらわしているのではないかと思います。
 先に浮き上がってきた泡が何を表しているのかについてはよくわかりません・・・(汗)

そしてこれが肝心なのですが、オリオン座は冬の星座で、陰陽五行説では水性になります。
このオリオン座の三つ星を模したみたらし団子を食べることで、夏の火性を緩和しようとするのが『みたらし祭』の意味だと思います。

足を水につけるのは、足と書いて『たらし』とよみ、『みたらし星』と音が通じるからではないかと思います。

みたらし団子がみたらし星を模したものであるならば、そうめんは天の川を模したものではないでしょうか。
http://ryutao.main.jp/film_fuyuno.html

そこで枚方市の穂谷の話に戻りますが、このあたりはかつて肩野物部氏の本拠地だったところです。
天の川伝説発祥の地ともいわれ、その名もずばり天野川と呼ばれる川が流れ、天野川をはさんで織女星(ベガ)を模した機物神社と牽牛星(アルタイル)を模した中山観音寺が対峙しています。

また星田、星が丘など星の字のつく地名が多く、交野市の磐船神社の御祭神で物部氏の祖神・ニギハヤヒは雲陽誌という書物に星の神だと記されています。

穂谷の人々がそうめん作りを始めたのは、そうめんに適した気候ということもあるでしょうが
近くを流れる天野川にちなんで、ということだったのかも?

穂谷 紅葉 
穂谷では紅葉が始まっていました。



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[2015/10/24 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)

四天王寺 経供養 『採桑老を舞うと死ぬ?』 

10月22日 四天王寺 経供養

587年、廃仏派の物部氏vs崇物派の蘇我氏の戦争がありました。
聖徳太子は蘇我氏側に参戦していました。
戦争は蘇我氏が勝利し、聖徳太子は物部氏から没収した土地と奴婢をもちいて四天王寺を建てました。

四天王寺 桜紅葉 


2月22日は聖徳太子の命日です。
そのため四天王寺では22日を縁日として様々な行事を行っています。
10月22日の経供養ははじめてお経が日本に伝来したことにちなんで行われています。

通常であれば太子殿の庭で舞楽が奉納されるとのことですが、私が行ったときは小雨が降っていたため庭ではなく太子殿前殿で行われました。

四天王寺 経供養2 
ひときわ異彩を放つ舞がありました。
『採桑老(さいそうろう)』です。

四天王寺 経供養 採桑老

顔面しわだらけの面を被った老人が杖をつき、介添え人につきそわれて登場。

四天王寺 経供養 採桑老2 

老人は不老不死の薬を探し求めて舞います。
この舞はめったに舞われることのない幻の舞と言われているそうで、見ることができてラッキーでした。
なぜめったに舞われることがないのかと言うと、この舞を『舞うと死ぬ』と言い伝わっているからなのだとか!

この舞は唐のころに作られたとか、百済国の採桑翁をモデルに作られ、用明天皇(聖徳太子の父)の御代に大神公持(おがのきんもち)が伝えたなどと言われています。
その後、京方(10世紀ごろより、京方・天王寺方・南都方の3つの楽所がありました)の多家(おおのけ)が伝承しており、いったん途絶えたこともあったのですが、堀河天皇が天王寺方の秦公貞(はたのきんさだ)に命じて継承させたとのことです。
採桑翁は天王寺方と関係の深い舞だったのですね。
その後、旧暦2月22日の聖徳太子の命日の法要である聖霊会において何度か舞われた記録があります。

採桑翁では舞の途中で漢詩を唱えます。
四天王寺の経供養を見に行って写真を撮影したのは随分以前のことなので、漢詩を唱えたのかどうか、記憶にないのですが(汗)その漢詩とは次のようなものです。

三十情方盛 四十気力微 五十至衰老 六十行歩宣
七十杖項栄 八十座魏々 九十得重病 百歳死無疑

三十情方盛・六十行歩宜・七重杖項栄・八十座魏々はすいません、意味がわかりません。(わかる方、教えてください!)
四十気力微は「40歳は気力微かなり」、五十至衰老は「50歳で老い衰える」、九十得重病は「90歳で重病を得る」、百歳死無疑は「百歳で疑いなく死ぬ」でしょうか?

九十と百は縁起が悪いので唱えらえなかったそうです。
「採桑老を舞うと死ぬ」と言われるのはそのためではないかとする説もあります。

採桑老は唐または百済で作られたといわれていますが、日本に伝わり、天王寺方に継承され聖徳太子の命日に行われる四天王寺の聖霊会で舞われることで、採桑老に聖徳太子のイメージが重ねられたのではないかと思います。

梅原猛さんは聖徳太子は怨霊だといっておられます。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えたもののことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていました。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって死にました。
そのため聖徳太子は怨霊になったと梅原氏はおっしゃっています。

「採桑老を舞うと死ぬ」といわれるのは、聖徳太子の怨霊の祟りがあると考えられたからかも?




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[2015/10/22 01:14] 大阪の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

円成寺 紅葉 『後白河天皇はなぜ寝殿造の寺を建てたのか』※追記あり 

※追記
神殿造となっていましたが、正しくは寝殿造です。すいません~。(訂正しました 汗汗)



参拝したのは9月末です。
円成寺の紅葉は早くも色づいていました。
毎年ここは紅葉が早いです。なんででしょうか?

円成寺 多宝塔 紅葉 

本堂にあがってみてびっくり!
階段の左右に舞台のようなものがあります。

円成寺 本堂 神殿造 

こんなお堂は初めてみました。
また須弥壇の周囲には小部屋が作られています。

お寺の奥様に尋ねてみました。上品で優しそうな御婦人でしたよ。
御婦人はにこにこと気さくな笑顔でいろいろなことを教えてくださいました。(ありがとうございます!)

左右に舞台があったり、小部屋があるのは寝殿造の形式なのだそうです。
寝殿造とは平安時代の貴族が住んでいた住宅の様式のことです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9D%E6%AE%BF%E9%80%A0#/media/File:Miniature_Model_of_HigashiSanjoDono.jpg
↑ こちらはウィキペディアに掲載されているである東三条殿復元模型(京都文化博物館) です。
南の庭には池があって太鼓橋がかかっていますが、円城寺本堂前にも楼門をはさんだ向う側に池があります。

円成寺 庭園 紅葉 

現在、太鼓橋はかかっていませんが、本堂に展示されていた江戸時代の円成寺境内図には太鼓橋が描かれていました。

東三条殿は藤原良房邸で、のちに藤原兼家がここに邸宅を新築し、天皇の里内裏とされました。
平安宮内裏が天皇の皇居ですが、なんらかの事情で他の邸宅を皇居として用いることがあり、これを里内裏といいました。

円成寺の御本尊・阿弥陀如来は高御座(たかみくら)に安置されています。
高御座とは天皇が即位する際、即位礼において天皇が座す玉座のことです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/Imperial_throne_of_Heijo_palace.jpg
つまり円成寺の御本尊・阿弥陀如来は天皇であるということなのでしょう。

円成寺 春日堂 白山堂 紅葉 

本堂は1466年に旧本堂と同じ規模と様式で再建されたものです。
もともとの本堂は後白河天皇が造られたそうです。

後白河天皇はさきほどお話しした東三条殿とたいへん関係の深い人なのです。
即位される前にはこの東三条殿に人を集めて40日間も音楽の遊びをされたこともありました。

1156年、このとき藤原頼長と崇徳院(後白河の同母兄)軍勢が東三条院に集まって謀反を計画していたといわれます。
藤原頼長が留守をしている間に後白河の軍が東三条殿を占拠し、これをきっかけに、後白河・藤原忠道vs崇徳院・藤原頼長の争いが勃発しました。(保元の乱)
1157年には後白河天皇が1月ほど東三条殿を里内裏として利用しています。

その後、後白河帝は守仁親王(二条天皇)に譲位したものの、後白河院政派と二条親政派が対立するようになり、1159年の平治の乱を経て、二頭政治が行われるようになります。
平滋子が後白河院の第七皇子憲仁親王(後の高倉天皇)を出産された後、院政派が憲仁を立太子させようとたくらんでいたことが発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが失脚します。
また後白河院もこれによって権力を失い、ついには院政を停止されます。

1165年、二条帝は順仁親王(六条天皇)に譲位し、まもなく崩御されました。
1177年、後白河院は清盛の協力を得て、憲仁親王を立太子させました。
この憲仁親王立太子の儀式が行われたのも東三条邸でした。

後白河は東三条邸のイメージを、ここ円成寺に再現しようとしたのかも?

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[2015/10/21 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)

白鬚神社 朝焼けと日の出 『白鬚と百済』 

夜明け前の白鬚神社の鳥居。

白鬚神社 朝焼け 
 勅使が白鬚神社を訪れ、白鬚明神に「仏法流布のため、土地をお譲り下さい」と祈ると釣り糸を垂れた老翁が現れました。
老翁は「釣りの場がなくなるから土地は譲らないよん」と勅使に言いました。
そこへ薬師如来が現れて翁を説得します。
翁は比叡山を仏法結界の地として釈尊に譲ったという伝説を語って社殿に入ります。
その後翁は白髭明神となり、天女・竜神とともに勅使の前に現れて舞いました。
(謡曲 白鬚)

白鬚神社 舟 
朝日に輝く琵琶湖の湖面を釣り舟が渡っていきます。
それはまるで謡曲「白鬚」のワンシーンのようでした。

白鬚神社の白は新羅(しらぎ)を表すとする説があります。
また韓国語で白髭のことをぺクチャと言いますが、百済は韓国語でペクチェと言いよく似ているため、百済の神ではないかとする説もあります。

古代朝鮮語の文献はわずかしか存在せず、そのため古代朝鮮語がどのような言語であったのかについてはよくわかっていません。
しかし言葉は時代を経てもそんなに変わらないのではないか、と私は思います。

例えば、平安時代の歌人・喜撰法師が次のような歌を詠んでいます。

わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳(東南)にあって鹿が住むような山奥だがしっかりと住んでいる。それなのに、「あいつは世を憂いてあんなところに住んでいるのだ。宇治山ならぬ憂し山だ』と世の人は言っている。)


庵は現在では「いほ」ではなく「いおり」、と言うことが多いですが、その他の言葉はほとんど現代の言葉と同じです。

わが→我が
都→都
たつみ→辰巳(ここでは方角の辰巳。東南)
しか→しっかりと。今でも「しかと承りました」などと言う。※鹿の掛詞
住む→住む
世→世
うぢ山→宇治山 ※「うぢ」は「憂し」の掛詞)
人→人
言ふ→言う
なり→也(コロ助の口癖だったよね。)

なので、白鬚を意味する現代韓国語のぺクチャ、百済を意味する現代韓国語のペクチェは古代においてもそんなに違う言葉ではなかったのではないかと思います。

中国や半島からやってきた渡来人は、日本海流にのって日本海側に到着したといわれ、古代、この辺りには大勢の渡来人が住んでいたとされます。

それにしても白髭神社とは新羅の神社なのか、はたまた百済の神社なのか、どちらなんでしょうね?

白髭神社 朝日


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[2015/10/19 00:00] 滋賀県 | トラックバック(-) | コメント(-)

即成院 二十五菩薩練供養 『茄子与一は男版・中将姫?』 

10月第3日曜日 午後1時より 則成院 二十五菩薩練供養

即成院 二十五菩薩練供養

来迎橋の上を二十五菩薩がゆっくりと渡ってこられます。
かなり以前にネガで撮影したものをスキャナーで読み取ったんですが、きれいな色がでません~。
ネガって古くなると退色してしまうんですね~
仕方ないからモノクロにしてみました。(モリタさん、ありがとう~ http://eos60bass.blog.fc2.com/blog-entry-2565.html)
だけど、モノクロも難しいですね~。

この日は練供養の行事があるため、午後2時より4時まで本堂の参拝はできないようです。
http://www.negaigamatoe.com/tokubetsuhaikan.html#suspension

別の日に参拝したことがありますが、本堂には御本尊の阿弥陀如来を取り囲むように二十五菩薩が安置されていて
息をのむような美しさでした。
http://www.negaigamatoe.com/amidanyorai.html

練供養は、この本堂の二十五菩薩たちが死者を迎えにあの世からこの世へとやってくる様を表現したものなのでしょう。

平安時代の僧、恵心僧都源信が比叡山で行ったのが練供養会式の始まりとされます。
1005年、源信は自分の生まれ故郷でもある、奈良の當麻寺で練供養会式を行いました。
當麻寺の練供養はそれ以降、現在にいたるまで毎年行われています。

當麻寺 當麻のお練り 『中将姫は藤原豊成の和魂だった?』 

當麻 練り供養↑ 當麻寺 練り供養

即成院の本堂の裏側には茄子与一の墓と伝えられる石造宝塔があります。

即成院 茄子与一の墓

那須須与一といえば平家物語で、船首の竿につけられた日輪の扇を射貫いた話が有名ですね。
即成院の寺伝によればその後、与一は出陣する途中で病を患い、出家してこの寺に庵をむすび没したとのことです。

那須与一の墓は『ぽっくりさん』と呼ばれていますが、各地に『ぽっくり寺』と呼ばれる寺がああります。 
調べてみると、『ぽっくり寺』と呼ばれる寺のいくつかは奈良県香芝市にある阿日寺(あにちじ)など、源信を開基とする寺だったのでびっくり!
そして『ぽっくり寺』は下の世話にならずに往生できるご利益があると信仰されています。

源信が練り供養を始めた當麻寺には中将姫伝説が伝わっており、中将姫の名前からとった中将湯は婦人病に効用があるとして大和国宇陀郡の雲雀山青蓮寺の檀家・藤村家に代々伝えられています。
言い伝えによれば、藤村家の者が中将姫をかくまい、そのお礼にと中将姫が中将湯の製法を教えたとのことです。

那須与一は中将姫の男版なので、「下の世話にならずに往生できる」という信仰が生じたのかも?

中将姫・・・女神・・・婦人病の神
茄子与一・・男神・・・下の世話にならず往生させてくれる神

ぽっくりは『円満』という意味の万葉言葉『ほくり』からくというという説もありますが、私は『ふぐり』から来る言葉なのではないかと考えています。

松ぼっくりというのは『松陰嚢(まつふぐり)』が転訛した言葉なのだそうです。
那須与一は男版中将姫ということで、このような名前がつけられたのだったりして?


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[2015/10/17 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

八相宮 大野木豊年太鼓踊 『菅原道真が行った雨乞いの踊り』 

10月11日 八相宮 大野木豊年太鼓踊

八相宮 大野木豊年太鼓踊3

雨乞いのお祭りです。

八相宮 大野木豊年太鼓踊2


年配の方も、若い人も、子供たちも、みんなお揃いの衣装を身にまとって太鼓を打ち鳴らしながら踊り続けます。
長時間踊りっぱなしなので相当シェイプアップ効果ありそうです。
特に年配の方がすごくお元気に踊っておられるのにびっくり!

髄心院 出雲風流花踊 
↑ 京都の髄心院で奉納された出雲風流花踊です。こちらも雨乞いの踊りです。
 大野木豊年太鼓踊と同じように手に太鼓を持っていますね。
太鼓を打ち鳴らして雨乞いをするのは、太鼓の音を雷鳴に喩えたものだと考えられています。

空也堂 空也忌 踊躍念仏

↑ 太鼓や鉦を打ち鳴らしながら踊るといえば、空也堂で行われている踊念仏を思い出します。
平安時代の僧・空也は太鼓や鉦を打ち鳴らして踊りながら南無阿弥陀仏と唱える念仏踊の創始者だとされています。

雨乞いの踊りである大野木豊年太鼓踊や出雲風流花踊はこの念仏踊に似ています。

念仏踊には大きく分けて二つのパターンがあるそうです。
①踊り手と歌い手が分かれているもの
②自ら念仏を唱えながら踊るもの

空也が始めた念仏踊りは②です。
①は菅原道真が讃岐で行った雨乞いの踊りがルーツとされます。
のちに流罪となって讃岐に屋って来た法然上人がこの踊りを見て、念仏を唱えさせたと伝わります。
香川県の『滝宮の念仏踊』として今もその伝統が引き継がれているそうです。
一度見に行ってみたいです。
https://www.youtube.com/watch?v=n8H1m8Nt65U


大野木豊年太鼓踊や出雲風流花踊は①の歌い手と踊り手が別の念仏踊だったと思います。
(ちょっと記憶があいまいですいません~)

でも、たぶん菅原道真が雨乞いの踊りを行ったというのは事実ではないと私は考えています。

菅原道真は藤原時平の讒言によって太宰府に流罪となり、その地で失意のうちに亡くなりました。
その後、都では疫病が流行り、天災が相次ぎました。
また干ばつが続き、清涼殿で干ばつ対策会議を開いていたところ、にわかに暗雲がたちこめ、清涼殿に落雷が落ち炎上するという事件が発生しました。
この事件は菅原道真の怨霊の仕業だと考えられた結果、菅原道真は雷神であるという信仰が生じます。

雷神は雨を降らせる神でもあります。
そのため讃岐の人々は菅原道真に祈願して雨乞いを行ったということなのではないかと思います。

八相宮 大野木豊年太鼓踊
 

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[2015/10/16 00:00] 滋賀の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

八瀬 赦免地踊 『八瀬童子はなぜ女装しているの?』 

2015年11月11日 赦免地踊

田んぼが金色に輝く秋の八瀬にやってきました。

八瀬 稲の実り 
高野川の向うに竃風呂が見えています。

八瀬竃風呂 
672年の壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)が背中に流れ矢を受け、この地に竃風呂を作って傷を癒したという伝説が残ります。
ここから矢背または癒背と呼ばれ、八瀬という地名になったとされます。

窯風呂

竃の中で青葉や青木を焚いたのち、塩水をかけ、竃の中にむしろをひいて中に入ったそうです。
古代のサウナですね。

都名所図絵より 八瀬竃風呂 
八瀬にはこのような竃風呂が数件あったそうで、都名所図会にも掲載されています。
竃風呂の小屋の中にはその都名所図会を板に模写したものが展示されていました。(写真は部分)

1336年、後醍醐天皇は足利尊氏と争った際、比叡山に逃れています。
このとき八瀬の人々は後醍醐天皇の駕興丁をつとめ、後醍醐天皇を無事に延暦寺までお連れしました。
その功労から後醍醐天皇は八瀬の村の年貢や諸課役などを永代免除としました。

1707年、八瀬の住民と比叡山延暦寺との間に結界に関する訴訟問題が起こりました。
このとき老中・秋元喬知(たかとも)は八瀬村に有利な裁定を下されました。
村人は秋元但馬守に感謝し、八瀬天満宮境内に秋元神社を建てて、秋元喬知を神として祀りました。
また、毎年十月十一日を秋元神社の祭礼とし、赦免地踊を奉納するようになったということです。

赦免地踊2 
12、3歳の少年が上の写真のような切子灯篭を頭に被って町を練り歩き、神社を参拝します。
ストロボ禁止だったので、灯篭しか写りませんでした~。これはこれできれいかも?

↓ 下の写真はずいぶん昔に撮影したものですが、このときはストロボ禁止ではありませんでした。

赦免地踊 
少年たちは女物の着物を着、唇には紅もさしてなかなか色っぽいんですよ~。


かつての八瀬の人々は成人しても結髪しない童形であったそうで、八瀬童子と呼ばれていました。
最澄が使役した鬼の子孫だと言われています。

そういえば鬼は酒呑童子や茨木童子など、童子と呼ばれることが多いですね。
中世には寺社に隷属する民がおり、彼らは結髪することが許されていなかったため童形であったと聞いたことがあります。
酒呑童子や茨木童子、そして八瀬童子もそのような民であったのでしょう。

酒呑童子は12,3歳で絶世の美少年だったと伝わります。
女性にモテモテでしたが、酒呑童子は全ての女性をふってしまい、ふられた女性の多くは恋煩いで死んでしまったのだとか。

茨木童子も大変な美少年で、たいへん女性にもてたそうです。
一条戻り橋で渡辺綱が美しい女性に出会いましたが、実は茨木童子が女性に化けていたのでした。

どうも鬼は美少年で女性に化けるものであったようです。
八瀬童子も鬼の子孫なので美少年ぞろいで、さらに女装した姿で祭に登場するのかも?

赦免地踊 
かわいらしい少女たちの踊りもありました。たぶん汐汲み踊だと思います。
八瀬の竃風呂に撒く汐を汲んでいるのだと思いますが、どこの浜で汐を汲んだのでしょう?
八瀬は海からとても遠いのですが。


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[2015/10/14 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)